はてなキーワード: ウンザリとは
今回は息抜き関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
まあ、それはそれとして、嫌だと分かっているのになぜ見るか、というと。
正確に言えば、その解消に努めることとセットだが。
もちろん、適度なストレスをな。
能動的にストレスを受け、それを解消するだなんておかしいと思うかもしれないが、別にそんなことはないぞ。
意外と、そうやって自分の血液を循環させる人が多いことは、この世界を見ても分かるだろ?
創作の世界でも、敵のムカつき度が高ければ高いほど、ヒーローにコテンパンにやられるという法則もあるし。
テレビにも「痛快TVスカッとジャパン」といったマッチポンプ番組もある。
要はカタルシスというやつだが、これが過度になると病的だ。
カタルシスもないのに、それでも自らストレスを受けようと飛び込む。
……いま適当に思いついた造語なのに、検索したら引っかかったぞ。
どうなってるんだ、この社会は。
答えはNOだ。
もちろん、そんなことは当事者たちも分かりきっているので、彼らはその概念を細分化した。
「機会の平等」といったようにね。
まあ、かなり政治的な判断が含まれている定義だし、見方によっては「妥協」と受け取る輩もいるが。
……それで誰が幸せになるのかって?
そりゃあ、みんな幸せになるし、みんな不幸にもなるさ。
それでも強いて言うなら、そういう概念を作った人たち、ということになるだろう。
善悪がどうとかは知らんよ。
もし真の平等を目指すなら、そりゃあ人間が滅ぶのが手っ取り早いと思うが。
そして知名度が上がったら、個人や企業の依頼で、オーダーメイドの画像で儲けるといった具合さ。
実際のところは知らないが。
ゲイの世界は一見ワイワイと楽しそうに見えるかもしれないけど、
特に嫌なのがルックス至上主義だ。ルックスが良くモテることが最上位という価値観で動いている。
ルックスが悪いといくら高学歴高収入でも「でもブスだし」と陰口を叩かれ続ける。
しかも、生まれ持った顔の造形にプラスして身体の良さ(筋肉)も重要。顔がよくても身体が貧相だと相手にされない。
身体が出来ているけど顔がブス、の方がまだもてるが、それはそれで「首から下はイケるのに」と陰口を叩かれる。
ノンケの医者なら、多少不細工で身体が貧相でもそこそこの美人と結婚できるかもしれないが、
ゲイの医者はある程度のルックスと鍛えた身体がない限り、イケメンとはそうそう付き合えないし、
ではここにあなたよりも圧倒的に頭がよくIQ1億を持つ人間(超生命体でも宇宙人でもいいです、あなたがお好みならナマコでもいいですよ)が現れたとしましょう。
その超存在からしたらあなたは大人から見た赤子よりも頭が悪く非効率なことをし間違いだらけの日々を送っています。
「お前のやることは間違いだらけでもうウンザリだ!なぜそんな間違いばかりを起こす!もう私の言うことだけに従って生きろ、永遠にだ!」
このように言われてあなたは「はい、常に最良の選択をしていただけるので私はそれに死ぬまで従います」と返答しますか?
できませんよね?
それができるなら増田で油を売って無意味な時間を消費していないでしょうから。
そう、どれだけ正しい選択を提供されたとしてもそれがただの押し付けだと強制でしかありません。
酒を飲むな、煙草を吸うな、夜中まで起きるな、お菓子を食べるな、味の濃いものを口にするな、決まった食事を食べろ、適度な運動しろ。
全部最良の選択ですが守れますか?
