はてなキーワード: 資質とは
まだ若者の範疇だけど、そろそろ女の子とも言いがたくなりつつある。
世にはアラフォーでもまだきれいなかわいいお姉さんって感じの人がたくさんいるし、
わたしもまだまだお姉さんで通る見た目だと思う。だってまだ23だし。
でも確実に老いは来る。そして、それに抗って若い見た目を保つ努力はめんどくさい。
おばさんは嫌だ。ババアになりたい。だから、見習いババアを自称しはじめた。
わたしの母親は適度にズボラで適度にサバサバしていて、いいババアみを持っていると思う。強烈な天然パーマもババアみにちょっと寄与している。
ただ、外見にはそれなりに気を使っているし、気遣いもすごくできるし、ババアっていうかマダムって感じ。
最低限の気遣いやマナー、身だしなみも生きていくうえですごく重要だと思うけど、マダムというのもなんだか癪である。
近所のガキどもにババアと呼ばれて慕われて、そのたび「ババアとはなんだババアとは」ってがなるけど怒ってはいなくて、だから子どもたちもババアって呼ぶのをやめないみたいな。
喧嘩している子がいたらかっこよく仲裁してやったり、休みの日には宿題教えてやったりとかして。
その子達の親が「○○さんに向かってババアなんて失礼でしょ!」とか言ってたら「ババアはババアだからそのままでいいんですよ~あ、でも他のババアのことはババアって呼ぶなよ!」とか言いたい。
国が「すべての国民が12歳になるまでに身に付けさせるべき知識、技能、資質、能力だ」と考え、一人当たり年間100万円ほどの費用をかけて身に付けさせてくれた知識、技能、資質、能力の多くを、その後の鍛錬を怠り、活用することも伸ばすこともせず、生きていく糧さえ手に入ればいいと奴隷の生活に安堵してすっかり無意味なものにしてしまっただけでなく、あろうことかその恩人である国と税金を納めたすべての国民に対して偉そうに文句をつけているのがお前ということになるな。
人間の傍にいて頼れるパートナー。その資質を見ても歴史を見ても、犬がナンバーワン(しゃれではない)であることは間違いない。
人類と犬の歴史は古く、猫では逆立ちしてもかなわない。そしてもちろん猫は逆立ちをしない。
そんな犬とのコミュニケーションが、猫「よりも」深いかは置いておくとしても、少なくとも相当程度に複雑であることも、これまた否定しない。人間は犬と共同で、野山で、森林で、河川で、海浜で様々な行動をとってきた。生き抜くために必要な、さまざまなミッションを共にこなしてきたのだ。歴史の中で、犬は人間にとって欠かせないパートナーであり、コミュニケーションの相手であった。そのことに全面的に同意する。だが、そのことは、こと今回の話題においては、明白に二、三のディスアドバンテージとならざるを得ない。それについて説明しよう。
(1)「他者」性の弱さ
犬は人間にとっていつも欠かせぬパートナーであったが、それは、犬が群れを作って生きるという性質を利用したものであった。そして、犬は群れの秩序を上下によって保つ。そのため、人間とのパートナーシップにおいても、犬はそれを「上下関係」として捉えるのである。結果、そこに現れるのは、「命令をする/実行する」とか「叱る/従う」のような、「一定のルールにしたがった意味交換」的コミュニケーションである。特に、中型犬以上のサイズになると必須になる「躾」の実施は、この関係性を加速させる。
これに対して、対人間、対猫のような独立性の高い生き物相手のコミュニケーションにおいては、「命令をした/(しかし)/無視された」とか「叱る/(なぜか)/遊ぶ」のような、コミュニケーションの非対称性が露わになる。必然的に、「相手の行動の意図を推測する」といった、より複雑な思考が求められることになるのだ。これは、犬とのコミュニケーションでは身に付けづらい能力である。コミュニケーションの経験値を上げるためには、やはり猫の方が優れている。
(2)犬の本能を満たすために
犬は探知し、索敵し、探索し、追跡して獲物をしとめるハンターである。これは野外生活に適した性格であり、人間が狩猟採集時代から重宝した、犬のパートナーとしての資質である。その本能を満たすために、散歩などの運動が欠かせない。だがこれは、現代の都会生活、そして、他者とのコミュニケーションに課題を抱える人には、残念ながらあまり適した資質とは言えない。犬と適切にコミュニケーションをとるためには、ただ同居するだけでは不十分なのである。
猫にももちろん運動は必要だ。だが、それは室内で対応できるものだ。木の上に潜み、待ち伏せし、忍び寄って相手をしとめるハンターである猫の方が、現代の都会生活におけるパートナーとしては優れている。
そもそもの到達点を思い出そう。「彼女ができなくて辛い」である。では、もし彼女ができたら、犬はどうするのだ? 「かけがえないパートナー」となってしまった犬は?
