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2023-08-04

中学生の頃にパンチラハンターという遊びをしていた

悪友5人で集まって近所のショッピングセンター野球場図書館などの施設に行き、ミニスカート若い女エスカレーターに向かったら数メートル空けて尾行し、下から覗いてパンチラをハントするのだ

リーダーのS君はボットン便所市営住宅に住む貧しい家庭の子だったが、俺たちハンターは彼を慕っていた

研究熱心で、どこの店のどのポジションからパンチラが拝めるか常に研究し、情報を共有してくれていたからだ

俺たちは小汚い彼の家に集まって旧式のパソコンにS君が田んぼで拾ってきたエロ本付録CD-ROMを突っ込んで解像度の低いエロ画像を見るのも好きだった(まだインターネットは普及していなかった)

そういう戦利品がなくても彼の家はパラダイスだった

彼の女子高生の姉の下着がそこら中に干してあって見放題だったからだ

メンバーのうち二人は別の中学の生徒だった

小学校は同じだったが学区の関係で離れてしまったという経緯で、気のおけない中だったのは間違いない

ただ、やはり普段付き合う人間が違えば価値観も少しずつズレてくる

その二人は次第に「やばくねえ?」みたいな事を言いだしてパンチラハントを渋りだした

関係が切れた訳ではないが、中2に上がる頃にはハンターとして参加することはほぼなくなっていた

S君は変わらず熱心だった

靴に鏡を貼り付けて能動的にパンツをハントしたり、当時出始めでまだ低性能だったデジカメを何処から調達してきて、カバンに仕込んで盗撮するまでエスカレートしていた

俺ともう一人残ったJ君はそれをサポートする立場としてS君を支えた

良くないことだという認識はあった

しかしやめられなかった、女子にも大人にも相手にされない田舎落ちこぼれ中学生にとって、それは唯一の熱中できる遊びだったのだ

その遊びは中3の夏まで続いて、唐突に終わった

S君が亡くなったのだ

S君は父親運転するバイクに二人乗りしていて事故を起こし、増水した川に突っ込んで死んだ

その後は俺もJ君もパンチラをハントする気分にはなれなかった

いや、そもそも俺とJ君はパンチラハンター以外で絡むことはほとんどなく、クラスも遠くてお互いの家も電話番号も知らなかった

そのまま関係自然消滅してもおかしくなかったが、夏休みも終りが近づいたある日、S君の姉に呼び出されて二人でS君の家を訪ねることになった

俺とJ君は自転車で合流したものエロ画像パンチラの話しかしたことがないかほとんど無言で市営住宅に向かった

父親とS君がいなくなった市営住宅はしんとしていた

俺たちが仏壇に線香をあげるのを、高校制服を着たS君の姉が後ろで仁王立ちで見ていて、終わると

「きょうはどうもね。あとうちら引っ越すことになったから、あんたらさあ……」と言って二階に上がっていった

話が途中で途切れたのでどうしたらいいもんかJ君と顔を見合わせていると、

「これ、要るでしょ」

といって段ボール箱をかかえて戻ってきた

そこにはS君のコレクション田んぼで拾ったエロ本盗撮写真データが収められたCD-ROM、それに使ったデジカメ手鏡、巨大なノートパソコンパンチラポジションが詳細に書かれたノートが詰め込まれていた

