はてなキーワード: 代替とは
最近の環境活動家のトレンドは「自然環境や生物多様性を損なうとお前が食っている〇〇が食えなくなるぞ」(今日はアサリ)って脅迫なんだけど、数十年もすれば食生活なんていくらでも変わるんだから別にどうでもよくね?
日本近海でアサリが絶滅して、国産アサリが高級品になったら、アサリを安く食べたい人は輸入物か代替物で済ませるし、金持ちの本物志向(笑)だけが高い金はらって国産アサリ食べるよ。
それからの一年間、俺はそれを溜飲に入れたままで手をつけず、でも腸は煮えたぎっていた。アンドロイドが自分の上司になったのは十八ヵ月ほど前だから、他が同じことをしても安全なのはほとんど間違いないはずだけど、俺が自分の上司のことをSNSで罵倒していたのが重役にバレたらどうなるかは、想像する気にもなれなかった。
俺は翌週の午後まで待った。その時間、重役は会議に没頭する。俺は自分の部屋のドアを閉めて、カーテンを引いた。ドアには鍵がなかったから、アカウントに偽装してアイコンを隅まで塗り潰したものの、モニターをじっと見つめたままでいるうちに画面が暗くなってしまった。VRの中で、元上司のことを考えた。元上司は俺も持っているのと同じ業務が原因で職を失ったが、目の見えなかった期間が長すぎたのでESC(Employment Support Center)の力では光を取り戻すには至らなかった。元上司が見せた将来への信頼が揺らぎはじめる。元上司の業務内容と俺の業務とは同じ系だが、取り掛かり方は個々人それぞれだ。俺は職を失うハメになりたくない――それに、俺がもたらそうとしている変化は、社長のところへ行ってアンドロイドの設定をもとに戻せば取り消せるものだとはいっても、それは重役に気づかれずにできることではなかった。
ゴーグルを揺すってふたたび明るくし、アプリの起動画面を表示した。この幻想的なアイコンのような鮮明で新緑の葉が木に宿っているのを、俺は見たことがない。けれど旧世代的な家庭環境を持つ友人たちが、寓話とも呼べる”新緑の葉”を見つけることは自分たちにも全然できないと確証してくれたことがあり、その言葉を疑う理由はなかった。俺の職場環境は、人間の三種類の性格類型論の典型的な反応と同じように分類することで、人の力量を最大限発揮できるよう最善を尽くす。だが、単なる分類しかしていないわけではなく、ほかの選択をすることもできる――その選択した場合、俺は職場の中に新しいハードウェアを入れることなく、社会心理学的なこれまで以上の就労を得ることが出来るのだ。
その仕組みはこうだ。俺の人工学習データじゅうに散らばっている量子シナプスには数百万個のスペアが含まれていて、機能中のセクターのどれかが故障したときに代わりができるように待機している。そのスペアは、前もって特定の言語や思想に割り当てられてはいない。なぜなら、たとえば代替の需要が右翼的や左翼的に偏った場合に、左翼派に割り当てられたスペアが、うまい棒のチーズみたいな人気味によって場所ふさぎに終わることがないようにするためだ。そして選択後に俺の思想を真似る手段は、形式分子や言語フィルターではなく、量子井戸全体に一連の電圧を設定するというものなので、スペアが表現できるのは民主主義・共産主義のような二元論に限定されない。社長が送ってきたアンドロイドは、各員に指示して俺たちの持つスペアのすべてを覚醒させ、さらに、覚醒したスペアをもともとの思想の領域のあいだとその両側、計四つの新しい帯域に同調させることができた。
俺はマウスホイールを指先でなでながら、結論を出そうとしていた。アンドロイドの上司が俺を他の社員と同じにしている。アンドロイド上司のおかげで俺は人々の中に紛れ込んでいる。それ以上のものを望む理由は? 統計学的な運命まかせにされていても、俺はあと二十年、完全に職を失うことはなかっただろが、友人は実行できるもっとも早い時期に代替手段を選択し、俺はこの環境に適応する機会を最大限にあたえられた。
だが、それは十八ヵ月前のことだ。俺の頭にまだ新しい環境を意義あるものに出来る柔軟性がある今、この試みがなかったら、自分がなにを逃したかは死ぬまで分からないままだろう。
