はてなキーワード: ODとは
自分が悪いという事実を素直に受け入れられないプライド自意識の高さがほんとうざい
早く片付けなきゃ
早く死ななきゃ
もう俺はだめだ
もうこれはだめ
涙でてくる
さっき自傷でぶつけた頭が痛い
お腹もあざ落ち着いてきたけどまた殴ったクソ
涙が止まらない
薬をたくさん飲むと少し落ち着いた気がする気分を落ち着けるくすり、睡眠薬ごった混ぜで20錠にも満たないからぷちOD勢の風上にも置けない
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
もおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
フルタイムで働けないうつ病持ち。でも生活のため仕事に行く。いけるように市販薬100錠入1瓶(どれとは言わない)を過量服薬して出勤する。内臓はぼろぼろで土日は動けない。最近薬物依存なんじゃないかと思う。薬の反動で飯食えないし動けない。ODなんかして馬鹿じゃないかと言われるのわかってるけど、なんとかして行かないと生活ができないじゃない。だから生きるためのODなんだと思ってしまう、この認識が間違っているのはわかっている。
とにかくこのままじゃいけないと思ってここ一ヶ月ほど薬を飲まないようにしている。仕事は行けたり行けなかったりする。それがつらい。だってODしていたら仕事ができてお金が手に入って生きていけるのだから。なんとか生活を守りたくてODしてることは誰にも言ってない。社会にこんなかたちでしか適合することができない社会不適合者なんだとやっと気づいた。これから10年〜20年、ずっと老いる未来までどうやって生きていけばいい。薬を止めろ医者に相談しろ、言ってることはわかるけどそうすると仕事に行けなくなってお金がなくなるの。誰かがお金出してくれるの?お金がなくなったら死ぬしかないんだよ。頼る親も不仲だし、親も病気持ちだし、頼るのが薬しかない。生活保護受けろって言われるだろうけど、生活保護に対する社会のネガティブなイメージを抱えて生きるくらいなら死ぬ。こんな生活嫌だ。死にたい。
6月18日に死ぬと言っていた増田はもう死んでしまったんだろうか。増田が僕の気持ちを代弁するようなエントリを書いてくれたおかげで僕もこのエントリを書けた。スッキリした。どうもありがとう。
https://anond.hatelabo.jp/20180408192629
https://anond.hatelabo.jp/20180618024944
曲がりなりにも働いている僕は増田よりはまだマシな状況に置かれていると思う。でも増田と同じように「もう戻ることができないルート」のことをうじうじと考えながら生きている。
僕は国立大の中でも上から数えた方が早い大学を出た。その前は進学校に通っていた。高校や大学の同級生たちはエリート官僚、医者、大手マスコミ、研究者として働いている。
翻って僕はしがない会社員だ。自分の勤務先を「〇〇(会社名)の△△(名前)です」と名乗るたびにじわじわと自尊心が蝕まれる。
そもそも「まともなルート」に乗れない人からすれば恵まれているのだろうけれども、最初から持っていないよりも、途中で失った方が心情的には辛い。
なぜ「ルート」から外れたのか。僕自身のせいでもあるが、それだけじゃない。おかしなことに巻き込まれたからだ。そのせいで鬱になり何年も留年した。適当に働き始めた会社もすぐに辞めた。今は転職先の小さな会社で働いている。
経歴に"汚点"が付いたせいで、まともな会社への転職は絶望的だ。少し前にも面接を受けに言ったが、「なんで留年したの」とか「なんで最初の会社を辞めたの」とかさんざん突っ込まれて撃沈した。
過去は変えられない。一生この経歴に足を引っ張られるならもう死のうと毎日目が覚めた瞬間に思う。面接を受けに行った日の夜も本気で睡眠薬をODして死のうかと思った。
でもこうやって書いてみると随分と下らないな。プライドなんて満たせなくても給料があれば腹は膨れる。「あなたはきっと有名になる」「いつになったら〇〇賞を取るんだ」と言ってくれていた友人には合わせる顔がないけれど、社会的地位なんて1mmも気にしない友人もいる。そいつらと飲んで馬鹿騒ぎしてる時はやっぱり楽しい。
増田、ありがとう。増田のおかけで自分の感情を客観視することができたよ。できれば増田にも生き延びて開き直ってほしい。無理に頑張る必要なんてない。人に見下されるようなくだらない人生でいいんだ。
死にたがりの「構ってちゃん」でいいから、生き延びて俺のエントリに返信してくれ。増田が生きてこれを読んでくれることを祈る。
Dovahkiin, Dovahkiin
naal ok zin los vahriin
wah dein vokul mahfaeraak ahst vaal!
fod nust hon zindro zaan
Dovahkiin, fah hin kogaan mu draal!