自分が間違った選択をしていることで自由意志を実現できていること、人権が認められているということ。
それをよくよく理解して、忘れないようにしてください。
不謹慎かもしれないが、このテーマ、考える上でとてもおもしろかった。
あなたに言われるまで気づかなかったんだけど、この複雑な問題でモヤモヤするところの核は、まさにこれだと思う。当事者の女子高生たちも、周りで見ている大人たちも、はてブの人たちでさえ、臭いものに蓋をするように、問題の根源から目を逸らしているようにみえるんだ。
あなたはさらりと”リスク”という表現を使っていたけど、得体のしれない犯罪者によって引き起こされる事件を、まるで”天災”か”事故”のように考えることには危険があると思う。こんな思考実験を考えてみた。
1. JRが調査をおこなって、山手線の痴漢被害率が判明した。毎日の電車で、私服では0.01%が痴漢被害に遭う。セーラー服では0.03%。この情報が、新聞とかtwitterで世間に広まる。
2. 山手線を利用するある高校が、制服を廃止した。半分程度の学生が、なんちゃって制服(セーラー服)を着て登校し、もう半分が私服で登校するようになった。
さて、その高校に通っているある女子生徒がある日、セーラー服を着ていて痴漢にあったとする。このとき彼女に責任はあるでしょうか。
微妙かもしれないが、俺は「痴漢被害を受けたのは彼女自身の責任」、と言えそうだと思う。痴漢被害に遭う怖れが強いことは事前の情報で十分に予測できた。その上で自ら選択した。少なくとも、女子生徒の周りの友達や親は、「どうしてセーラー服なんか着ていったの」って彼女を責めるような気がする。さらにここで想定を追加しよう。後日、彼女のクラスメイトで友達の、後ろの席に座っている、増田マスオ君が頭を下げて謝ってきた、とする。ごめん。実はあのときの痴漢はオレだったんだ。ずっと後ろで見ていて、迷ったんだけど結局、勇気を出して触ることに決めた。今では悪かったと思ってます…。本当にごめんなさい。さて、痴漢にあった責任は彼女にあるでしょうか。
彼女を責める人はいないはずだ。この事件に関して落ち度があったとさえいえないだろう。100%増田マスオ君が悪くて、彼の責任である。俺はそう思う。だからバカバカしいと思うかもしれないけど、俺の考えはこうだ。「犯罪者に自由意志を想定するかどうかで、責任の所在は変わってみえる」。予防策を取ることは、ときに必要だし、現状もう、そうすべきなのかもしれない。でもそれが普通になって、自然になると、諸悪の根源たる犯罪者の実態から目を逸らすことに慣れてしまっていつしか見えなくなってしまう。脅かされ続けることを受け入れてしまう。そんな怖れがあると思うんだ。
おっしゃるとおり、痴漢の存在は謎です。先の返信で俺は「性的抑圧が原因では」とかテキトウな事を言ったけど(ごめん)、加害者の人にインタビューしたわけではないので本当のところはわからない。彼らは闇の中にいる。痴漢の被害にあった女子高生のきっと多くが通報さえしないと思う。一言「最悪…」って呟いて、ウンザリ顔で憂鬱な一日を過ごして、それからの日々に夢中になることで、前向きになれて、いつか傷は癒える。他方、はてなブックマークでは何度も、痴漢の人に総バッシングを与えてきた。ブックマーカの人は叩くのがどう見ても正義、って時には容赦なく叩く。脇目もふらずにぶっ叩く。夢中になって叩く。そういうのに忙しい。
必要なことは、謎を闇から引きずり出すこと。出来る限り、そこに注意を向け続けるべき。それが俺の意見です。
ところで俺の職業はプログラマーなんだ。つっても大したことなくて、二流で、バグを出しては上司に怒られ、同僚にさえ叱られ、はては数カ月後に徹夜してヒィヒィいいながら問題の原因を探して這いまわる、そんな日々を送っているんだ。忙しい日々の中で放置されたバグは、地面の下で邪悪なキノコのように、ムクムクと成長して、いつか俺(たち)の睡眠を奪う。悪くすると、仕事さえ奪う。だから職業柄、問題はそれが顕在化しているうちに、徹底的に深くまで根を掘り下げて撲滅し尽くさないと気がすまない性分だ。そうなっちゃったんだ。
万が一の事態は怖い。いつだって怖い。今回の話では、「制服を撤廃したことで、痴漢被害が0になってしまった」未来。もし万が一そうなったら、きっとその先の未来では、もう誰も、セーラー服を着れない。
原義はわからないが、現状、広義では発散しすぎてる。から普段感じることを。
俺の周りでの話な、かつ「女子力」とか使わない女のほうがなんつーか女子力高いなって感じる。
・女同士の集まりで「ちょっと太ったんじゃない?」「ダメだよ!」とか前向きにお互いの体型についてセーブしあってる
・情報交換が「このコスメがいい」だの「こっちの新作が良かった」だのの話をしてる。間違っても甘い食い物の話ばかりしてない
・そもそもキレイ。モテる。彼氏は基本いる。手料理とか別にできないけど、できる女はそれをわざわざ口には出さない。
・女同士ばっかりで集まってない。半分は男と会ってるし、男女混合で遊ぶことも多い。
