はてなキーワード: 創作物とは
創作物を「児ポ」扱いして犯罪者にするなんて特定の性的嗜好を理由に事実上内心を裁く人権侵害で、海外でモラルパニックをおこしているだけなのだから英米韓国等々に人権侵害をやめろと日本が外圧をかけまくるべきなんです、道義有る文明国ならね。
2005年からスウェーデンがインターネットの児童ポルノのブロッキング(インターネット接続遮断)を開始したが、児童ポルノのブロッキング以降もスウェーデンでは強姦犯罪の増加が止まず、むしろ犯罪増加が加速した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%96%E5%85%90%E7%AB%A5%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%8E
児童ポルノ規制は、子供を危険にさらすし、子供の権利を侵害する為、児ポ法改正して少女ヌードとか認めるべき!(セルフまとめ) - Togetter https://togetter.com/li/1150320
ロリコン・小児性愛者の権利の主張と、ロリコン・小児性愛者へのエール - Togetter https://togetter.com/li/1152169
俺も守銭奴なんだけどさ
俺より遥かにお金でしか考えられない人が世の中に一定割合居ると感じる
そのモノが幾らかでしか感動できない人とかね
「それは幾らだったの?」「もっと貰うべきだ」というような発想をしてしまう人
これは、その人が創作物を無意識に金額換算しているから起きることだ
(この人達は無料で出回っている創作物をどう思ってるんだろう?)
労力 例:5年かけた大作
規模 例:1万人で作った
質や量 例:1000万部突破
人の感動というものがどうしても数値化しづらいから、何らかの代替数値を使いたいのは分かる
そういう人たちにとっては
でもそれは勘違いだ
金額というものは簡単に変わる、需要や供給、規模の経済、ビジネスモデル、時期や知名度、いろんな複雑な条件に影響される
ビットコインを思い出して欲しい、ビットコインの凄さが2年で20倍にもなったわけではない
凄さを語るときに何も金額にする必要はない、というかしない方がいい
金額にすると安易な比較ができてしまうばかりか、売買、職業、生活に意識が行ってしまう
でも大抵の凄いものっていうのは金だけじゃ買えないものばかりだ、意味が変質してしまう
初投稿。HIPHOP史にも社会学にも詳しくないんで諸々トンチンカンかもしれんけど、とりあえず殴り書き。
一応ネタバレ注意。
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2週間くらい前のKOKを見に行きました。GADOROがだいぶ仕上げてきていたので、個人的には納得の優勝。ちなみに僕はダンジョンGADORO回とKOKを両方見られたので、もうGADOROの苦悩がスーパーハイビジョンで伝わってきたよね。いや~、持ってるよね。
んで、決勝の53 vs. GADOROだよ。僕は53→53→53→GADOROと挙げたけど、もはやどっちの勝ちかは一人ひとりの好みで決まってくるレベルにかなり迫っていた気がしたので、割れるのはしょうがないかなと僕は思っていたし、特に判定への文句もない。一応僕は一バトルとして見続けるよう努めたつもりではある。
問題は、このバトルに隠れている構図だ。
しばしば「日本のHIPHOPがメジャー化でダメになった」という話をCOREな方から耳にするような気がするが、僕はこう考える。「HIPHOP」がメジャーに媚び始めたというよりも、「日本人が想定する弱者」の像が変容したのだ、と言うべきではないか、と。
90年代当時(まで)は、テレビの影響力、集団行動力を重視する教育、いい大学・いい会社に入れば幸せになれるという信仰なんかがまだまだ根強かったはずで、それらが複合的に重なり、「安全第一の人生」を至高とする日本社会が形成されていたはずなのだ。そして安全を脅かす「ハミ出し者」を仲間はずれにし、自我を捨てて世間に身を委ねる則世去私イズムで多数派は安心感を得ていた。
まあ、阪神淡路大震災だのオウムだの酒鬼薔薇聖斗だのでそういった仮初の平穏にどんどん綻びが生じてくるわけだが、頑張って頑張ってみんな汚染水を除きまくっていたのだ。村上春樹の『アンダーグラウンド』あとがきでも、「地下鉄サリン事件実行犯たちを狂信者だとして遠ざける我々一般市民たちも、『何らかのシステムに自我を譲り渡している』という点で犯人たちと同じ翳を背負っているのではないか」という指摘がなされていた。