決断を引きのばさせていたマウスから指をいったん離して、そのあとすぐ画面のボタンをクリックする。
会社はアンドロイドの優位性と実務証明を必要としたが、どちらもアンドロイドの取扱説明書にはっきりと記載されていた。メーカーの保証書は既に期限切れだが、なにも無効にはなっていなくて、HPの長たらしい前書きが謳うところによれば、このアンドロイドは定期検査をする技術従事者からその作動を完全に隠すことができる。休止状態に戻しても修正不能な誤りが生じないかぎりは、企業がアンドロイドの思想ブールに干渉したことは一生発覚しない可能性もあった。
次の局面では優位な反応を示していた。標準の思考(はい・いいえ)の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。デフォルトで選択されているのは、青と赤のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに折衷案の端にひとつ、否定案の端にひとつの曲線を付け加える方法だ。 ”逆方式”のデフォルトもひと組用意されていて、それは新しい思考のさまざまな組みあわせからどのようなかたちで情報を引きだすかを指定するものだった――あらゆる人間の頭の中で赤と青の反応の違いが計算され、脳へ送られるのとまったく同じようだ。
そうした構造をなにかしら編集する――そのプロセスに企業独自のひねりを加える――ことを考えると、緊張で手が汗ばんだ。理想的な思想範囲がどんなものか、俺自身の個人的な考えを作り上げようとしても、どこから手をつければいいのかさえわからない。それは同時に、俺がデフォルト設定を許可するとしても、それが悪意に基づいた選択ではないことの証明だともいえるだろう。けれど、表示されているいくつかの曲線の整然とした見た目には、心落ち着かせるものがあった。密着して並ぶ曲線の小さな山の各々は、隣の山から約八十ナノメートル離れた波長で頂点に達していて、行政上の認可領域を均等かつ効率的にカバーしている。そのどこかにもおかしな感じはなかったし、生物学的深層レベルの複雑な正当化なしには納得できないところもなかった。なにも変更は必要ない。
俺は『続行する』を押して、次のページに進んだ。
警告
あなたのアンドロイドの思考セクターを起動・再同調させると、アンドロイドの脳の思考経路に永久的な変化を生じさせる可能性があります。このアプリは思考をオリジナルの状態に戻すことができますが、あなたのアンドロイドの挙動に関しては、われわれはそのような保証をいっさいいたしません。
この警告に俺はまったく動じなかった。アンドロイドが受けとったり受けとらなかったりする情報によって改変されるというのは、俺にとって目新しい話ではなく、取扱説明書にでかでかと書いてあることだった。アンドロイドの登場は日本を救うのにはちょうど間に合ったが、俺を救ってくれたほどの効果があるものではまだなかった。さまざまな規模の企業や自治体たちもアンドロイドを導入している。考えれば考えるほど確かだと思えてくるのは、俺がこのチャンスをふいにしている間に、同僚や俺の友人たちが俺のはるか先を全力疾走して谷の反対側に姿を消してしまうのがいちばん恐ろしい、ということだった。
警告文はプログレスバーに取って変わった。アプリとアンドロイドの共同作業の進行状況を、バーの上の文章が警告するのを俺はまじまじと見ていた。スペア・センターの工程作成、センサーの内部テスト、再同調、再テスト。
プログレスバーが八十五パーセントのところで一時停止し、アプリが俺に、AIは制御されているか、適切な業務は可能か、と尋ねた。思考はクリアで、業務環境は整備済みだった。俺は社内からアカウントを追い出し、スマホをひらいて自分のアカウントを部屋に導き入れてから、社長にもらったアクセスキーをテーブルに置き、それからアンドロイドに投じる思弁ベースが連続した帯になるまで前後に調整した。
