はてなキーワード: オヤジとは
とりあえず以下の辺からチョイスして適当に少しずつ読んで行こうかなと思うのですが、他によい本がありましたら教えてく
強くなりたい新大学生が本当に読むべき本100冊 http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
[読書]京大SF研に入ってすぐオススメされた10冊 http://d.hatena.ne.jp/clementiae/20140514/1400072647
日本ミステリ百選 by 幻影の書庫 http://members3.jcom.home.ne.jp/tsukida/best100.html
わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるhttp://dain.cocolog-nifty.com/myblog/
読書猿Classic: between / beyond readers http://readingmonkey.blog45.fc2.com
高校生に読んでほしい50冊 http://www.shinchosha.co.jp/kando/list.html
本を愛する大人たちのおせっかい 高校生はこれを読め! http://www.k2.dion.ne.jp/~sa-shibu/koukou/500.html
本屋のオヤジのおせっかい 中学生はこれを読め! http://www.k2.dion.ne.jp/~sa-shibu/chugaku/500.html
有栖の乱読 http://www2u.biglobe.ne.jp/~mystery/mystery/arisu100.html
新潮文庫の100冊 http://100satsu.com
HONZ http://honz.jp
プログラミングに関するお薦めの本を紹介します。 http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/kashiwa/jta/luiyoshida.html
読者が選ぶこの1冊 岩波文庫 https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/bunfair_100th/top.html
とりあえず算数と数学のブックリストのみ http://tokeeplearning.blog.fc2.com/blog-entry-17.html
原因は親にあるかもしれないけど、就活で壁にぶち当たるまで放置し続けたのは自分の責任でしょ?
アルバイトだって大学だっていくらでもオヤジと話す機会はあったはずだ。
私は「このままじゃ社会出られないな」って感じたからできるだけ人付き合いするように心がけたよ。
落ちる原因は、最初は受け答えの内容が甘いとか、コミュ症寄りだから面接に慣れるまで時間かかるのかなと考えていた。
しかし、どんなに話す内容を練習したとしても、一字一句を覚えたとしても、あるいはキーセンテンスだけを覚えてアドリブで話すようにしても、全て普段喋るより数段吃るし突っかかってしまう。
何度受けても一向に改善することはないため、流石にこれは何か他の原因があると思い突き詰めたところ、自分の幼少期の育ち方に思い当たった。
自分の母親はいわゆる毒親であり、家庭内で自分のルールを定めそれに従わないと従うまで怒ったり説教したりするタイプだった。
小学校の頃は1度逆鱗に触れると30分~1時間の説教はザラにあり、泣いて謝るまで続けられることもしばしばあった。
母親に従わないと長時間の説教が待っているので、常に親の顔を伺って怒られないようにしながら青年期まで生きてきたように思う。
その毒親の呪縛自体には高校~大学辺りで気付くことができ、今はそれを自覚することで自己否定感による生きづらさは多少なり薄れている。
が、このような育ち方をしたため人の顔を常に伺い、納得してもらえる当たり障りのない行動や発言をする癖がついてしまったように感じる。
特に初対面だと、「正しい行動をしなければ嫌われる」という考えを強迫観念的に持ってしまい、こちらの当たり障りのない発言が相手にとって精神的距離を感じたり、せているのではと思った。
そういえば研究室でも今でこそ指導教官とはそれなりに話せるが、最初の頃は上手く話せず「日本語が通じない」と言われていた。
初対面の人とそのような感じに接するもんだから、面接官にも「何かまずいことを腹に隠しているのでは」とか「この人とは仲良くやれそうにない」と思われ、このことが落ちる原因に繋がっているのだと思った。
勿論、仕事において交友関係が広い人やすぐに他人と仲良くなれる人が有利なのは分かるし、そのような人から優先的に選ばれることは不当とは思わない。
が、だからと言って自分の就活を諦めることは出来ない。何とかしたい。
面接官と近い年代のオヤジと喋れるキャバクラがあればそこで訓練したいとさえ思う。
どうしたもんかね。
http://anond.hatelabo.jp/20140413020052
↑の増田はトラバやブコメにもあるとおり、多分ファッション初心者には何が何だか分からないと思う。
「グラボのハードウェアレンダリングが~」みたいな話をいきなりパソコン初心者にしているみたいな。
なので頼まれもしないのに、もう少し初心者でも出来そうなことを書いてみる。
とにかく服に絞って書きます。
なので髪型とか眼鏡とか、そういう前提には敢えて触れませんが、大事なことなので手を抜かないように。
とにかく、道行く人でイケてる紳士を見かけたら、彼の身につけているものがいかに身体にフィットしているか、観察してみてください。
恐らく寸分のスキも無いはず。だからかっこいい。
というか、ラフな格好が雰囲気イケメンに見えるか小汚いオッサンに見えるかの大きな分かれ目の一つが、サイズとフィッティングです。
どんなアイテムでもジャストサイズの定義があるので、予習するなり店員さんに訊くなりして、あとは色んなお店を回って試着。
ここで残念なお知らせ。
入ったお店にあるズボンが、全て自分の脚にフィットしない事態は往々にして起こります。シャツやジャケットでも同様。