Huzrah nu, kul do od, wah aan bok lingrah vod
Ahrk fin tey, boziik fun, do fin gein!
Wo lost fron wah ney dov
ahrk fin reyliik do jul
voth aan suleyk wah ronit faal krein!
Do ved viing ko fin krah
Tol fod zeymah win kein meyz fundein!
Alduin, feyn do jun,
kruziik vokun staadnau,
voth aan bahlok wah diivon fin lein!
fen kos nahlot mahfaeraak ahrk ruz!
Paaz Keizaal fen kos stin nol bein Alduin jot!
Dovahkiin, Dovahkiin
naal ok zin los vahriin
wah dein vokul mahfaeraak ahst vaal!
fod nust hon zindro zaan
Dovahkiin, fah hin kogaan mu draal!
1年以上経って落ち着いてきたので、いまなら書けるとおもう。
あれは忘れもしない去年の4月30日だった。
当時26歳の私は、大学の課題や卒論、日々の日雇いの仕事、性別違和、精神疾患、父親との不和、などさまざまな問題を抱えながら日々をやり過ごしてきた。
4月29日の夜、いつものように睡眠薬と抗うつ剤と抗不安剤と女性ホルモン剤を入れて布団に入った。
眠れない。
仕方がないからしばらくネットサーフィンや資格試験の勉強などで時間を潰し、眠くなるのを待つことにした。
朝の6時になっても眠れない。
これはもう仕方がない、ひとまず眠れるまでは寂しいし誰かと通話しよう、そう思った私はSkypeで連絡を取れそうな人物と話をした。
大して内容のない話だったとおもう。本当にとりとめのないことを2時間半くらい話した。
そうしたら通話相手が、いまの私の現状に同情したのかなんなのかはわからないが、泣き出した。
泣いている人物と会話を話をするのはあまり得意ではないのでここらへんで通話はやめよう、そう思い、一応なだめて落ち着かせてから通話を切った。
通話後、自分のなかには将来への不安感、絶望感、焦燥感、そういったものでいっぱいになってしまった。
そういえば、カフェインを大量に服用すれば死ねるということを聞いたことがあったのでインターネットで調べた。
私の体重のカフェイン摂取の致死量は15g。ならその2倍服用すればほぼ確実に死ねるだろう。
このあたりで私の頭の中は死ぬことでいっぱいになってしまった。
そして手元にあったカフェイン剤をきっちり30g分用意して、そしてそのまま眠って死ねたらいいなと思ってルネスタやらロヒプノールやらマイスリーやら合わせて100錠くらい準備した。
そして、一気に、手元にあった炭酸飲料で飲み干した。
カフェインの錠剤が大きかったため、何度かに分けて飲んだ。胃酸だろうか、せりあがってくる液体も無視してすべて飲み干した。
飲んでから20分くらいは特になにもちょっと変な感じかな、その程度の身体の違和感しかなかった。
30分もすると強烈な吐き気がきて、ああこれはもう我慢出来ない、そう思いお手洗いで吐いた。ロヒプノールの色素のせいか、青色の吐瀉物が出た。
何度かえづいていると、1階にいる母に大丈夫?と声をかけられた。大丈夫ではなかったので素直に大丈夫じゃないと言った。
なんせ強力な吐き気、それからめまい、身体が動かない、もう自殺したいだなんて思わないから身体を楽にしてくれ、そう思った。
母に水を飲まされ、何度も吐いた。母が救急車を呼んだらしく、部屋に救急の男性が2人入ってきて、担架で救急車に乗せられた。
このあたり、正直なところあまり記憶がないため、細かいことを思い出せない。ただ、意識チェックなどを受けたことは覚えている。
