はてなキーワード: 自己目的化とは
増田でもくだらない煽り合いしてるのをよく見かけるので、普段Twitterとかでネトウヨパヨク煽りしてる程度の軽い煽りでトラバに乱入するのをよくやってるんだが、かなりの確率で「そこまで煽りたがるのはっきり言って病気だ」だの「むやみに煽りたいだけ煽るのが自己目的化してる」だの言われるんだよね。
普通に「大学教養程度の物理も理解できないギリ健」「英語もアラビア語もしゃべれない言語障碍者」「ガイジのトリソミー先生には難しすぎたか」「売春婦の私生児は母親と同じように倫理観崩壊してんな」くらいのことしか言ってないのに、なんで自分だけ煽り自体を問題視されるのか、非常に憤懣やるかたない。
いや、毎回「こう来たかw」とか「今日は誰がポプ子とピピ美を演じるんだ」みたいな意外性の楽しさは充分ある。
ただ、円盤買って何度もくり返して観て楽しい作品なのかと。1回観れば充分な気がする。
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何より、本作は意図的に「生理的に不快なネタ」をやってる感がどうにもなあ。
ボブネミミッミのとか、わざと絵も歪ませて声も変な調子にしてて、初見は面白かったけど、ああいうのを毎回毎回律儀に入れるとか本末転倒くさい。
いや、「生理的に不快なネタ」自体も芸風としてはアリだよ。ただ、多分あれって演劇みたいなライブで観れば場の雰囲気で許容できるんだろうけど、毎回TVの前に鎮座して観るものかなあ、と。
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おそ松でも、たまに意図的に「生理的に不快なネタ」をやってるけど、あっちは基本ストーリー性で見せる路線だろ。
根元敬の漫画とかも絵柄的にわざと生理的に不快にしているんだが、ストーリー性があったうえで、そのドギツイ部分を強調する手段になってる。
ところが、ポプテピピックだと不快さが自己目的化してるようにしか見えない。
つまり、ポプテピピックって、米の飯とかスポンジケーキの部分がない「香辛料とトッピングだけの料理」なんじゃないか。
無論「それが良い」って人もいるんだろうし、世の中たまにはそういうのもあって良いと思う。
でも、ちょっと持ちあげられすぎじゃね。
経済成長で言えば日本は欧米、さらに中国韓国東南アジアひっくるめて段トツで悪いから。
日本って、「失敗の本質」という本で挙げられてるように「手段が自己目的化する」という特性がある。
そこで、実際に革新的な技術が生まれるとか、メガベンチャーが生まれるという方向の修正はせずに、
細々とした書類上のミスだとか、過去不正をやらかしたのと同種のミスがやらないようにとか、そういう枝葉の不便にする方向の改悪ばかりが盛ん。
ここしばらくでもPEZYとか、iPSとかあったけど、不正は不正なんだが、「じゃあ、研究や革新ベンチャーが生まれるにはどうしたらいいか」なんて方向の修正はまずしないのが日本。
日々、ネットの世界で悪人が仕立てあげられ、ネットバッシングやネットリンチが繰り広げられている。確かに、叩かれるほうには否があり、叩くほうの意見に理がある場合が少なくない。しかし、バッシングが開始され、その流れが定まってしまうと、にわかに大勢が参加し、過激さが加速度的に増していくさまは、脅威を感じるときすらある。
『他人を非難してばかりいる人たち バッシング・いじめ・ネット私刑』(岩波 明/幻冬舎)は、こういったネット住民たちの多くは一見「正義派」を装っているが、目的は他人を徹底的に糾弾し、傷つけ、ひねりつぶすことにあるという。
そうだとすると、なぜ、「バッシングすること自体を自己目的化したバッシング」が横行しているのだろうか。本書によると、これには「世界が小さくなっていること」と「社会の変化」、そして「日本人が元来持つ特性」が関係しているという。
まず、「世界が小さくなっている」というのは、インターネットとSNSが大きな役割を果たしている。“隣人”の範囲が広がりつつあると共に、個人の秘密を保つことが難しくなってきている。
