はてなキーワード: アカデミズムとは
はじめにすごく飛躍した話になることを言っておきます。
「個人的なことは政治的なこと」といったのはフェミニズムからだが、このテーマはいまやフェミニズムの域に収まっていないと思っている。
「結婚しろはセクハラ」これはアウトな感覚は私にもあるのだが、それが職場や政治的言説(議会や討論など)、アカデミズムの場で言われたら文句なしにアウトだと賛同する。
しかし、職場ではないコミュニケーションの場で同僚に言われたら?あるいは友人に言われたら?
仮に不快に思った私がSNSにそれをアップしたら?その言説が共感して多数にシェアされたら?
あるいはSNSで誰かから言われたら?その反論が広くシェアされたら?
もし、多数の人間の社会的関係性に影響をあたえる言説が政治的言説だとすれば、この世の中の仕組みそのものがすでにいやおうなしに「個人的なことは政治的なこと」なしくみになっているんだと、思う。
(多分、もともとそんな境界などなかった。遠かっただけ。SNSは政治的言説と個人的言説の距離を近づけただけだ。)
ここにポリティカル・コレクトネスとして、ありとあらゆるコミュニケーションの場を政治的正しさで塗り替えようとする言説がある。
行政や統治よりも先に、個人間のコミュニケーションやSNSのような一対多のコミュニケーション、芸術表現や私小説的表現などありとあらゆるところに浸透している。
それを支持している人たちの一部は、個人的な苦悩やトラウマをなにか政治的言説に仮託しているように感じる。
これの行きつくさきはなにか。
私小説を政治的文脈抜きで語ることはできず、私の日記ですら政治的である可能性がある。
40手前にもなって結婚できない私は政治的不策の積み上げによって生み出されたのか。
他人とコミュニケーションがとれず、友人がほとんどいないのは私の人格障害が政治的に見逃されたからなのか。
違う、と思いたい。
私の苦しみは私のものだと、多分5%くらいは政治かもしれないが、残りは単なる不条理だと。
違う、と思いたい。
歪んでてもいいんだと、思わせてくれる、もしくは許しかもしれない。
人とのコミュニケーションを拒んできたお前が共感できる言説はもうどこにも残されるべきではない、とされ、
せいぜい5chか増田に行き、
それすらもやがて叩かれるようになり、
死にたい。
マジレス:目的意識(SNSやメディアで大暴れしている議論が成立しそうにないアカデミア業界の人が視界に入りませんかそうですか)
2019-01-30
日本の自称中道(あるいは自称保守)/日本の自称リベラルが集まるインターネッツですか?っていう
そこでは「また差別を煽るようなクソ記事書きやがって」みたいなカキコミがあったり
特定の組織集団のみ意識が高く有能とか妄想でしかないので当然やね
↓
アカデミックな場がない
↓
アカデミズムっていうのはその全く逆で、ある程度の資格を備えた人間だけが参加することで、会話の質を担保する。
いや、実際には有意義な話をしている場所は普通に日本語でもあるのだけど、そういう議論が成立してるってことは、誰もが自由に参加している訳でもなんでもないってことなので、つまり元増田がちょっと検索したぐらいでは辿り着けない。
↓
誰もが自由に参加している訳でもなんでもない
(でも誰でも参加出来て真面目)
フェミニズムの視点では「胸の大きい女性を転職情報のPRに起用する」のはまずいようだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/yomogidango0909/status/1218363032004329478
上記のような意見を「本当のフェミニズムじゃない」と感じるとしたら、それは間違いである。
それどころか、現在の日本のフェミニズムの主流やアカデミズムの主張から必然的に導かれる結論である。
このような意見はいわゆる「性的モノ化」(あるいは性的客体化、対象化)の議論に立脚している。
フェミニズムを専門とする社会学者小宮友根と、宇崎ちゃん問題の時にイラスト付きで不適切さを分かりやすく解説していたふくろさんによる以下の記事を読んでみよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864