それと、ごめんなさいごめんなさいと何度も謝っていた。
病院へ着くと、まず胃洗浄を行った。鼻にチューブを通され、洗浄水を入れたり、胃の中の悪い水分を抜いたり。
その後に、活性炭を投与された。胃洗浄は苦しいという話を聞いていたが、正直尿道カテーテルを通されるほうがしんどかった。
胃洗浄が終わると、病院着へ着替えさせられ、CTスキャンの部屋へ移動させられた。そこで強烈な吐き気。
CTスキャンが黒い吐瀉物でまみれてしまった。ごめんなさいごめんなさい、ひたすらに謝る私。
その後で、病棟に入り、尿道カテーテルを通され、全身管だらけになっておむつもつけられて待機。
はずかしいはなしだが、何度も看護師さんにおむつを交換されてしまった。
それと尿道の管の違和感が苦しかったのでお医者さんに抜いてもらった。
深夜になると、とても苦しくて寂しくて、泣いてしまった。
一緒に病棟で状態を見守ってくれた母がやさしく手を握ってくれたのを覚えている。
それから、こんな風になってしまってごめんなさい、と何度も謝った。
そして、明日には退院できるようにならなければ(その明後日に欠席不可の科目があったので)という気持ちが徐々に湧いてきた。
ODから1日経ちお昼になった。確かハヤシライスが振る舞われたと記憶している。
正直、食欲なんてまったくなかった。それでも、ご飯が食べられないと退院できないと聞いて、必死に食べた。
付け合せのレタス、トマト、デザートのバナナ、ツナのサラダ、そしてハヤシライス。軽いものから重いものへ順々に食べ、1時間近くかけてなんとか完食した。
その後はリハビリがてら、ちょっと歩いたりした。それは特に苦痛ではなかったのだが、最後に大きな問題が立ちはだかった。
いくら尿意を感じて力を入れても、1滴も尿がでない。尿が出ないと今日中に退院できないと聞いた私は数時間かけて排尿の練習をした。
そして、看護師さんに見守られながら、おしっこができたときは、すごく感動というか、開放感というか、達成感に近いものを感じたとおもう。
優しく接してくれた看護師お医者さんの方々に深々とお礼を言って病院を去った。
そして実家に帰り、お風呂に入り、早めに寝て、次の日は大学だったのでまた普段の日常に戻ったのでした。
今回の件で、絶対にODでの自殺企図はしないぞ、と固く心に決めたのでした。
・いまの現状
あれから精神は少しずつ落ち着き(結局大学は卒業できなかったけれど)、念願の恋人との同棲も叶い、基本的には主婦としてやっています。
たまに日雇いの仕事を入れたり、電気系の国家資格の勉強をしたりと、日々それなりに落ち着いた生活をおくれています、
雑多に並べていく.
・専門卒
・専門時代に過食と拒食を繰り返す
・睡眠薬をODして救急車のお世話になる その後仕事をやめて自宅でしばらく療養
・エステにて高額プラン・拒食の方向け商品を契約,今も通っている
・実家通い
・家族との仲が悪い
・実家での療養期間中,家族に自身の状況を猛プッシュで批判される(よくあるうつ病患者にかけていけない言葉をだいたいフルコースで言われたらしい)
・そのストレスがきっかけでリスカ.何度か繰り返しており,そこそこ酷い跡が残っている.
・リスカしたことは覚えていない,あるいは別の視点から傍観しているような感覚らしい
・初対面とのコミュニケーションは苦手.(なのだが俺は違ったらしい)
・陰口多い.
・共感を求める会話が多め.
・メンタルヘルスの話になると食いつきがすごい.
・実家がとある宗教に入信している.両親のバックグラウンドとしてしっかりと根づいている.
・家族としての活動は彼女が一人で請け負っていた.最近は参加していない.
・過集中するタイプ.熱中したものにはものすごい才能を発揮するタイプ.
・頭の回転は早い.
・運動不足.なのに体型維持はしたいらしい.
・男性経験無し.(現在進行系で俺と一緒にステップアップ中だが,卒業には至っていない)
・本人曰く,同性との恋愛に抵抗は無い.
