はてなキーワード: 教育困難校とは
>別に学校に来なくたって社会で生きていける奴はたくさんいるんだよ。学校だけが世界じゃない。」って先生にもあてはまるのね…。
教育を受ける義務がないことの確認と教育を受けない妨害する児童生徒の退学と関係者以外立ち入り禁止だ。
教育困難校とかいじめとかはこれで解決。まあ街にゴミがあふれるけどな。警察は頑張れ、それが仕事だ。
「親の躾が悪い」とかドヤってるブコメが多いけど
元の教育困難校シリーズ読んでたらそういうレベルの世界の話じゃないのが分かるはずだが
こういう切実な問題のほうが急務なんだけど、Twitterとかで騒がれんのは、掛け算の可換がどうのという糞くだらない問題。
自称インテリな文化人たちは、自分たちがいかに惨めないじめられっ子で、どんくさい人間で、理不尽な仕打ちを教師から受けたか涙ながらに語り、「教育氏ね」と嘯く。
教師のお陰でなんとか四則演算をマスターし人並みに生活を送れているような底辺の人は、そもそもTwitterになんぞ現れない。
アメリカのトランプ当選でまざまざと見せつけられた「サイレント魔女リティ」の存在を、しかし未だTwitter民は無視し続ける。
俺も教育困難校に3年勤務した。
中学時代はいわゆる不良とも仲が良かったので、着任前は高をくくってた。
一限目は生徒の半分しかいない。
中学時代に教員から見放されていた子が多く、遅刻をしても何も言われていないので
何があったのかと確認したら、授業の途中で嫌になってしまったらしい。
校内ではシンナーが蔓延し、窓ガラスの外側はタバコの吸い殻だらけ。
注意をしたら唾をはきかけられた先生がいた。
教室の後ろで野球をし、ぐちゃぐちゃな向きに固められた机で大声で雑談する生徒の中で、
ひたすら板書をする先生も居た。
「ね」と「れ」の違いが分からない、アルファベットが言えない、
江戸時代を知らない、自分の住所が言えない、色々な生徒が居た。
風俗街の外れのアパートで、風俗に勤める母と兄弟と、2間のアパートで暮らしている生徒も居た。
卒業までに1つの学年で80人が退学する、そういう学校だった。
でも彼らと接している内に、俺は何でここにいるんだと考えるようになった。
「学校だけが全てじゃないよ」「勉強より大切なものがあるよ」って伝えることに何の意味があるんだと。
俺の役割は彼らに勉強の楽しさを、学ぶことの重要さを知ってもらうことじゃないかと。
「オレ、バカだから」が口癖の彼らに「そうじゃない」って言えるのは教師にしかできないことじゃないかと。
彼らにどうやって教えるべきかを。
理解ってなんだ?知るってなんだ?身につくってなんだ?
学ぶってなんだ?
振り返ると、着任前の俺は「生徒に人気のあるオレ」になりたかっただけだった。
でも、彼らと出会ってプロって何だってことを教わった気がする。
素晴らしい先生との出会いもたくさんあって、忘れられない思い出だ。
仮に辞めたとしても「自分には全身全霊を何かに傾けた時があった」というのは、
最近、東洋経済オンラインの教育困難校シリーズを読むと泣きたくなる。
これ、うちの職場の話だ、と思って、泣きたくなる。
これ、どこにでもある話なのかな。
日本全国?
日本、まずくない?
毎日、授業にもならなくて、毎日、ババアとかブスとか、死ねとか言われまくって、
ちょっと強く言ったら、
そういう子に情熱を傾けるのが教員でしょ、それがやりたくて教員になったんでしょ、って
そんなわけねーだろ、バーーーカ!!
こんな目に遭うことまで想定して、教員になる奴なんていねーよバーーーカ!!