そんなstandardの波に排撃されたのがB-BOYたちというわけだ。僕みたいな聞こえても即答できないWanna b-boyが語るのもおこがましいのだが、黒人文化を濫觴とするHIPHOPは、90年代日本において「(虐げられてきた)俺たちだけの文化」という局地的受容がなされていたはずだ。「俺たちだけが真の音楽を知っているのだ」と互いを励まし合い、常人では知り得ない独自文化を発展させているのだとの自覚を懐きながら、Bのつくoutsiderたちは明日を生きる希望を得ていた。
この風潮なら、GADOROより53のほうが内部からの支持は強いということになり、MCバトルでも53の圧勝ということになるだろう。GADOROは大衆の中に帰れるが、53はそうではない。身の回りの仲間を守り、決して流行に媚びない53だけが、本物のB-BOYにふさわしいということになる。
しかし、だ。
僕が生きている21世紀の日本社会は、もはやハミ出し者が後ろ指をさされる時代なんかじゃない。一人ひとりが個性を求められるようになった、オンリーワンの時代になったわけだ。
原因は色々考えられる。個性を重んじる風潮が教育界で強まったこと、グローバル化の波が激しくなって社会人がコア・コンピタンスを求められるようになったことなんかがそうだろう。
インターネット、ことにSNSの爆発的普及はやはり大きい。一人ひとりの「リアル」に触れられるようになったことで、世界中に意見を発信できることはそう難しくなくなったし、それまで皆で一括りにしていた「大衆」も実は十人十色の人の集まりであって、決して「大衆」は無機質な集合体なんかじゃないのだと、みんなわかってきた。
まだまだ社会は発展途上だが、それでも少数派にとってずいぶん生きやすい世の中になったように思う。もちろんB-BOYだって恩恵を受けているはずなのだ。
じゃあ、社会から必要とされない恐怖と戦っている「弱者」とは、いま誰なのか。
それはずばり「個性を主張できずにいる人」ではないだろうか。
自分にしかできないことを自分は見つけられない中で、自分の代えを周りの人が見つけてしまうことに怯えている。
いま、日本人は「個性」に脅迫されているというのは、主語が大きすぎるだろうか。そう感じさせる創作物やら社会現象の例やらは腐るほどあるから、ここではいちいち出さない。
確かにGADORO自身は、「社会不適合者」から「スター」へとのし上がった存在なのだけど、「社会から必要とされる自分」を否定しない。
埋没の波から、前に、前に逃げ続けて、等身大の感情を表現して、世界で一人だけの存在として認知されたい、という、21世紀の「弱者」たちにとって、GADOROは希望とするに足る存在なんだと思う。
一方53は、「MASS 対 CORE」と最初のバースで吐いた(合ってる?)ことに象徴されるように、電波を受信できる人たちだけを助けようとしていたと僕の目には映った。
透明な存在として苦しむ現代人たちから共感を集めるのは、GADOROだ(僕は53も好きだけどね)。
そんな構図がKOKでは見え隠れした。
フリースタイルダンジョンも最近何かあったようだけれど、これからHIPHOPは、社会不適合者が生き残る術としてだけじゃなくて、怯えている人たちに「個性の手」を差し伸べる術としても発展していくのではないかな、と思った。
え?なに?俺?ってなった。細々違うし、性別も違うようだし、そもそも俺が書いてないから俺じゃないんだけど。
増田の話とてもわかります。俺もそうだから。そういう感覚で結婚して、もうすぐ5年。今でも続いている。子どもが2人いる。
はてブとか言及とか見てると、俺が他人に話して言われたことのオンパレードだった。
「それが恋」
「奥さんかわいそう」
この増田とは違うかもしれないけど、この機会に自分の場合を説明してみる。自分でも整理したいと思っていたから。
恋愛がわからない、と増田も書いてるけど、より正確にいえば「感じられない」に近い。世間で言われる恋愛感情に付随する反応が自分に起こらない。映画はじめ創作物が振りまくロマンティックラブイデオロギー丸出しのものから、世代を越えて様々な人にきいた恋人、配偶者との馴れ初めに至るまで共通して見聞きする、ドキドキする、会いたい、声が聞きたい、思いを伝えたい、とかそういうのがない。というか生まれてこのかた感じた記憶がない。で、正直にいえば感じてみたいは思う。でもわからない。
なので、先ほどあげた反応群には以下のような回答になる。
「それが恋」
→知識として知ってるのと違うんだけど、本当にこれが愛なの?