告白は俺から.初対面なのに恐ろしいくらい話しやすいし,話してて楽しかった.何回かデートしてから告白.
その時にリスカだけ見せてもらった.まぁそういう人もいるよな~くらいの感覚.タバコも彼氏彼女の付き合いなら俺はそんなに気にするタイプではないのでOKだった.
1通りの話が出揃ったのは付き合いだしてから.宗教の話は正直なところ面食らった.おそらく俺の両親はいい顔しないだろうから…
たまーに不安定な時があるが,100%受け入れモードで適当に相槌打って,話だけは聞いている風を装っている.
自惚れかもしれないが,付き合い始めの頃と比べると日に日に彼女のメンタルが落ち着いていっているのを感じており,それがなんとなく嬉しい.
普通に遊ぶぶんにはとても気が合う.一緒にいて心地よいと感じるし,一緒にいたい,会いたいと思う.
今はお互い別々に暮らしているが,一緒になるような事になるかもしれない.
たまーに彼女の口からそんな言葉がでてくる.自分は今は寮生活なので,まぁその時はその時かなと思っている.
で,タイトルにもどり
自分史上最も重めの女が来たなぁと思ってるが,ぶっちゃけ恋愛も結婚もノリだろーという信念なので,意外となんとかなるんじゃね?とか思ってる.
ただ結婚となるとな…結婚は2人だけでできるものって考えは今は俺の中に無いので…
結婚に至るまでに色々と壁があるなぁといったところ.
たしかに自分はまだ日本から出たことすらないし隠れてるだけで本当にあるのかも!って思ってきた
死んだらなんもなくなっちゃうけど生きてれば万が一億が一でも魔法使えるようになる可能性はあるわけだしとりあえず来月もどうにかODはやめらんないだろうけど生きてみます
ありがとうございました
ガキの頃からファンタジー小説大好きでダレンシャンとかエラゴンとかローワンシリーズメチャ読んでた
魔法とか冒険とか大好きだったいつも寝る前に妄想してドキドキしてた
中二の頃はお手本のような中二病で自分は悪魔と天使のハーフだと思ってたし眼帯つけて闊歩してた
大学なんとなくはいった まあ勉強したかったことあったし就職のことも考えて
いま社会人2年目 魔法も冒険もない たのしくない ただ仕事して寝て仕事して寝て 週末は遊んで
不幸なわけじゃない 会社もブラックじゃない残業ない有給取れる
仕事苦しくない大変じゃないはずなのにODがやめられない逃げちゃう薬に
買い物ばっかしちゃう いろんなもの買っても満たされない何しても楽しくない
魔法使いたいんだもん本当は
いい加減卒業しないといけないこの考えから でも無理ないちゃう
つまんない全部 全部自分のせい自分がつまらない人間だからつまらく感じるのはわかってるけど
だって別に成功したいわけでも幸せになりたいわけでもない欲しいものが何もない
魔法使いたいんだよでも魔法なんてないじゃん なんもないわマジで目標もクソもねえ
どんなに疲れてて身体が眠りを欲していても布団に入って1,2時間寝付けないなんてのはザラで、というかそれ自体は1年以上前からだったので睡眠薬の個人輸入でどうにかしていた。別に毎日薬がないと全く眠れないわけじゃない、せいぜい月の1/4〜1/3だったので不眠症ですらなかっただろう。
ところが昨年の夏くらいから月の半分以上は薬が必要になって、一回一錠の規定量のはずが二錠三錠と飲んでも眠れない。なんとか意識を失えたとしても3時間後くらいには必ず目を覚ました。薬を使わない日は昼寝みたいな量の睡眠を何回か小分けにして取る感じだった。ODなんてしないし、不眠症で苦しんでる人はもっと酷いものなのだろうし、ただ何となく体調が優れない毎日だった。
秋からは食事が摂れなくなった。元から一人前を食べるのがやっとなくらいの少食ではあったが、いつのまにかその半分も一度に食べられなくなっていた。少し食べただけですぐ胃が張るし、食後数時間胃が痛み続けるのだ。最初は胃が荒れていたりなんだり、物理的にどうにかなっているものだと思っていた。
その頃から学業以外に常に3つは並行して抱えていた個人的な締め切りをキャンセルしたり、新規で何も入れなくなった。回らなくなったのだ。手帳を開く回数が激減した。そのうち学業の方の締め切りもいつも直前まで苦しむようになった。アイデア出しの時間が一番苦痛で、手を動かし始めるまでにものすごい気力が必要だった。
1月に入って内視鏡の予約をした。人気の病院だったからか、1月頭に行っても取れたのは1月末の予約だった。医者に症状を伝えても「見てみないとわかりません」としか言われず、胃腸薬も出なかった。