そりゃ仕事だから、時間かけて生徒には関わるよ。保護者とも話すよ。
すぐに結果が出ないってことだってわかってるよ。卒業して何年も何年も何年も経ってから、本人も気づかないところで人生に少しでもプラスになれば万々歳で、そうじゃないことばっかりだってことも理解はしてるよ。
公務員の給与プラスアルファで、朝7時から夜9時まで、昼休みなんて、パンを体内に詰め込む5分くらいで、クレームにうまく対応しながら、全く学校に行かない日なんて月に2、3日でも、休みの日だって狭い生活圏で、あの人は先生だって周囲に見られながら生活して、それでもそういう仕事だって、思ってるよ。
そりゃ、世間やネットで騒がれるアホな教員もいる。生徒にバカにされて当然っていう教員もいる。一つの専門分野に偏った知識だけがあって、コミュニケーションが苦手で。いわゆる発達障害だよね?っていう、生徒とも同僚ともうまくいかない、黒板と問題集だけがお友達の教員もいるよ。別にそれに特化して受験指導で力を発揮してるならいいよ。教育困難校にいたら、本当にただただプライドが高いだけで邪魔だけど。
でも、教育困難校で、罵詈雑言を浴びながらも生徒と向き合って頑張ってる人もいるんだよ。これまで大人にかまってもらえなかった生徒たちに少しでも役立つ知識と経験を、と思って毎日授業を工夫してる人だっているんだよ。
どんなに無茶苦茶言う生徒にも、説教するけど、最終的には皆でフォローするよ。
児童相談所に保護されると学校通えなくなるから、どんなに親に虐待されようと保護されるのだけは嫌だって泣く生徒を家に置くこともあるよ。
発達障害で親の言うことが理解できなくて家を飛び出した生徒を迎えに夜中2時に隣町まで車を走らせることもあるよ。
そんなことを言われて、そんな対応をされて
そりゃ鬱になるよ。やりたくなくなるよ。一生懸命やるだけ無駄だって思うよ。
好き勝手やってる生徒たちにも事情や背景があるのかもしれない。それをできるだけ汲み取りたいとも思うよ。
でも、事情があったら、教員は何でもかんでも受け止めなきゃいけないのか。
いい加減にしてほしい。
別に学校に来なくたって社会で生きていける奴はたくさんいるんだよ。学校だけが世界じゃない。全然学校にこだわる必要はない。
勉強も、コミュニケーションも、経験も、学校以外でもできるようにしてくれている大人がたくさんいる。
だから、別に無理して学校に来る必要はない。邪魔だから退学しろ、ではなくて、きっと君にもっとぴったりの道があるよ、って思ってしまう。
高校は、社会に出てから少しでも苦労しないように色々経験するところで、好きにやりたいなら、社会に出たらいい。
しんどいですよね。
私は今日は久しぶりに8時に帰れました。
国語なので、採点も大変です。
しんどいです。
私はもう次年度いっぱいで辞めようと思っています。
前日の飲み会に比べて疲れたな。って感じたのは自宅で大学同級生と飲んだのと違って,
名古屋までJR使って足を延ばしたからかな。なんて考えながら帰ってきて,
夜中に酒による吐き気で起きた時に,気づいてしまったから書き残しておく。
高校の同級生と合うのはたぶん5年ぶり。31歳。結構あっていなかった。
高校時代,とても仲が良かったし,5年前までは毎年のようにあっていたので自分でも今年誘われたとき,
なんで5年も空いたのだろうか。と不思議だった。
メンバーは医師,某ビール会社の開発(肩書き付),トヨタの完全子会社のなんか出世が約束されたとこ。
世間的にみたらいわゆる受験戦争の勝ち組。医者以外は国立大(院)卒。
給料も手取りで1千万とか,ちょっと足りないぐらいだとか言ってた。
今年は4,5回海外旅行いって,元旦からもカンボジアに旅行に行ってくる。とか,
新しい車を2回ほど買い換えた。とか,今の日本の景気状況と比べたら別世界のような話をしていた。
でもなんか違和感があった。
石に刻まれた絵画,歴史,モチーフ。その壮大さに腰が抜けるかと思った。
シャムリアップの人々の生活は豊かではなかったが,良く笑っていた。
だまして売りつけるという空気感は無く,ラオスに通じるおおらかさを見た。
展示物を見た後に飯がのどを通らず,
うざい声かけしてくるおっさんタクシードライバーも,この戦争を乗り越えたんだと思ったら,
涙がでるかと思うぐらい,愛おしかった。
でも,そんな話は昨日の飲み会では通じなかった。
自分が行った時の話をさえぎり,俺もその場所に旅行したことある。で,どこのホテルに泊まったの。と別の彼は言った。
でも,家のマットレスを40万の良いものに変えたらどこの高級ホテルでも寝られない。といって話は違うところへいった。
どこに行ったのか。何を食べたのか。どこに泊まったのか。そのホテルの格は何か。どんな女を買ったのか。
いくらつかったのか。
どんな贅沢をしたのか。