・バカもいるけど、(友達も多いから)勉強はちゃんとしてきた子も多いし、仕事でもそういう感じ。情報共有がきちんとできてるから、忘れてて失敗するとかが無い。ただ「勉強した?」「ええーしてないよー」みたいなやり取りをよくしてるから、それを真に受けて落ちぶれるバカ女とかいる。こういうところは「本当の友達(笑)」ではないかもしれない。
結論、基本的に「やることやっててキレイ」っていうのは女子力高い、つか、女のヒエラルキーの中で上位なんだろうなって思う。女子力()が高くても、クズだったりロクでもなきゃダメだろ、人として。
女子力って言葉は「美意識が高い」というように使われることもあれば、「家庭的である」というように使われたり、「オシャレである」ということと同義に使われたり、紛らわしいよな。
女でそれにウンザリしてるって女は、あんまり振り回されずに自分の理想像だけブレずに持ってなきゃいいんじゃないかと思う。おつかれさま。
よくアプリを使って中国人とチャットするんだけど「日本はいじめが酷いんでしょ?」って質問が来る度にウンザリ。
増えるどころかむしろ減少傾向にあると伝えても、ニュースで見ただとかドラマ映画で見ただとかで「日本=いじめ大国」っていう認識はなかなか根強いらしい。
「認知件数18万5000件 8府県ではなお増加」
かなり、おどろおどろしい。
イジメ件数について2006年度に文部科学省が「発生件数」を「認知件数」に言い改めた事や、大津事件を受けて2013年「いじめ防止対策推進法」が成立した事を前提知識として持ってないと、日本人であってもミスリード必至だと思う。
こんなニュースが翻訳されて外国に伝わったら彼らが額面通り受け取るのは当たり前だろう。
「いじめが酷いんでしょ?」という質問に反論していると教科書の写真が送られてきた。
・「いじめ」の件数が前年よりも増えた
・ネットいじめが増えている
報道をなぞった内容で確かに内容に間違いは無い。でも、上でも言ったようにこれを前提知識の無い中国人学生が読んだらそりゃそうなるなと。
著者は日本人だったので、もうちょっと詳しく書くか、それでは内容が教科書のレベルに合わないのなら中途半端に書かないで欲しい。
教育現場が積極的にいじめの発見に力を入れはじめた成果が、逆にネガティブなイメージを与えてしまってると考えるとやりきれないし怒りも感じる。
今回はアニメ関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
いまのアニメ業界のビジネスモデルがいいものだとは私も思わない。
それでも、あえて言わせてもらうなら「君、そのコンテンツにいくら出した?」。
そりゃあ君が本当に「お金を払いたいもの」に対して出せばいいと思う。
でも、君の中にそれら良質なアニメ作品や関連商品は含まれていないんだよな。
そこに矛盾はない。
もちろん、お金を払うことだけがその作品を評価することではないし、価値でもない。
自然の流れの中で評価され、成功すればそれはとても健全なことだとは思う。
でも、評価しているいち個人すらお金を払わないのに、「評価されない」、「成功しない」。
繰り返すが、そこに矛盾はない。
「何を持ってオリジナルとするか」にもよるが、まあここでは「明確な原作がなく、それを元にしていない作品」と認識してザックリ答えよう。
「既存の概念は全て出尽くして、後は組み合わせだけ」という論もあるが、私にはそれを的確に認識できる能力はないしね。
オリジナルがないわけではない、近年でも「SHIROBAKO」は絶賛だったし。
良質でも観てくれるか、黒字かなんて分からない。となると、多少の担保は欲しい。
そのおかげで微妙な作品すら、興行的に成功してしまうのがいいとは私も言いたくはないがね。
でも、そんなケースもあるように失敗しない、失敗しても大打撃にはならないならやっぱり作り手としてはそれを選ぶ心境は分かってあげよう。慈善事業じゃないんだから。
それに、君がただの「いち視聴者」を貫くつもりなら、色眼鏡なしでただ「面白い」という体験こそが正義ではないかね。
いやーこれからは気をつけなきゃね!すぐ通報されちゃうからね。
今は本当に厳しい時代だね。
それにしてもさあ…ヤッたならまだしも、言っただけで処分されるなんて、厳しくない?
そんなこと言ったら、俺たち皆もう全員解雇だよなあ!はっはっはっ
言う相手、考えなきゃね~。
某大手メーカーのおっさん達。企業名こそ出せませんが、テレビでCMをやるくらいには有名な企業です。
私はそこに派遣社員として在籍していますが、体調不良で休んだら
と言われたり飲み会で太もも触られたり、日々嫌な思いをしている。
そこで今回の裁判のニュースは私にとって嬉しいニュースだったが
おっさん達の発言で本当にイラッとしたので書かせてもらいました。
2ちゃんねるやココとかなら顔が見えない分、どうしようもない奴が書いているのだと思えば
ある程度は抑えられるけど、それなりの職階も持っていて、家庭ももっている世間一般でいう
立派な会社員がこんなことを目の前で言っているのを見るのはつらい。
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。