1月中ば、それまで申し訳程度には食べられていた普通の食事がまったく摂れなくなった。ツイッターで流れてくる食べ物の写真も、春先は美味しく食べていた学食のランチセットも、みんなプラスチックの食品サンプルに見える。スーパーの食品売り場に行くと何を買っていいのかわからなくてその場にいられない。冷蔵庫の引き出しを上から下まで開けては何も取り出さずに閉じる。温めるだけのチルド食品を手に取ると、心臓がドキドキして息が苦しくなって立っていられなくなる。そういえばこの少し前から、外出先でパニック発作みたいなのが出るようになっていた。43キロくらいはあった体重が、そろそろ40キロを切りそうになっていた。
1月末から2月半ばにかけて、あちこちの病院にたくさん行った。内視鏡は何も問題なかった。最終的に行った心療内科の先生に、「お母さんがストレスの原因なのかもしれない」と言われた。心療内科に行くのは私の希望で、母には散々反対されて罵倒されて、挙句ついてきて診察室で勝手に喋り倒していた。
ずっと原因がわからないつもりでいたが、ずっと母の声を聞くたびに身が竦んでお腹のあたりに変な力が入って何も言えなくなっていた。何かを言えば「反抗期」「口答えばかり」「誰の金で生活してるんだ」と言われた。事実だったし、22にもなって実家暮らし、親の金で日々の食事をして親の金で学校に行っている人間には何もいう権利が無いものと思っていた。人に愚痴を言ったところで「何を甘えたことを言っているんだ」と返されるのが関の山だと。恥ずかしかったから誰にも言えなかった。
先生からの勧めで、今は祖父母の家に居候という形になっている。2週間くらい母には会っていない。個人輸入ではなく処方箋で貰った睡眠薬を飲み始めたり、最初だからなのかなにも効果が出なさそうな量の抗うつ剤を処方されたり、パニック発作用の抗不安薬が規定量の半分で処方されてたせいで全然効いてくれなかったり色々あった。あまり薬は出したがらない先生らしい。
日中は何もしていない。というか、何もできない。勉強はもちろん、本も読めないしゲームもうまくできない。絵を描こうとペンを握る気にもなれない。ネットサーフィンのやり方も忘れたのでパソコンもずっと開けていない。
何もしない毎日が苦痛過ぎるので来月からバイトをしようと思うと友達に相談したら、普段なんでも応援してくれる子が強い口調で止めてきた。話を聞くのが上手い子で、愚痴を聞いてなんて話始めじゃなくてもいつのまにか自分の話を聞いて貰っていた。母の話をした時は、それは世間ではモラハラと呼ばれるなんて言われた。
療養中なんだから療養しろと言われて、たしかにそうすべきだと思ったし、どうしてそんなに「何もしない」が苦痛なのか改めて考える機会になった。
お金が必要だから?確かに貯金は減る一方だが、新学期からまったく生活できないほどではない。やりたい仕事だった?仕事なんて本当は何もやりたくない。誰かにバイトしろと言われた?誰も何も言っていない。
そうだ、誰も何も言っていないのだ。
「いつまでうちにいるの?」「やることないの?暇なの?」「時間を無駄にしてるね」「家にいるだけで何もしない金食い虫」「お前がいる分光熱費も食費もかさむんだ」「寝てばかりいて治す気がないんだろう」
常に誰かに背を追い立てられている気がしていた。祖母も、祖父も、何も言っていない。私の頭の中の誰かが言っていることだった。
えっ? 精神科医に口頭で説明すれば普通に分かってもらえるけど。
最初から自分の主観的辛さを相手に伝えることを諦めているだけでは。
私は例えばこんなふうに伝えた。
「◯月ごろから徐々に落ち込むことが増えてきて、最近は集中力もなく意欲もわかず、外出もできずに一日中寝たきりの状態が続いている。最近、自分がなぜ生きているのか分からなくなってきた。こんなに何もできない、何も楽しめない状態で生き続ける意味が分からなくなってきてしまった感じ。もういっそのこと死ねたら楽なのに、そうすればもう何にも苦しまずにすむのにという考えが繰り返し頭をよぎる。とにかく、自分が何もできない状態なのがつらくて仕方がない」
死にたいくらいつらい気持ちでいること、そのつらさはどこから生じているのか(私の場合は何もできないという無力感)ということを相手に伝えるわけ。
自分のつらさに共感してもらおうとか、どの程度絶望しているのか目に見える形で証明しようとかする必要はないのよね。
「何もできないのがつらい」→抗うつ薬を増やそう
といったふうに、患者の言葉でどの程度の危険水準なのかが分かるし、ではどうするべきなのかの対処法も思い浮かぶでしょ?