性的な女性表象の持つ差別性は、フェミニズムの中では「性的客体化(sexual objectification:対象化やモノ化と訳されることも)」の悪さという観点から議論されてきました。
(中略)
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
最初のツイートでの「女性や性的記号を利用してPRする」ことへの批判は、上記のように、女性を性的記号に還元するような悪さへの指摘として正当化できる。
なお、上記引用にもある通り「エロいから悪い」「胸が大きいから悪い」のではない、あくまでそれが表現の中で強調されるなどして、記号として利用されることがまずいのだ。
このように(ブコメでは散々な言われようだが)ツイートの批判は、実はフェミニズムとして至って正気の批判である。
ところが、そこにまずさがある。
フェミニズムがこのような批判を正気にし得るということは、フェミニズムは、時と場合によっては(件のPRのような)本人の意思に基づいた女性の行動や社会活動をも批判し得る、ということだ。
ここで一足飛びにフェミニズム批判に走ってはいけない、まずはそのような主張がどのようにして正当化されるのかを考えるべきだろう。
例えば仮に、件のPRの立案者からカメラマンからモデルに至るまで、すべて女性がやっていたとしても、フェミニズムはそれを批判する必要がある。
女性もミソジニーを持ちうるし、性的記号の不正利用も行える、レズビアンの場合を考えれば女性を性的に欲望し消費するケースもあることも分かるだろう。もちろん男性との共犯関係もあり得る。
行為者が女性であることで(男女の非対称性から)悪さを軽減することはできるかもしれないが、免除することはできない。
ここで問題になるのは主に以下の2つ。
1.女性イラストレーターや女性漫画家のような表現者が女性をモノ化して表象する場合の扱い
2.キャンペーンガールやグラビアアイドル、AV女優、風俗嬢等が、自身の身体を「性的な客体」に還元する場合の扱い
件のPRは2に該当する訳だが、その悪さはともに「性的モノ化」によって説明できる。
つまり表現であれ自分の身体であれ、女性を性的にモノ化、客体化することが悪いのだ。(※1)
ここで「1はともかく2は自分の身体、自分の意志でやってるんだからいいじゃないか」「被害者はいないじゃないか」と反論するならそれは間違いである。
直接的な被害者がいなければいいのであれば1も、宇崎ちゃんやその他のあらゆる表象も問題化できなくなってしまう。
問題は、モデルのいないイラストであれ、合意済みの女性自身の身体であれ、「女性」一般に対するイメージを歪めたり利用したり、モノ化できてしまう、その悪さなのである。
こう言い換えてもいいだろう、「女性」のイメージは女性全体の言わば共有財産なのであり、イラストも女性自身の身体もそれを傷付け得る。
例え女性個人が合意していたとしても、それ以外の合意していない女性へもダメージが波及するために、女性の身体を性的にモノ化することは許されないのだ。
従って、個々の女性の身体や女性の表象もまた、女性全体の共有財産だと言えるし、共有財産である限り、個々の女性が(集団の意に背いて)それを好き勝手にすることは許されない・批判される必要があるのだ。
このようにしてフェミニズムは、女性に対するある程度の自由の抑制や批判、そしてそれによる全体主義を正当化できる、できてしまう。
このようなフェミニズムの在り方に対して、フェミニズム自身による更新は難しい。
何故なら上記のような論理は「性的モノ化」のような基礎的な概念から論理的に導出できる以上、その更新はフェミニズム全体を大きく変えざるを得ないし、
その過程で、これまでのフェミニズムが批判しえていた(主に男性たちの)行為や現状を批判不能にせざるを得ないようなケースも出てくるだろう、そうしたことは、多くの女性やフェミニストにとって受け入れがたい。
あるいはアカデミズム側のみのマイナーな議論としてはそのような更新も期待できるかもしれないが、運動としてのフェミニズムにそれを輸入することは恐らく出来ないだろう。
例えば件のツイートに対しても、フェミニズムによる(その女性の身体を共有財産化する全体主義的な傾向に対しての)批判は期待できない、という事からもそれは分かる。
