「対象物」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 対象物とは

2021-04-22

弱者男性って友達いないの?

イケメン女性容姿を褒めてたら喜ぶくせに俺が褒めたらセクハラなんだろ?!っておこってるけど、これは女性イケメン容姿について触れてもいいくらいの関係であって、弱者男性とはそうでないっていうだけだよね?

いやこういうの友達関係でも普通にあるよね?A男はB太郎とはタメ語で談笑してるのに俺とはすごく距離がある、とかよくあるじゃんスニーカー褒めあってるとか。同じように無理してスニーカー褒めたらなんかぎこちない顔してるなとか。それをお前らはA男のせいにすんのか?って話だろう。別に問題視しないでしょ。女も同じだろう。女を性的対象物しか見てないからそういう発想に至らないんじゃないか

anond:20210422094519

同じ理屈で明らかにもっと目につく対象物スルーして

オタク関係のものばっかり批判してるから

掲げてる理屈なんか嘘で嫌いなもの潰せ!が本質なんでしょ?て看破されてるのにね

2021-03-26

anond:20210326164134

ホームセンター工作スペースとかない?

対象物が持ち運べるサイズじゃないなら買うしかいかもしれないが

2021-03-24

なんか物事に「社会的倫理的に悪だ」みたいな論調文句付けて

反論されると次第に話を「対象物クオリティが悪い」みたいな方向にずらすのいろんなところで見るけど

俺が特許持ってることにならない?

2021-03-10

嫌なものを嫌というのはいいんだけど

必要以上に見下す人いるよね。ああいう人は苦手。

そういう人って誰かが「このデザインいいね!」って言うと「えー?こんなのいいの?嫌だわ」って言う。

その後に延々とうんちくが語られて、とにかくそ対象物を見下していく。

そういう人っていうのがホント苦手。

嫌なものを嫌だって言うのは良いんだよ。誰だって嫌いなものはあるんだし。

だけど、そこまで言う必要ないよねってくらい、とことん蔑む人っている。

他人が好きって言っても、そんなの関係なしに本人の前で徹底的に叩いてくる。

そういうのってホント駄目だわ。

2021-02-17

おっぱい

以下の記事に関する意見に「女性の胸は普遍的エロではない」的なものを見たので、反論

(いや、他人の体を勝手エロ対象物にするな、という意見は置いといて。もっとふわっとした話ね)

サル乳房に興味ないってことは、おっぱいエッチさを見出し特殊性癖のパイオニアがどこかにいたってことだよな

https://togetter.com/li/1668772

ここのブコメにあるような変な論を見る機会が最近増えた気がして、これってある種の「江戸しぐさ」的な奴が浸透してるのではないだろうか、と危機感を持ったので書く。


江戸時代風呂混浴だったから胸はエロではなかった(からそれ以降の舶来の文化である

→だったら風呂場で露出する性器自体エロじゃなくなる理屈だ。そんなわけあるか。

もっと安易でアホな意見だと思う。

ちなみに、着衣で入る蒸し風呂は「男は湯褌だけ」で、「女は湯巻(薄い着物のようなもの)」である。(「湯」はふつうに裸で入る)

ここからも「上裸における男女の扱いの違い」を感じないだろうか。

※ちなみに、風呂場で乱交する困った春画もたくさんある。混浴で辛抱たまらなくなる人もいたわけですね。(また、それに共感する人が大勢たから絵になっている)

ていうか、風呂での売春が多かったことや女湯の覗きが取り締まられてたのも有名な話だよね。


昔の農村部で胸を露出するのは日常だったので、胸はエロではなかった

着物構造を考えればわかるが、胸どころか下だって大して隠してないわ。

作業や力仕事をするときは裾を捲ることだって多かったわけで、大して意味のある話ではない。

まり昔は、裸に対する認識そもそも違ったと考える方が理解やすい。

風呂」「畑」のような日常空間もっといえば道ばたでも)で見る裸は多くの人にとって「エロいと認識されなかった」ということ。

「裸がエロい」んじゃなくて、「エロいことする空間」だから裸がエロくなるという理屈だ。

現在のたとえで言うと、ヌーディストビーチなんかも実際行くと興奮しないというのと同じである

逆に、現代の街中で全裸の人がいた場合でもエロより先に恐怖を感じるはずだ。


江戸時代春画では胸がエロ扱いされていなかった(から、昔の日本では胸はエロではなかった)