医師はエスパーではないので、患者側が言葉では何も言わずに自分の様子から全てを汲み取って欲しいというのは無理筋なんだと思う。
言葉でうまく表現できないと、リスカやODなどの行動化を起こしちゃう人がいるけど、それやるよりは言葉で伝えるほうがいろいろとスムーズだと自分は思ってる。
22歳
会社つらいけど周りと比べればつらくない定時で帰れるし
でも根本的に社会生活向いてない でも生きるには金いるし別にいまは死にたくない
でも別に長生きしたくないしどうにかナウを生きるにはどうしたらいいかなて思ったらODにいきついた
これを目標に1週間を頑張っている ヘパリーゼで肝臓ケアもおこたらないしOD始める前より健康的になった 数値も問題がない
とても嬉しい これでいいと思う
これでいいと思うんだけどどうしたらいいかわかんなくなるときもある
自分がよければいいんですよね それが一番
ありがとうございます あとは耐性つかなければな
耐性こわいから週一なのね
毎日こんな気持ちで過ごせたら周りにも優しくなれるしストレスフリー聖人君子になれるのにな
ありがとうございました
気付けば脱ヤク中してから1年以上経っていたので、あの頃の限界生活を綴ってみようと思う。
*
そもそもODとはオーバードースの略であり、薬の過剰摂取のことを指す。
まだ肌寒いときにはじめたそれは、桜が咲き、セミが鳴き、木々が染まり、気付けばまた寒さを感じる季節まで続いていた。
B3の紙切れ1枚でこれまで生きてきた22年間の全てを否定されるものだから、精神的にかなりボロボロだったと思う。
あれは10月頃だっただろうか。
いつものように面接から帰りスーツのままソファに横たわっていると、ふと薬箱が目に入った。
そこには昔メンヘラを拗らせていたとき処方してもらった精神薬が残っていた。
そんなに多くはなかったと思う。
なんとなく、一気に全部飲んだ。
少しでも楽になれると思った。
*
ベッドに入らないと眠れないタイプなので、酷い眠気で落ちたというより気絶の方が近いのだろう。
やばいと思ってツイッターを見ると、書き込んだ記憶のないツイートが残っている。
するとなんとなく元気になった気がしたので大学に向かった。
その道中で吐いた。
しかし大学で友人とおしゃべりしてまた元気になったと錯覚した私は当時バイトしていた料理屋に向かう。
その日は平日だったので比較的空いており、料理長の作る料理に舌鼓を打ち、日本酒を飲んでかなりハッピーに過ごしていた。
気付いた時には奥の座敷で寝ながら泣いていた。
営業時間が終わって料理長に家まで送ってもらったような気がするし、別の友達に迎えに来てもらったような気もする。
正直ほとんど覚えていない。
*
メンヘラ御用達の市販薬や、海外から取り寄せた精神薬など、色々飲んだと思う。
薬がよく効くような気がしてグレープフルーツジュースと一緒に飲んだ。
飲んでしばらくすると呼吸が浅くなる。
体が痙攣する。
頭がぼーっとするのに眠ることができない。
胸が苦しい。
でも、そんなとき、苦しさや気持ち悪さを感じるとき、「私めっちゃ生きてる!!!!!」と感じていた。
ドエムで良かった〜〜〜〜〜〜!