すべての話は結局そこに落ち着いた。
結婚式を挙げるホテルはマリオット,ヒルトン,ウェスティン。どこが良いかな。
共働きの夫婦だから夕飯にいつも困って,こんな高いものを食べたよ。
でかい4Kテレビを買って,見るものないからyoutubeでスロットの解説動画をみてるよ。
どうでも良いことで悩んでいるんだな。と思って聞いていた。
でも,さっき気づいた。この話はすべて品評会だったんだと。
俺は他の男と違ってこんな金のかけかたができる。
こんなにも裕福になった。贅沢ができる。で,お前はどうなの?そう聞かれていた。
できない嫉妬なのだろうか。いや,絶対に違う。それぞれはしたければできない贅沢ではない。全部は無理だけど。
自分を羨ましがってもらって,自分のしてきたことは正しいことなんだ。
自分の経験値は間違っていないんだと正当化して欲しいだけなんだ。
東大で過ごした博士課程の3年間。とうぜん周りの人間は東大生ばかり。
でも博士課程に進学するだけあって,あまり,分かり易い欲が見えなかった。
でも,こんな経験がしたい。これが見たい。これが食べたい。これが知りたい。
そんな純粋な自分の欲求をみたすために,全員のベクトルは異なっていたが,貪欲だった。全力だった。
いわゆるマッドサイエンティスト的な雰囲気がそこにはあった。最高だった。
ベクトルが自分と違うから見えにくいだけで,そこには確実に,なるべき自分をそれぞれに持っていた。
高校・大学時代に勉強しておいてよかった。と昨日の彼らは言っていた。
いや違う。君らは何も先人たちの英知を学べてはいない。
ただ,学歴を勝ち取って,そこを卒業し,資格を取り,お金という対価を比較的短い時間と交換できるようになっただけだ。
今,自分が何をしたくて,どう行動して,世界にとって必要なものは何か。何も考えていない。
君たちの言う学問とは何か。世間でいう勝ち組,世間でいう高学歴とは,この人たちなのだろうか。
神を畏れることは知恵のはじめ。無知なものは知恵をも諭しをも侮る。
現勤務校にも,卒業高校にも,たまたまキリスト教高校なので,この一句が飾ってある。
勤務校ははっきり言えば底辺校,教育困難校。卒業高校はまぁまぁの進学校。
それは進学に力をいれるばかりに,キリスト教教育を怠っているからだと宗教主任は語っていた。
それを聞いたとき,あぁ,そうですか。でもそれは勤務校の生徒がアホだからでしょ。って思ってた。
でもこの評判は,正しいのではないだろうか。
自分はキリスト教徒でもない。若い時には宗教アレルギーも強かった。
とはいえ,聖書に書いてある諭しや教えの多くも,学問を通じて,経験を通じて,失敗を通じて気づけていた。
だから,受験で使わない聖書の授業は,宗教の授業は,勤務校の生徒がアホだから「教えてあげなければならず」,
アホじゃなければ「自分で身に着けられる」と勝手に信じていた。自分で作った宗教にはまっていた。
でも恐らく違うんだと気づかされた。
昨日の3人はおそらく,知恵をも諭しをも侮る,無知なもの。だと思う。勉強も仕事もできるはずなのに。
小さな自分の価値観を,他人に羨んでもらうことでしか確認できないようになったのはいつなのだろうか。
学部生の時に友人に「お前は資本主義の権化だ」と言われた。その時は全く理解できなかった。
だって何か特別なこともしてないし,ものを買った覚えもなかったから。
仲が良かったということは,すくなくとも高校時代のあのころは彼らも同じ価値観だったはずだ。
でも昨日の彼らは,いや,昨日の彼らも,資本主義の権化だった。見ていて・聞いていて辛かった。
自分は若いうちに言ってくれる友人ができて,師に会えて,幸せだったわけだ。
その後,学問の道にすすみ,お金はなかったし,挫折もしたけれど,
自分のやりたいことだけ,やりたい場所で,時間をつかえて自分を見直せてよかった。
大学で何を学んだのか。の差だと思う。教育はすごいと確信した。
5年間会っていなかった理由をこの文章を書きながら思い出してきた。
2011年に会ったとき,東京は計画停電と自粛ムードでどんよりしていた。
でも原発はもう一度壊れるかもしれない。そこには自然があり,生き物がすんでいる。
自分は,人間だけの都合でその環境を再生不可能な形に改変してはいけないと強く言っていた。
あの時,少しの呆れと絶望を感じたので,昨日まで会っていなかったのだろう。
昨日の飲み会で生じた感情もおそらく同じだろう。自分にとって残念であった。
学ぶ時間は大切だと痛感した。彼らは良い師に巡り合えなかったのだろう。
良き友人らと朝まで色々な価値観のもと,議論できなかったのだろう。
ただ,もちろん,彼らの価値観が間違っているわけでは無いと思う。自分と相いれないだけ。
でも,仲の良かった友人たちが忌み嫌う価値観のど真ん中にいたことは自分にとって残念でならない。
人間は,もっと自然から,歴史から,周りの人間から学んでいくべきであるし,そのために高等教育があるはず。
受験戦争に勝つことも,高いお給料をもらうことも,もちろん大切なことの一つであるが,それだけではない。
学問とは,大学とは,高校とは,教育のすべては本来そうあるはずだし,そうあるべきであろう。
君らの心は貧しい。と言ってあげるべきだっただろうか。たぶん笑わるし,理解されない。
飲み会の席で今の感情に気づいていれば,あの時の自分は言っていたのだろうか。
30超えたおっさんに説教しても変わらないのでしなかったと信じている。
熱く語って恥ずかしくなってもっと早く帰っていたかもしれない。たぶん,そうだっただろう。
なんだか教師としての道が見つかった気がする。
昨日までは教科教育に精一杯だったが,なんだかやりたいことが見つかった。
あの空間に自分の生徒を送り込んでやりたい。一人でも多くの若者に自分の価値観の狭さを実感して欲しい。
別に東大じゃなくてもその空間はあるかもしれないが,自分があの空間を経験したのが東大だから仕方がない。
少なくとも一昨日まではその空間が維持されていると聞いているし。
それは私自身が生きやすい世界のために必要な手段である。あくまでも自分のため。
もうすぐ息子が起きてくる。
教育困難校の「英語の授業」で見た悲惨な現実 | 学校・受験 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
普通科高校の教育困難校は知らないのだが、最近まで、子供が通信高校の学習センターに行っていた。(下参照)
上のwikipediaには色々問題点、書いてあるけど、私の子供がいっていたところは、同級生の親のほとんどは、学習センターにとても感謝してた。普通の高校に何らかの理由で行けない子供がほとんどなので、平均的な学力は教育困難校レベルだと思う。子供のプリント見ても、「えっ、こんなんでいいの?」みたいなレベルだった。それでも、先生たちは学力ない生徒たちに、50分間飽きない授業をつくるのに一生懸命だったし、先生たちは、自分たちのそういう努力にむしろ誇りを感じているように見えた。
時間はかかるが、教師がワンセンテンスごとの英文、和訳文、注意するポイント等をチョークで色分けし、記号も使って見やすく書いていき、生徒にそれを丸写しさせるほうが、効果的とわかった。手を動かして、ノートに書き写させる作業が、生徒の精神安定上にはいちばん良いようで、ほとんどの生徒は何とかやろうとしてくれる。結局、教師が自己流教科書ガイド、いわゆる「虎の巻」を毎時間作って生徒に示しているような授業になっている。
教師が奮闘しているうちに、授業終了を知らせる待望のチャイムが鳴った。「今日は、教科書が10行も進んだ、よく頑張った」と、少しの満足感とともに教室を去る。
これ、多分、私の子供の学習センターでも同じだったと思う。というか、学習センターでは、教科書さえつかわなかった。毎回、先生がつくったプリントが教科書がわり。どの教科も。教科書の内容をそのまま教えることは、先生たちは最初からあきらめてたと思う。学力的にそうしないとだめな生徒さんが、すくなくとも何割かは教室にいたんだろうと思う。でも、この記事の前回のやつみたいに、授業が崩壊することなんかなかった。
くりかえしになるけど、この学習センター、全然悲惨でなかった。親のほとんども学校に感謝してて、保護者会なんて、どんだけ中学校まで、学校に苦労させられたり、子供のことで大変だったか、お母さんたちが順番に泣く告白タイムにかならずなる。(あ、先生がへんな誘導していたわけじゃないよ)それで、ここ来て、子供も毎日、学習センターへたのしく行ってて、とってもよかった、みたいな話になる。あと、この学習センターでも子供がひきこもったままになっている親御さんをみんなでなぐさめたりもしてた。授業も崩壊したりせず、先生と生徒はだいたい仲良しだった。
卒直にいえば、卒業後の進路はそんなに明るくないよ。すごくがんばってて、仕事たのしいです、お目目キラキラみたいな卒業生もいたけど、世間的には中卒に毛がはえた程度とみなされる。あんたらがFラン大学卒業生になげるような視線あびつつ、仕事さがすわけだ。大学行く生徒さんほとんどいないみたいだったし。
でも、多くの生徒にとって学習センターは楽しいところで、親も学習センターの先生信頼できていた。どうも、上の東洋経済の記事よむと、勉強できないこと、指導要領どおりの進度で授業すすまないことと、生徒や学校の荒廃とか不幸とかを直結して書いているように感じてしまう。生徒のほとんどが勉強できなくても、そんなに不幸じゃないように、学校が荒廃しないですむようにすることは、ちょっと工夫すれば、普通の学校でもできるんじゃないか。そうでなければ、学力以外で、不幸の原因があるんじゃないかと、元学習センターに通う子供の親は思うのです。
http://toyokeizai.net/articles/-/140774
こちらのエントリを読んで、長谷川豊氏の「自業自得の透析」を思い出した。
教室内の生徒たちの間にも休み時間と同じ光景が広がっている。一人の生徒の席の前に数名が集まって、にぎやかにスマホでゲームに興じているグループがいくつもある。教室の後方では数名の男子が、「うけるんだけど~」と言いながら相手の肩をばしばし叩いて、大声で笑っている。その足元では、まぐろのように伸びて一人の男子が爆睡している。
件のエントリの冒頭で描かれている「モンキー高校」の日常風景だが、これ、長谷川豊氏が「取材した」という病院風景に驚くほど似ている。
文章の「生徒」を「患者」に、生徒の行動をそれっぽく変えてみるとこうなる。
病院内の患者たちの間にも健常者と同じ光景が広がっている。一人の患者の席の前に数名が集まって、喫煙をしているグループがいくつもある。病院の後方では数名の患者が、「うけるんだけど~」と言いながら相手の肩をばしばし叩いて、酒を飲んでいる。その足元では、まぐろのように伸びて運動をしようともしない一人の患者が爆睡している。
長谷川氏は数名の医師からこのような現状を聞き、病院でこのような光景を目にして、そして義憤にかられてあのようなエントリを世に出した、と言っている。
「モンキー高校問題」と「透析自業自得説」は、共通した問題から出発している。
つまり、「いざという時に自分を律することが出来ない人がいる」という現実だ。
高校にしろ病院にしろ、日常的な選択肢の一つ一つが将来の生活なり生命なりを形作る以上、
教師なり医師なりの言うことをキチンと聞いて、ある程度窮屈な時間を我慢しなければならない。
でも一部の人はそれが出来なくて、指示や忠告を守れず、「易き」に流れてしまう、というものだ。
キチンとした「アリ」からすれば、疎ましく見える「キリギリス」なのだろう。
さて、同じ問題意識から出発している二つのエントリではあるが、結論は全く違う。
「透析自業自得説」で長谷川氏は、そんな自堕落な者は殺してしまえ、と言い、今も考え方を変えていない。
なぜそんな者たちを、若者の金で救わねばならないのか、と。
「モンキー高校問題」で朝比奈氏は、そんな自堕落な者は退学させてしまえ、とは言わなかった。そうではなく
忘れてならないことは、彼らは家庭環境や、学校の教育環境、さらには周囲に気付かれなかった病気や障害などの理由で「教育困難校」に入るしかなかったという点だ。そんな彼らをこのまま打ち捨てておいてよいのか。それは、そこに通う生徒にとっても、日本社会にとっても大きなマイナスにならないか。
と、その者たちの「自らを律する力」はどこで欠如してしまったのか検証し、手を差し伸べるべきなのか、いかに手を差し伸べるのか考えよう、と言った。
朝比奈氏のこの考え方は、長谷川氏が自業自得だと息巻いた透析患者にも当てはめることができると思う。
家庭環境なのか、病気や障害なのかはわからないが、彼らはどこかで自分を律する力を身に着けそこねたのだ。
だからこそ、本当に大切な指示や忠告を守り通すことが出来ず、その結果、健康をそこなってしまうのだ、と。
このように考えた場合、自堕落にして病に冒されることは、はたして純度100%の自業自得の結実だろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20141023160653
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20141023160653
増田でこれほどブクマついたのが初めてで興味深く読ませていただきました。ブコメも Twitter での言及も。
せっかくなのでそれらを見てまた感じたことを軽く書いてみようと思う。
数々のコメントの内容の前に。
そういれば学級経営についての言及がなかったなと。自分が担任の経験がなく感じたまま書けることが授業くらいなものだった。
自分のこれまでの経歴では職員数の多い高校での勤務しか経験がなくそこでは一人一分掌的に、担任か、それ以外(総務、教務、進路など)といった組織体制だった。当初は常勤講師としての勤務で担任は持たせてもらえず、教諭となった今、前任校で経験のあった同じ部署で仕事をしており、次年度の分掌として学級担任を希望しているという次第。
また後でジョブローテーションなんかについても述べるが、今の勤務校が教育困難校である分不安も大きいが自身の教員としての力量形成・キャリア形成として早くに学級担任を持ちたいと思っている。ちなみに年齢的に言うと大学を卒業してから一般企業に務めた経験があり、ぎりぎり若手というくくりに入れてもらえるかなというところ。
で、HRについてだが、担任経験者にこういった人数についての話を聞くと、自分の近くではこんな感じだ。
学級経営としては大きな差異を具体的に感じるわけでもなさそう。ただやはり教室に5人増えるだけで教壇で感じる圧迫感が強いのは共通している。
これも高校の範囲でしか書かなかったので。ここに書くことは教育業界にいる人間の、現場から聞いた話と少しの憶測である。
例えば高校なんかは義務教育でない上に、多少近い傾向を持った生徒が集まる。それに対し義務教育である小中学校は、公立校には基本的に地域から選り分けられることなく生徒が集まる。で、ここで短絡的に「小中学校は学校による差は無く幅広く多様な生徒が集まる」とは言えない。地域による差があるからだ。
柄の悪い地域というのはどこにでも存在する。よく「団地の多い地域の中学校での教育は大変」なんて言ったりするが、比較的生活水準が低く、片親であったり家庭環境が複雑であったりする家庭の多い地域がある。そういった地域では、家庭でも子供の幼児教育・初等教育に割く余裕がない分、ちょっとした勉強の躓きから ADHD,LD などの障害までが見過ごされたまま子供が育ちがちだったりする。他方では経済的に余裕があり子供の教育にも家計を割くことができる家庭の多い地域があり、そういった地域間で教育格差が生まれるのは必然である。
そういった「落ち着きのない騒がしい小学校」「柄の悪い中学校」を経験した人も多いのではないだろうか。
そんな中で、高校教員の自分が言うのもなんだが小中学校の教員の方が激務だ。これは残業時間などのデータにも出ている。まず小学校は言うまでもなく担任がほとんどの授業を行う。また高校教員は大体の授業数が週 12〜18 コマであるのに対し、中学校では多い場合 20 を超える。まして人格形成も高校よりもなされていない中学校でそれだけの授業をこなさなければいけない。またその上、子供達の部活動には高校よりも張り付いて監督していなければならないし、部活動が終わり職員室へ戻って授業準備でもしようとした所に近所のショッピングモールから万引きの通報が入ったりする。
まとめると、小中学校は平均的とは決して言えず、自分が前記事で書いたような教育困難校は小中学校でもちゃんと存在し、そんな中で上述のような業務をこなさなければいけないのだ。高校で自分が前記事のような主張をしたくなるのだから、小中学校は尚更であろうと思う。
思いの外応援や労いの声が多く嬉しかったです。ありがとうございます。
コメントに多かった声。「5人を隔離すればよいのでは」から「また別の5人が発生」まで色々。
まずその「大変な5人を隔離」については、習熟度別学習もそれに近い性質もあるように思う。試験などの成績でクラス分けを行うことが多いが、それで低学力の子が少人数で集まると、そのチームで学習が行き届くようになるケースは往々にしてある。ただそれで学級一つを作るとなるとそう簡単ではないだろうなとも。
以前は特別支援教育についてもそういう生徒を分けて特別な教育をという考えがあったけれど、今は健常な生徒から課題を抱える生徒まで包括して一人ひとりに良い教育をという(理想論に過ぎる)方針に転換しているので(インクルージョン教育)、そこは今の教育の目指すところではないのだろうなぁ。
単位制みたいなイメージだろうか。特定の小規模な学級を持たず自由化ということだろうが、まずもっと教員は必要だろうと思うけどそれにしても現実的ではないだろうなぁ。
特に自分の勤務校にいるような生徒は自分で正しく判断していく力が乏しいし、持続的な集中力が乏しく激しい私語などで授業を引っ掻き回すような生徒はその場の楽しさだけを求めて集団で固まり結果授業が崩壊しそう。そこへのサポート案でもあれば。
甘えだと言われても詮ないのだが、実際ぜんぜん違うだろうし、似たような原因から似たような事も起こる。ただしどちらがいいかは別問題。後述するがそこにいる生徒たちによって理想的な人数はそれぞれ違う。それが現実的でないのもお分かりであろうが、自分の中ではこれ以外に具体的な案はない。
自分は少なければ少ないほど良いとは思わない。集団生活能力、関係形成能力、客観的意識の育成のためにもある程度の人数の集団は必要である。そのための場が生徒にとって、30人前後の学級なのか、10人前後の部活動なのか、15人の特別支援学級なのかはわからない。またこれまでの授業経験でも学級の経営一つで25人の授業が30人になった後でも良くなるケースだってある。生徒たちが自身にとって最も有用な集団に属するのが良いと思う。
http://anon.isc5.com/2014/10/kyousi.html
記事にいくつかの事が書かれているけどそれらについて。
通信制高校も全日制高校も同じ学校だし、それらと塾もまた別だし混同しすぎ。
まず通信制や全日制など様々な学校があるのは当然生徒たちに適した学校教育が受けられるため。
あと教員免許状について誤解されているようだが教科指導技術だけで免許を取得しているわけではない。教科指導のみでなく発達心理を学んだ上での生活指導やカウンセリング、自己実現のための進路選択指導、全てが学校での教育活動でしょう。
目が届くようになるという意味で使っているケアというのは教育でなく管理ではないのか、ということだと理解したけど、その初動からの全てがその生徒のための教育活動。仰る通りだが、教室に座って念仏を聞くだけで教育とは言えない。実際、前記事に書いたような情緒の安定しない課題のある生徒だって、そんな状態で授業を受けなさいといったところで知識・理解なんて深まらない。じゃあどうするのかというと、この場にはいない方が良いと判断した場合、例えばとりあえず付き添いをつけて保健室や職員室の担任の元へ行かせたりする。そこでその場のケア、そしてその後情報交換をし、その子のアフターフォローについて話し合う。その授業一つ一つだけでなく、組織で取り組むのが教育活動である。
教室という空間自体に疑問を持っておられそうだが、当然、そこにいることが有用でないのであれば通信制高校などで高卒資格を取得すればいい。現任校のような全日制課程に所属する生徒に対しては、その学校で高校生活を送り卒業することを希望したと判断し教育を行っている。もちろんそこには保護者も介在しそんなシンプルな話ではないが。
突っ込みを入れられている前記事の事例が極端だったので良くなかったかもしれない。年間を通して指導をしていると、教室にいる・いないの問題だけでなく、成績にも環境による差異は現れる。数人人数の減る科目だけ授業に取り組み、結果その科目のみ伸びるというようなことだ(もちろんそんな単一な要因であることも多くはないが)。あとこれについてだけは無いが大きな要素として理解していただきたいのだが、勉強の学習だけが教育でなく、特にうちのような困難校ではその生徒がいかに健全に学校生活を送れるかが大事。そのためには人数を含め教室環境というのは大きすぎる要素だ。その上にあって生徒が負担を感じることなく教室にいられる環境を敷くことができるのであればそうしたいだろう。
そうだと思ってやっています。教科指導、生活指導、進路指導、全て教員の仕事です。
結論から言うとそこの相関関係は無い。地域による違いもあると思うけど、一応教員の力量形成のためのジョブローテーションは存在する。
まず基本としては、様々な学校で勤務をすることが教員の経験・力量にもなるし、さらに言うと管理職候補も養成しなければならない。そのために普通の学校だけでなく、工農商の実業高校、定時制や単位制高校、進学校など様々な環境の学校を出来る限り経験しましょうというような方針がある。その上で自分の勤務経歴は、まず常勤講師は力量関係なく空いた枠に入るしかない。そして正規教諭になり、まず最初の経験を積むという段になっている。そのため、自分も数年後には異動することになる。優しいコメントもあったけどその異動までは現任校で頑張る所存。
ただ実態としてそうもいっていない現実もある。例えばある都道府県は初任者はちょっとした郊外、田舎に勤務することが割合として多い。何故かと言うと都心部から中堅教員が動きたがらないから。そこには持ち家を持っているとかそういう事情もあるが、なんせ勤務年数の長い教員はわがままを言う。都心部、通勤が楽、その上学校が中堅進学校であったりすると居心地がよくなる。進学指導に躍起になることもなく生徒指導も手がかからないからだ。初任者は数年で異動させる慣例があったりするが中堅はそうでもなく、異動希望を出さなければ長年在籍することができるので、そこにつけいって、なかなか異動しない。自分は割りと本気で様々な問題の病巣がここにあると思っている。
またそんな中にも、様々な問題のある定時制高校でも勤務時間と仕事量の少なさから長い間在籍する変わり者もいる。定時制なんかには変な教員・使い物にならない教員が多いなんて声を見たことがあるが、自分はそこまで極端な話ではないとは思いつつも、組織の中で周りと上手くやっていくことが苦手で職員数の少ない定時制に在籍する教員もいるので、まぁねぇ、というところ。
※個人の感想です
教育困難校は本当に、高校生とはいえその時その時の刹那的な感情に素直な生徒ばかりなんです。そんなわけにいかない。
高校を出て就職をする。そのために就職試験がありその中では「高校数学なんて世の中で使わねーよww」なんて言っていられない。就職試験で因数分解や三角比の問題を解くことが就職につながる。
そんな、教科教育の意義・理想論なんて話以前の、これ以上なく現実的なことでさえ、生徒たちは自分で判断し学校生活を過ごすことはできない。数学なんて知らねーよ。約数ってなんだっけ。分数って上割る下だっけ。あーもうやだ数学嫌い。ツムツムしよ。
感覚として、今授業をしていて、まだ大人しい1年生の教室の中で、集中してついてこれている生徒 4/5 ,残りがちょっと厳しそうというところだ。そこで自分が授業中、注意や指摘など、教科指導以外のことを放棄したとしよう。怒られない。喋る声で授業聞こえない。あ、LINE きた。そんなこんなで授業を聞く生徒は 3,4 人になるだろうなと思う。
そうなると学校の経営は破綻する。ただでさえ入学から卒業までに数十人が転退学するような学校だ。進級・卒業・就職と進んでいける生徒がいなくなるだろう。そしてそこに「義務教育じゃないんだから」は酷だ。生徒の声に答える事だけが我々の職務でなく、そこには子供の自己実現を願う親がいる。それを求める地域社会がある。そのために学校は存在する。
繰り返しになりますが、多くのコメントの中様々な視点があり本当に面白かったです。たかだか学級人数の話から少し広がりすぎたが、まぁ面白く読んでいただければ幸い。
皆様の生活があり自分の仕事があることも事実であり、そんな社会に少しでも還元できればと思って働いてまいります。仕事が楽になればとも思うけど、それ以上に生徒たちが少しでも良くなればとお祈りして、今回の件についての記事を締めます。
http://anond.hatelabo.jp/20121117212027
の日記を書いた者です。
あくまで自分の勤務している自治体(県)限定のお話ということを確認しておいてほしい。
進学校でも他の都道府県だとここまで補習をしている学校はそうないんじゃなかろうか。
都立に勤めている友人は「夏期補習なんて一週間あるかないかくらいだよ?」と言っていた。
難関校への進学を目指す子は殆ど予備校とか通っているらしい。都会って金持ちじゃないと住みにくいところなんだなあ、と再確認しました。
さらに、
id:comzoo 実業系の教員は楽だなんて何寝言言ってるのだろう。生徒の学業ををちゃんとサポートしようと考える先生はどこの学校でも生徒指導に必死な状況なのは変わらない、定時・通信でもそれは一緒(むしろ大変)
とブックマークのコメントにあったけど、うちの自治体では実業系は生徒指導が大変どころか、むしろ楽なのです。
何故ならうちの自治体では「実業学校=偏差値の低い生徒、問題のある生徒が行く学校」ではないから。
それどころか工業高校、特に人気の機械科なんかは「勉強ができるやつのいくところ」という扱い。
自分の中学時代、のちに国立大学に進学し教員になった自分よりも塾で上のクラスだった友達が工業高校に進学したということもあった。
実際普通科進学校の合格者平均点よりも工業高校の合格者平均点の方が上なんてこともザラにある。
ゆえに生徒の質は高い。うちの県では「工業高校=ヤンキーが多い」なんて図式は成立しない。
研修や部活の顧問会などで実業系の学校に行くこともけっこうあるけど、みんなあいさつをしっかりしてくれる。ある学校なんて「ワンストップあいさつ」を励行していて、生徒は他校の教員だろうが業者の人だろうが
大人に出会うと立ち止まって大きな声で「こんにちは!」とあいさつをしてくれる。
で、そんなもともと生徒の質がいい実業系の学校では生徒指導上の問題なんてあまり起こらない。
さらには
id:a-lex666 進学校じゃなかったら就職指導とかで大変じゃないの?
というコメントもあったけど、実業系の学校では工業科や商業科の教員が就職指導等を主に担当していて、五教科の教員の出番はあまり無い。
そもそも生徒の質が良い上に工業科の教員はビシバシ指導をするので、資格取得の合格率100%は当たり前、合格者数で日本一になっている学校も多い、という状況なので就職先を見つけるのもそう難しく無いらしい。
前述の自分より成績が良いのに(というかむしろ、良いから)工業高校に進学した友人も大手家電メーカーに難なく就職を決め、技能五輪で優勝(厚生労働大臣賞)していたり。
だから実業系の学校に行けば、自分のような五教科の教員は仕事が楽になるのです。他の都道府県ではそうでもないかもしれませんが。
まあ実業系の高校に優秀な生徒を取られる分、ウチみたいな普通科進学校は大変な訳です(苦笑)
あ、勿論うちの県でも荒れている学校はあるけれども、その荒れ具合は教育困難校と呼ばれる学校には程遠い。東京や大阪の公立教育困難校の教員からしてみれば「どこが荒れているの?」と言われるレベル(笑)。
id:naming11 ナチュラルにサービス残業できるインセンティブの正体が知りたい
というコメントがあったけど、生徒がいいから頑張れる、という部分はあると思います。
いい生徒で希望の進路がある、しかし家庭は経済的に苦しく塾や予備校には通えない、当然浪人も無理、という生徒がいればそりゃ何とかしなければと思いますよ。