→確かにそういうものが多いが、普通におっぱい好きの絵師だってますがな。都合よく無視せんといて。

「着衣でおっぱい吸ってるだけ」の授乳プレイ春画すらあんねんぞ。

明らかにエロ目線で「胸だけチラリしてる」浮世絵いくらだってある。子供への授乳画もやたら多いし。

というか「江戸時代春画だけ」で昔を語る方が主語がでかすぎる。

そんなん、レイプ絵や輪姦アクメ堕ちの絵が春画に沢山あるから「そらみたことか!女はレイプされたがっている!」と豪語するくらいに間抜けである

逆に春画おっぱい軽視な特殊例だという発想はないのだろうか。


胸は尻に似せるように進化したものである

→本題とは直接関係ないが、最近やたら目にして気になってるのでこれにも反論

進化などに詳しくないのでわからないが、結構胡散臭い話だと思う。

なぜなら発情期の猿の尻の写真を見ればわかるが、人間の尻とは似ても似つかないのだ。赤く膨らんだ猿の尻はどっちかというと「腫瘍とかそれ系」である普段の尻も全然違う形だ。

人間の尻は「二足歩行進化することによって」、人間の尻という独自の形状になったのである

人間のように直立すると肛門真下位置するため、垂れ流しにならないよう括約筋や周囲の筋肉が発達し、あの独自の尻たぶができたのだ。

概念上は同じ「尻」でも、現実の形は別物なのである

人間けが排泄後に念入りに尻を拭く必要があるということ自体人間の尻が特有の形をしている証明だ。

猿は尻で求愛するし、シマウマなど魅力的な尻を持つ哺乳類もいる(検索してみてほしい)が、からといって「胸=尻に似せて進化した」説はあまり安易だと考える。

どの尻に似せて進化したんだ。

※また、女性の胸のふくらみも、人間特有頭蓋骨進化が関連しているという説がある。

猿含め他の哺乳類は口蓋が前に突き出しているので平らな胸でも乳を吸えるが、人間は脳の発達により頭蓋骨が変化し顔面が平らになったため、乳児が乳を吸いやすいように胸が突出したという説である

真偽のほどは定かではないが。


サル乳房に興味ない」ってのも本当なんだろうか

→正直詳しいことは何も知らんのだが、猿の外見から簡単に雄雌を見分ける手段として「乳首が目立てばメス」というのは動物系のドキュメンタリーでよく聞く話である

これだけで判断はできないが、少なくともある種のシンボルではあると思うのだが。

※また、少し話がそれるが、「発情期を有する猿」と「年がら年中発情期の人間」を単純に比べること自体、実はかなりおかしいのではないかとも思う。

大体、猿のほとんどはポコチンにも骨があるのだ。そこからして違うのに、猿の延長で人間セックスを考えるのって正しいことなのかね。

専門家ではないので、どの程度切り分けるべきかはわからないが。


女性目線は?

→これも無視されがちですが、女性の内のかなりの人数(すべてとは言わない)が性行為中に胸というか乳首を触ると、わかりやす快感を覚えるわけです。

そこにエロを見出す方がむしろ自然なのではないか


そもそも

そもそも「性を意識する年頃」に合わせて女性の胸が目立ち始める、という根本的な大事件を忘れていないだろうか。

「性が!性が!異性!異性!」となっているときに、同世代女性はお胸が膨らんでいるのである

意識しない方がおかしい。

しかも触ったらなんかやわっこくて気持ちいいのである

エッチときに触られて気持ちいい女性も多いのである

時代文化によって興味の差はあれど、エロ対象にならない方が不思議だと思うのだが。

2020-12-18

hCapthaという認証サービス

reCaptchaと似てるけど精度があまりよくない

たとえば、車を選択しろと言われてトラックを選ぶのはNG

普通乗用車選択する必要がある

それ以外でも、対象物の接写写真だと正しいとみなされない

例えば自転車バイクタイヤ周辺の写真とか

あとreCapthcaよりも間違いに厳しい

全部正解する勢いじゃないと通らない

自分は正解を間違えてるくせに、といつも腹立つ

そのくせ選ばないといけない画像が2画面、18個もある

ただでさえ正解を見分けるのが難しいのにそのせいで余計突破がめんどくなってる

ポイントは、パット見であきらかにそれだな、っていうの以外はスルーすること

低い認識レベルに合わせた振る舞いをする必要がある

ほんとくるってる

2020-11-18

ネコが嫌いな話とファンの行動でその対象物自体嫌いになる話

ネコが嫌いだ。別にアレルギーがあるわけでもないし噛まれたとか嫌な思い出があるわけでもない。

あの愛くるしい見た目の動物をなぜ嫌う?