パンチラハンターなんでしょ。バカだね男って。あたしのパンツも何枚かあげよっか?」

と言って姉はケラケラと笑ったが、俺とJ君は感極まって号泣してしまった

5人で集まって馬鹿騒ぎしていた頃の記憶が嵐のように蘇って、情けないと思うのに涙が止まらない

もう最後には姉ももらい泣きして、三人で抱き合うみたいにして泣いた

遺品はJ君がほとんど引き取った

自転車にカゴが付いていたからだ

俺はデジカメだけ受け取って、その場でなんとなく三人の自撮り写真を撮った

しかしちょうどそれでバッテリーが切れたのか、液晶が切れて動かなくなった

充電用のケーブルは見つからなかったということで、無用の長物になってしまったが、一応持ち帰った

帰りの道中、「もう解散かな、パンチラハンター」とJ君に言ったら「いや」と低い声で否定した

J君はその数ヶ月で声変わりが急激に進んでいた

「ずっと残しとく。大人になってもずっと。増田も忘れんなよ」

その大人みたいな声が、俺の中に重々しく響いたのを覚えている

家にあるケーブルでなんとか充電できないか悪戦苦闘していた俺を見て「新しいの買ったほうが早い」と父親が新品のデジカメを買い与えてくれた

これがきっかけで俺は写真にハマり、数年後には東京の某芸術系大学写真学科に進んだ

一方J君は地元高専に入り、ソフトウェア開発の道に進んで関西大学編入

J君もS君の遺品のノートパソコン勉強したんだろうと勝手に俺は思ってる

彼とも中学を出てからはあまり関わりはなかったが、盆とか正月には地元で会って近況報告くらいはした

俺たちは氷河期世代ど真ん中で、その後の人生もうまくやれたとは思わない

Jは卒業すると地元の有名企業になんとかコネ就職

まもなく中学時代同級生の女と結婚したが、すぐに事業所縮小でリストラの憂き目にあい二年で離婚した

噂によるとその後また再婚したみたいだが、コロナ以降は一度も会っておらずどうなったかからない

俺は大学を出てからそこそこ有名な写真家に師事したが芽が出ず野に放たれた

しか写真は諦めきれず、不動産屋の広告に乗せる新築マンション写真を撮る安い仕事をもらって東京の安アパートで何とかギリギリ生きていた

仕事中、高級タワマンエントランスの長いエスカレーターをみると胸がざわついた

S君ならこのポジションをどう評価するだろう?って

父親が病を得たのをきっかけに俺は地元に戻った

地方カメラマン崩れに仕事はなく、高齢者に混じって非正規警備員をやっている

施設警備をしていると、エスカレーターの下で怪しい動きをする男の子たちを見かけることが有る

彼らもまたパンチラハンターなのだろう

「お前ら、バレバレだぞ」

いたたまれなくなって諭すと、「うっせージジイ!」と悪態をつきながら逃げていく

そう

俺はもうジジイになってしまった

J君の実家はもう取り壊されていて無くなっている

調べれは引越し先も調べがつくと思うが、あえてそうしようとは何故か思わない

今朝、夢にJ君とS君の姉が出てきた

女子高生のままのS君の姉が「あたしら結婚たから」と照れくさそうに言っていた

J君はバツが悪そうに視線彷徨わせていた

こちらは若くはなく、最後に会ったときの熊のような髭面メガネだった

証拠見せようか? ほら」

彼女はそう言ってあのデジカメを見せてきた

最近見てなかったけどこの人が持ってたのか、と夢の中の俺は思う

液晶画面には、俺が撮って一度も見ていない三人の自撮り写真が表示されていた

しかも、中央の俺が無邪気に自撮りしている後ろでJ君とSの姉が手を握って見つめ合っている

この頃から繋がってたのかよ、と夢の中の俺が思う

「そうだよ。確かめてみな」

目を覚ましてから、押入れの中身をひっくり返してあのデジカメを探した

昔は知識がなくてどうにもならなかったが、充電器などなくても記録媒体を取り出してマルチリーダーで読めばデータは吸い出せるだろう

しかし見つからなかったし、そのことで必要以上に感傷に襲われることもなかった

ただこれだけは言っておかねばならない

パンチラハンター支配され、パンチラハンターとして人生を終える増田もいる、ということを…

2023-08-01

義両親から年賀状問題

前提として義両親はクソではない。結婚してから意地悪をされたことは一度もない。

義両親と会う頻度は年に2~3回。関係性は良好だと思っていたが、嫁は嫌いなのかな?と最近感じたので吐き出し。


結婚した年の春に私の祖父が亡くなった。私はその年の秋に入籍した。

夏に両家顔合わせをした時に、私の祖父が亡くなったことは義両親には話した。(身内の不幸があったが入籍は翌年に回さず年内にして欲しいという話を実母がしたため)

