2013-02-07

「飲み」と「呑み」について

飲酒を「飲み」ではなく「呑み」と表現することに違和感がある、というか引け目を感じる。

こういった認識根底には「飲酒レクリエーション及び娯楽のための手段」という定式が私の中で成立していることもあるだろう。だが、それを抜きにして考えてみても、やはり違和感がある。字面の問題だろうか。

「飲み」という言葉は体内に摂取するような意味合いで用いられているということがある。そこには人間主体性があり、飲酒に用いられた場合ほろ酔い気分を連想させる、みんなでワイワイしゃべりながら「飲む」という楽しそうなイメージを与える。

これに対して「呑み」という言葉は「丸呑み」という言葉に象徴されるように、外部から不可抗力のようなものを受けているように感じる。謂わば人間主体性アルコールに脅かされているイメージがあり、ほろ酔いどころではなく泥酔を想起させる。

「呑み」という言葉はどちらかというと未成年者の飲酒で多く用いられている気がする。生理的な問題として、彼らが飲酒をするときはまさしく後者のような感覚で、気持ちが悪くなるほどまでに飲酒しないと「呑む」という行為が成立しないという認識がありそうだ。

杞憂かもしれないが、心配なのはこの程度までの飲酒行為時代がたつにつれて正当なものとなっていくことだ。吐くまで飲まないと飲酒にならないという認識が広がれば、飲酒はまさしくレクリエーションの手段ではなく、泥酔に達することが目的となってしまうだろう。

飲む行為自己目的化してしまったとき、そこにはどんな世界があるだろうか。きっと混沌としているに違いない。レイプ恐喝喧嘩といったマイナーな夜の世界の出来事が日常ものとなってしまうと思っている。

「それは性悪説に基づいている。草食化している日本若者がそんなことをするわけがない。」という反論もあるかもしれない。

でも国際交流海外旅行日常的になり、いわゆる貧困国と呼ばれた国の人々が裕福になりつつある今日の状況を鑑みれば、これからさらに多くの人が海外からやってくることは予測がつく。もしかしたら彼らは日本人と違って、もっと獰猛であるかもしれない。この2つの仮定が相俟って成立したとき、どうなるかは言うまでもないだろう。

酒に人間が呑み込まれてしまいそうで怖い、ということをこの「飲む」と「呑む」という言葉の間から感じる。

  • まあ、難しい事言ってないで飲めよ。呑め飲め。取り敢えず呑んどけって。

  • 元増田の年齢は知らないが、まぁお若いんでしょう。 飲み屋に「イッキ飲み禁止」なんて貼り紙が貼られるようになってまだ10年は経っていないだろう。 大学は学生に新歓コンパで...

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