→愛があっても必ずしも大丈夫ではない。
「奥さんかわいそう」
→向こうが良ければ良いのでは?(この辺のことを話した上で結婚している)
→お疲れ様です!
ということになる。基本的に自分から話すことはない(馴れ初めというのは本当に聞きたいと思ってるかどうかはともかく、聞かれるものである)。
結婚して一時期は、長く暮らすパートナーとして好ましいという感情は多分、恋なのかもしれない、恋愛というものの典型的な感情から外れているだけで。と思った。でも、やっぱりいまは違うと思っている。
子どもができた。変な意味ではなく、ドキドキする、会いたい、声が聞きたい、思いを伝えたい、そういう感覚が子どもには芽生えた。たぶんこれ愛(情)なんだと思う。産まれてから、ずっと続いている。
増田の話を読んで、気がついたことがある。増田がそうかは知らないけど、俺は人一倍「自分の時間」を愛しているのではないかということ。結婚しなくても楽しく暮らしていける自信があるし、1人で過ごす時間がとても大事。1人の時間が欲しいといつも思っている。
妻と子どもの差はそこだ。
妻は大人だ。2人のうちはそれぞれが一個体の大人として話して生活を調整すればよかった。家事だって抜きたいときは好きに抜ける。でも子どもは違う。自由奔放、目は離せないし、保育園の送り迎え、料理、洗濯、寝かしつけ、ときには病気になって仕事を休んだり、遅刻したり。子どもが生まれて、たくさんのものを失ってしまった。(ちなみにいえば子どもも欲しいと思ったことはまったくなかった。どちらかといえば欲しくなかった。妻が欲しいと言わなかったらつくらなかったと思う。)
子どもは自分の人生を、時間を削り取っている。しかし、共有してもいる。子供の時間は、俺の愛する俺の時間でもある。自分の半身に否応なくなってしまった。たぶん、そこなんだと思う。世間一般の愛とは、やっぱり何か違うけど、俺にとってはそこが大きい気がする。考えたくもないけど、自分より先に子どもが死ぬことがあれば、「自分の費やした時間」=人生がごそっと持ってかれることになる。それが辛い(なんか冷たく読めそうだけど、たぶんに感情的な感覚です。上手くかけない)。
じゃあ妻はどうなのかといえば、やっぱりパートナーとして一緒にやってけたらいいなと思えている。でも子どもに対する感情とは別物だ。ともに過ごす相手として、誰よりも望ましいと思える。でもたぶんこの気持ちは男相手でも持ちうるものであると思う(俺はここまできていうのもなんだけどヘテロである)。もちろん彼女が死んでも悲しい。でも、たぶん子どもに対するものとは種類が違う。
推敲なしでスマホで書いたからめちゃくちゃだし、なんかまとまらなかったけど、増田はたぶん自分の不思議な感情をどこかに吐き出したかったんじゃないかと思っている。俺がいま思わず駄文を書いてしまったように。
増田さん、あなたのような人、世の中にはいますよ。安心してください。とりあえず、うちの家族は円満にやれてます(妻は我慢してるかもしれないけれど)。あなたもきっと大丈夫。お幸せに。
また別の商業物書きです。
この増田の話にうなずきながらも、実情を顧みるに、ぼやかずにはいられなくなったので書きます。
『アニメやゲームと言った企業の営利創作のなかで「自由にかけない」「ストーリーは終わった」と嘆く人間よりも、「オレはこういうのが好き」「金とは無関係に書く」と活動できている彼らのほうが、よほど物語る事に対して建設的だと思いますよ。』
元増田は制約の多い商業作品の対比として、web小説について作者が自由に書けると述べられていましたが、実態はそのようにはなっていません。
私も元増田のおっしゃるように、アマチュアは自由に好きなものを書いてほしいと思っているクチです。
しかし、小説家になろうに代表されるweb小説サイトを00年代後半から眺めてきて今思うのは、みんなお金にならない物語は書きたくないんだな、ということです。
“みんな”と言ってしまうと主語が大きすぎるかもしれませんが、そうじゃない人たちはすっかり埋もれてしまって、なかなかお目にかかれなくなってしまいました。
魔法課高校の劣等生がまだランキングにあったころの小説家になろうは、皆が自分の好きや面白いを信じて自由に書いていたと思います。