私は喪中ハガキを出さなかった。義両親は祖父の死は把握してるし、別世帯とはいえ身内の中では喪中ハガキは省略して良いと思ったのだ。

すると正月義実家に来訪した時、義母からあなたのお母さんは喪中ハガキをくれたけど、あなたからは貰わなかったか年賀状は出したわよ」と言われた。

後で喪中ハガキについて調べ、喪中ハガキは出すのが無難だったと知ったのだが、義母発言が引っ掛かっている。



祖父の死を知っておきながら喪中ハガキの通例がなかったので年賀状は出した」という義両親に私は祖父の死や祖父の死で抱いた悲しみを軽視されたように感じた。

マナー知らずにはこうだ!と年賀状を出したのだろうと思った。



その翌年に今度は夫の祖父が亡くなった。葬式には夫婦で参列した。

義両親から喪中ハガキは届かず、年賀状ももちろん来なかった。

私も年賀状は失礼した。「お義父さんお義母さんから喪中ハガキが届かなかったので年賀状は出しちゃいました〜」なんてことはしなかった。

ただ、自分だって喪中ハガキを送らないじゃん・・・と思った。

しかしたら喪中ハガキには親等の違いだとか細かいルールがあるかもしれない。

しかし、義両親は祖父の死を知っておきながら年賀状を送ってきたという事実が毎年年賀状シーズンになると思い起こされ、嫌な気持ちになっている。



今年、実家帰省した時に実母が義両親から届いた年賀状メモスタンドを使って仏壇に飾っていた。

なんで飾っているの?と聞くといい言葉が書いてあるからと実母は答えた。

年賀状の文面は実母の大好きな相田みつをテイスト文章になっており、実母が気に入るのは理解できたが、同時に実家とうちとで年賀状パターンを出し分けされていることに気がついた。


うちに届く義両親から年賀状は毎年白黒コピーで簡易なデザインである。一方で実家に届いたのは華やかなフルカラー印刷のものだった。

わざわざ2種類用意して出し分けしているのか・・・ひょっとして私のことちょっと嫌いなのかな?しかしそれだったら実母に出す年賀状もあっさりしたパターンにならないか?と考えた。

ついでに過去年賀状も見せてもらったが直近3年分の年賀状はやはり全てカラー印刷だった。

帰宅してうちの年賀状確認したら、今まで届いた白黒コピー年賀状はおうちプリントだった。

年賀状実家に届いたのもうちに届いたのも両面印刷なのだが、実母分は年賀状業者発注する分にあり、うちに送る分はわざわざ自宅のプリンターを使ったってコト?と驚いた。


私もカラー印刷年賀状が欲しい〜!という訳ではない。

わざわざデザインを選んで出し分けしている動機が嫁がいけすかんからにあるのか?と気になっている。

その労力をかけるよりも年賀状をやめればよくない???私の気にしすぎ???

2023-07-24

故人に対する強い憎悪をどうすればよいのか

自殺した人を憎んでいる。

わたしの妹。

の子不登校だし働かないし醜いしヒステリーだし愛されたがりなのに愛そうとしないし気に入らないことがあるとすぐに脅すようにアームカットするし嫌いだった。

首吊ったときはそりゃそうだと思った。

不出来で嫌われて当然なのに、お母さんはずっと妹のことばかり。

わたしの方が頑張ってるのに。

勉強仕事趣味も何もかも妹よりがんばって、理想の娘、自慢の娘になれるよう、がんばってきたのに。

周りの人に認められるよう、たくさん頑張ってきたのに。

の子が全くしなかった努力を、わたしはたくさんしてきたのに。

お母さんの蔵書、お母さんの卒業制作、お母さんの好きな歌手、お母さんの好きな映画、この世で誰よりも知っているのはわたしなのに。

の子は興味すら持たなかったそうでしょ?

若くにお父さんと別れて、経済的に苦労してきたお母さんのため、早くに独り立ちして、お金を入れてきたのもわたしだよ?

の子は、ただパラサイトし続けてきただけじゃん。

ヒステリー起こすたびに、この世で1番あの子を思って心を折っていたお母さんを、口汚く罵ったあの子がそんなに大切なの?

お母さんに、「もうあなたのことを愛せない」と言われたの。

「あの子が死んだから、仕方ないの」と言われたの。

の子が死んだから、何なの?

の子が死んだことが、わたしを愛せない正当な理由になるとでも?