アプリに指示されるまま、俺はゆっくりと帯を動かして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ青を動かしていった。スピーカーからナノメートルの数字がカウントされるのは、アプリが量子ブールにおこなった微調整をあらゆる波で検証しているためだ。それはとても劇的で俺に高揚感をもたらした。
アプリが終了を告げる。
「完了」
スマホを見ると、プログレスバーは百パーセントに達していた。画像がズームアップして、環状の帯がふたたび表示された。それが広がり点になるとアプリは終了し、俺をスマホのホーム画面をじっと眺めた。
扉を全面に閉じて、部屋を空白で満たす。なにひとつ前と違って見えるものはなかった。周りを知覚するのに何かの変化が生じるまでには数日から数週間かかることもある、と注意を読んでいた。しかし、苛立ちは安堵に相殺された。俺が今ほかに何をしたにしろ、少なくともアンドロイドに害を与えても職は失ってはいなかった。
次の数日間、俺は職場を実験場にして、同僚の意見に対して独自の判断をしたようなアンドロイドの言論に悩まないことを学習した――いうまでもなく、人権無視や、パワハラや、答えようのない曖昧な質問につながるような、それよりはっきりした反応を見せないことも。明らかに動揺する新入社員や、競合他社びいきの上司を見て、ニヤニヤ笑いをこらえるのが無理そうになったときには、自分だってどこを取っても同じくらい馬鹿みたいに見えていることを思いだすようにした。そのためには鏡は必要なかった。ちらっとシャツの汗の染みに視線を下げれば、それはまるで洪水の水が引くときに残していった灰色の沈泥のように見えて、こみあげる恥ずかしさがきっちりと唇から笑みは拭い去った。
ショーペンハウアーは読書について以下のような主張をしています。
1. 読書は他人の思想を借りて考えることであり、自分で思考することの代替にはならない。あくまで自分の思考を助けるためのツールと捉えるべき。
2. 多読は必ずしも良いことではない。むしろ、厳選された良書を繰り返し熟読し、深く理解することが大切。
3. 読書は精神的な栄養摂取のようなもの。消化吸収できる分量を心がけるべき。食べ過ぎると消化不良になるように、読み過ぎても身につかない。
4. 古典を読むことを重視すべき。現代の書物より思想的に深みと普遍性がある。
5. 読書して得た知識を、自分の経験と照らし合わせて血肉化することが肝要。鵜呑みにせず、批判的に吟味する姿勢も必要。
6. 他人の意見に流されるのではなく、読書を通して自分の思想を形成していくことが目標。
要するに、ショーペンハウアーは読書を単なる知識の受容ではなく、自らの思索を深める能動的な営みと捉えており、精選した良書を熟読玩味することを勧めているのです。読書との付き合い方について示唆に富む主張と言えるでしょう。
その昔話は、「鼻水神」として知られています。物語によれば、鼻水神は非常に優れた神様であり、誰もが彼の受け答えの才能と魅力に感銘を受けていました。村のオーナーが代替わりした際、新しいオーナーは鼻水神を追放しました。その後、村は急速に衰退し、業績が低下して滅びてしまいました。人々は鼻水神の力と重要性を再認識し、後悔の念にかられましたが、時すでに遅く、村は再建することができませんでした。この物語は、時には他者を軽視し、その重要性を見落とすことの危険性を教える警句として語り継がれています。
Aさんがかつてやっていた仕事を
BさんがAIを使って奪い取る
ここで考えて欲しい点は、既にある仕事を代替するだけであるのだから
ではなぜここで不幸が増えることが想定され、AIに反対したり、危機感をあおる言説がまかり通るのか?
というアナクロな思想をBさん、ひいては社会の大多数の人間が持っており
仕事がなくなったAさんに(Aさんが他に何か価値を持つ仕事をしない限り)Bさんが生産した富を回そうとしないからである
つまり仕事を奪って富を生み出す存在がこのアナクロな思想を持っていることが問題なのであって
この思想を社会的に克服できればAIによる仕事の代替は全く恐るべきではなく、むしろ歓迎すべきことなのだ
では具体的にどのようにすれば社会が克服できるのか、というと、宗教やらなんやらしか思いつかないわけだが
