https://togetter.com/li/1748778
例えば、「各国民族衣装をイメージした和装の着物を、日本人モデルが着て写真を撮る」のような企画があったと仮定してみると、どうでしょう。(「擬人化」という独特の文化を喩えることはなかなか難しいけど、大体その程度の話だと思います。)
その時、この人たちが同じような感想を呟いたかどうかと言われると、そうはならないだろうなと思うんですよね。
「いや、そんなことはない。同じように批判している」と言うかもしれないけど、現にそういう姿勢を見せられていないから、フィクト系のジェンダー・セクシュアリティを持つ人々から不信感を持たれているんじゃないでしょうか。
問題があると考えるなら、たとえ個人の意見でも、「(他の人はどうかしらないけど、少なくとも私個人は)問題があると考える」と堂々と言うべきでしょう。
まずくはないんじゃないですか?私が苦手なだけで。
在特会的な人々がヘイトを扇動する時、「表現の自由」を掲げるのと何が違うんでしょうか。
私自身、こうした企画が手放しで「素晴らしい」と褒められるものではないとも思います。
しかし、「功罪ともにある」という程度のものを語る時に、「功」の部分を徹底的に無視する意図はなんなのでしょうか。
逆に、「二次元」や「萌え」と無縁であればあるほど、その「罪」に向けられる視線が随分甘く見えるのは、我々フィクト系のジェンダー・セクシュアリティを持つマイノリティの「気のせい」なのでしょうか。