新しいデバイスを得たことで容易に他人の弱みにアクセスし、付け込むことができるようになった。また、匿名性が声を過激にしている。
「社会の変化」については、社会で「コンプライアンス」が重視されるようになってきたことを挙げている。昨今の「クレーマー」は、“普通の人”や“善人”が豹変する特徴があるといわれる。
なぜか。内面的には「他人を許せない」「非難せずにはいられない」という不寛容な日本人が増えてきているからだ。背景にあるのが、社会の「コンプライアンス重視」らしい。
社会で「透明化」が推奨され、会社などで「コンプライアンス」が強調されることを、マジメな日本人は表向き良しとしている。一方で、「コンプライアンス」によって、これまでの慣行が突如「悪」として否定されることがしばしば起きている。
コンプライアンスを遵守するということは、不自由で煩雑な手続きを伴うということだ。ルールが細かく決まっているほど、余裕がない現場では「違反」も生じやすくなる。もちろん、コンプライアンスは遵守すべきだが、「違反」が発覚したとき、他者は「自分は守っているのに」という抑圧された気持ちの反動で、バッシングの火を過剰なまでに燃え上がらせる、というのだ。
「日本人が元来持つ特性」とは、「差異に敏感」なこと。日本という島国の“閉鎖的空間”が培ったものだという。
閉鎖的な空間ではしぜんと同質集団が形成され、「微妙な差異に敏感」になる。たとえば、多様な民族や宗教的背景を内部に持つアメリカに比べると、同質集団である日本には大きな「安心感」があるが、バックボーンや価値観が似たようなものになりやすいため、すこしの異質でも排除しようとする働きが起きるのだ。
「アイツはどこか浮いている」「同期で能力はたいして差がないはずなのに、アイツだけ出世した」「あのガンダム作品好きが気に食わない」など、学校や職場とかで生じる「妬み」や「憎悪」が「イジメ」や「ハラスメント」に発展しやすいのも、この日本人的特性と深く結びついている、と分析している。
以上の3つの要因が複雑に絡み合い、「ルサンチマン(常日頃から感じている悔しい思いやねたみの気持ち)」を抱えやすい日本人は、攻撃できるはけ口を見つけると、ボルテージが一気に増幅。日常は抑えている攻撃的な衝動があらわになる、というわけである。
バッシングをすることによって、物質的な利益を得られるわけではない。むしろ、相当の時間とエネルギーを消費してしまう。非合理的な行動なのだ。
本書によると、そもそも人の行動の多くは、合理性よりも「快、不快」あるいは「好き、嫌い」の感情で左右されるものだという。攻撃的で不寛容な人たちは、自らの感情に忠実な人たちという側面も併せ持つ。
閉ざされた狭い島国において、似たような顔をしたものどうしがお互いを監視しつつ、ほんのすこしの差異のために競い合い、憎みそねみ合っている。
私たち日本人は、こういった状況を世界的にみて特別だと気づくこと、特殊だと認めることから始めるべきではないか、と投げかけている。
◇「ネトウヨ」:2chまとめ等だけを見て政治思想を形成してる人。ただこの定義だとまとめが好きなその辺のおばちゃんとかも含まれそう。
◇「右翼」:右翼団体に所属して活動している人。民族主義という点を除けば意外と思想は自由らしい。共産主義や天皇制反対の右翼も居るとか。右翼団体に所属しないが民族主義的な思想を持つ政治家などについては、「右翼」と呼ぶことに抵抗があるせいか「保守」と呼ばれることがある。
◇「左翼」:マルクス主義に代表される、弱者に同情的な思想を大学等で身に付け、それに共感を持つ人。
◇「パヨク」:しばき隊とそのシンパ。上記の左翼的思想を持つ人に対する揶揄としても使われるようになりつつある。
◇「リベラル」:基本的には上記の左翼的思想を持つ人を指す言葉で「パヨク」と違い、揶揄する意図はない。ただ、歴史的沿革から様々な意味で使われてきた用語なので「結局誰のことを指してんの?」となりやすい。
◇「反日」:様々な理想主義から現在の日本を否定する人。特に理想実現のためとは思えない、批判が自己目的化した言説を吐く人のことを指す。