できれば一日複数回の散歩に同行し、密な信頼関係とコミュニケーションと何より「共に過ごす時間」を求める存在が犬である。これと彼女を共存させるのはなかなか難しい。彼女が大変犬好きであることを前提としても、おそらく中、大型犬となれば、時間配分において、彼女か犬かを迫られることが大変多くなると想像される。想像してみてほしい。一度や二度ならともなく、彼の家に遊びにいったら毎回犬の散歩に付き合わされる状況を! 彼女との関係を壊さずに犬を飼うことができるのは、彼女とのパートナーシップが進行して首尾よく結婚し、田舎に一軒家を買って子供が生まれてすくすく育ち始めて、そのあと、くらいになるだろう。
対して猫だ。猫はいい。猫は犬ほど時間を奪わないため、大きなトラブルがなければ彼女との共存も不可能ではない。それだけでなく、部屋に猫がいるだけで彼女は(猫好きであろう)部屋に来て、そして、こちらが苦手な会話をしなくても、とりあえず猫と遊んで時間をつぶしてくれる。こちらは猫と彼女を眺めてにこやかに写真を撮ったりしていればそれでいい。楽だ。付き合い始めのきまずい時間も、猫がいるだけで大幅に解消できるため、彼女との末永いパートナーシップを良好にしてくれるだろう。猫は自立し、待機する。猫は、犬ほど人間とのパートナーシップが密でない。だからこそ、彼女ができてからも、猫は共にいられるパートナーなのだ。
(4)最期に…
これは完全に偏見の域だが、彼女に犬をひけらかす男は、どうも男性ホルモン多めのオラついた方々が多い気がする。中、大型犬は原則飼い主にしか心を寄せないので、彼女に対しては警戒心を露わにすることが多い。そういう犬を「おとなしいんだよー」とか笑いながら見せつけ、彼女が内心少し恐怖を覚えてひきつった笑顔を見せたりするのを見てニヤついているような印象がある。どうもDV男臭い。一方、猫好きにはそういう男はいない。そもそも猫自体が、飼い主であるとないとに関わらず勝手に他人を評価するところがあるので、犬をひけらかすように猫をひけらかすのは難しいし、そういうことをしたい人はそもそも猫を飼わない。もちろん、犬好きが全てDV男というわけではない。だがDV男は猫を飼わないというのは声を大にして言いたい。世間にはDV男好きの病んだ女性もいるが、そういう人にモテたいのならともかく、健全な精神をもった一般的な女性を安心させたいのなら、無難に猫をおすすめしておきたい理由の一つがこれである。
いかがだろうか。犬の、人間のパートナーとして「最善」である理由のそれぞれが、今回の場合はむしろディスアドバンテージになってしまうということが、これで犬派のあなたにも理解されたことと思う。彼に勧めるパートナーとしては、やはり猫しかない。猫しかないのだ。
「負の性欲」で巻き起こった論争で「負の性欲」の概念を否定するためだけに一生懸命ネガティブな形容詞を並べ立てているフェミニスト女性の多くを見ると。本当に公正な議論をしたいわけでもなく、単に気に入らないものを社会からどんな暴力を使ってでも廃除して、自分の気に入ったものだけで成立する世界を作りたいだけのエゴイストである事がはっきりした。そのの為に自分のセックスをなるべく高く売ったり、男性の好意や誠実さを利用するだけ利用したいんだな。社会の構成員としての資質に欠いていると言わざるを得ない。そんな女性たちに子育てして欲しくないし、うっかりセックスしようものなら死ぬまでそれをネタにたかられそうだから、膣と子宮を取り除いてもらって良いと思う。キモい男は去勢しろと恥ずかしげもなくいえるんだから、そのぐらい言われる覚悟は出来てるんだよね?乳房も取り除けば性的にまなざされずに済む。避妊後は生理痛もないし出産子育てで職場に迷惑をかけることもなく大手を振って社会の一員になれる。そこまですれば戸籍も男性に出来るから女性への性差別から完全に自由になれる。希望者はそうできるようにした方が良いんでないかな?そんなに日本のような家父長制の国で女性として生きるのが辛いのならばその方が良くない?