正確に言えばネコ自体は嫌いではない。いわゆる”ネコ好き”の人たちの言動気持ち悪いのだ。

古くは「ぬこ」というネットスラングからまり猫様だとか下僕だとか気色の悪い文化が嫌いなのだ

そもそもご主人様を去勢して家畜にする下僕がどこにいる?

SNS上では、ネコアイコンにしたネコ好きのユーザー大勢いる。人数が多いから目立つだけなのだろうが、そのネコアイコンにはとにかく気持ちの悪い奴らが多い。

とくに政治関連では左右問わず目立つ。

彼らのツイートを見るたびに発言ネコが紐付けられ最終的にはネコを見るだけで彼らに対する不快感連想するようになってしまった。

これはネコに限った話ではないだろう。他のコンテンツにおいても○○ファンのせいで○○自体嫌いになったという話はよく聞く。人間認知記憶の紐付けというのは思ったよりも単純で、通称アルバート坊やの実験では、なにも知らない子供ネズミをもたせながら大きな音を聴かせると最終的にネズミだけでなく毛でモフモフしたぬいぐるみサンタクロースを見ただけで泣くようになったらしい。

逆に言えば、自分ネガキャンしたいものアイコンにして暴れるというのも極めて効果的だろう。

ちなみにネット上ではネコアイコンも含めて異常者の多い地雷アイコンとして、電車旭日旗が挙げられている。

これらに共通するものは何か。私はネット慣れしていない中年が好きなものではないかと思う。これまであまりネットに触れてこなかった中年おじさんおばさんがスマホSNSヤフコメという道具を手に入れて暴れているのだ。迷惑な話である

2020-11-05

anond:20201105121841

アツギ擁護したいか批判反論してくるんだ」っていうのが

対象物好き嫌い判断してるから相手もそうなんだと思うってことなんだね

っていうのが元増田なんだけど

なんも理解しないね

タイツの件でアツギ批判してる人たち

自分らの主張が批判されると「オタク擁護してる」とか「タイツフェチから擁護してんだろ」とか言うじゃない?

これって自分らが対象物好き嫌い批判するかどうか決めてるから

他人もそうだと思ってんだよね?

2020-10-23

anond:20201023005525

オブジェクト指向の考え方は、対象物が1:1の関係じゃなくなったら基本的には必要だよ

オブジェクト指向言語でなくてもオブジェクト指向的な書き方をする。

例えばCのファイルIOの関数は、FILE *fpを使って操作するけど、あれだってオブジェクト指向だよ。

同時に2つのファイルを読み書きするなら区別のための識別子が必要で、それがfp

オブジェクト指向不要って言ってる人は、データが全部1:1の関係だけで十分なプログラムしか作ってないんじゃないのかな。

2020-08-16

気持ち悪いマニアって対象物(コレクション推しキャラなど)以外のこと何も考えないし、他人に気も遣えないよな。

商品の山ぐちゃぐちゃにして一番きれいなの掘り出した後はそのまんま。元に戻さない。そのくせ、自分が買う時は「もっと大事に扱ってください」(別に乱暴にしてない)って奴とか。

商品元に戻せって注意されたら機嫌悪くなる。ガキかよ。

からオメーうちのスタッフから陰で「キモ山」ってあだ名つけられんだよ。

2020-08-03

ananの表紙が嫌なみんな、ちゃんと声をあげようぜ。男が性的対象物として消費されていて不快だよな。あなたの声で世界は変わる。

2020-07-15

anond:20200715103413

日本人全体での病的な人の割合

アニメファンでの病的な人の割合

アニメファンでの病的な人の割合

ガンダムファンでの病的な人の割合

福井否定派での病的な人の割合

比較しないと正確なことは言えないのだろうけど

別に生きていく上で否定する必要が全くないのに、強烈に執着し否定する人は

ジャンル対象物わず、そりゃ病的な割合多いだろうとは思う

2020-07-08

anond:20200708080436

指が太かったり、指先と対象物関係性を判断する感覚がいつまでたっても未熟で(そうだよ不器用だよ!)、意図した反応を得られずに癇癪を起こし続けてる層は一定存在するワイノコトヤデ