AIに聞いてみるか
ワイ:
Claude 3 Opus:
AIの導入により一部の仕事が代替されることで、短期的には失業や格差の拡大といった問題が生じる可能性があります。しかし、ご指摘の通り、これを乗り越えるには社会全体の意識改革と適切な施策が必要だと思います。
「アナクロな思想」を克服し、AIによる恩恵を皆で享受するための施策アイデアをいくつか挙げます。
・ベーシックインカム(最低所得保障)の導入 働けなくなった人の最低限の生活を保障する。これにより、AIに仕事を奪われた人も尊厳を保ちつつ、再教育の機会を得られる。
・教育システムの抜本的改革 AIにはできないクリエイティビティ、問題解決力、人間性を育む教育を実施。失業のリスクが低く、AIと協働できる人材を育成する。
・AIの利活用による産業構造の変革 AIにより自動化される分野と、新たに人手を要する分野を明確化。効率化で生まれた富を、新産業の育成と雇用のシフトに活用する。
・労働時間の短縮と余暇の充実 AIの導入で生産性が向上した分、労働時間を短縮。自己啓発や社会貢献活動などに時間を使い、働かなくても人生を充実させられる社会を目指す。
・多様な価値観の尊重と包摂性の向上 ステータスを仕事だけで測るのではなく、社会貢献やボランティア等も尊重する意識を育む。多様性を受け入れ、誰もが居場所を見出せる社会を創る。
AIの本質的な目的は人間を豊かにすることです。そのためには、AIを脅威ではなく味方として活用し、社会のあり方をアップデートしていく発想が欠かせません。一朝一夕では難しいかもしれませんが、一つ一つ着実に、みんなで議論を重ねながら理解を深めていくことが肝要だと考えます。
”教育”というのはつまりはなんらかの「価値のある知識技能を得る」ということであるからClaude 3もアナクロな思想に染まってしまっているといえるし
あとは「ホームランを全選手が打てば勝てます」という、そのホームランを全選手が打てるようにする方法を聞いてるんだが~~~という話である
働かずに暮らせる世界は遠そうだ
北海道の根室線(滝川〜富良野〜新得〜根室駅)の一部区間(富良野〜新得駅)が廃止になるってニュースを見て。
そしたら根室線の真ん中区間が無くなるってことだから滝川から根室まではどうやって行くんスカって話になるじゃないですか。いつもは深く考えずそのままyoutubeでゲーム実況とか見に行くけど、今日は珍しくメシ喰う箸止めてまでググったのに。全然分かんねえんだこれ。キレそう。なんか多分珍しいニュースじゃないから知ってる人に聞けば一発なんだろうけど、全然検索で出てこない。廃止のニュースと廃止を悲しむ声しかない。その後どうなるんすか。マジ。一般的な廃止後の対応とか調べるために「廃止線」とかでググっても!日本のこれまでの廃止された路線一覧のWikipediaとか出てくる。馬鹿じゃねぇの全国過去まで遡って途中区間が廃止になったケース引くまで一線一線調べてけってか。
そういうんじゃないんすょ。鉄道好きもメディアもなんもかんも皆、勘どころというか知りてぇ所一切抑えずに昔の高校生クイズのいや知るわけねーだろみたいな問題の肥やしにするための知識ばっか集めて一番目に付く所に貼り出してるわけでバカみたいにキレそうになる。
調べた限り 現在 東鹿越〜新得はバスが通ってるみたいなんすけど!!!!ねぇ富良野から東鹿越まではどうするんですかねぇ!!!キレそう。なんか俺が欲しい情報にすぐアクセスできないとまじでキレそうになる。
それはそれとして、廃止区間最終便が駅から見送られる映像がNHKでながれてて。見送りのために通常よりおそらくかなりゆっくり発車してて、汽笛みたいな音も「ぺっぺー」って感じでかなり貧弱でなんかうるっときてしまった。
昨日今日のスプラ甲子園が思った以上に面白くてちょっと感情の起伏が馬鹿になってる。
ねぇ?路線の一部区間が廃止になったらその後どうなるんすか。廃止区間だけ止まらなくなるとか?
2023/04/01追記)いや誰もわかんねーのかよ!!!!!!!なんだそれ!!!!!!!!