だけど、震災から数年が過ぎたぐらいから雰囲気が変わりはじめ、今ではほとんどの人が流行りや読者のリアクションを強く意識し、書籍化というプロデビューを先に見据えながら作品を書くような場へと変わり果ててしまいました。
「ラノベ新人賞に応募するよりも、なろうに投稿するほうがデビューの近道」というようなことを耳にしたのは、いったい何年前でしょうか。
特に2chのなろう系スレなどは流行りとPVの話ばかりになってしまい、覗く気力はすっかり失せてしまいました。
そういう風潮を気にせず自由な作品を書いている人もいるでしょうが(実は私がそうです。アマチュア時代のPNでひっそり書いてます)、プロを夢見る人たちが溢れかえっている場で、自由気ままに物語を綴るのは異端者扱いを受け入れねばなりません。
特に私が危惧しているのは新規のユーザーへの影響で、創作について右も左もまだよくわからない若者に対して、創作とは流行り意識せねばならぬものだというような要らぬ先入観を与えねばいいのだが、と気をもむ次第です。
ただ、こう言ってる私自身なんだかんだでプロになってしまったように、あわよくば自分の作品をお金に換えたいと考える人の気持ちも本心ではよくわかります。
少し前にこんな増田がありましたが、
この手の表現規制だって、商業化を諦めさえすればいくらでも回避は可能なんじゃないでしょうか。
でもそれはやっぱり無理でしょう。
クソ男死ね。
劣等感が強くて、その劣等感を弱者を見下すことで解消しようとする人間、死ね。主に男にそういう人間が多い。
劣等感を、女・在日朝鮮人・生活保護受給者といった、社会的弱者を攻撃・蔑視することで解消しようとする、クズ。
そういう男が多い、死ね。
若い世代だからってフェミニストとは限らない。むしろ、若い世代に非正規の男が増えて、稼げないことで劣等感を強くしたクズ男が増えて
そういう男が、女や在日朝鮮人や生活保護受給者を攻撃してる。クソが。稼がなきゃ、って価値観にとらわれてるところも愚かだし、
その稼げないことによる劣等感を弱者を攻撃することでしか解消できないところも愚か。クソ男、死ね。
若い男で正規には確かにフェミニストが多いかもしれない(劣等感が強くないから)
でも、若い男でも非正規で劣等感強い人間はダメだ。クソ男、ミソジニー男。
死んで欲しい。いつも偉そうで、女を見下して、嬉々として「嫁」とかって蔑称を使ってる、クソ男。目の前に女の人がいても、そういう蔑称を使うところがクズ。
エリート意識が高く、プライドが高そうだから、非正規の自分を受け入れられてなくて、その劣等感から、弱者を見下すんだろうけど。
日本には、劣等感が強い男が多い。全員が全員、表立ってミソジニーな言動をしてくるわけではないけど、端々にそういった思想を感じる男が多い。
表立って、堂々と、ミソジニーな言動をしてくる、クソ男もいるけど。
劣等感が強い男の特徴
・自分では女好きだと思ってる(実際は女嫌い、ミソジニーによって女を見下すために、色んな女に手を出してる。遊び人ほど女嫌い、ってやつ。芸能人にも多い。こういうやつは下に見える女しか選ばない
・キャバクラに行ったり、アニメや声優に入れ込んだり、女を消費したがる(キャバクラに行くような男とオタク男は違う人種と思われがちだが、実は同じ。女を対等に見てない、消費したがる点で同じ
・家庭環境由来の劣等感やミソジニーだったりもする(母や祖母に虐待(精神的なものも含む)をされてたとか
・自己顕示欲が強い、良く喋る(劣等感から承認欲求が強くて、よく喋るのかも。表立ってミソジニーな言動をするタイプはこれに当てはまるが、表立っては言わないタイプは当てはまらないかも
まだ、ミソジニー男が多数派ではない職場だからマシ、なのか…と、悪い方に慣らされてはいけない。それでも3分の1はいる、最低でも。
ミソジニー男はミソジニー男同士で仲良くしてる、嫌いな人間同士が仲良く喋っていて、イライラする。喋らずに仕事しろよ、と思うけど、劣等感から自己顕示欲が強い人間だから、雑談しないのは無理なんだろうな。
大多数の女が、キャバクラに行くような人間、堂々と女を見下したがる人間を嫌うのは当然だけど、オタク男も実は同じようなミソジニー男だっていうのは、認知されてるのかな?
