はてなキーワード: セクシュアリティとは
「お母さん食堂」という言葉を批判されてアイデンティティが傷つけられる人って、まずいないと思うんですよね。その程度の表現を「表現の自由!」って言って守る必要なんて何もないんですよ。
一方、例えば"萌え絵"調のイラストであるとか、VRのアバターであるとか、そういった表現がセクシュアリティやアイデンティティと密接に結びついた人は実在する、というのが、最近になってようやく「発見」されてきたわけですよね。そして、そういったマイノリティの人々にも行政に参画してもらおう、という挑戦は、多様性の理念に資するものであるはずなんですよね。
量子論を怪しい自己啓発やカルト宗教に援用する人がいることと、物理学における量子論という分野に研究価値があり、そのような物理現象が実在することは両立する。そして「量子論ってなんか怪しいし、そんなもの研究してるのはニセ科学者だけでしょ」という態度自体がニセ科学そのもの。
フィクションの描写を自身の女性蔑視感情を正当化するために援用する人がいることと、フィクションを性的対象としたり、フィクショナルな表現の中に自身のジェンダーとアイデンティティを表現する営みが社会学領域においても尊重するべきセクシュアリティとして認知されつつあることは両立する。そして「萌え絵ってなんか気持ち悪いし、そんなもの好むのは性差別主義者だけでしょ」という態度自体が差別そのもの。
例えば「ビーチでセクシーな水着を着る」という行為には、少なからず「性的な含意」があるのだろうが、かと言って多くの人は別に「誘ってる」わけではないわけで。「エロ」とか「性的」とかいう多義的な言葉では語りきれない微妙な差異があるということでしょう。
勘違いしないでもらいたいけど、別にプライベートな場面で着るような「セクシーな水着」で公的な仕事に臨んでいいとは言ってないよ。(まあ、件の「乳揺れ」とやらは、見た限り「セクシーな水着」よりも遥かに穏当な表現だと思うけどね。)
あの程度のものを「性的対象物」つまり「ポルノ」呼ばわりするような公開質問状の内容は、どう考えたって擁護不可能ですよね。
その上、この期に及んでVtuber側を叩く「その他大勢」の言い分もあまりにも酷い。それはフェミ議連の直接の責任ではないにしろ、見ての通り、二次元表現やアバター表現によってジェンダーやセクシュアリティ、アイデンティティを表現する文化に対する差別・偏見というのは今も苛烈に残っているわけです。そこに何かしらの不満があるのだとしても、結果としてヘイトを煽りかねない形で雑な思いつきの批判を公開するべきではなかった、という批判も有り得ますよね。喩えるなら、BLMに不満があるのだとしても、黒人差別の文脈を汲むことなく一方的な断罪に終始する限り、それ自体が黒人差別に加担する結果になるのと同じで。
自分もフィクトセクシャルと呼ばれる偶像性愛のセクシュアリティを自覚してるんだけど、他サイトとか見てると私は相手のことが見えます!相手とお付き合いしてます!って主張してる人がほとんどでなんだかなぁと思うのと同時に羨ましい。
見えてる見えてない、付き合ってるとかはその人の価値観とかその人なりの相手との同意の取り方があるんでしょうね。フィクトセクシャルってどのみち自己完結だし。
私は相手のことは見えない。見えないっていうか普通に画面の向こう側にいる人だって思ってる。私にとっての好きな人は概念としてはキャラクターでしかない。
だから画面の向こう側の人と付き合ってるってなんなんだろうな〜って。理解できないと同時に羨ましいんだよ。
毎夜毎夜布団で寝転がって相手と付き合ってたらとか相手が自分のこと認知してたらどうなんだろうとか考えてる自分あまりにも虚しい。私だって付き合いたかったぞ。
人間じゃないから、それに対して湧いてくる感情や情欲は、人間の間で語られるセクシャリティだとかの感覚と同列に語っちゃダメなんよね。まったく別のもの。
「同列」かどうかと、「異なる文化・スピリチュアリティを持っている」かどうかは違うんじゃない?