わたしのほうがお母さんのこと愛しているのに。

妹が憎い。

死んだことによって特権を得た妹が憎い。

お母さんは変わってしまった。

わたしを愛してくれた母は死んだ。

妹が殺した。

わたしが頑張ってきたことも努力してきたことも心を砕いてきたことも全てあの女の死が台無しにした。

「ごめんね、お前は2番目なの」と泣く母を抱きしめるのは地獄の苦しみだった。

死んだら1番になれるのか。

死んだらわたしを蹴落とすことができるのか。

生きていることは意味がないのか。

生きて努力しても母はもうわたしを振り返らないのか。

わたしに残された努力余地は、あの子と同じように、死ぬことだけか。

お母さんだって困っていたくせに。いつまでも働かないでわがままばっかりのあの子を。

死んだら全て許されるのか。

わたしももう、仕事も何もかもどうでもいい。

死んだ妹への憎悪と、愛されない悲しみと、お母さんから「要らないもの」と扱われる苦しみから、逃げたくて、死にたい

死んだら妹のように全て許されてまた愛されるはず。

妹をあの世まで追いかけにいって、復讐したい。

お母さん、遠方の結婚式に行って、帰ってきたと思ったら、真っ先にあの女の仏壇お土産を供えに行ったの。

わたしへのお土産はなかった。

居ないものとして扱われるなら、死んでも構わないよね。

わたしが死んでも、恨むなよ。

2023-07-13

一昨日あまりにあまり日差しが強く

朝起きたら一番にすることは仏壇のお膳を下げてこうかんすることなんだけれど

それか

庭の鉢植えの水やり。

まだ朝早いほうなのに、日差しがしんどくて

台風一過ときにいったん外してしまっていたオーニング

日を浴びると植木はすごく伸びるので

このままでいいかなと考えていたけれど

日差し半端ないので

きのう、5時30分にごみを出して

そのあと水やりしたあとに

オーニングをやっぱり張りなおしました。

こい茶色なので日差しを遮るととても薄暗くなってしまうんだけど

壁がじりじりと熱くなるよりはましなのかなぁと。

オーニングに熱気がこもってそこに風が吹くとそれも暑いので

本当に迷っていて。

2年前に裏庭の壁をセルフペンキ塗りしたので

多少はましになっていたんだけど

やはり夏の日差しは凄かった……

白いオーニングにしたかったけど

買ったときはなかったのです。

なんか色々辛い。(恋愛とか実家との関係とか)

2023年1月、母が亡くなった。

末期の癌、発覚から4ヶ月だった。

2021年8月、弟が結婚

2022年4月、弟が結婚式をあげた。

不幸中の幸いにも母が亡くなる直前に、弟嫁も含めて、父・兄・私・弟・弟嫁と実家で過ごす時間が1週間ほどとれた。

弟夫妻は関西在住。東北とある県の実家での時間は、弟嫁にとっては、恐らくしんどかっただろうな。

私は関東で1人暮らし、兄は実家のある県で一人暮らし

母が亡くなったあと通夜葬儀など実家で過ごす間で、寝る場所で揉めた。

母の生前仏壇のある部屋で寝ていた弟夫婦が、

母の死後、遺骨のある部屋で寝るのはイヤなので、

私が寝ていた両親の寝室を譲ってくれと兄を通して伝えてきた。

仏壇のある部屋は、

元々私が帰省した際に利用していた部屋で、

夫婦結婚後、仏壇のある部屋をあけ、両親と共に両親の寝室で寝ることになった経緯がある。

兄を通して伝えてきたことに腹が立ったし、遺骨がある部屋で寝るのは..というのも何調子いいこと言ってんのと思い、両親の寝室を開けなかったことで、兄と弟と父と揉めた。

それがきっかけで、実家場所がないように感じ、追い出されてるような気がした。

初盆帰省を悩む中で、実家帰るのもなぁと思っていたのところ、父から兄の結婚報告を聞いた(デキ婚)