2023/04/01追追記)はい、バスで代替ということで。あざす。そしたら同じ根室線って名前でも滝川~富良野間しか走行しない車両と、新得~根室間だけ走行する車両に分かれるんですかね?てかなにが「調べたらでてくるけど?」だ。「調べる」なら俺もしたんだけど???調べた奴に調べることを解決策に提案すんな。今は情報のお道具箱の手前に欲しい情報が置いてないですよねって話をしてるんだけど。書いとけバーーーーーーーーーーーーカ
地方でもおとなお洒落ゾーンは結構あると思う。ただヒヤカシにくいんですよね。お年寄り向けも今時は骨董市もアンティークの店もあるし、(今代替わりで骨董はいろいろレアものが出てくる時期でねらい目)オーガニックマーケットみたいなのもいろんなところでやってる。手芸手作り市みたいなのもよくあるよ。イベント検索して行ってみたらいいと思う。
まあ、でもこういうのは全分野であてはまるんだと思う。
自分がよく知らない分野のことは簡単に機械が代替するだろうと考えてしまうし、
自分がよく知っている分野のことは逆に機械への代替が不可能だと思いがち。
一番最初に言われ出したのは車の自動運転が主流になればトラックドライバーは職を失う。
とかだったかな。
でも実際は肉体労働が伴う職業は機械による代替が意外と難しいということがわかってきた。
レストラン内の運搬作業とか、ある特定の空間における作業であれば機械が代わりを出来る。
しかし、広い現実世界では人間の認知機能や判断能力、身体運用の柔軟性を代替するのは並大抵のことではないと研究者以外にも理解されるようになってきた。
そこに登場してきたのが生成AIだ。
間違ってない、確かに止まってる(苦笑
大体は王手企業が内部プールしてる(後はそれを役員報酬にしてる)。
止まってる結果、金の流動性は失われるから、流通しない金はインフレを抑える結果になるのは事実。
とはいえ、それが全てかと言われるとそうでもなくて、日本で流通する物品の原材料は殆どが海外産。
2022年のインフレは何かというと、ロシアが天然ガスを止める→ガス起因のエネルギー高騰(電気とか含む)→代替で原油高騰→原油製品や輸送網も高騰→世界的にインフレ。
2023年のインフレは通貨の価値が下がったことでのインフレでしたね。米国が利上げした結果、米国ドルの流通量が減る→ドルの市場総量が減る→ドル高→相対的に円安→輸入品目総値上がり→国内インフレ。
ちなみに日銀は安倍政権時代から、利下げ(金利を下げた)と並行して、日経株を金刷って買い込むことで、株価を上げつつ、刷った金を市場に投入してました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20240325/k10014401311000.html
で”オリーブは作付け出来る地理的条件が限られているのと、地中海沿岸以外ではより商品価値が高いブドウが優先されること、収穫までに年月がかかることから生産拡大が難しいらしい。”
ワイ宅は家族がオリーブオイルの風味が苦手でグレープシードオイルの方を使ってるけどお店なんかではやっぱり代替にはならないか…
「ハート形という概念」がない時代のことを調べるのに、「ハート型」というところへのこだわりが捨て切れてない感じがする。
現代人がハート型に抱く思い入れそのまま「あの形には意味がある」と考えながら、葉っぱの形を調べてるように見えるが、それで大丈夫なのか。
「ハート記号は心臓の比喩表現」という概念がない世界なら、「あの形状」には、代替するべきなんの意味合いもないのだから、人々が「あの形状」を意識することなどないのではないか。
Windows10 以降のWindowsに標準搭載されるようになった「UDデジタル教科書体」というフォントがある。游ゴシックに並んで書体が美しいフォントで、そこらへんのチラシや張り紙などで濫用されているのをよく目にするだろう。
だがUDデジタル教科書体はバリアントが6種類もあって、それぞれがどんなフォントなのかわかりにくい。Word でバリエーションを選ぼうとすると、一覧にはこんな風に並ぶ。
フォント名を単純に昇順で並べただけで、バリアント順になっていない。これでは何がなんだかわからないので整理してみよう。
書体名 | 和文 | 欧文 | ウエイト |
---|---|---|---|
UD デジタル 教科書体 N-R | 等幅 | 等幅 | 標準 |
UD デジタル 教科書体 N-B | 等幅 | 等幅 | 太字 |
UD デジタル 教科書体 NP-R | 等幅 | プロポーショナル | 標準 |
UD デジタル 教科書体 NP-B | 等幅 | プロポーショナル | 太字 |
UD デジタル 教科書体 NK-R | プロポーショナル | プロポーショナル | 標準 |
UD デジタル 教科書体 NK-B | プロポーショナル | プロポーショナル | 太字 |
各バリアントは
という順列組み合わせになっていることがわかる。