2020-07-06

人の狂気に触れて朝から気分は最悪

深淵のぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

とはよくいったもので、深淵不用意に覗いてしま気持ちが悪い。

覗く方が悪いのは正論として、それでも人の狂気に当てられると「人はここまでおかしくなれるのか」という恐怖と嫌悪感でいっぱいになった。

対象物へ加害するためなら法を犯し、赤の他人までも巻き込み支配する。そして被害者への行為を堂々と正当化する。

行いは間違いなくカルト宗教だ。身近な人が関わっていたら絶縁も考える。

僕はそれらのコンテンツに触れることにメリットはないと思う。

誰もすすんで語らないものには相応の理由があって、覚悟もないのに正義感一つで首を突っ込んではいけない。あたりまえのことか。

警察ヒーロースーパーマンでもないのだから、悪を制裁する力やその正当性もあるはずがない。できることは自らが二の舞にならないよう、反面教師にすることだけだ。

とくにそれが予告・脅迫などを初めとした犯罪行為をさも武勇伝のごとく語っているような異常集団である場合は。

被害者の方のためにも加害者人達とその関連データは跡形も残さず消えてくれることを願う。

あれらはネット負の遺産だ。

2020-06-23

また欠点として、対象物無意識に見るという行為ができない。これは、山田正紀による小説イノセンス After The Long GoodBye』で語られている。

攻殻機動隊「電脳化」

2020-04-04

anond:20200404225131

表現上の混乱を概念の混乱と同一視してねえ?

呼び分けが紛らわしいからって雲と蜘蛛という対象物が紛らわしいわけじゃねえよ→ウイルス比喩的に生きてるという人とそのまんまの意味で生きてるという人のあいだにグレーゾーンはない、

よって先のリプは少々ピンボケやろという話をした。

子供の頃の言語環境バリエーションはなんもかんけいない。

2020-01-13

絵をそこそこ上手く描くコツ

対象をよく観察する

・形を正確に捉えるには「比率」を意識するのが超大事

・線の強弱や美しさにこだわる

・少し描いたら全体を俯瞰して、対象物と自分が描いた絵との誤差を発見し、その都度修正する

集中力と根気と最後まで仕上げるという気持ちが何より大事

・全体のバランスを取ることはかなり大事。そのためにはバランスの取れた絵とは何かを知っている必要がある

2019-12-23

鏡は像を前後に反転させる

鏡は像を"前後に"反転させる。

左右でも上下でもなく、前後だ。

では、何故我々人間鏡像を見て「左右に反転している」と認識するのか?

ーーー

我々がある対象物を見て「まっすぐ正しく見える」と認識するとき、実はその対象物自分に対して左右逆に置かれている。

絵画モナリザを"まっすぐ"見るとき自分視点)と同一方向に絵を置く馬鹿はいない。それでは額縁の裏側を見ることになってしまう。「正しく」見るためには、必ず「ひっくり返して」自分と向かい合うように置くのである。このとき、私とモナリザは左右反転の関係にある。左右逆なのに違和感を感じないのは、ひっくり返すとき同時に前後も逆になっているかである。(三次元空間においてオブジェクトを2回反転する事で元の形に戻る事は直感的に理解できるかと思う)

上下方向だけは元の状態と同じ。固定である

ーーー

前後と左右は真実と逆。上下だけは真実の通り。この状態で初めて人は対象物を「正しい方向で見ている」と認識する。その状態の物を「正しいはずの物」として我々の脳はインプットしている。

モナリザ招き猫、紙に書かれた文字自分自身のコピー対象物がなんであれ同じ事だ。

ーーー

鏡は物を前後に反転するが、左右には反転してくれない。左右に真実ありのまま写してしまう。だから我々の脳は「普段見ている(そして脳内インプットされた)正しいはずの姿」と鏡像比較して、左右を逆だと認識する。