デキ婚自体特になんとも思わないけど、

喪中なのになーという気持ち実家に居場所がなくなるなぁという気持ちで、辛くて涙でてきた。

自分恋愛が上手くいってればもっと喜べたんだろうか

2023-06-28

anond:20230628125537

クソ狭い仏壇に住んでもらう予定だけど

2023-06-27

短期記憶の欠如、行方不明

昨日は最高気温29℃の暑い日で

いつも母が早朝仏壇に供える白飯をそんな暑い日には30分から1時間後にはもう本人が下げるのだが1日じゅう忘れていたらしく

寝る前になって「もう食べられないからこれを捨てておいてほしい」とラップに包まれた、仏具にそえつける容器の形になった小さい3つの丸がくっついたようになっている白飯の塊を渡された

つい1時間半ほど前の話で引き受けて捨てたはずなんだが、しばらく別の作業をしてさっきふとした瞬間にそのことを思い出してみたところ肝心のその「捨てた」行為記憶がない

慌てて探し始めた

台所の小さいポリ袋三角コーナーを介さず直接捨てるために置いてある)にも黄色い市のごみ袋の中に貯められた生ごみの中にも部屋にあるいくつかのゴミ箱の中にもトイレに行く途中の棚の上にもその他どこか寄って一旦置いておきそうな場所のどこにもその塊が見当たらない

念のためと思い、いつもは傷む前に下げて母が食べるために冷凍してあるその白飯の塊が複数入ったジップロック確認してみたがガチガチに凍ったものしかない、あれは1時間やそこらでは凍らないだろう

どれでもないと思うが不安になり、また正直すでに数週間ほど経ったこれらの冷凍ごはんを母が食べるのが少々不安だったのもあり安全側に寄せて全部捨ててしまった

あの白飯の塊はいったいどこへ消えたのか?そしてわたしはまだ30代なんだけどわたしの脳、大丈夫か?わたし記憶、いったいどこに消えてしまったんだろうか

とりあえず朝わたしより早く起きてくる家族に置手紙をして、どこかで見つけたらそれは食べられないので捨てて置いてほしいと書いておかねばならない

冷蔵庫の中も探したけどないな、本当にどこへ行ったんだよ

2023-06-16

日本三大ちん

あとひとつは?

2023-05-09

自作黒ケースが時代遅れにさせられそうな県

マジで電通70年代作成した戦略10訓のまんま。

もっと捨てさせろ

無駄遣いさせろ

流行遅れにさせろ

⑩混乱を作り出せ

に該当しそう。

白いケースばっか店頭のお披露スポットディスプレイされてる。白ケース買わされるじゃん、当然グラボだのも白と合わせないといけないじゃん、ついでケーブルとかも白くしないといけないじゃん。

白が普及したら次は銀色かに仕掛けてくるのか?

Antecの黒ケースとかは窒息死したし、電源は最近裏に積むデュアルチャンバー?だか2019年くらいからジワジワと存在感でてきてるんだよね。お仏壇みたいに末永く使いたいだけなのに。

anond:20230509015316

お、性差別主義者か?