認知されてるからこそ、オタク男は嫌われてるのかな。キャバクラに行くようなミソジニー男と違って、金もない、社交性もない、そのくせ、劣等感が強くてプライドが高いから、その劣等感を解消するために
そういった、下に見れる存在しか相手にできない男が増えて、女児への性犯罪も増えたのでは?
もとから、日本には劣等感が強い男が多かったけど、そういうやつらは昔はキャバクラで堂々と女を見下すことで劣等感を解消してた、クズだけど。(キャバクラに行く理由、で、「堂々と女を見下せるから」と答える男が多いと聞いたとき、男ってクズだなと再確認した
だけど、不況で貧しい男が増えて、キャバクラに行く金はない、金をかけずに堂々と女を消費する方法として、二次元コンテンツに需要ができ、そこが伸びた。アニメなんて、劣等感が強いクソ男がクソ男のために作ってるような作品がほとんどだから(そうじゃないのもたまにあるけど)ほとんど見ない。アニメは嫌いではなくても、アニメを好む、オタク男が嫌い。劣等感の強い、クズ男。
そうやって、男の劣等感を解消する方法としてキャバクラとかの代わりに二次元コンテンツに需要ができて、需要があるからこそ、ロリ系の二次元コンテンツも蔓延して(女かつ子供という、劣等感の強いクソ男が好む対象)それによって現実でも、子供に性犯罪をする男が増えた、と解釈してる。
気持ち悪い。クソ男が。二次元だけならまだしも、現実にも女を傷つけるとか、終わってる。そういう風に、二次元だけなら良いとかって言う男は(二次元なら児童ポルノを肯定するような人間)実際の犯罪に繋がってる状況を見て、どう思うのかな?
児童ポルノやそれにまつわる議論、かつての援助交際ブーム、どこを見ても、クソ男が弱い立場(女かつ子供)の存在で劣等感を解消しようとしてる、という構図になる。
そんな風に劣等感の強い男を量産してきたのが、この国の終わってるところ。
漫画は読むけど、男作者の作品は、男に都合が良い、男の劣等感を解消してくれる、都合の良い存在が出てくるから、苛つく。
・子供だったり背が低かったり、自分より身体的に弱い、から自分を傷つけない
・にも関わらず精神的には自分より大人で母の役割を果たしてくれる(自分を全肯定したり導いてくれたり
自分より下に見れて、怖がらなくて良い、子供か身体的に弱い存在、でも、精神的には導いてくれる…って、そんな存在、都合が良すぎ。夢みてんじゃねぇよ、クソ男が。
この前、はてブで話題になってたアフタヌーンの漫画も、こういう存在が出てきてて、イライラした。
教育のせい? ずっと競争させられてきて、褒められることもなく、職場でもパワハラやそれに近い待遇が当たり前の、劣悪な労働環境で働いてたら、劣等感が強くなるの??
女で劣等感が強い人間は、そんな男に選ばれることで劣等感を解消しようと、クソ男に迎合して、必死にメイクしたり露出したり。そういう人間も少なくないから、イライラする。
労働環境や家庭環境のせいで劣等感が強くなる(男女ともに)→男は弱者(主に女)を見下すことと人の上に立つことで劣等感を解消しようとする→劣等感の強い女はそんな見下してくる男に迎合して
メイクだったり言動だったりで男ウケを考える。ミソジニーを内面化する
そういう国、なのかな。
劣等感が強い、クソ男、ミソジニー男と、それに迎合する、ミソジニーを内面化した女とが大多数の、病んだ国。韓国よりマシだろうけど…。日本も韓国も、滅びればいいのに。
日本の中でも特に劣等感強い地域があって、そこは滅びればいいと思う、そうじゃない地域の人間はまだマシでも、そういう地域の人間と関わることもあって、そのたびにストレスが溜まる。
クソ男、ミソジニー男も嫌いだし、それに迎合してる、ミソジニーを内面化してる女も嫌い。
数少ない、劣等感の強くない、健全な男(ミソジニーではない男)とフェミニストでミソジニー男を嫌ってるような女、ぐらいしか、心を許せる人間がいない。
敵ばかり、クソな国。滅びればいい。
ミソジニー男、死ね。劣等感が強い男、死ね。そんな男に迎合する女も、死ね。
日常生活も、ストレスが溜まる。ミソジニー男と迎合する女を目にするから。
創作物との関わりも、フェミニスト女性が作ったような作品じゃないと、楽しめない。いくら評価されてる作品でも、男作者だとミソジニーだったり男に都合の良い女が出てきたりして、萎えるから。