(ただ一度だけ、よくわからない海外の精神薬を飲んだときは血流がぐわんぐわんいってめちゃくちゃ気持ち悪かったので、あれはオススメしない。)
薬が切れればまた飲んで、その合間にバイトと就活をして、また薬を飲んだ。
飲んでから2日は上手く話せないし頭も回らない。
しかし、そんな生活をしながらも12月中頃には就職先が決まった。
*
土日祝休みなんて妄言で実際は盆正月も出勤、賞与は初年度支給無しだし、他にも裏切られまくっている。
特にやりがいを感じるわけではなく、待遇も微妙なのにとにかく忙しい。
上司に理不尽なキレ方をされた日の夜は、また薬を飲みたくなる。
ああ、死にたい。
いや、死にたいわけではないけれど、なんとなくなんで生きているのか分からなくなる。
なんのために働いているんだろうか。
生きるために働くの謎じゃない??
僕は自身が発達障害者ではないか、と疑っている。その理由には、僕の特性だけではなく、親戚に発達障害者が多いというのもある(未診断だが発達障害特性を強く持つ人も含めるとさらに多い)。
僕が実際に発達障害者なのかは置いておいて、こんな悩みを抱えている時点で社会に適合できていないのはわかってもらえると思う。
じゃあ診断してもらいに行けばいいじゃないか、と思うだろう。だがしかし、実は今僕は学生で、親の庇護下にある。かつ、親が大の精神科嫌いで、ちょっと訴えてみたら、そんなところ行く必要はない、なんでそんなことを言うんだ、と怒鳴られ、泣かれてしまった。そのために診断を受けに行くのは難しい。あと、単純に健康保険証を持ってない。
ODをした時の話をしよう。
僕は馬鹿なので、このやりとりの後にどうしようもなくつらくなって、とある風邪薬を買って全部一気に飲んだ。最終的にはめちゃくちゃ吐いたし、体が動かずに外で寝っ転がって泣き続けるはめになったが、効きはじめは最高だった。体が軽い。常に微妙にある倦怠感や眠気が吹っ飛び、脳に霧がかかっているような感覚も消えた。この状態で日常生活を送れたらどんなにいいだろう、と思った。きっと最高のパフォーマンスを発揮できるにちがいない。
そして僕は、事あるごとにODするようになった。
提出物の締め切りを守りたかった。
これら全てを薬は叶えてくれた。ODをすると僕はちゃんと動くことができた。普通になれたような気がした。だけど口は乾くし頭は痛いし排尿が難しくなるし体が痒くなるし切れると以前よりも動けなくなる。金もかかる。色々あってやめることができたが、やめられなかったときのことを思うとゾッとする。その可能性は十分にあったのだから。
家庭環境はさほど悪くない、いじめも今はない。だけど僕はとてもとてもとてもとても、生きているのがつらい。家族とは合わないし、社会とも合わない。だけど僕ごときの境遇でつらいとか言うと、僕の方が私の方がつらい、それごときでつらいとか言うな、なんてお叱りを受けてしまう。発達障害です、とかいうと診断されてないのでこれもお叱りを受ける。周囲の人はみんな僕を普通だよという、だけどみんな僕を普通の人間として扱ってくれるわけではない。僕は一体なんなんだ、どうしろっていうんだ。僕は一体何になることが求められているんだ。きっと普通になって欲しかったんだろうな、普通になれなくてごめんね。
僕と同じ中途半端な状態でもがく仲間たちはわかってくれるかもしれないんだけど、僕は自分をちゃんと定義して欲しくてたまらないし、定義して欲しくない。定型発達だとも発達障害だとも言われたくないし、言われたい。普通だよと言われるのもつらければ、発達障害だろと言われるのもつらいけど、何も言われないと自分が何者かわからなくて不安で仕方ない。診断を受けに行くのは怖い。家を出たらすぐに病院に行くつもりではあるけど、果たしてちゃんと自分と向き合えるのだろうか。
何が言いたかったんだっけな。
とりあえず、明日までは生きることにしよう。
当方社会人で、2005 年頃に発症したうつ病患者。今のところ休職経験なし。メンタル回復に効果があったものとなかったものを列記してみたい。