男女で能力や適正に差はないんだぞ

毎朝毎晩仏壇に手を合わせてポリコレポリコレと300回唱えて出直してこい

2023-04-30

祖父が死んだ日

私は大学宗教学の授業を受けていた。

ある地方では魂は2つあったり7つあったりすると考えられているという先生にある種懐疑的な思いを抱きながら

日本人は、墓と仏壇両方用意するが魂の所在はどちらと言えるのか?と尋ねられて言葉に窮した。

考えている内に三日間意識不明入院していた祖父が亡くなった。

ゴールデンウィーク中に会いたいと電車の予約を済ませ荷物を纏めたままで彼は逝ってしまった。

かに涙を零しながら、課題を提出し、教室を抜け出した。

午後の授業の事は一切考えられなくなり、駅へ予約した電車切符二枚を払戻しに行った。

その内一枚を払い戻し終わると、不意に午後の授業に間に合う気がして来た。

手ぶらのままでシャーペンだけ購入して、授業に出席した。

私の大好きな内容の講義、忌引届の裏に必死メモを取ると全て忘れられる気がした。

講義が終わった後も家に帰りたくなくてそのまま居続けた。家族の顔を見て何を話せば良いのか分からなかった。

ここに居させて下さい、と願いながらノート消しゴムを買い足して、授業に集中しようとした。

真っ直ぐ教師を見つめると、度々目が合う。皆講義に飽き、俯いていたので目立ったのかも知れない。

何も口にしていないのに、鎮痛な面持ちの講師が言う。

「どんなに辛いことがあったとしても、振り返って見ると案外支えられていた事があったのだと感じる事が出来る筈だ」

と。授業の内容よりその一言が沁みた。

今は祖父のいた頃に帰れるものなら帰りたいと、ジブリの「あの夏へ」を弾けるよう力を入れている

2023-04-25

anond:20230425091150

こんなん民主主義とは言わんよね。

その党はもちろん指示していないが、そこと手を組んだ党にはがっかりしたよ。連立以降は票入れてない。


○価学会の親を持つ人の家行ったら、狭い部屋にでっかい仏壇?あってドン引きしたわ…

二世本人もだいぶ偏っていてな…あとから思えば気の毒ではあった…

お陰で子供の頃からそこらにはアレルギーがある。

2023-04-02

時間空間的に切り取られた、静まり返った場所が好き

すぐ近くにうるさい場所はあるけど、切り取られたように静まり返った場所、とても大好き。

なんだか安心する。

 

小中学生の頃は実家居間にいずに、よく仏壇のある部屋や、階段に座っていた

なにをするわけでもなくボーッとしていたり、図鑑を読んでたりした。

 

そう考えると、ぽくは小さい頃からインキャの才能があったんだな、と思う。

 

高校に入ってから部活に入らなかったが、その分とても長い間教室にいた。

朝も夕方部活もないから、教室滞在し放題だったのである

 

中でも一番好きな時間は、みんなが教室に集まる前の朝早くの時間だった。

高校までは90分ぐらいの割と遠いところに住んでいたが、よく先生が正門を朝に開けてくれるのを待機していた。

 

今考えると、ちょっとビビる

 

誰もいない教室に一番乗り。

なんだか、いつも賑やかな場所なのに朝イチで来た時はとても特別空間に感じた

あの朝日を浴びながら勉強する時間は心の底から大好きだった。

二番目に来る同じクラス女の子と、いい感じになったりもした(何事もなく終わった)。

 

大学に入ってからは同じように、図書館に入り浸ったり、深夜の徘徊に勤しんだり相変わらずのインキャぶりを発揮していた。

やはり、普段はうるさかったり、すぐ外に出ればにぎやかになったりと、ワイワイしたところに時間空間的にアクセスやすくて静かなところが大好きなのである

図書館は、外に出れば無限にワイワイしている大学

深夜徘徊は、普段は賑やかな街が静まり返ったあと。

なんだか、特別感があるのと安心感がある。

 

けど、この自分の趣向にハッキリと気づいたのはつい最近

それ以前は単に静かなところが好きなのだと思っていた。

 

社会人になってからコロナ蔓延し、フルリモートワークとなった。

東京にいる意味もなくなり、少し郊外田舎の方に引っ越してみた。なんというか、リトルフォレストみたいな生活に憧れていた。

最初の頃は自然に触れ合うのが幸せで、菜園を始めたり山菜とりをしたりとても満喫していた。

 

が、やっていて虚しさを感じた。

なぞに丁寧な生活に憧れていたが、結局やりたかたことはこれだったのか?と思い始めた。

 

そこでやっと気づいた。そう、自分は寂しがり屋だったのである

なんとも都合の良い人間だ。

 

自分的には、外に出たらうるさくて少しイラッとくるぐらいの環境が丁度よかったのである

そんな空間からこそ、家や図書館教会みたいな静かな場所が輝く。

 

それに気づけて、いまは東京とんぼ返りしている。

賑やかだからこそ、家にいる時間が愛おしい。今ぐらいがなんだかんだ丁度いい。

 