これは生地の裁断の仕方が、自分の脚の形に合わないことが主な原因。
ゆったり目にカットしているのか細身なのか、テーパードとかスリムなんて言い方もあります。
なので全身ジャストサイズで固めるだけでも、必ず最初は色んなお店を試すことになります。
この店はシャツは自分的にバッチリでもズボンは合わない、ジャケットならあそこがいいなど、食べたい料理に合わせて美味しい店を探すみたいな感じかな。
自分なりにシンプルだと思う服を試着し、実際にさっぱりした雰囲気に見えた物を買ってください。
でも、そうすると皆が皆、とても画一的で似通った格好になるかも?と思いがちですが、そんなことはありません。
その人の雰囲気と、服の雰囲気の相性によって、どう見えるかは変わります。「似合う似合わない」とも言い換えられます。
例えばゴワゴワした洗いざらしのざっくりした生地の白シャツ。これ一枚でさっぱりと気取らない雰囲気になる人もいれば、貧乏臭く見える人もいるんです。
また、スーツに合わせるための、真っ白で糊がしっかり効いたワイシャツが、端正で折り目正しくキチッと見える人もいれば、会社帰りか休日出勤のオヤジにしか見えない人もいます。
白シャツだけでも、これだけ個性が出るんです。色柄やデザインまで絡めば尚更です。
なのでこれまた試着し、さっぱりカジュアルに見えるか鏡と相談。
選ぶ自信がないなら店員さんやおしゃれに詳しい友人に見てもらう。
要は新品状態をキープするということです。
そのためには近所のクリーニング屋、修繕も受け付ける洋裁店をチェックしフル活用。
シャツは太陽にかざして汚れていると思ったらクリーニング屋に持って行く。
その他、どういうタイミングで手入れすべきかは服屋やクリーニング屋の店員に相談してください。
ほつれ、破れ、ボタンの外れや欠け、どれも見つけ次第補修。治せないなら「今までありがとな」と言って買い換える。
それだけでも気分いいですが、他人の見る目も変わります。
悪目立ちする人とそうじゃない人で、見方が変わるという話です。
毎朝「うん、いいかも!」という気持ちを味わうと、服のコストは取るに足らない気分になると思います、多分。
というか、その気持ちを味わうだけでも生きる意味があるくらい重要だと思うので、是非味わって欲しいです。
以上、何だかすごく大変そうなことをやっているように見えたかも知れませんが、これ実は女性だったら大多数がクリアしているレベルだったり。
ほっこり増田が欲しい。最近ブクマされた増田のリストを見ると、「〜はXXXだ。アホか」「で?あなたは何ができるの」「辞めたい」「まず断っておくが」「XXX v.s XXX」「絶望している」...
なんて殺伐としているんだろう。
でも離れられない。
mixi,Facebook。SNSは体面だけ取り繕った上辺のコミュニケーションで満たされているから。
twitterは、汲み取られるほどの意味がない言葉と、脱臭された悪意で濁っているから。
はてブのニュースは、読んで!読んで!と自己主張する広告的インフォメーションで溢れているから。
でも増田は違う。ここには『人間』がいる。そこにたまらなく惹かれる。
お返事どうも。
言いたいことはわからなくはないんだけれど。
それに対してお金を払おうと思う人が、批判されるのは変な話だ。単なる個人の趣味に難癖つけてるのと同じだと思う。レス増田は違うのかもしれないけれど、そういう意見も見るので、これは愚痴。
いや、そういうことじゃなくてね。あるいはそういうことであっても別に構わないのであってね。
あなたみたいなのは「近視や肥満の人の野球大会」を感心して観ているようなものだ、と言っているの。近視や肥満が野球選手になる上で致命的な欠陥でないというのは、例えば古田敦也とか中村剛也とかその辺の例を挙げればわかってもらえるよね。
で、もしあなたが近視とか肥満というのに何か特別に感情を揺さぶられるという特殊な感情の持ち主であるという自覚があり、なおかつあなたは純粋に「野球」というものを楽しんでいるのではないという自覚があるのでないかぎり、それは「個人の趣味」とは言えないと思うよ。
もちろん、そういうことが全部悪いとは言わない。例えば将棋の女流棋士制度というのは実際そういうものだからね。将棋というゲームには男女差はないのだけれど、実際問題として普通のプロになる基準をクリアできる女性がこれまで現れなかった(最近一歩手前まで来ている人はいる)からこそ、普及だとかいろんな大人の事情で別の制度が設けられている。で、女流棋士が実力で普通の棋士(これまで全員男性)に及ばなくともそれなりにファンがついているのは、良くも悪くも色んな意味で「女である」ということを売り物にしているから、と言わざるを得ないよね。「男社会を切り崩す」というジェンダー的に「正しい」見方であれ、オヤジのスケベ心であれ、そういうあらゆるものを換金していることになる。で、将棋連盟の側もファンの側もそれについては百も承知であるわけだ。
そういったことを自覚した上で「そんなことは百も承知だ、それで何が悪い」というのであれば、それはそれでまあ「個人の趣味」と言えなくはないと思うよ。
でも、佐村河内やフジ子・ヘミングの件についてそれが当てはまるのかな。将棋と違って、クラシック音楽において身体障害は致命的な不利とは限らないわけだ。野球における近視や肥満だってそう。少なくとも「近視・肥満野球」については、野球ファンは「そんなものをプロ野球と同列に並べないでくれ」というよね。で、それについて文句を言うのであれば、文句を言う方がおかしい。
あるいは「リケジョ」という言葉について考えてもらってもいいよ。科学界における女性はクラシック界における身体障害者よりもっと障壁が少ない場所にいる。そして、科学には「女性枠」なんてものは当然ない。つまり「リケジョ」というのは女性が理系に進むことへの本人や親の偏見を取り除くための方便でしかない。にもかかわらず「リケジョ」っていう概念はジェンダー的に不適切だとヒステリックに叩かれるし、実際それなりの危険がある概念であることは間違いはないよね。
そして、クラシック音楽への「障害者枠」については少なくとも「リケジョ」よりもはるかに社会的にまずいものだ、ってのはわかるでしょ?