こうした問題を、フェミニズムはこれからも抱えていかざるを得ない。
そしてそこから目を逸らし続けないわけにはいかない、例えそれが欺瞞でも、解決する能力がない以上は。
思った以上の反応を頂いて驚いてます。
コメントへの返信など、追記しようかと思ったのですが、長くなったので別記事にしました。
興味あったら見てください。
https://anond.hatelabo.jp/20200102201209
釣りっぽく書いたけどほんと。
結構色んな意味で読書や知識というものに関する意識が変わったので、なんかアウトプットしたくなった
なお、名著そのものを知ったことに関する感銘とかは今更私が言うまでもないので省きます。
書きたいのは100分de名著シリーズを対象にした読書を集中して実施したことに関するメタ効果に関して。
スペシャル版とか、ブックス版はもう少し厚いけど。どれも約120ページで、読書慣れしてる人なら2-3時間で読める量だと思う。
いやそれじゃ読んだことにならないだろ原典あたれよ、って思うよね。私もそう思っていた。
だから最初の20冊くらいは解説本を読んで、原典にあたって、と繰り返していたけど、以下の2つのことに気づいて一気に解説本を読む方向に転換した。
勉強とか、何でもそうだと思うんだけど、繰り返し出てくるものって記憶に定着しやすくなる。
さらに、その要素が「影響を与えられた」ものの解説として出てきたり「影響を与えた」ものの解説として出てきたりする。
何でもそうだと思うんだけど、流れというか構造の中にある知識って単発の知識より遥かに定着しやすくなる。
なので、バックナンバーの中で関連のありそうな同時代、同地域、同分野の本をグループ化して間開けずに読んでいくのが効果的に思えた。
まぁ要するに、それを読むだけで半年とかかかりそうなものがチラホラあったということ。
そこに突っかかっているうちに飽きて来ることを懸念した。
実に20年ぶりくらいに読書にエンジンがかかっていることを実感していたので、これに水を指したくなかった。
よく「文系は作者の気持ちでも考えてろ」と言われるけど、「本気で作者の気持ちを考える」ってのは実に尊い活動だと考えられるようになったこと。
今みたいにリアルタイムに意見のやり取りが出来るわけでもないのに、驚くほど人間の考えや意識ってのは「繋がって」いることがわかった。
ある偉い人がいいことを言うに至った過程を忘れてしまうのは人類の損失だなと。というか、理系と一緒なんだよね。
アインシュタインの相対性理論だって、洞窟で暮らしていたアインシュタインがある日突然思いついたわけじゃない。
それに、曖昧さを嫌い、論理にはもととなる論理が明確に存在する理系学問「ですら」そうなんだけれど、
現時点の主流見解は現時点の正解ですらなくて、考え直しが迫られるのはよくある。
そういうとき、どこから間違っていたかどこから考え直すためにも、歴史的な思考の経緯は絶対に失わせてはいけない。
文系の学問の究極の目的は、新しい思考を生み出すことと思っているけど、新しいものを生み出すために今までの流れを知ることも必要だ。
果実を生み出すのがポンと生まれてきた天才的な作家や哲学者だけれど、
天才の誕生を待つ間その過程を丁寧に残すのがむしろ普通の文学者の役割で、
アカデミズムとしての文系学問の真髄はそちらにあるのかもしれないと思った。
これ、理系のブレイクスルーを起こす天才待ちと同じ構図だよね。
(天才、と呼ばれる人間も自身の業績についてちょっと違う視点で物事を捉えただけ、とかちょっと違う組み合わせを思いついただけ、と語るのはよくあることだ。)
「かなりいい勉強になった」
「大学生の頃にこういうことをやっておくべきだった」
「あ、でもこんな事やってたらそれだけで四年間終わっちゃうか?」と。
そこで計算した。
100分deというくらいなので上記解説本一冊は、約100分の映像となる(補足説明踏めると1-2割、解説本のほうが情報量多い気がするけど)。
以下、とても雑な計算だけれど。
100冊なら、約11単位。計算してみて驚いたが、たったそれだけ。
一般的な大学生は1年に20-30単位取得するだろうし、卒業には120単位程度必要だ。
定義上サボり気味の大学生の半期分程度の勉強しかしていないことになる。
嘘でしょ?