そんな人間味のあるインキャな自分は嫌いじゃないし、そんなんでいいとも思っている。

2023-03-27

anond:20230327100010

ディケイドコンプリートフォームカード化された平成ライダーが体中に貼り付けられてて、ついたあだ名遺影フォーム

グランドジオウは体中に平成ライダー上半身が彫り込まれてて付いたあだ名仏壇フォーム

顔がいっぱいってそっち側の印象を与えるって事だな

2023-03-16

anond:20230316212919

宗教やる…w

うちも友人家族も、親の仏壇引き継ぐとかお寺さんとかどうしたもんか悩みのタネだよ。その後子に引き継ぐのもなー。

2023-03-12

3月11日、曾祖母が亡くなったらしい

102歳。大往生だよね。

母方の実家福島浜通り、ということで2011年に曾祖母はがっつり被災している。それ以来「様子がずっとおかしかった」と聞いている。心のね。

そりゃそうだろうって感じ。なんせそっちのほうの親類は流されて、未だに見つかってない人も、沢山居たらしいから。

私は顔も名前も知らないけど、それで亡くなった血の繋がった人はわりといたらしい。

最後に曾祖母に会ったの、私が小学生とき。もう何十年も会ってなかった。会ったところで私と分からいかもしれないが、携帯も持たず施設にいて大叔母にあたる人が世話をしてたので結婚した報告もしてなかった。

両親に「お前は若いし忙しいんだから参列も香典もいらないからね」と言われたので、通夜最後の対面の時に、私の代わりに謝っておいてくれとだけ伝えておいた。

古い考え方の人ではあったので、嫁入りしてきた祖母や、叔父らのお嫁さんたちとは折り合いがよくなかったことは知っている。鎌で蛇の頭狙い撃ちにしたり、素手イタチとっ捕まえたり、豪快で偏屈な人ではあったけど、私には優しかったし、優しかったという年頃の記憶で止まっている。

10歳未満の子供なんて役に立たなかっただろうに、田んぼや畑に一緒に行って手伝いをして、大した仕事もできないのに、偉いねえって褒めてくれた。

かにも従兄弟がいるけれど、曾祖母とそうして過ごしたのは一番年長の私だけ。

軟膏や樟脳、線香のにおいがする曾祖母だった。腰が曲がってて、骨と皮みたいな手で、爪が丸くて。目と爪は、曾祖母と、母と、私は同じ形だなとか。

そんなことだけはよく覚えている。


この10年しんどそうだった、と今になって教えられたので3.11だし誰かに連れていかれたのかもしれないな、楽になったのであれば良かったんじゃないか、なんて思っている。

母方の実家の墓、車でないと行けないようなとんでもない山の中にある。数える程しか墓石がなく、戦没者墓地のほうが大きいような、山の斜面にあるような場所

そこに曽祖父も、祖父もいる。ゆくゆくは祖母もそこにいくんだろう。もう後継ぎのいないあの家の墓に入る人は以降いない。

宿題漫画雑誌を持ち込んで夏休みを過ごした、あの日本家はいずれ取り壊すらしい。そこに曾祖母はいないし、あの畑もない。仏壇もない。夜中に鳴り出す柱時計も、ネジを巻く人がもういない。掘りごたつに炭を入れることもないし、縁側の雨戸も腐り落ちていくんだろう。

もう一度くらい、顔を見せておけばよかったな。そしたらそういう思い出に上書きしてボケたなぁ、嫌な人になったなぁとか、可哀想だなぁと思ったかもしれない。そしたらこんなに寂しくなかったかもしれないし、こういう後悔もしなかったと思う。今日明日、曾祖母葬式らしいので、もう少しだけ、曾祖母の顔を思い浮かべて過ごしてみようかと思う。

2023-03-11

被災地じゃない私の震災の記録

当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。

ある時、携帯電話からいたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話男子生徒の制服の内ポケットからスマートフォン女子生徒のカーディガンポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。

そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。

女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったかからないと口を開けたままの友人の顔。

大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます

この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。

私は比較学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。

家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。

祖母病気後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。

私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。

雪国3月上旬オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。

それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。

全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間ひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。

父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。

その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。

明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。

眠る前、ストーブ灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。

あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。

家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻名取市閖上地区気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たち旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。

閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設飲食店晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。

人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。

情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。

翌日電気が復活し、テレビ報道津波被害を目の当たりにしました。

あとはもう、ご存知の通りです。

断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路割れたり、といったところでした。余震は続きました。

ただ、普段明るくおちゃらけ雰囲気の友人が、宮城県単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています彼女父親津波で亡くなったと聞きました。

私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。

南三陸女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。

私の仕事スーパーゼネコン施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います

なにより、この地域はよく写真展を開きます震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまますイオン一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。