異性愛と同性愛は「同列」のセクシュアリティだけど、異性愛者が同性愛者を語る時に、「女装男子でもめちゃくちゃ可愛いと男でもいいかって思えてくるしな!俺も同性愛者の気持ちわかる!」とか言うのは同性愛者からすれば「全然違うわ」という話になるけど、そういう話に近い気がする。
異性愛や同性愛のような対人性愛も、二次元性愛や対物性愛のような非対人性愛も、「同列」ではあるけれども、対人性愛者から「二次元は理想だし、現実にいて欲しいよな!わかる!」と言われたところで、二次元性愛者からすれば「全然違うわ」となる。
まあ、そこら辺はスペクトラムもあるから色々複雑で、「全然違う」と言えるスピリチュアリティに共感しなければ「真の」セクシュアリティとは言えない、とまで言ってしまうと、また問題があるとは思うけど。
オールドフェミ的な観点だとBLって「ポルノ」or「セックスとは無縁の趣味」の2択でしか受容できないからな。
クィア的な視点で「BLを愛好するセクシュアリティ」を受容していれば、男性オタクの「二次元を愛好するセクシュアリティ」もまた同じように受容できるはずなんだけど。
https://togetter.com/li/1772323
「セクシュアリティは社会的に構築されたものである」かどうかと、「セクシュアリティを人為的に矯正することが許される」かどうかは、全く別の議論よな。
もう少し根本的なことを言えば、「社会的に構築されたものである」かどうかと、「人為的に操作可能」かどうかは全く別の議論よな。
ホモ・サピエンスの生活共同体を社会と呼ぶのであれば、社会もまた自然現象でしかない。不確定性原理によってラプラスの悪魔も既に死んでいる。そもそも、自然現象のコントロールが「物理的に可能」であるかどうかと、「現実的に可能」かどうかは全く別だ。自然現象を無理やりコントロールするというのであれば、それなりの「コスト」を支払う必要がある。「コスト」は、必ずしも努力や根性で補える代物ではない。
フランシス・ベーコンは「実験」なるものを「自然を拷問にかけること」と表現した。現代においても医学や心理学など、人間を対象とする実験は様々な場面で必要とされる。少々乱暴な比喩だが、「人体を拷問にかける」以上、倫理的にも細心の注意を払う必要がある。実際、ほんの数世紀前を調べれば、実験の恐ろしい暗黒の歴史をいくらでも見ることが出来る。人類を1歩前進させるはずの研究が、人間を虐待することがあってはいけないというのは、近代以降たくさんの血を流してきた反省があってのものだ。
そのように人類が培ってきた倫理観を、どうか社会学的な知識を行使する時にも応用して欲しい。
でも性欲抑制薬には賛成ですね。
「我が国では刺青=ヤクザが常識!」で凝り固まった老害の脳みそでは、「タトゥーによってアイデンティティを表現する」人々の存在なんて目に入らないし、「ヤクザのない街づくりのために刺青を排除しよう!」が正義だと心の底から信じている。あるいは、ちょっと聞きかじった程度の知識では「外れ値の人々にはひとまず我慢してもらって……」と一言断っておけば済むと思い込む。酷いと「勘違いするようなことをする方が悪い!」と開き直る。「おまえらに配慮しているうちに、ヤクザは野放しになるんだぞ!」と。知らんがな。
「フィクションの表現や、あるいはアバターによって自らのセクシュアリティとアイデンティティを表現する」人々の存在なんて、所詮は「外れ値」扱いだからね。服と帽子と時計以外のオシャレなんて認められないのよ。
キャラクターの露出が多いとか少ないとか、そういう話になると必ず
オタク「その方が売れるだろ!」
あのさ、逆に聞くけど、クリエイターが「いい物描けた!」って納品して、先方から「もっと露出多めにして下さい!その方が売れるんで!」とリテイクされるみたいな案件がどれほどあんの?