間違っているのは鏡ではない。我々の脳の方なのだ

2019-11-25

普通男性感覚麻痺している、それがヘルジャパンの正体なのだ

公の場で女の体を性的対象物として扱っていい、それが「普通」。女の体について男があれこれ品評する、それが「普通」。女は男にヤれる女認定されると喜ぶ、それが「普通」。

そんな価値観が「普通日常」の中に溢れすぎていて、おかしいことだと気づけない。

https://www.gentosha.jp/article/14105/

2019-11-12

デジカメのゆくえ

デジカメ販売、8年で7割縮小 岐路に立つカメラメーカー

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191110-00144957-bcn-sci

フィルムカメラ時代が終わり、デジカメ時代が来た。それと時を同じくしてケータイカメラが普及し、スマホの普及とともに常にカメラを持ち歩く時代となった。

現在デジカメ商売敵はスマホカメラであるように思われる。

単純にレンズ等の性能はそんなに変わらないようだが、スマホカメラあくまでも付属であるのでレンズの大きさに限界があるので、デジカメに優位性があるとしたらそのあたりか。スマホカメラに1眼レフはありえない。

しかiPhone11能力を見れば、デジカメというのはあくまでもフィルムカメラの延長線上にしかおらず、スマホカメラとは立っている道が異なると考えざるをえない。

iPhone 11 Pro Max」のカメラがどれほどの性能を持っているのかを専門家が徹底レビュー

https://gigazine.net/news/20191108-iphone-11-pro-max-camera/

普通にレビューしようと思えばこんな感じの記事だと思う。しかし私が簡単し、新時代を感じたのはこんな話ではない。

iPhone11トリプルカメラ写真なのに奥行を撮影する。

Facebook3D写真機能を公開。iPhoneポートレートモード写真を使い立体的に表示

https://japanese.engadget.com/2018/10/11/facebook-3d-iphone/

(以前、Twitterでより良いツイートを見た覚えがあるのですが、そのツイートを見つけられませんでした。見つかったら差し替える、かも)

これはFacebook機能として紹介されているが、iPhone撮影された写真しか対応しない。これはFacebookが作り出した機能ではなく、iPhoneが持っている機能Facebookを通じて他端末でも使えるようにしただけだからだ。

iPhoneダブルレンズトリプルレンズを通じて、写真を立体的に撮影している。iPhoneで撮った写真を加工しようとした際に、背景だけボカすといったような作業が容易にできるのだ。

カメラでなにかを撮影しようと思ったときに、背景と対象物、べつべつに撮影しようと思ったことがありますか? その時にはどうしますか? 従来ならばスタジオでバックは無地で撮影したものと、実際の写真を合成していただろう。iPhone、とりわけ11proは何気なくとった写真でも対象物と背景をその距離感から分離することが容易にできる。

トリプルレンズはそのために必要だが、それがあるからといってこういった作業可能になるわけではない。

可能にしたのはソフトウェアというわけだ。

もはやカメラの性能勝負において、レンズその他ハードウェアの優先度は落ちつつある。これは能力的に頭打ちが見えているというのもある。だがそれ以上に「新しい発想」と「それを実現するソフトウェア」の比重が大きく、その後にハードウェアが付いてくる。

スマホカメラデジカメが違う道の上にいるというのはそのあたりだ。

未だにハードウェアを追い求めるカメラメーカーは、このままでは新しく台頭してくるソフトウェアも手掛けるメーカーには勝てない。彼らは新しい、従来のカメラでは実現不能能力勝負を仕掛けてくる。

これはもちろん、「ありのままを残す」ことを目的とした旧来のカメラと「加工することを前提とした写真である現代事情の違いもあるだろう。しかしそれは言うまでもなく時代の流れというものである