最近、女嫌いの若い男が増えてきてる(ように感じる、ネットで)のは、上に書いたように、非正規に男が増えて、稼げない劣等感を女を見下すことで解消しようとする男が増えたことと、それによって
「男で得をしてないのにかつての得をしていた男のように女から恨まれてる」
日本の女は、大なり小なり、男への恨みを抱えてる。下に見られたり、抑圧させられたり、自分より能力がないのに仕事で評価されてるのを見たり、性暴力の被害にあったり、そういうの無しで生きていけないから。
だから、女から男への恨みは昔からずっとあるけど、それが今でも存在するにもかかわらず、男としての得が減った(男なのに稼げない・労働市場で有利ではない)存在が増えたから、昔より得が減ったのに
相変わらず恨まれてるから、反発するんだろうけど、昔より減ったとしても男の方が得をしてるんだから、恨まれるのは仕方ない、と思うけど。
そうやって、男と女で憎み合って、くだらないと思うけど、私はクソ男が嫌いだし、ミソジニー男が嫌いだし、女を憎み返してくる男が嫌いだから、憎み合うのは避けられないんだと思う。
クソ男、死ね。少なくとも、私の周りのクソ男が全員、死んでくれたらいいのに。
ストーリーが求められてない?これだけ映画やらアニメが溢れてるのに?
今も語り継がれる古典的名作とここ最近の有象無象の凡作以下を比べるからそうなる。
大半が超合金売りたいが為のストーリーもヘッタクレも無いクズだよ。
だからこそ1stガンダムとかがキラ星のごとく輝いて見えるわけで。
てか、創作の専業でおまんまが食えてたここ最近の状態が異常だっただけ。
近現代以前の作家なんて生涯左団扇確定で暇を持て余した貴族階級か、
死ぬ程働きながら血反吐を吐いて執念で書き続けた下層民のどちらかだ。そこに戻ったんだ。
物流と情報技術の急激な発達で一時的に中流が創作で飯が食える状態になってたけど、
そもそもストーリーを紡ぐことは個人で可能なことであり、予算や企業側の都合などなんの関係もなく実行可能です。ゲームメディアやアニメディアでのシナリオライターは企画や会議に縛られるでしょうが、それは物語を作ることそのものとは関係ない、ただの商業的要請であって、それが嫌なら単著を出せば良いのです。
単著であっても編集の要請で好きなことが書けないという意見もありますが、それは、ただ単に編集の要請と自分の書きたいものを両立させるだけでの構築技術が不足しているということか、編集の要請に隷属しないと出版物が出せないという売上力の問題でしょう。
増田は「小説家になろう」から始まった作品や作家陣を蔑視していますが、それは随分大きな見当違いではないでしょうか? 商業的制約や生活費の要請などを無視して、ただひたすらに自分の欲求だけで書き始めて無料でもいいから書き続けている時点で、彼らこそ物語構築者として純粋なのではありませんか? たしかに彼らの作品は技術的な拙さや偏った傾向があるかもしれません。けれど、彼らは「編集に許可されないので好きなものが書けない」などという泣き言は言わないじゃないですか。
アニメやゲームと言った企業の営利創作のなかで「自由にかけない」「ストーリーは終わった」と嘆く人間よりも、「オレはこういうのが好き」「金とは無関係に書く」と活動できている彼らのほうが、よほど物語る事に対して建設的だと思いますよ。
たしかに現在、特に商業的な創作物は過剰消費の傾向があって、それはキャラ消費やシチュエーション消費などの二次創作的な需要にも思えます。しかし、二次創作的な需要の背景には、常にオリジナルな感動があるはずです。読者や視聴者が、記号的な美少女で喜んでいる現在があるとすれば、それは彼らが何処かでその記号を学習したから、感動を学習する原点があったからです。
物語消費が多様化して、消費量が増えて、今までは参入しなかったような(同人的とも言える)ハイアマチュアやセミプロが業界に参入して、市場は混沌としています。そういう現況に、トラッドな創作物を愛する人々が落胆し嫌悪感を覚えるのもわかります。しかしそれはやはり、懐古なのだと思いますよ。
記号的なキャラクターや記号的なシチュエーションに喜ぶ、増田から見て志が低いとされる読者視聴者であっても、彼らは彼らなりの人生や物語体験を経て感情移入出来る何かを学習してきたのです。それが「現代の読者」なのですから、その彼らに敬意と感情移入を持って自分の物語を書くのが、ストーリーテラーとして重要な事だと自分は考えます。