泡沫漫画誌や泡沫ラノベ出版じゃ稀にあるらしいが。もちろんR18以外でだぞ。
世間知らずの馬鹿どものために教えてあげるけど、むしろ多くの場合、クリエイターが「えっちな絵描けた!」って納品して、先方から「もっと露出控え目にして下さい!その方が売れるんで!」とリテイクされるんだわ。
ポリコレって商業主義の賜物だし、何より商業主義の味方なんだわ。ムーランの件は象徴的だったがな。
なんで「クリエイター自身が描きたいものを描いてる」という想定が頭からすっぽり抜け落ちてるんだろうな。
描きたくないものを描いて名作は生まれねーよ。嫌々描いてるのはおまえらが思ってる以上に観客に伝わるわ。
怪しいコンビニ本とか、下世話な週刊誌とか、ネットの無料小説をヘッドハントして売り上げはねる出版社とか、そういうハイエナ業界はまた違うだろうがな。
素人絵師を二束三文で買い叩くような業界ゴロ事情の赤裸々な体験談の方が世間に広まりやすいんだろうな。
そういう下衆なゴシップが好きなのは否定しないが、一般化して業界語るのやめろよマジで。
業界ゴロの下衆な商品も別に売り上げガンガン伸びてるわけじゃないんだよな。ただ、「どれだけ手を抜いても一定数売れる」ってだけで。
エロってどれだけ宣伝しても「買う人は買うし、買わない人は買わない」ものだから、ぶっちゃけ商業主義とは相性が悪い。
隙間産業で食い扶持を確保するにはちょうど良くても、大金は動かないんだわ。
それでも敢えてセクシュアリティを表現するのはクリエイターの矜持だろうよ。
「売れるとか売れないとかじゃなく、俺はこれが好き」っていう魂の叫びだろうがよ。
なぜ公共の場に出したいのか
「自慰ができる部屋以外の場所でエロいものを見たがる理由」は単純に、それが目に嬉しいからと考える方が妥当だろう。世の中は、目を楽しませるための装飾や、広告に視線を引くための表現が溢れかえっている。わざわざ、「シスヘテロ男性のその空間での優位を誇示できる」などというものを仮定して、余計な理屈をつけるほうが妥当ではない。オッカムの剃刀である。
この部分はちょっと違う。
性器を擦って性的絶頂に至ることが目的ではない、「ちょっとエッチ」な表現の中に、政治性と文化性・ファッション性を見出しているから、というのが妥当。
かつてLGBT的な文化が表に出てくると「性的でわいせつな表現を子供に見せるな」と叩かれたものだが、それに対するカウンターの形態の一つとして、「おう、性的でわいせつだけど何が悪い?」として、敢えて過激なファッションを表に出すという方法がある。それは今でもある。嘘だと思うならレインボープライドなどを見に行けば良い。
「ふざけているだけだから政治的表現などではない」と主張する人もいるが、そういう人は「政治的表現」をそもそも理解していない。昔から漫画や落語、演歌など、人類は様々な媒体の中にシニカルな笑いとアイロニーを込めて政治的立場を表明してきた。今でも「風刺画」とはそういうものだ。
二次元性愛というセクシュアリティが認められ、フィクトセクシュアルという言葉が社会学の論文にも顔を出すようになったのは、つい最近のことだ。
私たちはこれまで、その存在をずっと周縁化され続けてきた。そういう長い差別の歴史の末に今があるという文脈を考慮しなければならない。
http://twpf.jp/FredPrevost2 音楽芸術ジェンダー表現一般の研究者 🇺🇸住*UCLA’16*アンチテーゼの表現は使命*BL好き-アイコンバナ−3D自作ージャズとか年に四回ぐらいはライブ出る*雅な文系
Pixivは薄桜鬼二次作中心ですが限りなくオリジナルに近いです。現パロ、男x男エロ 18禁とかなりヘビーなプロット多いです。自分のために書いてるのでエロとインテリ内容が同時に混在していることが多いです。