商売をしている以上、時代の流れは無視できないものであり、それに乗るつもりがないのであれば衰退するのは必定であろう。逆らうためには尋常ならざる努力のもと、新たな潮流を作るつもりで立ち向かわなければならない。


~~~余談~~~

歴史をひもといてみると、平安のころの姿絵などありえないような恰好をしているものだが、Matt化などは極端な例であるが良い実例で、過去の人も同じことをしていたのではないかと考えられる。

そう考えると昭和平成写真事情は「写実主義」であったと言える。現代の加工された写真もまた、後世においては何か名前をつけられるのだろうか。

2019-11-11

anond:20191111130005

追加の解説聞いても一切意味が分からなかった。むしろ、より難解になったわ。

いやマジでどういう主張なのか気になるから、詳しく話して貰えないだろうか。

  

読者は作者にまわればいいでしょ 

読みたいものそもそも自分で書くのが筋 

読者は対象物を読みたいのであって、作者に回ったり自分で書いても望むものにはならないでしょ。

  

なんで金もわずに口だけ開けてここにうまいものを突っ込んでくれないと怒るぞっていってるのかがわからん

金を払わず←何の話?

口だけ開けてここにうまいものを突っ込んでくれないと怒るぞ←何の話?

リーと全く関係なくない? 誰がどこでこういう主張しているの?

2019-11-04

お前らは全員フェミニズム理解していない

献血ポスターの件でまたあちこち燃えているけれど、フェミニズムについて両陣営がよく理解していないまま戦争しているなあ、と考えていたらふと学生時代に書いたレポートを思い出したので供養しようかと思う。

これは「ポルノグラフィ法規制」に対してのフェミニズム観点テーマであって今回の件とは必ずしも直接は関与しないが色々なところが補助線として使えるのではないかと思うのでもし議論の整理に何らか役立てば。

字数が切れていたので分割。

anond:20191104142158

以下本文

----------

1. 問題設定

レポートでは、ポルノグラフィとその法規制について、いくつかの観点から検討する。ポルノグラフィは、フェミニズム運動の中でリプロダクティヴ・ライツやセクシュアル・ハラスメントなどと並んで一定地位を占めてきた。一方で、その規制は、日本国憲法21条や米国憲法修正1条にいう表現の自由と正面から激突するものでもある。本レポートにおいては、日本国憲法の射程に限定しつつ、これらがいかに衝突するものであり、どう分析されるべきかを簡単に整理することを目標とする。

2. ポルノグラフィ定義

最初検討されるべきは、規制対象たりうるポルノグラフィいかなるもの定義されるかということである。もちろん、いかなる性的描写ポルノグラフィであって規制対象たりうる、という立場自体不可能ではない。しかし、表現の自由が強く保障されることを前提としたときに、容易には首肯しがたい立場であるということは言うまでもない。表現の自由への制約は可能な限り小さくなくてはならないというのが前提であるとすれば、規制対象となるべきポルノグラフィもそれ自体また狭く定義される必要があるであろう。

まず、一般的ポルノグラフィ定義について俯瞰する。いわゆる四畳半襖の下張事件において、「わいせつ性の判断に当たっては、文書全体としてみたとき、読者の好色的興味に訴えるものであるかどうか否かなどの諸点を検討することが必要で、これらの事情総合し、その時代健全社会通念に照らして、チャタレー事件で示したわいせつ要件に該当するといえるかどうか判断すべきである」という判断がなされており、わいせつ要件(通常人羞恥心を害すること、性欲の興奮、刺激を来すこと、善良な性的道義観念に反すること)をベースとしたうえで、社会通念に照らして文書等のわいせつ性が判断されるという判例を構築している。

判例立場は、わいせつ性が前面に出ているのか否かという観点を取り入れることによって性的対象を扱った作品であっても、芸術的価値の高さなどに応じてわいせつ物該当性を認めないという形で一定の制約を設定しているといえる。ここには、表現の自由との緊張が見て取れる。つまり本来性的表現であっても、直接他者危害を与えるものでない限り、国家によって自由を制約されるべきではない。しかし、わいせつ該当性があるならば、例外的規制することが許されるとしていわゆる定義づけ衡量を行ってわいせつ図画を規制しているものであるといえる。