今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれ建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります

どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。

今日だけでいいです。

被災地じゃなくても、地震被害はありました。

お願いです。

忘れないでください。

2023-03-08

追記あり】おばあちゃんの金の延べ棒

亡くなったおばあちゃんには秘密があった。

大昔、おばあちゃんの家に遊びに行った時、こっそりお仏壇の奥に隠してあったのを見せてもらったことがある。並んでるピカピカの金の延べ棒。

ルパン3世漫画でよく出てくる延べ棒より小さいサイズだったけど、形は全くアニメと同じで、ななめ四角で刻印みたいなのがあって、まぎれもない「お宝!」感にすごくドキドキした。

「孫の数だけ買っているの。おばあちゃんが死んだら一つずつあげるから大事にしてね」

それから20ちょっと後におばあちゃんは亡くなった。ちょっとした資産家だったおばあちゃん財産は、家業をついた娘の1人(母の姉妹)がうけついだけど、孫に用意された延べ棒の話はでてこなかった。亡くなる数年前からボケてしまってたし、誰にも伝えてなかったのかな。

財産を受け継いだ娘のひとりも急な病気で亡くなり、おばあちゃんの孫のひとり(私のいとこ)が財産をうけついだけど、やっぱり延べ棒の話は出てこなかった。

人の財産に口を出すのは災いの種。「延べ棒あった?」って一度も聞いたことはないけれど、孫に用意したことが誰にも伝わってなくて、どこかで処分されちゃったんだろう。

札束みせられたんだったら、多分こんなに気にならなかった。ピカピカでずっしりとした秘密のお宝、おばあちゃんがこっそり見せてくれたあの延べ棒、もう一回見たかったな。

追記

え、いっこ880万円!?

ぼんやりした記憶だと、いっこ100万円ちょっとって言ってたと思うんだけど。。。って調べたら、金の値段ってめちゃめちゃ高くなってるんだね。

880万円×9人(孫のかず)で8000万円の金塊かー!

ほんとのお宝だ!!

あと、なんかエッチ連想する人が多いのに驚いた。金の延べ棒の力やっぱりすごい。

2023-03-07

いいお菓子久しぶりに買ったよ。

クリスマス なんもないどころか 携帯補償交換したり、前の端末の残債があったりでケーキどころか何もなし。

正月 なにもないどころか ↑の余波でたいへん。そしてお正月お菓子どころか、年越しそばカップ麺最安。伊達巻だけ半分サイズのを買う。しめ飾りもなし。

誕生日 なんもない。

プランキャリアプランポイントバック2か月分で、(期間限定で支払いには使えないことが判明、相殺しようと思ってたけど忘れそうなのでポイント失効前に使うことに。)

という流れ。栗と黒豆の入ったパウンドケーキ

父の仏壇に供えたら、今朝父が帰ってくる夢を見たよ。たぶん呼び寄せたのはケーキ

そんなに甘いもん(栗と黒豆ケーキ)が好きだったのか、お父さん

2023-02-07

嫌儲ベースの新しい宗教ができたらいいな

嫌儲というか清貧というか。

それぞれが今信じてる神とか信仰自体は維持して、それに付随する金儲けとか富の集中的な部分を認めないという教義

仏教の人は仏教のままだけどお布施とか寺への寄付とか高い葬式(無償のものは除く)はしない。墓も仏壇原則不要(どうしても作りたい人は作ってもいい)

無償葬式などあり得んと思うだろうけどオンライン会議システムなどを活用してせいぜい実費のみでやるフォーマットマニュアル化して整えれば全然できると思う。

生臭坊主がいろいろ言ってきても無視して本来仏教教義AIとかで論理的に解析してとにかく根本的な教義矛盾せず金のかからないソリューション策定する。

宗教的知識の獲得、日々の宗教的相談など込み入ったサポートボランティアベース兼業坊主が担うものとする。

キリスト教イスラム教も同じようにとにかく金がかからないことと基本的教義矛盾しないことを論理的に整理してまとめる。

2023-01-14

anond:20230113235402

俺も似たような経験があるので吐き出したい

俺はオバサンの愚痴を聞くために時間を取ったのかと悲しくなった。

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