とにもかくにも「謝らせたくてしかたのない人」のことをこんなふうに呼んでいた…ような記憶がある。
呼称はさておき、「謝罪」をしたがる人、させたがる人、ともに少なくないと感じる。
芸能人や政治家のような公人ならば、わざわざ「謝罪会見を開く」「謝罪文を関係各者に一斉送信する」なんていう大掛かりなことまでやる。
謝罪しようとしまいと、起こってしまったことはほとんどの場合取り返しがつかない。
それでもなんとか…と必死でリカバリーを試みる人もいるが、そのこと自体を評価する声はまず上がらない(たとえ、結果的に修復しきれて何の不利益も残らなかったとしても)。
個人的に、こどもの頃からこのような風潮・風習に違和感を覚えていた。
それゆえに「謝れ!!」と圧力を受け不要不当過剰な叱責やペナルティを強いられた場面も少なくなかったが、それでもなお謝ることの必要性を理解できていない。
それどころか、謝罪すること自体が「白々しい」などとよけいにマイナスに曲解されることもあり、そのことがより一層謝罪することの意義を理解することから遠ざけた。
そしていまだに理解できそうもない。
さらに、謝罪といっても「誰に対する」「何の」謝罪なのかがまったく不明の場合も少なくない。
まさに「とりあえず謝っとけ」状態、その内実よりも謝罪すること自体が自己目的化しているだけで、依然としてその意義は不明のままである。
「謝れば何やってもいいの?」という新たな疑念さえ浮かんでくる。
…などと理屈を並べ立てたところで、仕事上ではお客様などに謝罪の(意を含む)言葉を述べることはもちろんある。
まったく謝る必要などない、無意味な行為だ、などと断じるつもりもない、だが積極的に行おうという想いにも至らない。
ただ、この「謝らせたい」心理を人々の中から取り去ることができたとき、今よりも閉塞感の少ないもっと住みよい世の中になりそうな予感がしてならないのだ。
●日々、社会の何処かでガキ野郎が生まれ、問題行為が繰り広げられている。
確かに、迷惑をこうむる側にも否があり、迷惑を掛ける側にも理がある場合が少なくない。しかし、問題行為が開始され、その流れが定まってしまうと、にわかに大勢が参加し、 過激さが加速度的に増していくさまは、脅威を感じるときすらある。
●今で言う鉄道系リア充や重度な鉄道オタクは、昔で言う暴走族のようにこういった人たちの多くは一見「物好き」を装っているが、本音は物を徹底的に糾弾し、傷つけ、ひねりつぶすことにあるという。そうだとすると、なぜ、「DQNすること自体を自己目的化したDQN」が横行しているのだろうか。その理由は「娯楽文化のスケールが極端に大きくなっていること」と「資本主義や新自由主義の発展」、「世界の肥大化」、そして「日本人が元来持つ特性」が関係しているという。
◯「オウム真理教」では疑心暗鬼にかられた人間が、ついには隣人まで信用できなくなり、仲間同士が殺し合い、そして「一般人」も敵として攻撃される。そしてついには組織の崩壊を招いた。今の鉄道消費空間はこれと似た状況になりつつある。20世紀にカルト化の恐ろしさを教えた「オウム真理教」はある意味歴史から消してはいけない存在である。
◯人間は電波系として生まれるのではない。どこかで偏見や憎悪を抱いた時、電波系になるのだ。何かを殺して気勢を上げれば、その囲いは狂気から心を濁らせていく。この連鎖はおそらくとどまることを知らないだろう。
集団ストーカー論者、1980~2000年代前半の青少年の行いがゆとり世代・刹那主義世代・理由なき犯罪者のような疑心暗鬼を生んだように、カルト化の横行はさらなる過激な思想を生むと思われる。
ひょっとしたら電波系は実在していて、この動きをほくそ笑んでいるのかも知れない。
こいつらは自分で切符などを買いあさり、故意に集団でその沿線で移り住み
をしやがった!実際は組織的に行っただけなのに!これは都会の人間としては絶対にみっともないことだ!
カルトとキ○○○を合わせ持つ最低最悪の行為だ!左翼活動家の集団移住よりもよっぽどふざけてる
こんなことが許されて良いはずがない!いいや左翼以上に外道な行いかも。
最近やたら安い駐車場や駐輪場や車やバイクが多いのもそれが理由じゃねーの?