一方で、Andrea DworkinやCatherine McKinnonはポルノグラフィいか定義たか。それは、実際に彼女たちが起草した反ポルノグラフィ条例に見て取れると考えられる。ミネアポリス市の反ポルノ条例第三条 は、「ポルノグラフィとは、図画または文書を問わず写実的描写され、性的にあからさまな形で女性従属させるものであり、かつ次の各事項の一つまたはそれ以上を含むものを言う。(1) 女性人間性を奪われた形で、性的な客体、もの、または商品として提示されている、(2) 女性苦痛や辱めを快楽とする政敵対象物として提示されている、(3) 女性レイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている、(4) 女性性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている、(5) 女性性的服従姿勢提示されている、(6) 女性が、その身体の部位……に還元されるような形で示されている、(7) 女性が生まれつきの娼婦として提示されている、(8) 女性がモノや動物によって挿入された状態提示されている、(9) 女性が、貶められたり、傷つけられた李、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたたり、傷つけられたりして描かれ、かつそれらの状態性的ものとする文脈の中で提示されている」と詳細に定義している。最高裁判例の打ち立てた上記基準と比べるとこれは、はるかに明快である

ところでこの二つの定義には、その明確性を超えて、根底的な部分でのポルノ観の相違が明々白々と見て取れる。これは、ポルノ規制日本において考える際にも重大な差異であると考える。

最高裁におけるわいせつ概念定義は、三要件を用いたその定義から明らかに社会的性道徳、善良な性風俗といったもの保護対象としている。つまり、過度に扇情的ポルノ作品市場に氾濫することで、社会を成り立たせている道徳基盤が破壊されることを防ごうという目的である。いわゆるチャタレイ事件控訴審における判決理由中の「かゝる文書猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動制御否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである」という文章は、まさにこの懸念わいせつ文書規制するべき理由であるということが念頭に置かれているものであると考えられる。

ミネアポリス市かいくつかの都市で起草された条例は、こうした目的のもとにポルノグラフィ規制しているのではない。それは、McKinnonらの論文や、また、条文そのものから明白である。ここで、ポルノグラフィはまさしく「女性差別」そのものとして認識されている。

ポルノグラフィは、女性を隷属させ、性的対象化objectificationするものである、とラディカルフミニストたちは考える。つまり、「ドウォーキンはいう。『女性従属においては、不平等のものがセクシュアルなものにされる』。マッキノンも次のように述べている。『ポルノグラフィーは女性の不平等をセクシュアルなものにする。それは女性の不平等セクシーものに仕立て上げる。それは、言葉の最も広い意味で、支配服従をセクシュアルなものにする』」 。

ここで、ポルノグラフィに対する定義が、二方向のアプローチを有しうることが示されている。つまりポルノが消費されたときに、社会倫理的道徳的にどのような影響を受けるかという観点と、道徳観点を一切取ることなく、ポルノの中で女性がどのように扱われているか、またポルノを消費する男性女性に対してそれを再演することでどのような危害が生じるか、という観点である

Millの提示した危害原理を素直に適用する限り、後者観点の方が規制根拠としては明らかに優れている。前者において、明白な危害存在していない。先に引用した人類滅亡論などは、まさしく論理の飛躍であろう。一方で、後者アプローチをとるならば、それが証明される限り、実際の危害が生じていると言える。これは、いか表現の自由価値絶対視し保護するとしても、しかしそれを規制する十分に強力な根拠たりえる。次章では、ここで主張される危害について検討する。

3. ポルノグラフィ危害

ポルノグラフィが「危害」を有するものであるならば、それは表現の自由を主張してもなお規制に当たることは言うまでもない。表現の自由に対して強く保護を与えることを主張したアメリカのOliver Wendell Holmes Jr.判事であっても、満員の劇場で「火事だ!」という嘘を叫ぶことをいかなる表現の自由保護しないと明言している 。また、実際にポルノグラフィ一般的危害を生ぜしめないとしても、上記の条文を見るに、発生しうる危害から逆算的にポルノグラフィ定義されており、これは限定列挙であると考えるべきであろう。

もっとも、注意しなくてはならないのは、ここで挙げられたものは、危害を「創作」したものまで範疇に含まれることである。つまり女性傷害を受けるという「現実」の存否にかかわらず、そうした創作は、ポルノグラフィとして定義される。そうした映像が、現実における傷害と必ずしも一致しないことは、あらゆる劇作の前提である 。そして、実際に生じた傷害については、こうした条例法律にかかわらず民事上、刑事上の責任を負わしめることが可能である