ジェンダー学専攻なのでエロス、セックスとセクシュアリティの表現に関しては理性的で現代社会学踏まえて表現をしています。
モノ書く目的が既成概念への挑戦だったり、抵抗であったり、疑問や課題の提示であることが多いので、エロ小説でもそれぞれ目的があって書いていることが多いです。
男が嫌いで、だから男女の恋愛や規範も嫌いで、なんなら男と恋愛する女すらも嫌いで、だからそれ以外の何かに飛びついてるだけ
BLにしても百合にしても、あと広告でたまに見かける獣男なんかにしてもたぶんそう
薄っぺらなんだよ
お前の好みはただの逃避
BLにしろ(男性向け)エロゲにしろ、それぞれの「性嫌悪」と性欲の相反する欲求の妥協点にあるものだと思ってるんだけど、男性の場合は「性嫌悪」を表明する自由がなく、一方で女性の場合は性欲を表明する自由がないという部分があり、そういう社会性の内面化次第で拗らせ方が変わってくるんだろうなと思う。
(「処女厨」とか「ロリコン」とか、もっと言うと「二次元」っていうのは、まさに男性の「性嫌悪」を上手く包み込んでくれる土台だろう。)
なんか、ネットじゃ「性嫌悪は悪」っていう風潮が強いけど、悪は「性嫌悪が、他者のセクシュアリティの迫害に結びつくこと」であって、むしろ「性嫌悪だからこそ、アブノーマルと呼ばれるセクシュアリティを尊重できる」人の方が多いと思うし、それは別に悪いことではないだろう。ただ、後者のような人が「自分自身の性嫌悪」に気づいていないだけで。
やっぱり「自分自身の性嫌悪」を指摘されると錯乱する男性オタクというのは少なくないんだろうな。(それはちょうど性欲を指摘されると錯乱する女性オタクと対照的。)
よく読んでいただければ、私が男性オタクを叩いているのではなく、むしろ逆だということに気づいてもらえるはずなのだが。
知能や精神状態に問題がある人の錯乱した様子を指して、「これが奴らの正体!」みたいに吹聴するのは、自分がまともだという自覚のある人はやめた方がいいと思う。
https://togetter.com/li/1748778
例えば、「各国民族衣装をイメージした和装の着物を、日本人モデルが着て写真を撮る」のような企画があったと仮定してみると、どうでしょう。(「擬人化」という独特の文化を喩えることはなかなか難しいけど、大体その程度の話だと思います。)
その時、この人たちが同じような感想を呟いたかどうかと言われると、そうはならないだろうなと思うんですよね。
「いや、そんなことはない。同じように批判している」と言うかもしれないけど、現にそういう姿勢を見せられていないから、フィクト系のジェンダー・セクシュアリティを持つ人々から不信感を持たれているんじゃないでしょうか。
問題があると考えるなら、たとえ個人の意見でも、「(他の人はどうかしらないけど、少なくとも私個人は)問題があると考える」と堂々と言うべきでしょう。
まずくはないんじゃないですか?私が苦手なだけで。
在特会的な人々がヘイトを扇動する時、「表現の自由」を掲げるのと何が違うんでしょうか。
私自身、こうした企画が手放しで「素晴らしい」と褒められるものではないとも思います。
しかし、「功罪ともにある」という程度のものを語る時に、「功」の部分を徹底的に無視する意図はなんなのでしょうか。
逆に、「二次元」や「萌え」と無縁であればあるほど、その「罪」に向けられる視線が随分甘く見えるのは、我々フィクト系のジェンダー・セクシュアリティを持つマイノリティの「気のせい」なのでしょうか。
※腐女子はやたらとセクマイを名乗る、という言説に対してのお気持ち文章です。
私は性自認はほぼ女で、性指向については特に定まったものはない。
相手の性よりも、性格などの人間性と容姿に重きを置いていて、男女(しか好きになったことがないからわからないが、恐らくそれ以外の性の人も好きになれる)関係なく好きになる。