障害者が障害を使って金を稼ぐ事自体が健常者と同じ扱いではない、という観点は、分からなくもないけれど、それを言ったら、年寄りに席をゆずるな、年寄りだから働かず年金貰って生活するなんて甘えだ、子供も身の回りのことや収入も自分でやれ、と言いたくなる。言わないけれど。
少なくとも、そういう年齢に甘えてる世代よりは、自分の障害を使って自分の稼ぎを自分で得ようとする彼等彼女等の方が、マシだと思う。
野球の例でいうと「マスターズリーグ」ってのがある。これは、かつての名選手が今となっては無様な姿をさらす草野球を、笑いのネタになることを承知で売り物にしてるというものだね。これが問題でないのは、選手の側も観客の側も野球の技術ではなく別のものを求めている、という共通了解があるからだね。
でも、クラシック音楽はそうではないでしょ。一部のマニアを除いてはなかなか敷居の高い世界だし、ポスドク問題と同じでなかなか商売にならない厳しい世界。ファンを獲得するには、結局本当に質の高い作品の質の高い演奏を世に出し続けて、それに偶然触れた人が急に感化されるのを待つしかないっていう厳しい世界でみんなやってるわけだよ。
そんな中で、「現代のベートーヴェン」とかいって粗悪な作品を売られることは、本当に質の高い作品や質の高い演奏家がスポイルされるリスクを高めてしまう。「クラシックなんてたいしたことないじゃん」と思われてしまったらそのせいで才能ある音楽家が何人も葬られることになるかもしれない。女流棋士とかマスターズリーグとちがって、「本物」のおまけではなく、「本物」と競合してしまうんだよ。
そういう意味で、何が「本物」であるかがわかりにくい世界で、「本物」と勘違いさせて贋物を売り出すというのは問題のある商売だと思うよ。ホメオパシーとかと同じだと思うけど。
それ位で一生トラウマとか軟弱すぎるだろ。
よし、死のう。と思ったのは二・三週間前。ホームセンターでロープを買い、酒を買い、じいちゃんのオムツを拝借し、睡眠薬を少しずつ貯めた。ロープ以外は脇役にすぎない。中々タイミングがとれずにいたが、精神的に限界を超えた。実行あるのみ。そこで、貯めておいた睡眠薬をベッドの上にザラザラとひろげ、赤ワインで飲み下していった。
が、
記憶はここで途切れる。目をさましたら、いつもの布団の上。そして、肝心の縄がない。薬もない。オムツは穿いている。時計は10時なのに外が真っ暗だ。意味が解らない。ベッドから立ち上がろうにも、がくがくして立ち上がれない。オカンに話しかけようにも、うまく舌がまわらなくて、「おえのおーういあん?」(俺のロープ知らん?)というようになってしまった。なんじゃこりゃ!
オカンの話から、私は健忘を起こしていたみたいだ。そう、睡眠薬だ。マイスリーた。こいつのおかげでボヤ騒ぎも、自動車事故もやらかした。そしてその時の記憶はないのだ。話をきくところによると、私は自室の隣の部屋で蝋燭を使って遊んでいたという。私はローソクが好きだ。そしてそのあと、あらかじめ結んでおいたロープをもって階下にいこうとしたところオカンとでくわし、オヤジとオカンで取り押さえたらしい。その時私は泣いていたり怒っていたりしたらしい。しきりに「ロープ返せ!」と言っていたらしい。そして、私が目覚めたのは朝10時ではなく夜10時だった。割とたくさん飲んでいたみたいで、まだ足のふらつき、頭のぼんやりさ、手の違和感がある。
今思うのは、この一件によって、さらに自殺しにくい環境になってしまったなあという遺憾の意。
この先、良いことも悪いこともある。そんなことを全て捨て切って臨んだ、初めての試みが、こんな無様に終わってしまった。
自分で言うのもなんだけど、私を必要としてくれる人や、私がいなくなったらきついだろうなあと思う人はたくさんいると思う。だけど、もう限界。というか、数年前に限界を突破していて、ゾンビ状態なんだ。私は。いくら承認されていて、必要とされていても、うつの鬱蒼とした暗い森の中では、山彦のようにしかその人たちの声は聴こえない。死は怖くない。怖いのは、苦痛だ。
心ある人が被害者を心配してかける言葉と、被害者叩きをするクズの言葉は似ているようで違っていて、でも似ているから難しい。
例えば、痴漢に遭いやすくて悩んでいるんですと言う女の子がいる。
今日び「そうした犯罪は露出しているからではなく、弱そうに見えるから狙われる」という事はアホ以外全員知っているので、心ある人が彼女に声をかけるなら
「それは酷い目に遭ったね。でも、被害に遭わないよう対策をする事は出来るので、可能なら女性専用車に乗ったり、人通りの多いところを歩くようにしたり、地味な服装を控えたり、なるべく背筋を伸ばして歩いたりする方がいいよ」
という、建設的なアドバイスの形をとる事ができる。さらに少し気を遣う人なら例文冒頭のように被害者の気持ちを慮るコメントを挟む。
「男の気を惹くような格好をしているからだ。隙があるからだ。夜に出歩くからだ」
昭和末期のオヤジでもよう言わんわってレベルの被害者像から一歩も前進できず(なぜなら被害者が被害に遭わないためにどうすればいいかなんて本当は少しも考えた事がないからだ)、具体的に被害に遭わないための服装や挙動を指摘できず、女がフルタイムで働くのが当たり前の時代にも関わらず非現実的な非難に終始する。
例文を見れば二つの言葉にどれほどの隔たりがあるかおわかりかと思う。
ぶっちゃけて言うと、あなたのように被害者の事を心配し、その人が被害に遭わないためにどうすればいいか真面目に考えている前者の誠実な人の気持ちは、前者のような態度を装った後者のような人間に、被害者と併せて踏みにじられているんだよ。
あと「被害者のためを思って言って(やって)いるのに」って、これ前者と後者を明確に見分ける便利なワードだよなと思う。カッコ内まで付いた発言ならもう精度100%。
かかる費用と拘束される時間の割に得られる対価が少ないという理由から部活を辞めることを悩んでいると告げると、
オヤジたちはたいがい人生の大先輩みたいな顔して自分の体験談をさも一般論かのように押し付けてくる。
「せっかくここまで続けたんだから」と、口を揃えて言うがそれは理由になっていないと思う。ここまで続けてきたからこれからも続けるというマインドではいつだってチャンスを逃し、最適な意思決定を逃すことになるのではないか。
「大学時代にしか部活はできない」というが、大学時代にすることはすべて大学時代にしかできないことだ。部活だって、グダグダ部屋でゲームする日々だって、オヤジたちには美化された青春にみえる。
「いい経験だから」とか、「辛いことをやり遂げることは一生の自信に繋がる」とか、彼らは最後まで継続し続けることにやたらと価値を置き、途中で辞めることは全く価値のないもののように語る。しかし、経験という意味ではもう十分だ。それなりに辛い経験を一通り乗り越えてきたし、これからの成長曲線にはあまり期待ができない。
「人生これから簡単に逃げられる場面ばかりではない。耐えぬかなねばならない状況が出てくる。そのときに部活を最後まで続けていた経験が活きる。」というが、いつか苦境が訪れるならば今くらい甘えたっていいではないか。本当に耐えぬかねばならない時がきたらそのときはそのときだ。
「就活につよいから」と言うが、体育会系だからという理由で採用された企業になど行きたくない。体力があることを下手にアピールするとろくでもない生活が待っているだろう。
振り込め詐欺が多発しているというニュースを聞いたが、その後政治の世界では新しいオレオレ詐欺が猛威を振るおうとしている。
この詐欺は、電話で個別に人をだますのではなく、テレビを使って不特定多数の人間をだますところに悪辣さがある。
たとえば、こんな調子。
「オレだよ、オレ。総理だよ。
公共放送の会長に下品なオヤジを送り込むのも、憲法解釈を決めるのも、オレの仕事。」
こいつは何様だといぶかっている人々に、
だから、オレはお前なんだよ。お前が思っていることをオレがやってるんだから、お前はその通りに認めるのが当たり前だ。
いずれ他国の戦争のために軍隊を派遣するときには、お前の子供たちも差し出せよ。
こんな出来の悪い詐欺に引っかかってはならない。
何でもオレが決めるという為政者の思い通りにさせないために、憲法がある。
ある憲法学者によれば、内閣法制局は行政府の顧問弁護士のようなものである。
「オレ様の憲法解釈が裁判所で違憲判決を受けたって関係ない。」
いい加減にしろ。
僕はそのパン屋にだいたい週に一度くらいパンを買いに行く。
だいたい店に客は少なくてオヤジは客が入ってくると、
裏でパンを作る手を止めてレジに出てくる。
僕は無愛想なオヤジにできるだけ愛想良くお金を払ってパンを買う。
別に特別美味しい訳じゃないし、そんなに品揃えが豊富な訳でもない。
値段だって特別安い訳でもない。ごくごく普通の、昔ながらパン屋さんだ。
僕だって本当に美味しいパンが欲しい時は近所の人気のパン屋に行くし、
決して少なくない種類のパンを毎朝早くから焼いてると思うと、
すごく立派なことだなぁと思うのです。
特別に美味しい訳でもない、特別に変わったパンがある訳でもないけれど、
それはそれでオヤジの実直な人柄が現れているように思えるのです。
僕はそのパン屋にだいたい週に一度くらいパンを買いに行く。
だいたい店に客は少なくてオヤジは客が入ってくると、
裏でパンを作る手を止めてレジに出てくる。
僕は無愛想なオヤジにできるだけ愛想良くお金を払ってパンを買う。
別に特別美味しい訳じゃないし、そんなに品揃えが豊富な訳でもない。
値段だって特別安い訳でもない。ごくごく普通の、昔ながらパン屋さんだ。
僕だって本当に美味しいパンが欲しい時は近所の人気のパン屋に行くし、
決して少なくない種類のパンを毎朝早くから焼いてると思うと、
すごく立派なことだなぁと思うのです。
特別に美味しい訳でもない、特別に変わったパンがある訳でもないけれど、
それはそれでオヤジの実直な人柄が現れているように思えるのです。
経済学部生でもないのに、学部教養でかじった程度の経済学の知識で書いてしまいました。
間違っていることも多いと思います。ごめんなさい。
さらっと書いてるけど、好きで調べたりしている人以外には、こういうのがとてもわかりにくいと思う。
自分自身がそうだったからだ。だから簡単に説明してみようと思う。
この証明書を裏付けるのは金の価値。みんなが、「金は高価だ」と思っていて、食べ物や服や家具や機械とか、あるいはおねーさんと酒のんでおしゃべりする権利とかと交換してもいいと考えている。でも、金そのものを持ち歩くのはいろいろと面倒だしあぶない(財布の中に入れておくとすり減ったりする)から、金庫屋が金を預かり、かわりに「金と交換できる券」発行している。それをみんなが金の代わりに使っている。
これはむずかしい。
なんでかというと、この場合の紙の券は、なにか具体的なモノと交換できる証明書ではないから。
とすると、それは一体なんなのか?簡単化した単純な例で考えてみる。
まず登場するのは、超できる男として有名な出来山さん。この出来山さんがお店を出すことになった。お店を出すには仕入れが必要になる。しかし、裸一貫の出来山さん、仕入品の代わりに提供できるものがまだない。そこで、出来山さんは業者の人にこう言う。「この店がうまくいったら、色をつけてお礼するから、まずは仕入品を納入して欲しい」。仕入れ業者の人は「出来山さんは超できる奴。多分、出来山さんのお店は繁盛するに違いない。まだなにもない出来山さんだけど、そこに納入すれば、後々いい商売になるだろう」と考える。そこで、仕入れ業者は、まず出来山さんのお店に品を納入する。出来山さんは、お店の将来の売上から、仕入れ業者に色をつけて返す約束をする。
出来山さんは、その仕入品を使って自分の商品を魅力的なものにするために色々な努力をする。そして、商品の売上から、仕入れ業者に、前借りしたものよりも多くを返す。そうすると、仕入れ業者は「出来山さんと商売しているとこっちも儲かるな」ということになって、もっと大きな商売をさせるために、仕入れ品をもっと納入するようになったりする。
さて、ここで、出来山さんを日本政府(あるいは中央政府)、仕入れ業者を日本銀行(あるいは中央銀行)と考えてみる。
出来山さん(日本政府)の商品というのは日本経済そのもので、出来山さんの手にする売上は日本経済からくるアガリ(税金)だ。仕入れ業者は、出来山さんの商品(日本経済)が魅力的(活発で生産的)だと見込んで、紙幣を「発行」して出来山さんに貸しつける。つまり、相手がリターン(利子)を返してくれるだろうという「信用」によって紙幣=マネーが生まれる(creating money)。だから、不換紙幣のマネーというのは、兌換紙幣のマネーと違って、モノとは交換できないけれども、より大きなリターンを返してくれるだろうという信用を形にした「信用紙幣」ということになる。
普通、通貨は国単位、経済体単位で流通している。例えば、日本なら1万円券や1千円券の日本銀行券、あるいは、造幣局が発行する100円硬貨なんかが流通しているし、アメリカならドル紙幣が流通している。だから、この信用紙幣の「信用」は何に対する信用なのかというと、その通貨が流通している経済体そのものが活発で成長する、あるいは(すくなくとも規模を維持して)その他の経済体に対して影響力を持つことへの信用だ。例えば、「(日本円を使ってモノを交換している)日本経済がドボンしないだろう」とか「日本円で買える日本の商品が欲しい」とみんなが思っている(日本経済を信用している)限り、日本円はその価値を保つ。
日本円が日本経済の信用を元手にしているということは、逆に言うと、「日本経済はもうダメや!」とか「日本に欲しい物なんかあらへん!」みたいにみんなが思い始める(信用を失う)と、日本円の価値が暴落して流通できなくなってしまう(ハイパーインフレで紙幣が紙くず)。そうすると、日本なのに、みんな日本円を使わなくなってしまい、米ドルなどの外国通貨が流通するようになったりする。そうなったケースが、アルゼンチンなど。
至極単純化したけれども、不換紙幣=信用紙幣、の仕組みは大雑把に言ってこういう感じのものだ。
日本銀行は、自分で紙幣を発行していろんな人に貸し付けている。日本政府はその中のひとりだ。
だから、なにも、日本政府だけが日本銀行が発行するマネーを市中(日本経済)に流しこむパイプ役なわけではない。そこには色々複雑な仕組みがある(らしい)。例えば、日本銀行は、自分が発行したマネーで不動産なんかにも投資したりする。つまり、直接、市中にマネーをぶっこむこともできる。でも、それはあまり勧められることではないとされている。なぜなら、自由にマネーを発行できる日本銀行は、理屈の上では、市中の商品をいくらでも買いあげることが出来る。すると、どんなジャンクな品物や詐欺まがいの商品でも、日本銀行に売りつければ商売になってしまうことになる。ジャンクな品物や詐欺まがいの商品が売れる経済というのは、まったく健康的じゃない。言い方は悪いけれど、そんなのは闇経済と同じことだ。
「日本銀行がなんでも買ってくれるから、適当な商品使ってぼろ儲けしてやれ」「日本銀行がなんとかしてくれるから、いくらでも借金してやれ」なんていうのが、いわゆる「モラルハザード」というやつだ。
少し話がずれたけれど、ここで、わかりやすくするために、日本政府の借金は全部日本銀行が引き受けているとしてしまおう。その額およそ1000兆円。そして、日本政府は借金を返したら、再借金はしないと仮定してみる。すると、どうなるか?
日本経済には、すでに発行済の日本銀行券=マネーが出回っている。そこから日本政府はアガリ(税金)をとり、そこから日本銀行に借金を返して、借用書(国債証書)を取り戻す。つまり、日本政府が日本銀行に借金返済しきってしまうということは、日本経済から1000兆円のマネーを吸い上げて、日本銀行に収めてしまうということになる。マネーはみんなの交換を活発にするものだから(物々交換は、自分の欲しい物と相手の欲しい物がうまく噛み合わないと成立しなかったり、いろいろと面倒くさいのだ)、マネーが減った分だけ、みんなの交換は不活発になる。交換が不活発になるということは、在庫が余ってしまったり、あるいは欲しい物が手に入らなかったりするということだ。
マネーがないと交換が不活発になるということを、また簡単化した例で考えてみよう。あなたはお腹が減っていて、定食屋に入りたい。マネーがないのだから、あなたは、例えば皿洗いなんかの仕事と定食を交換して欲しいけれど、皿洗いの仕事をする人はたくさんいて、定食屋の洗い場ではすでに定食目当ての人が働いていたりする。あなたは機械を直すのが得意だから機械を直しましょうと定食屋のオヤジに言うのだが、定食屋には壊れた機械がない。だから、やっぱり定食を食べられない。
ここにマネーがあったとするとどうなるか。あなたは機械を直して欲しい人を探して、その人の機械を直してあげるかわりにマネーをもらう。そのマネーをもって、定食屋に行き、定食とマネーを交換してもらう。機械を直して欲しい人、お腹の減ったあなた、マネーが欲しい定食屋のオヤジ、と3人ともハッピーになれる。つまり、在庫が余る(あなたの機械を直す能力が活かされない)ことや、欲しい物が手に入らない(あなたが定食を食べられない)ということがなくなる。さらには、それぞれが得意なことをすることで、とても効率よく仕事ができるし、みんなが効率よく欲しい物を手に入れることができる。つまり、それぞれの能力が最大限生かす機会が生まれるということにもなるのだ。マネーすごいぜ!
そういうわけで、必ずしも、国の借金を減らせばそれでいいというわけではない。それは、日本経済の中に流通するマネーを減らしてしまう=交換が不活発になってしまう→日本経済の信用がなくなってしまう、ということにもつながりかねないからだ。
もちろん、「日本政府は、もう借金の利子を払うこともできない」といった具合に日本国債の信用が失くなってしまうと、これはこれでまた大変なことになる。なぜかというと、そうなれば日本国債を買う人がいなくなってしまうからだ。日本国債を買う人がいなくなってしまうと、日本政府の予算が減ってしまう。つまり、公的サービスが減ってしまう。警官や検察や裁判官が減ると、治安が悪くなって、インチキ詐欺師が蔓延り、経済の健全性が失われてしまうかもしれない。そうすれば、日本経済がダメ経済になってしまって大混乱、交換が不活発になってみんなが貧しくなってしまうかもしれない。あるいは、小中高の学校や大学の運営ができなくなって、将来のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスやマーク・ザッカーバーグになりかねない若い人達が、ただの非正規雇用ワープアになってしまうかもしれない。これも、日本経済にとって大きな痛手になる。
つまり、まず第一には日本経済が元気なことが大事だし、第二には「日本経済は元気だな!」とみんなに思ってもらうことが大事だし、第三には「日本経済は元気ないな」と思われないことが大事だ。国の借金は、こういうことのバランスを考慮しながら、考えることが必要なのだと思う。
じゃあ、そのバランスはどうやれば取れるの?ということになるのだが、それが簡単に分かることなら、経済学者の議論なんかは存在しないんだろう。
おわり。
わたしが、経済学の講義で学んだことは、「アニマルスピリッツ」を持った方が未来は明るい(らしい)ということです。
簡単に言うと、みんなが「やってみりゃいーじゃーん」(楽観的)で「やってやろーじゃーん」(能動的)で「なんか、よくなるかんじじゃねー」(希望的)な方が、雰囲気=景気は明るい。そして、楽観的で能動的であるためには「(ダメだったとしても)そのうちなんとかなるだろう!」というやつも必要なのだと。
お金が出回っていることはとても有用なことだから、お金を稼ぐことはむしろいいことです。自分にとってだけじゃなく、みんなにとってもいいこと。でも、稼いだお金を貯めこんで使わない守銭奴のような人はお金を回さない人だから悪い人です。自分ばっかり稼ぎすぎて、他の人に稼がせなさ過ぎるのも悪いこと。それはまるで、ヘビー級のボクサーが、モスキート級に混ざってチャンピオンになっても、全然つまらないのと同じ。そんな気がしました。
みんなが気持ちよくお金を稼げて、気前よくお金を使えるような経済や社会にするにはどうすればいいのかを考えることが、当面のわたしの課題です。
保険ってのは、実は掛け捨て型しか無くて、貯蓄型ってのは投資で、
保険会社が投資と保険をセットにして、「設計した保険」として売り出してる、
というところまで把握すると、次は、このリスク限定の話になるな。
kingshorses 保険
言葉は乱暴でもなかなか良い提案。ただ掛捨保険の本来の役割はリスクの平準化(保険料分だけ損失の下限は上昇し補償分だけ上限は低下)。あと「お守り」のような数理的に不合理な行為の合理性の有無も面白いテーマ。
cider_kondo cider_kondo
割と真っ当だった。まあ本当は保険はアクシデントを定量化できる(保険の起源とはそういうもの)のが最大のメリットなんだけど、そんな話だと誰も分からないので、このぐらいが落としどころなんだろう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20140226220704
次にしようと思ってた話を先取りするなんて流石はてブ。
あ、繰り返しになるが、人間の保険の話をすると、どうやっても養老保険だの年金型だの満期で幾ら返って来るだのっていう、投資の話をしてしまうヤツがいる。ここでは貯蓄とか投資の方は忘れてくれ。ここで言う保険は、全部掛け捨ての話だ。
さて、保険に入らずに自動車に乗ったときの「リスク」とは何だろうか。
ここで「リスク」は、「損をする可能性」と考えて欲しい。
具体的に言えば、「電柱にぶつけて修理諸々で50万かかる」とか「子供を轢いてしまって2億の支払い」とかそういうコトだ。
そうすると、保険に入らずに10年車に乗るリスクというのは、こうなる。
まあ、ここでは人身事故は1回で最高額が2億だとしてるが、こんなの怖くて車に乗れないだろ。
ここで、保険の出番になる。
自動車保険が、年間5万円だとすると、リスクはこうなるわけだ。
こうすることで、保険料分だけ最低損失が増えて、その代わりに最高損失が減る。
つまり、何時起こるか判らないカーアクシデントを、年間幾ら払えば良いという形に定量化して、損失を固定する事ができる。
アクシデントの可能性を、固定した損失に変換できれば、それはコントロールできる。
それがまあ、保険本来の役割というか、便利な使い方になるわけだ。
で、まあ、掛け捨て型の保険で人間相手の場合も、自動車と同じだ。
例えば妻(28歳)と娘(5歳)がいる男性(30歳)会社員は、自分が死ぬかも知れないリスクを、せめて娘が成人するまでは固定したいと考えるかも知れない。
娘の成人まで働ければ家族はその間月25万の手取り収入があるが、明日死んだら家族は無収入になっちまう。損失はこんな感じになる。
これを、4500万の定期死亡保険に入ることで、リスクをコントロールしようとすると、まあ、毎月8000円くらいだとしようか。するとこうなる。