嬉しくて嬉しくて、一通り読んでからツイッターで感想を送った。
何度か推敲をし、長文になりすぎないように。
反応はなく、いいねも付かなかった。
数日後に他の作家さんとやり取りしているのを見て、スルーされたんだなと自覚した。
相互フォローではあったが単純に気付かなかった可能性はいくらでもあるし、作家さんには仲良くする相手を選ぶ権利は勿論あるし、『感想の感想を求める』なんていうことも本末転倒だ。
正論ではそうだと思う。そう頭では理解していても、そこそこ勇気を出して感想を送った私の心は結構傷ついてしまった。
感想を送って喜んでもらえる、というのをかなり期待していた。さもしいことに。
恐らく今後、私はあらゆる感想を知らない作家さんに送るのをやめてしまうだろう。
こういった感情を抱くのは私だけではないと思う。多分。
感想がほしい、感想がなくてモチベが続かない、という作家さんのツイートをRTでよく見るので『感想を受け取る側と送る側の心理』というようなものを考えてみようと思いこのブログを立ち上げた。
※便宜上プロアマ問わず創作する側を『作家さん』で統一しています。
まず、作家さん側と消費者側とで感想に対する考えに違いがあるように思う。
「簡単に作家さんに感想が送れるテンプレート」のような画像をたまに見かけるが、あれがその大きな例だと思う。
消費者は一般的に画像に自分で文字入れするなんて発想は少ない。
そして作家さんは苦労して創作したものに感想が貰える喜びを知っているので、知り合いの作家さんに気軽にバンバン感想を送る。創作することに比べれば感想の数十文字を打つことなんか容易い。
そして、やはり創作する人間からの感想、というものは嬉しいものだと思う。すべての人からもらう感想が同価値だと思える作家さんは少ないのではなかろうか。
それに対して消費するのみの人間からの感想、それも全く知らない他人となると、返事に困るものが増える。
真摯な感想も勿論あると思うが、的の外れた指摘、唐突な自分語り、様々なものが混じる。
それらをスルーするのは作家の当然の権利であり自由だ。いちいち構うものではない。
ただ、消費者側からすると、そんな感想の一つ自体が自身の創作物なのだ。
それを無視されると傷つく。なにか気に食わないことを言ってしまったのではないかと悩む。
求められていないかもしれないものを送りつけるというのには相当なパワーがいる。送って良かった、と思えるなにかが欲しいと思うのは間違っているのだろうか。
ツイッターは良くも悪くも作家と消費者の距離が近いように錯覚してしまうツールだ。
漫画家にファンレターを送って必ず返事がくると思っていた人はあまりいないだろう。送れば送ったきりで当然、でもその後きっと読んでもらえた、喜んでもらえたという想像をして満足することが出来た。
ツイッターは感想をリアルタイムで送れて送ったその後が視認出来てしまう。喜んでもらえたかどうかを判断しようとしてしまう。
返事をしない作家が悪いのではない。
ここでプロフェッショナル中のプロフェッショナルの例を出すのもどうかと思うのだが、感想を送る側のモチベを上手く引き出しているな、と思う声優さんがいる。
ツイッターで毎回「●●のイベントで頂いたお手紙は全て読ませていただきました」と報告している方だ。
容易なことではない。が、送った側の嬉しさは大きい。また送ろう、という気持ちにさせてもらえる。
感想がほしい、感想が来なくてモチベが下がってしまい創るのを辞めた。
辞めてから「あなたの作品が好きだったのに」と言ってもらえた、でももう遅い。何故それを現役中に言ってくれなかったのか。
こういうものがよくRTされてくる。さも消費者側が感想を送らなかった怠慢が原因だと。でもこれは完全に作家側の言い分だ。
感想を送って良かったと思える何か、感想を送りやすい環境、そういうものが必要なのではないか。
匿名で短文が簡単に送れ、お礼イラストが見れたような、ああいうものが今の時代また必要になってきているのではないかと思う。
(流れ読んでない横増田と思ったら、本当にやばいやつなのかな?)
キモオタやニートと言ったのは煽りなので違うなら気にしないでくれ。