最近は公共交通利用促進ポスターが都市部から消えているが、これで、公共交通利用促進の元に鉄道やバスなどの公共インフラをならず者のように我が物顔で好き放題弄んでいた私鉄オタクたちを委縮させ、需要が過剰に増えた鉄道やバスの需要を適正化させる有効な効果にもなると思われる。
一般市民などが私鉄の大盤振る舞いをやめさせて公共交通としての運営に専念させることが出来れば、鉄道で「遊ぶことが」できなくなり、鉄道の抱える問題のいくつかが減り、公共交通が再生される。
鉄道の利用者から消費者が減っていけば、よほどわずかな「露悪趣味を愛してやまない」卑劣な人間だけがふるいにかけられることになり、彼らのような異端な存在は、「世論の良心」によって糾弾を受けることになる。
大体この取り組みは嘗ての韓国で行われていたものだが、日本では、今こそ全国の自治体単位で当たり前のように広めるべきだし、もっといえば富裕層に対する公共交通の利用の制限とマイカー利用の努力義務をすべきだ。国土が狭くて人口の多い韓国や台湾でもできるのだから日本でもやらないとダメである。
「これは民営だ!公営ではない!」みたいなうちはうちよそはよその発想ではだめだ。そうやって大都市部から、過剰な需要を消し去る作業をするとともに、むしろ富裕層の健常者を対象にして公共交通の目的外利用に対して何らかの社会的ペナルティを実施するべきだ。←ほんとこれ
自分達の歪んだ行いを「昔からの伝統だ」とか「都会人の文化を馬鹿にするな」などと妄言を吐くが、公共交通の利用は無限に認められるべきものではない。
少なくとも何らかの制限は行わなければならない。
ましてや公共交通のあり方に対する私鉄への批判を「不当だ」と言って何の疑問も感じないらしいネット原住民のような子供のような存在をいつまでものさばらせておいてはいけない。
私自身、高校時代に鉄道を娯楽目的に利用して教諭に嫌われたことがある。当時既にこういった連中を嫌う大衆の意見が既に存在するからだ。
昔の私といい、私鉄オタクといい、公共に対する軽視が大手を振って罷り通っているこの社会の異常さを痛感する。彼らの不良ぶりがはっきりわかるんだね。
http://anond.hatelabo.jp/20160724063141
ウヨが全員そうかは無論知らないが、ナマポその他で、中韓などの連中が家族を引き連れたり、母国の親戚まで家族に入れたり人数水増しして、せしめている話を聞いて、そりゃいかんといったところから、啓蒙活動していくうちに、マスコミによる歪曲や市町村議員の票田の種になっていることを知って、ナマポ自体に反対するようになったんじゃないかな、と考えている。ウヨだからナマポ反対なのでなくて、逆方向のなれの果て?
サヨも、友人や近所の人の戦禍や被差別の話などから、マスコミによる隠匿や米の陰謀につながって、日本国や米国政府のすることを何でもかんでも潰す方向になったのかと。
2chは10年近く見ていないなあ。。どこの板のことだろう?
飲酒を「飲み」ではなく「呑み」と表現することに違和感がある、というか引け目を感じる。
こういった認識の根底には「飲酒=レクリエーション及び娯楽のための手段」という定式が私の中で成立していることもあるだろう。だが、それを抜きにして考えてみても、やはり違和感がある。字面の問題だろうか。
「飲み」という言葉は体内に摂取するような意味合いで用いられているということがある。そこには人間の主体性があり、飲酒に用いられた場合、ほろ酔い気分を連想させる、みんなでワイワイしゃべりながら「飲む」という楽しそうなイメージを与える。
これに対して「呑み」という言葉は「丸呑み」という言葉に象徴されるように、外部からの不可抗力のようなものを受けているように感じる。謂わば人間の主体性がアルコールに脅かされているイメージがあり、ほろ酔いどころではなく泥酔を想起させる。
「呑み」という言葉はどちらかというと未成年者の飲酒で多く用いられている気がする。生理的な問題として、彼らが飲酒をするときはまさしく後者のような感覚で、気持ちが悪くなるほどまでに飲酒しないと「呑む」という行為が成立しないという認識がありそうだ。
杞憂かもしれないが、心配なのはこの程度までの飲酒行為が時代がたつにつれて正当なものとなっていくことだ。吐くまで飲まないと飲酒にならないという認識が広がれば、飲酒はまさしくレクリエーションの手段ではなく、泥酔に達することが目的となってしまうだろう。
飲む行為が自己目的化してしまったとき、そこにはどんな世界があるだろうか。きっと混沌としているに違いない。レイプ、恐喝、喧嘩といったマイナーな夜の世界の出来事が日常なものとなってしまうと思っている。
「それは性悪説に基づいている。草食化している日本の若者がそんなことをするわけがない。」という反論もあるかもしれない。
でも国際交流や海外旅行が日常的になり、いわゆる貧困国と呼ばれた国の人々が裕福になりつつある今日の状況を鑑みれば、これからはさらに多くの人が海外からやってくることは予測がつく。もしかしたら彼らは日本人と違って、もっと獰猛であるかもしれない。この2つの仮定が相俟って成立したとき、どうなるかは言うまでもないだろう。
東京の維新が都議会で「賛成」した「大日本帝国憲法復活決議案」って、
元は南出弁護士が出した議案らしい。
南出弁護士、どっかで聞いたことあるなあ・・・と思っていたら、
思い出した、「子宮頸ガンワクチンは日本民族絶滅の陰謀だ!」と医学の足を
思い切り引っ張ってる御仁じゃないか。
で思ったのだが、この南出弁護士、まともな弁護士活動は、ちゃんとしているのかしらん?