この研究で示されているのは「人間は左右対称な身体を好む」ということだけで
「人間が左右対称を好むのは相手が健康だからではないか?」は仮説にすぎないな。
というか「人間は繁殖相手としての資質が高い特徴を好むのでは?」すら仮説にすぎない。
あとこれ。
https://wired.jp/2014/08/27/attractive-faces-good-health/
英国ブルネル大学のニコラス・パウンドが率いたこの研究では、15歳のイギリス人4,732名(男子2,506名、女子2,226名)の病歴が調べられた。顔の対称性の度合いがそれぞれ異なる多数の被験者を対象に、かかった感染症の数、体調を崩していた期間の長さ、何かの症状が生じた1年当たりの平均回数など、健康に関する複数の尺度が調査された。
田村議員が国会で官僚をやり込めている動画も見ました。田村議員の言っていることはすべて正しいのだろうけど、私はどちらかというと与党への共感を覚えました。田村議員には惻隠の情がないように思う。もちろん、官僚の影に隠れている安倍首相が一番悪いやつってことは頭ではわかってるよ。でも、どうやっても勝ち目のない戦いに無理やり送り出された下っ端をカメラの前でサンドバッグにするのを見るのは、たとえ下っ端が悪の組織に所属していたとしても、印象は悪い。検察官ならよい資質なんだろうけど、国の舵取りを任せるためにどちらに投票したいか、って考えると、やっぱり、あの動画は支持者拡大にはつながらないんじゃないか。
結局、国主催のパーティーに大口献金者招いたら、あまりよくない人でした。必死で覆い隠しています。っていう話でしょう?首相をやめるべきか、っていうと、いや別にそこまで・・・って思う。ウチワよりよっぽど公職選挙法違反だから、安倍おろしが起きてもおかしくないし、野党が興奮するのもわかるけど、どちらかというと政局の話で、正義の話ではないと思う。公文書がどうたら、っていうけど、情報公開を政府に義務付けたのは2001年だよ?それ以前は黒塗りの書類を公開する義務すらないんだよ?その程度の話だ。検察が首相を逮捕するような話とは思えない。ただの民間人が数億円をお友達に融通した森友とか、政策を歪めて本来作られるべき獣医学部とその研究成果を失わせた加計学園問題とは違う。
ちなみに、私は、安倍首相を支持することは、今までも、これからも、ない。安倍首相がやった内閣法制局長官の挿げ替えは、法の支配を破壊したと思う。米国に言われて断りきれなかったのかなと想像していたけど、ここ数年の行動を見ていると、ただ単に法の支配の価値をわかっていないバカで、米国に強く言われてついやっちゃった、くらいのノリじゃないか。今後の日本に長く影を落とすだろうと思う。
本人は、世論を読みながら権力をふるい首相をやり続けるスキルだけ高い人なんだろうと思う。本人にとって一番大事な政策は憲法改正だけど、7年経ってもできる様子がない。世論読みスキルの結果と自分の希望する政策がぶつかったとき、常に世論読みスキルが勝つのが安倍首相なんだろうな。
本当にそれ。世の中のシステム変えると、当然、自分も変わらなければいけないのに。あまりに家計への貢献度が低ければ、それを理由に離婚を求める男性も珍しくないとプラド夏樹さんがフランスの事情を書いていたね。配偶者が外国人だった場合ですら。
共同親権ねー……。
あれ、個人的な意見なんだけど、本質的にはフェミニズム問題でも男性の権利問題でもないと思う。
かたや、フランス人と日本人が日本で暮らしていて、フランスへ子供をつれて帰った奥さんが単独親権を侵してるということでフランスの司法に返還命令を出されちゃった事件。
かたや、アメリカで子供のころにレイプされて、誘拐犯の子供を身ごもって育てていたら、後になって誘拐犯との共同親権が法廷で審議されることになったっていう、ちょっと信じられない事件。
「例外」を理由にシステム自体への賛否を問うてしまっても、「例外」の抑止には繋がらないんだよね。
特に資質に問題がない二人の親の間で、どう子供を育てるかという話なわけだから、共同親権のほうにある、子供が離婚後も親と会えるという権利の保全、見逃せないメリットだよね、って思う。あ、話がずれてごめん・・・。