性交渉の相手については、単にそっちの方が気持ちいいからという理由で、男の方が多い。
要するに、バイセクシュアルだとかパンセクシュアルというくくりになるんだと思うけど、特に自分で自分をマイノリティだと思うことはない。
自分にとってそれが当たり前であるし、体と心の性が一致した上で異性を好きになれるという点で、私は「今の日本で当たり前とされている恋愛・結婚の形」に収まることができるからだ。
そして私は、年季の入った腐女子である。目覚めは小学6年生、そこから成人に至る今日まで、推しカプが存在しない日はなかった。
腐女子嫌悪の人からしたら言い訳にしか聞こえないだろうけど、私はどちらかというとBL自体が好きなのではなく、BL(特に二次創作)にありがちな「クソデカ感情」が好きなのだ。
そこに好みのキャラとそのキャラが誰かに抱くクソデカ感情があれば、公式男女カプも好きになるし、たぶん百合カプも好きになる(これについては該当するものに出会ったことがないので何とも言えないけど)。
ただ、BLを好きになりがちな以上、自分は腐女子ではないのだと主張するのは痛々しいので、私は腐女子なのだと受け入れることにしている。
私は腐女子はキモいと思うタイプの腐女子なので、できるだけオタク趣味は他の無難な趣味で覆い隠し、ファッションや美容にも気を使う(コスメオタクなので苦ではないけど)ようにしている。しているが、それでもたぶんどこかから腐女子臭が漏れてるとは思うし、それを鼻息を荒くして否定する気はない。
自分のセクシュアリティが特殊なものだとは思ってないけど、まあたぶんセクマイではあると思う。そして私は気持ちの悪い腐女子だ。
世の中では、LGBTを名乗る腐女子=厄介で、「本物」に対して失礼だ って感じになってるじゃないですか。わたしも、これに該当するのかなって思いはじめて、ずっと苦しくて悲しい気持ちでいる。
思春期にありがちな「特別になりたい」欲求から自称セクマイになったり、BLを好きでいることを正当化するために自分もセクマイだと言い張る、みたいな、そういうどうしようもない幼稚な人間なのかな私は。
たしかに私が「自分は男性以外も好きになるな」って自覚したのはゴリゴリに思春期の時だったし、その時にはもう腐女子だった。
でもそう気づいたのは、私が本気である女の子に恋をしたからで、その子は今でも世界で1番好きな人だし、そういう恋ができたことを私はこっそり誇りに思っている。でもでも、側から見たら私は「自称セクマイの腐女子」でしかなく、私個人が持つ誇りや感情など当然誰にも気付かれず、「腐女子は最低で気持ち悪いのだ」というテンプレの中に押し込まれてしまうんだろうな。
わざわざオシャレに気を使ってます、みたいな文を入れたあたり、自分でも「コイツ許されることを望みすぎだろ、キモ」って思うんだけど、そうだよ、私は許されたい。自分のエゴのためにセクマイを利用する腐女子と、あなたは違うんだと誰かに言ってほしい。
(追記)
こんな書き殴りの文、誰も読まんやろなって思っていたら、意外とコメントを書いてくれる人がいてびっくりしてます。自分を客観視する能力が致命的なまでに無いので、純粋にありがたいです。ありがとうございます。
いくつかわかりにくいところがあったと思うのと、改めて考えたことの追加です。(長い)
・まず、私は恋愛対象・性指向ともに、男性女性もしくはそれ以外も対象になります。ただ、性交渉の相手は、性癖的にどちらかというと男性が多い…という感じです。
・セクマイじゃないんじゃない?という方もいましたが、バイセクシュアルとかパンセクシュアルとかがセクマイじゃないなら、私もセクマイではないんだと思います。
・略し方についてのツッコミがあったけど、セクマイって略し方って一般的じゃないのかな?私の周りはみんなセクマイって言うが、私の周りだけなのか…?