これで、少なくとも娘が成人するまでの父親が死ぬことによるリスクは、固定化できる。
さて、さっきの話で当然気がついていると思うが、15年の間ずっと4500万の定期死亡保険に入るのは、無駄が多い。
(オヤジがすぐ死ねば最低損失って8000円じゃん?とか言うなよ、オヤジ泣くぞ)
つまり、保険期間ってどれぐらいが良いのかな?って質問は、自分で計算して答えを出せる。
こうすると損失額は、15年間4500万円保障時の144万円の半額、合計72万円で済む。
でも、どのタイミングでオヤジが死んでも、手取り25万が無くなるって言うリスクは、掛け捨て保険料の損で固定されてる。
保険屋が、定期的に保険を見直しましょうって言うのは、(新規契約に入れ替えたいとかも勿論あるけど)そこそこ理由があるわけだ。
ここでは、期間の話をしたが、損失額も同じだ。
むやみやたらにリスクを高く見積もれば、その分だけ保険料は増えて、日々の生活で使える金は減っていく。
つまり、多すぎる保障も、少なすぎる保障も、効率よくリスクを損失に変換して固定できてないわけだ。
オススメの保険を聞くって言うのは、「で、どのリスクを固定したら良いの?」って聞いてるのと同じなわけだ。
そんなん、人によって異なるに決まってる。
例えば、病気のリスクって言うのは、国保とか社保とかでだいぶん固定されてる。
んで、喪男で養う妻も子供もいないけど、同居してる母ちゃんには心配かけたくないとしよう。趣味に金使ってるから貯金は少ない。
ここで母親が「知り合いでガンになった人が、最初にまとまった金額を払ってもらえて凄く助かったって」とか言って、さりげなく不安に思ってることを伝えてきたとしよう。いま貯金が少ないままガンになったら、母ちゃんに迷惑かけちまう。
高額療養費制度があるから目が飛び出るほど高くはないけど、かなりの安月給だって毎月8万はかかる。抗がん剤治療になったら連続になるからさらに負担は減るけど、それでも月4万5千円ぐらいかかる。治療であっさり派遣をクビになったら結構キツイ。
と、いうヤツのリスク固定方法ってのは、ガンだって判ったら100万円の一時金が出て、以後通院とか抗がん剤治療してる間は毎月合計4万5千円程度もらえるようながん保険に入ることだったりする。まあ、月3000円ってところか。
フツーの怪我だの病気だのはどうせ大部屋で直して国保もきくしで、医療保険なんかいらんわーって喪男も、ガン保険だけは入っとくかな、心臓病とか糖尿病のリスクも固定しとこうかな、とか考えられる。
この手の判断は、損得って言うよりは安心を買う部分であって、人の信念に関わる部分だ。
母ちゃんを安心させたいと払う月3000円は、彼の信念によるもので、無駄だと断じたり鼻で笑って良いもんではないと、オレなんかは思う。
結局のところ保険ってのは、タイミングの読めない不運に翻弄される運任せの人生を、多少の損を受け入れることでコントロールする手段なワケだ。
保険を選んで貰うってコトは、自分の人生のコントロールを他人に委ねることに他ならない。
保険屋にとって、所詮他人の人生だ。高い保険料を払ってもらえるにこしたこたない。
だから、保険屋に頼るんじゃなくて、保険屋を使うことが重要なわけだ。
「オレが死んだら毎月25万円分を遺したいと思ってたけど、遺族年金があるから、娘が18歳までは年100万ちょい出るわけか。じゃあ、月17万の15年で3000万保障があれば良いのかな」と、自分でリスクを把握して、それに合う保険を見繕って貰うのが、使うって事だ。
そうなると問題は、自分の人生にはどんなリスクがあるか見極めるってことになる。
車に乗らないのに、自動車保険には入らないだろう。
ゴルフをしないのに、ホールインワン保険に入ってもしょうがない。
フィギュアスケートはファンが怖い。
周囲ではネットでもリアルでも、普段温和な女性たちがこのシーズンだけ狂ったように奇声をあげ、選手への熱烈な愛から批判者に総攻撃を仕掛け、贔屓の選手が負けると相手国選手の悪口を言い、いかに日本選手が苦境に立たされているかを延々と語る。
自分の思い通りに事が運ばないとキレるあたり、フーリガンや野球オヤジと同じなんだろう。
死者まで出すフーリガンほどとは言わないが、野球オヤジよりは確実に怖い。彼女たちは日本と男子ロシアと美形選手は応援しているが、それ以外の選手は平気で貶められるようだ。
キムヨナは好例だし、ソツニコワは「ロシアの子」と名前すら出さない。
ライサチェクが王子様プルシェンコに勝ったのも気に入らない。順位は関係なくキャンデロロとクーリックとジョニー・ウィアーは大好き。
批判したら叩かれる、ではない。
褒めなければNG。普通の事を言っても相手が悪口だと取ってしまえば叩かれる要因になる。
ついでに言えば「仮想敵」(主にキムヨナ)について擁護と思われる発言をしても叩かれる。これについてはさらに国籍差別までされる。
喋らないのが吉。
ニワカは黙ってろ?お前らも閉じた輪の中に篭って、聞こえないところで騒いでてくれ。ニワカの発言いちいち拾いにくるな。
マオチャンは絶対的に可愛く、絶対的に正義で、とても性格が良い人気者で、スケートの天才。
そんなマオチャンを妬んで採点方法を何度も変更される嫌がらせをしてくるが、いつも笑顔で健気に戦う頑張り屋さん、偉い子マオチャン。
ご本人には何の恨みも無いはずだったものが、神聖化されたマオチャンを振りかざして騒がれるたびに、気味の悪さを感じるし
ちょっとでも気に入らない事を言われたら神聖化マオチャン様を盾に攻撃されると、疎ましく感じる。
オリンピックが終わって静かになってくれるかと思いきや、「選手たちはこんなに素晴らしかった」「こんなに頑張った」というまとめを大量に流し、総括に毒づいている。
戦いはまだまだ終わらないようだ。