自分の抑うつ症状は睡眠不足に大きく起因しているようで、大変効果的。かつては深夜 0-1 時入眠 6 時前起床の 4-6 時間睡眠だったのだが、今は 22 時入眠 7 時間睡眠を目標にしている。それでもたまに睡眠不足に陥るが、以前のことを思えば随分良くなったように思う。以下は睡眠関連のコツ。
酒もクスリもやめた自分にとって (後述) セックスだけが即効性のある快楽として残ることになった。パートナーが病状理解してくれているのも幸いしている。効果はアルコールやベンゾジアゼピン系薬剤に近いように思う。大変効果的。だいたい 6-8 回/月。
自身の想いをぶつける場として大変有用。このエントリーも、まずは日記用の非公開ファイルに書き出してみて、自身の考えをまとめて、多少推敲を加え、それからポストした。今なら音声入力などを併用しても良さそう。非公開で絶対に人に見られないことがメンタルによい日記の秘訣かと思う。
大変効果的であったが健康問題により止めた。かつては連日飲酒し (ワインボトル 0.5-1 本/日)、かなりの頻度で出勤前にも飲酒していた。勤務中に飲酒することもしばしばあった。飲酒運転をすることはなかったものの、事件や事故にならなくて良かったと思う。γGTP 500 台というまあまあ重篤なアルコール性肝機能障害を来たして断酒。宴席では今でもたまに飲みたくなることもあるが、日常生活から二日酔いがなくなったメリットのほうが大きく、数年間禁酒継続できている。ちなみに最近人気のストロングゼロは頭痛必発なので好きではなかった。
こちらも大変効果的であったが健康問題により止めた。4-5 年ソラナックスとメイラックスを併用。どちらも確実に効果を実感できて大変良かったが、どんどん常用量が増えていき、ときどき OD することもあった。禁酒しても肝機能障害が遷延したため (γGTP 200 台) 勇気をもって投薬中止。ベンゾ離脱症状で 2 ヶ月ほど死にそうな気分で過ごした。残念ながら断薬後も γGTP は 3 桁高値が続いておりベンゾが悪かったとは断定できないが、離脱症状の辛さを考えるともう二度と内服したくない。
かつて 7 年間ほど常用していた。当時この手の薬剤は日中の眠気が必発で、内服時間を調整しても眠くて仕事にならなかった。世にいわれるような晴れ晴れとした気分にはならなったので、自分にはあまり効果的でなかったように思う。典型的なシャンビリ症状とインポ症状がでてきて内服中止。騒い離脱症状は出なかった。
朝 5-6 分のストレッチと自転車通勤を数年間、毎日 3 km 弱 / 20 分の室内トレッドミルを半年間、週 1 回 1 時間の水泳を 3 ヶ月続けてきたが、今のところ効果は微妙。ランニングを始めたきっかけは "脳を鍛えるには運動しかない!" という本に感化されたためだが *2、本に書いてあるほどには回復しなかった。しかし良い習慣ではあるので今後も続ける予定。
独学で始めたマインドフルネスにはほとんど効果はなかった。しばらくして臨床心理士のガイド付きマインドフルネスを 2 ヶ月ほどする機会があり、こちらは即時的な効果はあったように思う。ただ自身で再現性を得ることができず結局続いていない。そろそろ再開してみてもいいかもとは思っている。
セックスに比べると効果は弱いように感じる。安心ホルモンであるセロトニン (オキシトシン?) の分泌量に違いがあるのだそう *3。ちなみにオナ禁の経験はない。
*1 http://www.200kounen-training.com/entry/2018/01/10/223227
*2 https://www.amazon.co.jp/dp/B00JDLBEFW/
*3 https://ameblo.jp/kinyoku9/entry-12249634913.html
2018/02/03 16:18 追記コメント投稿しました。https://anond.hatelabo.jp/20180203161614