だいぶ前に藝大デザイン科を卒業し、同窓に任天堂がいるから回答しておく。(ブコメだと書けないからね
デザイナーといっても様々でジャンルの幅が広いが、どのジャンルでも基本的な教養は重要。
CG造形をやりたいということであるが、高校で学ぶような基礎教養、一見無駄な知識と思えるものでも後々重要になる。要求されるものについての文化的な素養や知識があるのとないのとでは大違いである。後々苦労する。なので高校で学ぶ学問を軽視してはいけない。独学では視野が狭くなる。無駄と思える知識まで広げておく必要があるので寧ろ、高校時代は可能な限り学科はやっておくべし。私がいた頃は美校の試験学科の成績は実技と比して全然重視されていなかった(酷いものであった)が、試験勉強していないだけで教養がある学生は多かった。無駄なことまでアンテナを張って知的好奇心を養うことができるのは高校時代である。ちなみにその学科試験も昨今は重視するようなので怠らない方がいいと思う。
浪人時代というのは辛い。私の場合、浪人の時は藝大一本に絞ったので後がなかった。学生証もなく、落ちたら身分のない年月がさらに続く。その危機感で毎日絵を描いていた。一日一枚石膏デッサン。夜は水彩描いていた。日本画の模写もした。このようにして絵を描くマシンになり、見ないでもパジャントが描けるようになってしまった。モリエールやマルス、ブルータスなど木炭紙に入れる比率を体で覚えてしまった。デッサンバカになった。学科なんぞやらない。絵しか描かなかった。二度ともうあの日々には戻りたくない。その一念でなんとか一浪で入ったはいいが、入ったら2浪生が一番多く、デッサンの神様みたいなのまでいて、打ちのめされた。
そのような世界なので、実は芸大生は互いにビクビクしていた。自分が下手なんじゃないかと。自分の絵が下手くそに見えて仕方がなく、他人の天才にビクビクしているのであるが、実はみんなが互いにそう思っていたというのはのちにわかった。実際、弱肉強食な世界なので、下手くそはバカにされる。なので精神を病んでしまう者も少なからずいる。が、概ねは互いに勝手にビクビクしているだけである。
さて件の任天堂に行った同窓であるが、ゲームなんぞやったこともなく(当時はファミコンだった)「任天堂に決まったんだけど、俺よくわかんないんだよな、どうしよう」と困っていた。彼は院まで行ったのであるが、院では木工で立体作品を作っていた。入ってからしばらく周りから話が合わず浮いていて「やめたい」などとぼやいていたが、そのうち「俺の会社は〜」「俺がやったゲームあるからよろしくな!」などと言っていた。
つまり、ゲームを初めから目指しているよりも、そのズレた新鮮な目線が会社にとって、とても有益であったということ。
どちらかというと音楽が好きで、ファッションに興味があり、ハイデザインに興味があり、およそゲームとはかけ離れた分野の知識があったのが活かされたようだ。
つまり、元に戻るが、広い視野を養うべき。映画を観て、音楽を聴き、友人と交流し、世間で流行っているものに敏感になり、アートについて知識を深め、乱読で様々な本を読み、とにかくあらゆるジャンルに知的好奇心のアンテナを広げておく、それがデザイナーに最も必要な資質なのである。
そしてデッサンは1ピクセルの狂いもズレも許さない、水平垂直の狂いを許さない視点を獲得するために必要なので、そこもしっかり脳が魔改造されておくこと。魔改造されると、定規を持たなくても目視で大きさが把握できるようになるし、カメラ的記憶が発達したりする。フリーハンドで直線も引けるし円も描けるようになる。それはCGを作る際におおいに生きてくると思う。
また自然観察する目を養う必要もある。そこにあるものの細部のディテールまで見なくても再現できる観察力を養う為にデッサンや水彩という訓練が必要なのである。
なので、時間的制約や年齢的な制約よりも、何を学べたかが重要なので、変な時間的制約は設けないほうがいい。クリエイティブ魂にはバイオリズムがあるのでスランプという谷間とアゲアゲな時をなんども繰り返して体験することの方が大切。
あとは・・・・運だ。
こればっかりはどうにもできない。
人生を決めつけすぎて、コケると人生の棒を振るので、その時その時で考えていけばいい。
実際は、どの大学出ようが、どこの会社行こうが、自分がうまくハマったとこで、表現をしていければいいと思う。
フリーで仕事していた時は、出身大学なんぞ意識したことなかった。
社会に出たらその時の仕事内容でしか自分を証明できない。もっと過酷な砂漠である。
頑張ってください。
とりあえずまずフェミニズムが学問としての名称として適切ではない。
例えば上野千鶴子は家族社会学、ジェンダー論、女性学を専攻とする社会学者、フェミニストであって。社会学者までは学問、フェミニストは運動ないしイデオロギーである。
古い例えになるかも知れないがミクロ経済学を専攻とする経済学者、リバタリアンという人や、宇宙物理学を専攻とする物理学者、ビッグバン論者、あるいは地球環境シミュレーションを専攻とする計算科学者、環境保護主義者というのを思い浮かべればいいと思う。
で、前者について議論するのが学会であり、科学である。そしてその知見を元に後者について語るのは本人の自由であるが、特段科学的であるわけではない。あとこれが誤解を生みやすい所であるが専攻以外の分野について雑談をするのも個人の自由であるが、特段最新の科学の知見に基づいているわけではない。
そして科学というのは一般論について語ったり、何かおかしなオカルトを否定するのは大変便利なのであるが、具体的な身近な問題にはろくに答えを出せない場合がほとんどなのだ。
例えば、今日では「地球が人間の出す二酸化炭素によって地球が温暖化している」というのはほとんど科学的結論といってよいが、その具体的な被害はそこまで明らかではなく、ましてや世界各国が何よりもまず優先して地球温暖化対策に取り組むべきなどというのは自明でもなんでもない。グレタ・トゥーンベリ氏の主張は前半は科学であるが、後半は科学ではないことを支持者も批判者もよく理解してほしい。
話を元に戻せば、「女性に特定の服装を明示的あるいは社会的規範として強制することは、女性に対する抑圧的構造たりうる」「女性の性的な特徴を過度に強調したポスターが町に溢れることは女性の尊厳を傷つけうる」というのは科学的結論としてあり得る話ではあるが、「ハイヒールを問題とすることが女性の解放につながる」「宇崎ちゃんのポスターを赤十字が掲示するのは問題だ」は学問を学んだ人が思いついた個人の自由な意見であってそれ自体は科学ではない。
だから今回話題に登っている討論会などというものは学問の場でもなんでもなく、ただただ立場の違う個人と個人が意見をぶつけ合う場に過ぎない。
そして学問としての女性学は今後100年たっても「漫画の女性描写規制は正しい」などという極端な結論を導き出すことはできないから安心してほしい。経済学者が「好景気を維持する方法」を開発できないのと同じである。
なお「ハイヒールを常用することで足の健康を損ないうる」というのは医学の領域であり、社会学の話とはまた別の話である。
それから専門外ということで言えば宇崎ちゃんポスターに噛み付いていたフェミニストの中に「漫画」の専門家がいるのかはよくわからないし、実際(女性学の対象であろう少女漫画についてすらも)漫画に対して無知な人が目立ったと思う。であるとすれば在野の「漫画」専門家が彼らと同レベルの知識人として堂々と漫画表現について議論するのはあるべきことだし、大学の教員たちも肩書に驕って漫画を軽蔑するなどという態度は(彼らの専門外なので学問者としてはどうでもいいが運動家個人の資質や印象の問題として)やめるべきである。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
読んだんだけどさ。
まずこれは、「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。
当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。
いや、俺は「性が断片化され、人格からきりはなされたものと扱われる」っていうのが何を言ってるのかさっぱりわからんのだが。
だいいち、この人の理屈だと、公共の場に限らず、宇崎ちゃんは差別的でダメってことになると思うんだが。
なんで公共の場以外だったらOKになるの? それはそれで適当過ぎない? (挨拶)
ここから本題。
最初にさ、赤十字じゃなくて埼玉県のガイドラインの話するじゃん?
んで、宇崎ちゃんが埼玉県のガイドライン的にアウトって話をするのね。
なんでも女性を笑顔にしてるだけでダメなんだってさ。(ここよくわからないポイント1)
んで、埼玉県のガイドラインですらアウトなんだから、赤十字はもっと公共にあたるし当然だめっていうのね。(ここよくわからないポイント2)
んで、ここまでのよくわからんポイントはとりあえず飲み込むとして
「公共での広告の在り方を定めるガイドライン的にNGだから宇崎ちゃんもダメ」っていうのはとりあえず受け入れるとするじゃない?
ここまではまだモヤモヤはするけど受け入れられるのよ。
まずこれは、「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。
当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。
ここよんで「はあああああ?」ってならんかった?
なんでさ。
公共のガイドライン的にちょっと自重したほうがいいよっていう話を受けいれたら、
自動的に、「宇崎ちゃんの絵は、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われることが、女性蔑視・女性差別だから問題」
ってところに合意させられるわけ? (ここよくわからないポイント3。というか納得できないポイント)
そもそも論理が逆転してんじゃん。
今までは一応「ガイドライン」の存在が先にあって、それにひっかかるからアウトって話だったよね。
全然違う話をつなげてる上に、その違う話でNG判定が出たってとこから無理やり逆算してるのね。
「ガイドライン的にNGだった」→「女性蔑視・女性差別だから」→「宇崎ちゃんは女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われてるものだ」になってる。
これずるくね?
だって、牟田さんの記事、どこにも「宇崎ちゃんが女性の性を断片化して、人格からきりはなしたものである」ということについて説明してないじゃん。
なんか、前のガイドラインの件の続きで、あたかもこの点については説明済み・合意済みって前提で話進めてんじゃん。
ちょっと牟田先生の知性を疑いたくなるレベルでひどいと思うんですけど。
いや牟田先生がバカだからじゃなくて、説明してないことを説明したつもりになって記事書いてるだけならまだいいよ。
でも、もっと恐ろしいのは、牟田先生がわざとこういう構成で文章を書いてるとしたら。
それはもう教授失格でしょ。
それが教育者のやることですか?
この件での騒動で明らかになっているのは、多くの人々に、女性差別撤廃条約やそれにもとづいて国や自治体が取り組む、女性差別撤廃に向けた取り組みの中身がまったく理解されていないことだ。ツイッターを見ていると、弁護士や評論家と称する人たちにさえ「個人の気持ちの問題」「感じ方の違いにすぎない」「表現の自由を侵すな」等の発言があったのにはまことに頭の痛い思いがした。
別に素人なら頭の痛い思いをしたとか感情的なことを書くのもいいけどあなたフェミニズム学の教授でしょ。
なに素人みたいなこといってんの?
考えてみてほしい。
物心つく前から、街頭で目にするポスター、本屋やコンビニの店頭にならぶ雑誌の表紙に、性的なポーズを取り男性の欲望に訴える女性の姿を見ない日はない。道を歩いていると見知らぬ人から容姿について卑猥な言葉を浴びせられる。学校の先生や男子たちから体つきについてからかいや嘲笑を浴びる…。
日本で普通に生きていてこんな体験をしたことがない女性はいないと断言してよいが、こうした体験は、女性たちの尊厳を傷つけ自己肯定感を奪って、生き方そのものさえ歪めてしまう。あまりにも日常的に起こっていることだから、自覚することさえなくやりすごすことも多いのだが、これはまぎれもない女性への人権侵害だ。上述の条約や基本法の警告や指摘は、女性たちにとってリアルなのだ。
そうかもしれんけど。
それと牟田先生がろくな説明もせずに「宇崎ちゃんが女性の性を断片化して、人格からきりはなしたものである」認定したことは全く関係ないよね。
話ごまかしてるよね。
ねえ。
フェミニズムの授業っていっつもこんな非論理的な解説やってんの?
それ学問としてどうなの?
さすがに、今回の記事をまじめに書いてこれだったんだったら、教授としての資質を疑いますよ。
象牙の塔で、誰も批判する人がいないからいつの間にかこんなずさんな文章書いてもやばいと思わなくなったのかどうか知らないけど。
書き直して。どうぞ。