驚いたついでにもっと攻めた想定をしてみる。
こんなことを意識している大学生はほとんどいないと思うけど、15時間の講義には、30時間の事前学習と30時間の事後学習が想定されているらしい。
http://www.ohshiro.tuis.ac.jp/~ohshiro/univlaw.html
原典には上記したとおり全16巻あるものもあれば、100ページもないものもあるから、慣らすとだいたいそれで読めてしまうとする。
「最も頭の冴えた4年間に」「専門家が選んだ良質なテキストを」「専門家の解説付きで、必要なら質問し放題の環境で」「1200-1300冊読んで理解する」
場所だ、ということだ。
ああ、確かにそれをこなせば立派な「学士様」になれたろうと思う。
私は修士を持っているが、この10分の1も学士になれた気はしない。俺はなぜあんな無駄な時間を、、、
可能なら、放送大学なりでもう一度大学生をやってみたいと思う。
なんというか、これから実施していきたい諸種のおもーい本を含む読書に挑む筋トレというかジョギングと言うか、基礎体力を作ってくれた感ある。
活字を追う体力、意味を捉え続ける体力みたいなのがないと、ほんとうの意味で読書を趣味にすることは出来ないと思った。
ていうか、楽しむ余裕がない。
スポーツと一緒で、やる気と勢いだけでやっても続かないと言うか。
この1年やってきたことは運動部の1年生が実施するような、練習をするための練習。これがまず必要だったとろこで、その役割を果たしてくれたと思う。
練習のための練習として、この「解説書読破」が有用だったと思う理由は以下の2つ
週末、朝と夕方に一時間読む気でいればその日のうちに「また1冊読めた」と思って寝れる。
平日でも、風呂に入ってる30分で読めば25%終わり、はっきりと進んだ位置にしおりを挟んで寝ることが出来る。
進捗が目に見え、さらにすぐ終わりが見えるというのは精神的に楽だ。
価値が保証されている書物を、その書物についての深い理解があることが保証されている著者が解説する本であるということは、
読んでいた時間が無駄になることはない(たとえ激烈につまらなくても3時間で終わるし、つまらなければ原典を読む必要はないという判断ができるということだ。)
という確信を持って取り組めるということだから、これも精神的に楽だった。
つらいだけのうさぎ跳びとかしたくないのよ。
いろいろな本の中で語られていたことだが、
日々「モヤッと」してることはたいてい昔の人も同じこと感じていることがわかった。
下手の考え休むに似たりではないが、自分程度が疑問に思ったことはきっと昔の頭の良い人が一生かけて考え抜いているので
自分の中で結論出そうとするより同じ疑問を持っているであろう偉人の著書にあたったほうが
考えを前進させる上でコスパが遥かに良いことが芯から理解できた。
実はこれが一番の収穫だと思っている。
というわけで、これから年末にかけていよいよ原典にあたっていこうと思う。
の前に
解説本読破の中で出てきたいろいろな付随知識、これがまとまりそうで纏まらなかった。
これをまとめてからの方が、今後の知識吸収速度が格段に上がりそうな気がすると思って、適切な本を暫く求めていたが結論はまさかの高校教科書だった。
今読むととんでもなく面白い本だ。まさに私の求めていたものだった。無論完璧じゃないが、知識の統合がすすむすすむ。
なぜ俺はあんな無駄な時間を、、、と思うけど、おそらく解説本読破と順番が逆じゃだめだったろう、OKOK。
さて、年末に山川をやっつけたあと、原典の中で特に気になっていたものを30冊ほど買った。解説本で実施した筋トレ効果で読むスピードが上がっているが、
途中で気になった関連書籍とかその年気になった本とかをはさみつつ、100冊(巻数でいうと200近い)読み終わるのは3年後くらいの想定だ。
来年もシリーズは続いていくので、積ん読もどんどん増えるだろう。
これを言い出したのは、要するにしばき隊とかそのあたりの左翼が「日本人に対するヘイトを在日がやってたのを擁護する必要性に駆られて」なんだよね。
日本人を取り囲んでリンチとか、そういう朝鮮学校のヤンキーみたいな事象をヘイトだと認めると何かと都合が悪かったんだよね。
だから「多数から少数がヘイトで、少数から多数へはヘイトではない」という独自ルールを作っちゃった。
でも、世界のスタンダードから見ると、「むしろヘイトスピーチやヘイトクライムは少数から多数への過激攻撃においてよく見られる」ので、混乱が生じてる。
過去の虐殺なんかも、少数派が人種的優位性を主張して、多数派の女性への婦女暴行やレイプなんかを扇動しやらかした例はごろごろある。
なんでこんなことになったかというと、彼ら社会運動家と、その思想を保証する社会学者系のインテリは、とりあえず理論をでっちあげて検証をしないことにあるんだよね。
明らかな間違いを犯した理論も、すべてアカデミズムの肩書で保証してしまう。