危害がどの広さで認識されるべきかということについては、確定的な見解はいまだ存在しないものと考える。元来はMillのいう危害原理、すなわち身体的な危害を指していたものであるが、現代的にはこれを精神的(に深刻)な不快の限度にまで拡大した不快原理offense principleと言われるものまで提唱されている 。もっとも、身体的な危害については明確で客観的基準の定立が可能である一方で、主観的不快およびその深刻性については、客観的判断が困難であり、現行の法システムに馴染むのかという点で深い疑義がある。

ラディカル・フェミニズムの主張する「危害」がそうしたグラデーションの中でどこに位置するものであるかは、詳細な分析必要とする。McKinnonの言明する危害は、ポルノグラフィはそれ自体性差別であり、それによって女性従属化されるということである。そして、そのポルノグラフィ撮影において、また、ポルノグラフィが再演されることによって、女性は「縛られ、殴られ、拷問され、貶められ、時には殺される場合さえある。あるいは、単に犯され、使用されている。視角ポルノに映し出されているあらゆる行為のために、女たちは実際に、縛られ、切りつけられ、焼かれ、猿ぐつわをはめられ、鞭うたれ、鎖でつながれ、肉吊り棒や木からロープで吊り下げられ、あるいは、……放尿させられ、排泄物を食べさせられ、ウナギネズミナイフピストルで貫かれ、喉の奥までペニスで侵され、血や泥や糞便や精液で汚される。……ちなみに、膣にペニスが挿入されるという意味での性交は、そこでは副次的テーマに過ぎない」 。すなわち、ポルノグラフィは、男性女性に対する性欲そのものが充足されるためのものではなく(それは副次的テーマに過ぎない)、もっぱら女性に対して暴行を加え、二級市民化することによって従属せしめることが目的とされ、そのためのプロパガンダとして成立しているものであるとされる。「ポルノグラフィ女性憎悪純粋蒸留物であり、女性経験の中でレイプ女性殴打、近親姦強制売春と結びついている。そのことを考えるなら、ポルノグラフィ擁護して発言する自称フェミニストがいったいいかなる道徳的・政治的原則にもとづいているのか、とうてい理解することができない」 と彼女は断言する。

実際にこれらが物理危害として発生しているのならば、それは全く看過することのできない危害のものであり、規制はされてしかるべきものであるしかし、これらは実際の刑法典、民法典の規定によって補足可能ではないか? という疑問が生じてくる。McKinnonはこれに対して、現実にそうした摘発がなされていないことをもって実質的に法は存在せず、それゆえ国家及び社会ポルノグラフィ公認していると見做される旨主張する。

McKinnonの熱烈なポルノ批判に対し、Drucilla Cornellはポストモダンフェミズムの立場のもと、一定距離を置く。「私たちは、ポルノグラフィ生産に対してとられるべき法的行為措置を、ポルノグラフィの配給に特化してとられるべき行為措置から区別すべきである。私は、この区別が、ポルノワーカーを含めた女性たちが、人格となるプロジェクトを引き受けるのに十分なだけ自己を固体化していく、というフェミニスト目的根本的に寄与すると主張する。この産業女性たちを連帯に値しない不幸な犠牲者として扱うことは、彼女たちの基本的尊重を拒絶することである」 という言葉は、ポルノワーカー女性について、「ポルノグラフィに出演している女性の多くは、子どもとき性的虐待の被害者であった。……自宅から性的虐待を逃れて都会に出てきた子どもたちは、そこでヒモに拾われ、レイプされ、殴られ、麻薬づけにされ、売春ポルノグラフィ従事させられるのであるポルノグラフィに出演している女性の多くは貧しく、たいてい教育を満足に受けていない。ポルノグラフィ存在している社会は、女性経済的に不利な立場に置かれている社会である」 と記述するMcKinnonらを批判対象としている。Cornellはさらに、「私は二つの特殊フェミニスト的な理由からポルノグラフィ規制法律に過度に頼りすぎることに対して懐疑的である第一に、反差別法の基礎としてステレオタイプ女性性を強化すべきではない。言い換えると、キャサリン・マッキノン仕事のように、女性を「ファックされる者 fuckee」か犠牲者に切り詰めたうえで、そのような存在としての女性に対する保護要求するような、文化的コード化された女性性を促進するような法はいらない。そういうわけで私は、マッキノンやアンドレア・ドゥウォーキンのそれのような、ポルノ規制の適切な法的手段としての市民権条例案を拒否する」 と言う。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん