http://toyokeizai.net/articles/-/140774
こちらのエントリを読んで、長谷川豊氏の「自業自得の透析」を思い出した。
教室内の生徒たちの間にも休み時間と同じ光景が広がっている。一人の生徒の席の前に数名が集まって、にぎやかにスマホでゲームに興じているグループがいくつもある。教室の後方では数名の男子が、「うけるんだけど~」と言いながら相手の肩をばしばし叩いて、大声で笑っている。その足元では、まぐろのように伸びて一人の男子が爆睡している。
件のエントリの冒頭で描かれている「モンキー高校」の日常風景だが、これ、長谷川豊氏が「取材した」という病院風景に驚くほど似ている。
文章の「生徒」を「患者」に、生徒の行動をそれっぽく変えてみるとこうなる。
病院内の患者たちの間にも健常者と同じ光景が広がっている。一人の患者の席の前に数名が集まって、喫煙をしているグループがいくつもある。病院の後方では数名の患者が、「うけるんだけど~」と言いながら相手の肩をばしばし叩いて、酒を飲んでいる。その足元では、まぐろのように伸びて運動をしようともしない一人の患者が爆睡している。
長谷川氏は数名の医師からこのような現状を聞き、病院でこのような光景を目にして、そして義憤にかられてあのようなエントリを世に出した、と言っている。
「モンキー高校問題」と「透析自業自得説」は、共通した問題から出発している。
つまり、「いざという時に自分を律することが出来ない人がいる」という現実だ。
高校にしろ病院にしろ、日常的な選択肢の一つ一つが将来の生活なり生命なりを形作る以上、
教師なり医師なりの言うことをキチンと聞いて、ある程度窮屈な時間を我慢しなければならない。
でも一部の人はそれが出来なくて、指示や忠告を守れず、「易き」に流れてしまう、というものだ。
キチンとした「アリ」からすれば、疎ましく見える「キリギリス」なのだろう。
さて、同じ問題意識から出発している二つのエントリではあるが、結論は全く違う。
「透析自業自得説」で長谷川氏は、そんな自堕落な者は殺してしまえ、と言い、今も考え方を変えていない。
なぜそんな者たちを、若者の金で救わねばならないのか、と。
「モンキー高校問題」で朝比奈氏は、そんな自堕落な者は退学させてしまえ、とは言わなかった。そうではなく
忘れてならないことは、彼らは家庭環境や、学校の教育環境、さらには周囲に気付かれなかった病気や障害などの理由で「教育困難校」に入るしかなかったという点だ。そんな彼らをこのまま打ち捨てておいてよいのか。それは、そこに通う生徒にとっても、日本社会にとっても大きなマイナスにならないか。
と、その者たちの「自らを律する力」はどこで欠如してしまったのか検証し、手を差し伸べるべきなのか、いかに手を差し伸べるのか考えよう、と言った。
朝比奈氏のこの考え方は、長谷川氏が自業自得だと息巻いた透析患者にも当てはめることができると思う。
家庭環境なのか、病気や障害なのかはわからないが、彼らはどこかで自分を律する力を身に着けそこねたのだ。
だからこそ、本当に大切な指示や忠告を守り通すことが出来ず、その結果、健康をそこなってしまうのだ、と。
このように考えた場合、自堕落にして病に冒されることは、はたして純度100%の自業自得の結実だろうか。