このあたりに社会学とか文系学問出身運動家の腐敗があるわけなんだけれども。
川崎のヘイトスピーチの話も「外国出身者以外にもヘイトスピーチはあるかないか」というばかばかしい理由でもめた。あるに決まってるのに、左派系が必死に抵抗した。
アレは、「ヘイトスピーチはあらゆる属性が対象になる」なんて基本を、「他の属性差別はフリーにしておきたい」という意図でかなりもめた。
https://tikani-nemuru-m.hatenadiary.org/entry/20091208/1260206019
「男は獣」「男の中に獣がいる」と言った場合、
実はその「獣」を支配しているのは♀だということなのですにゃ。♀の自業自得なの。
♂が性的主体として何を行おうが免責され、♀がすべての責を負う。なぜなら「獣」の支配者は♀だから。
これが、「男は獣」という言明の意味するところなのですにゃ。
id:Francesco3が断固として拒絶したのは、このような言明であり、このような言明が流通する社会ですにゃ。
だから「獣は檻に入れよ」と言わなくてはならなかったのだにゃ。
「獣は檻に入れよ」とは、♀が「獣」の管理責任を問われることへの拒絶だ。
アクタイオンの亡霊たちは、いつでも狩る側にいなければならない
アクタイオンの亡霊たちは、常に性の卓越性を示さなければならない
アクタイオンの亡霊たちは、「獣」を放し飼いにし、かつその管理責任を♀に押しつけなければならない
つまり
この論理は今となってはフェミニスト(まなざし村)に適用されるべきであろう。
アクタイオンの亡霊たちは、男を見限ってフェミニストを憑依先に選んだのかもしれない。
現代のまなざし村の理論は小宮理論としてアカデミズムの皮をかぶろうとしているが、
結局彼らの言わんとするところは、
まなざし村は何を行おうが免責され、男が作り出した表象がすべての責を負う。主に男オタクのポスターである。
なぜなら小宮理論において女性は完全に無謬で無能で無力な弱者だからである。
小宮理論においては主体的に情報を取捨選択できる女性というものは存在しない。
小宮理論においては女性というのは防御力ゼロで男の作り出した表象から一切身を守る手段がない。
小宮理論においては女性というのは無能であり女性が作った表象というのは存在しないことになっている。
まなざし村が主張する意見によれば、女性の感情はオタクのポスターによって支配されている。
たびたび発狂して人間とよべないレベルまで暴れる「獣」となったフェミニストさんたちが仰山おりますが
あれらの獣じみた狂気の振る舞いは全て男性の表象が悪いんだよということにになる。
オタクたちは、女性の名誉のためにもこうしたまなざし村の言明を拒絶すべきだ。
インターネット(Twitter、お前のことだぞ)では特定の人物・団体・国家を「反日」認定することがあるように思う。ネトウヨが反日認定して、「反日ではない」と養護する左翼が現れるような光景がある。
俺は「日本さん」ではないしあなたも「日本さん」ではない。「反日」に自分が否定されてるわけじゃないんだよ。どうにも共同体への愛着以上のものを感じてならないんだよね。共同体と自分を同一視しすぎてるように見える。日本という想像の共同体と自分を重ね合わせすぎてるの、あまりにも自分がなさすぎない?
韓国とかもよく反日と言われるけど、アカデミズムの韓国研究者には「韓国は日本に(あまり)関心がない」と指摘する人もいるし……。
私が個人主義を大事にしたいからこう思うだけなのかもしれないけど、なぜそんなにムキになっているんだろう。もし(ネトウヨによる認定とかではなく)本当に反日的な存在が現れたとしても、私にはあまり関係がないよ。私の悪口言われたら怒るけど、日本は私ではないし。
妄想です
つーか昭和って64年近くあったんだけどまとめて言えるわけないじゃん。
昭和前半の結婚はお見合いが多かったです。恋愛結婚じゃないの。
というか恋愛結婚は20世紀の終わりごろからの一時期に流行ったものでしかない。
ただ平成令和の結婚が本当に恋愛抜きが多数派なのかはかなり怪しい。
もちろん昭和もそういうのは居たんだろうけど、どっちかっていうと娯楽も少ないから生活が厳しくても数少ない娯楽で恋愛をうまく続けて
そのまんま付き合ってゴールって感じがする。
「感じがする」じゃなくてエビデンスを求めよう。
まして君が生きてもいない時代についてなど。
今になって熟年離婚やら増えてきたのかなと。
でも、平成(令和)は、まず男の年収で価値を決められてしまうから、女性の恋愛は金って感じ。そのおまけで男がついてくる。
下手すれば、適当に喧嘩するなりして慰謝料だけ稼ごうって女性もいるっていうのが現実。
まあ、女性からすれば生活の安定ができない結婚はリスクが高いから仕方ないのだろうけどね。
悪く言えば、寄生しやすい人しか視界に入れたくないのかなって。
生活厳しそうな感じがしても、ふたりとも楽しそうだし幸せそうだし。
時代が変わると、だいぶ変わるんだなって。