・自分の性指向や恋愛対象については特に悩んでおらず、将来の結婚とかそういうのも、まあなるようになるよね!って思ってます。
・腐女子嫌いの人たちが、「腐女子は、自分のBL好きを正当化するために、もしくは厨二心でセクマイを名乗りがち」と言っているのをネットで見た上での文章でした。
・実際にそういう腐女子がいるかはわからないけど、腐女子嫌いの人たちから見たら、私も同じ穴の狢(腐女子で一応セクマイなので)なのかな〜嫌だな〜許されて〜ということです。
・でもコメントの感じを見ていると、この言説って一般的ではないのかなって思えてきて、気持ちが楽になりました。趣味は趣味で、性指向は性指向ですよね。そりゃそうだわ。
・そう、ほんとに幼稚なんです。他人に許してもらえても、結局自分で割り切らなきゃ意味がないのに、他人に認めてもらうことばかり求めているんです。精神が大人になれるように頑張ります。
・ちなみに増田はこの間20歳になりました!ビールを美味しく飲めるようになりたいです。
・腐女子趣味を辞めるつもりは今のところありません。楽しいので。他人に極力不快な思いをさせないように楽しみます。
・人生の伴侶欲しいね〜〜家庭も築けたらいいけど、自分が将来結婚できてる気がしない…
腐女子だけど腐女子嫌い、みたいな人って私含め最近多いですよね。腐女子界隈って、「腐女子はキモいから自重しよう」みたいな圧がかかりがちだったり、マナーについて学級会が開かれがちだったりするので、「腐女子はキモい」って思ってる腐女子が多いのかもしれないですね。
まあほんとにキモいことに変わりはないので、自重とかマナーが大事だと思うんですけど、自分の趣味や属性を否定するのって苦しいことだと思うので、自分なりに上手い向き合い方を見つけられたらなと思います。
>どこを読んだら
> 一方的に「ポルノである」というレッテルを貼ることでしか理解が出来ないから、「〇性向け表現を好む△性なんて存在しない」というイデオロギーに縋るのだろう。
> 一方的に「ポルノである」というレッテルを貼ることでしか理解が出来ないから、「〇性向け表現を好む△性なんて存在しない」というイデオロギーに縋るのだろう。
既存の宗教(男と女がある)・ジェンダーの盲信ぶりがほんまヤバい
とりあえず繋げておく
「[『フェミニスト原則』は女性の権利に言及していない」という意見をTwitterやToggeterで見かけた。
全ての人に普遍的な権利を主張するばかりでこれでは"feminism"ではなく"humanism"である、と。
フェミニズムは"female"から来ている言葉だろうしそう主張するのも当然だ。
Black Lives MatterがAll Lives Matterに変わっていった時と同じ違和感をTwitterやTogetterで活動するフェミニストの方々も抱いているのだと思う。
ここで私も『共同声明「フェミニスト原則の再確認を呼びかける」』を読んで抱いた考えを書いていく。
日本語翻訳版を上から読んで思ったことを順に書いていくのと体調の不具合で言語能力が落ちているので読みにくかったらすみません。
まだ社会に広く受け入れられていないセクシャリティを持つ女性が自身に向けられた差別や認められていない権利について訴えても何もおかしくはない。
「LGBTQIにはペドフィリアも居る」という意見を見かけたが、どのようなセクシャリティの人であろうと他人を傷つけてまで欲を満たすことを声明は肯定していないと思う。
それはホモセクシャルもヘテロセクシャルもトランスジェンダーもシスジェンダーもみんな同じだ。
この部分が最も女性の権利について言及しているところだと思う。
宣言の中の「家父長制の権力」や「西洋的な二元的ジェンダーと性別の構造」はシスジェンダーかつヘテロセクシャルの男性中心に作られた社会構造のことを言っているのだと思う。
その社会構造こそ、ずっと昔から今に至るまで女性から権利と身の安全と社会参画を奪ってきたものではないか。
女性だからと低賃金の仕事を割り当てられたり、結婚・出産時に転職や退職を迫られたり、男性の支配欲求や性欲を受け止めて当然とプレッシャーをかけられたり、ハラスメントや性暴力の被害を訴えても自己責任にされたりしてしまうのも、全部全部「家父長制の権力」のせいだ。
序文の最後の方に「私たちのフェミニズムは、ジェンダー、性別、セクシュアリティの経験には均質性などなく、様々な人々がそれぞれのレベルの差別や抑圧、特権を経験していると認識することから生まれる力を確認します。」とある。