日本語の文面は等幅フォントが読みやすく、英文・英単語はプロポーショナルフォントが読みやすいからだ(メイリオや游ゴシックなどもこの組み合わせである)。その組み合わせの NP ひとつでオールマイティにいける。
なお、和文に強いてプロポーショナルフォントを使う場面はなく、せいぜい見出しやタイトルなどの短いセンテンスや、UI部品のメニューなどスペースが限られる用途などに限定して使うべきだろう。
また、英語の等幅フォントも同様で、桁が揃っていないと見にくい表の数値や、プログラムのコードくらいしか一般的には使い道がない。
つまり「N」や「NK」の出番はほとんどないのである。(誤字訂正しました。指摘サンクス)
繰り返します。UDデジタル教科書体は NP-R/B 一択です。
ちなみに、はてな匿名ダイアリーをWindows環境で閲覧すると、本文の表示には「Meiryo UI」が使われています。この書体はOSのUI用に作られた省スペースフォントで、文字幅を強く圧縮した独特の形状をしています。ファイル名やメニュー項目を表示するには省スペースで重宝ですが、ブログの本文などの長文を表示するような用途にはまったく適していません。ごちゃごちゃと詰まっていてとても読みにくいです。こんなもの、普通は読みものコンテンツの最優先フォントに使ったりはしません。
なぜこんなことになっているのか、スタイルシートを読み解いてみましょう。
font-family: system-ui, -apple-system, BlinkMacSystemFont, "Helvetica Neue", "Hiragino Sans", "Hiragino Kaku Gothic Pro", "ヒラギノ角ゴ Pro W3", "Noto Sans JP", sans-serif;
まず先頭に "system-ui" という総称フォントが書かれているのが噴飯ものです。
総称フォントとは「指定された固有フォントがひとつも見つからなかった時に最後の手段として代替できるような一般名」のことで、本来はフェイルセーフとして font-family 値の末尾に書き添えます。ブラウザは総称フォントに対しては必ず何らかのフォントを割り当てていますから、どう転んでも何かのフォントは見つかり、最低限の表示が保証されるわけです。
ところがそれを先頭に書いたりしたら一発でフォントが見つかって、それ以降のフォント指定は読み飛ばされてしまいます。system-ui の後ろのカンマ以降の情報は実質的にただのゴミです。書く意味がありません。
なぜこんなスカタンなフォント指定になっているか、だいたいの想像はつきます。
このフォント指定は、MacOS付属の「San Francisco」という粋なフォントを呼び出す裏技として一部で流行していた方法なのです。すごく使いたかったんでしょうね、San Francisco を……。
しかしMacOS以外のOSでも、system-ui にはそのOS固有のフォントが割り当てられています。Windows の場合は長文の表示にまったく適さない Meiryo UI だった、というわけです。
どっちみち San Francisco は記事内の半角英数記号くらいにしか使われませんが、Windows の和文表示をすべて台無しにしてでもそうしたい何か強い理由があったんでしょうか。私には合理的な理由は思い当たりませんが。
人口が少ないから労働者が不足するし、労働者が減れば経済は回らん。
多分税収減とかも、そもそも税を負担してくれる人間が減れば当然の流れだし、それでも税収を維持しようとすれば増税しかない。
で、増税すれば生活がいっぱいいっぱいだから結婚出産が出来ない。だから人口減が加速する。
じゃあどうすれば解決できるかっていうと、実質的に無理じゃない?
エロ漫画にありがちな「種付け法」とかできたとしても、現在の出産可能人口ってどんぐらいなの?
人口が1億と仮定して、半分が女性だから5000万、その内半分ぐらいは可能としても2500万か。
年間2500万人が出生したらすごいことになりそうだけど、誕生した子供たちが労働力として使えるようになるのってまぁ15歳とかだろ。
法律で中卒労働を義務付けたとしても最短15年は人口減少の流れが続くわけじゃん
(この段落は全部仮定だから「そんな法律あり得ない」とかいうバカなコメントはやめとけよ)
そうすると15年のギャップをどう埋めるかが問題になるわけだけど、これって移民しかないだろ?
あり得ないほどラディカルな仮定を積み上げてもかなり積んでるんだから現実はもっと積み状態だよな。
まぁ落としどころとしては移民を入れつつ人口回復を狙うしかないんだろうが…。
俺は個人的に移民とか別にいいんだけど、お前らめちゃくちゃ嫌がるだろ?
でももう代替案ないレベルまで来てるんじゃないかなって思うんだけど。
実際問題出島みたいな移民居留地とかにして外に出さないようにすればいいのかな?
お前らどう思うよ