「負けることは承知のうえで提起する」場合、
「もっともらしい言説を裁判所で陳述する」のに、この弁護士の言説が、役に立つのかもしれない。
右翼言説のロジカル化、「法的にもっともらしく見せかける」のに、
南出弁護士の弁護士資格が、威力を発揮する、そんなところじゃないか?
本人も、敗訴することは最初から承知の上で、「法廷で右翼言説して、それを世間に広める」ことが
自己目的化しているんだろうなあ。
ところで、安倍総裁って、子宮頸ガンワクチンについてどう思っているのか、いっぺん確認してみたい。
親学とか水伝とかトンデモに染まっているので、「子宮頸ガンワクチンは危険だから接種差し控える」と
言い出しても、全然驚かない。
というより響きが気持ち悪い。
どうしてこんな下品な言葉を乱用するようになってしまったのだろう。
とかで、いままで生きてきた中では前向きな使われ方を見てきたことがない。むしろ不吉なものを暗示する言葉の響きなのだ。
三つめに至っては「注意を拡散する」とかは、要は陽動であり、扇動であり、相手を出し抜くということだ。
だから、今回特に震災でツイートを「拡散希望」とかが大量に流れてくるのを目にして、これって用法違うんじゃないのとずっと違和感を感じていた。
とある。
つまり、それ自体が自律的な運動をともなっているということらしい。
これは、それを発した「者」の意図や意志に依存することなく、好き勝手に一人歩きすることを示してもいる。
コンピューターウィスルが自身のコピーを増やしていくことのみを目的とし、相手を選ばず様々な宿主を媒介にするように。
相手を選ばないという意味においてはデマもウィルスと相似している。
「拡散」という響きはその発した本人の意図に関わらず、言葉そのものが自己増殖していく運命を伴っている。
そこには発せられたソースの真偽の確度や意図された目的や意図の紐付けは後回しにされる、ということだ。
拡散自体がコピーは新たなコピーを量産するという自己目的化が強く作用するため、簡単に収束する術をもたない。
これね、例えば自分が信頼しているフォローした人が、「拡散希望」なんてリツイートしていて、もし自分にリテラシーが無かったら何も考えずにリツイートしちゃうかもしれない。内容なんて全く興味なくても。だってコピーしてくれって信頼している人から言われたら誰も断らんでしょ。思考停止の世界へようこそ、ですよ。
シェアはもう半分日本語と言っても差し支えないほど浸透してきているけれど、この言葉がもつ響きは拡散のそれとは真逆かもしれない。
拡散がまき散らして放置しているに対し、シェアは単に「分け合う」という意味だけでなく、「分かち合う」という意味も含んでいる。
つまりそこには発せられた者の強い肯定的な感情や意志、意図が働いている。決して発した言葉を放置しない。
そしてこれは常に同様の工程を相手に架してもいる。
つまり発したソースに紐付けされている意志を「分け合った」相手にも「分かち合う」作業を意図的に行わせる、ということだ。単なるリライトではなく、自分のフィルターを通すという所作を意図しているため、情報の確度が無意識に求められる。拡げて放置することのみを目的とせず、一人ひとりの情報精査が前提としてあるということだ。
信頼ある人から来たリツイートでも、その前にシェアするべきか否か自分のフィルターを通すという判断や作業が無意識に働くから、「拡散」のように無闇なリツイートというのは減るだろう。なぜなら「シェア」としてリツイートした情報というのは、自分という名のタグ付けがされた情報だからだ。逆に言えばタグ付けしたくない情報は「シェア」をしない。言葉の使い方ひとつで、不用意な拡散の抑止になるはずだ。
「拡散」という言葉を使っていながら「デマ」に注意しろという人は、車で練炭焚きながら一酸化炭素中毒には注意しろといっているようなもんで、なんかマッチポンプだ。拡散という言葉もにちゃんねらーから来たのをそのまま流用してしまってそのまま放置されているんだろうけれど、界隈の人も自己補正はちゃんとしてほしいよね。特に、言葉を使うプロ達が何も考えず「拡散希望」のリツイートを連発しているのは見ていてちょっと恥ずかしい。