つまり、どんな人もある場面では弱者であり、別の場面では強者にもなるということを言っているのだろう。
例をあげると、母親に比べて父親は子どもの保護者会やPTAなどの学校行事に参加しにくい、子どもと外で遊んでいると周りに不審者扱いされるというものがあると思う。
男性は他の場所で絶大的な権威を持っているのだからと父親の育児参加を妨げていると、結果的に女性の不利にもなると思う。
母親ばかりが子どものために仕事を休み、それを別の低賃金で働く女性が穴埋めするというのはよくある光景のはず。
実際のところジェンダーだけでなく地域、人種、階級、信仰、経済状況など色々な要素が複雑にからみ合って「それぞれのレベルの差別や抑圧、特権を経験」をすることになるのだと思う。
あと「私たちのフェミニズムは~」という一文は、同じ属性であっても同じ差別を経験するとは限らないということも言っていると思う。
SNS上だと全ての女性は痴漢被害を経験しているような雰囲気があるが、痴漢被害に遭ったことがない女性だって当然居る。
しかし、同じ経験をしていなくても共通の目的を持って「家父長制の権力と闘」うことはできるはずだ。
経済的困窮や社会の混乱によって女性がセックスワークに就かなければいけないのは私も反対。
ましてやセックスワークをする女性が妊娠や性病、暴力などのリスクにさらされるのは論外。
ただ、心身の安全を保障された上での職業選択の自由はあるべきだと思う。
それはセックスワークも同じだ。
「ジェンダーを自己決定できる自由」が女性愛者が女湯に入るためや、男性が女性アスリートになって無双するために行使されるべきではない。
誰かの自由を認めることで他の誰かの権利や安全が脅かされてはならない。
そもそもの話、性自認は私利私欲のために簡単に変えられるものではない。
覗きをするためや金メダルを手に入れるためにトランスジェンダーになることなどできない。
自身の持つジェンダーが法やその他の圧力によって歪められるのは誰でも居心地悪いと思う。
宣言の第三項、ここでは主にトランスジェンダーやインターセックスの人に対する手術について言及している。
ただ、「特定の人々やグループへの、植民地的で家父長制的な医療化」はシスジェンダーの女性にも起こりうる。
「女性器切除(FGM)」というものがアフリカなどの一部地域で行われている。
女性性器切除(FGM) | 子どもの保護 | ユニセフの主な活動分野 | 日本ユニセフ協会
「本当にそんな風習があるのか?」と思った方は上のサイトを見ていただければと思います。Wikipediaの方はやや刺激の強い画像がありますが。
日本でも生理不順の治療などで使う低用量ピルの承認が遅かったり、今でも一か月分のピルの値段が三千円弱したりと女性が「家父長制的な医療」に支配されている状況にある。
他にも例を挙げればキリが無いが、「誰もを受け入れ、思いやりのあるヘルスケアは、商品や特権ではなく人権です。」という文言にはLGBTQIではない女性も同意できるはずだ。
第八項のこの部分はまるでフェミニストが女性を見捨てたように感じる。
女性が女性の権利のために始めたフェミニズムが男性やセクシャルマイノリティまで相手にし始めるのは裏切り行為にさえ思える。
この項は見方を変えれば「女性という属性だけを見てその人が経験した差別や抑圧を推測することはできない」とも読めると思う。
「女性であれば誰しも」「全ての女性は」「女性というものは」といった言葉から始まる意見に反発や孤独感を感じたことがあるかもしれない。
それらの意見は女性という存在を理解していないのではなく、女性の中にも様々な意見やライフスタイルを持つ人が居るということを理解していないのだ。
だからこそフェミニストは一人一派としてそれぞれが受けた差別や抑圧を発信していくのではないだろうか。
その発信が「「男性」対「女性」、若者 対 年配者、世界の南 対 世界の北」の対立になることは避けなければならないが。
フェミニズムの活動が「家父長制の権力」の解体を目標とする限り、シスジェンダーの女性以外のLGBTQIも活動の恩恵が得られることは必然だ。
目標と得られる恩恵がおなじならば、フェミニストとLGBTQIが協力すればより良い社会は更に近くなるだろう。
それぞれ辛いことはあるかもしれないが、それぞれが思うことを、どこかの誰かをむやみに傷つけない範囲で、ため込まずに発信していきたい。
『フェミニスト原則』はその発信をより効果的にするために必要な宣言になるはずだ。
最後まで読みにくい長文を読んでいただきありがとうございます。