はてなキーワード: アウトプットとは
この世にありふれている悲劇とわかっている出来事でも、いざ自分の身に降りかかると、気持ちの整理に時間がかかるもので。
先日、自分が推していたコンカフェキャストが卒業した。コンカフェというものに初めて訪れて、初対面で気に入ったキャストだったので、今後その娘以上に特別な存在は現れないだろうと思えるほど、素敵なキャストだった。自分にとってのコンカフェとは、その娘のいる空間のことだった。
喪失の悲しみと向き合うために、今の自分の感情を整理する必要があると思い、コンカフェに通う中であった悲喜交々を文章としてアウトプットすることにした。取るにたらないオタクの身辺雑記でしかないが、今コンカフェに推しがいるヒト、推しの卒業が迫っているヒトにとっての一つの導になれば良いなと思う。
元々コンカフェというものに興味があって、職場の同僚と飲んだ後に、「一度寄ってみたいんだ」と誘い、とりあえず最寄りの評価が高そうな店を訪れたのがきっかけだった。前提知識がない状態で入店し、そこでたくさんお話をしてくれたのが推しだった。
推しの魅力はなんといっても人間離れした美しい顔立ちとプロポーション、そしてコンカフェ嬢らしからぬ素朴さにあるのだが、これは万の言葉を尽くしても伝え切れるものではないので置いておく。
推しと出会ってから卒業までの1年と数ヶ月、ほとんど欠かすことなく通い続け、多い時では週に4〜5回行っていたこともあった。店が帰路の途上にあるのでアクセスが良く、推しの出勤日は帰宅時に必ず寄るようにしていた。
仕事の疲れや日々の嫌気は、推しと接することで解消され、明日への活力になった。推しと出会ってから仕事のパフォーマンスも向上した実感がある。職場でも、コンカフェに通っていてこんなに可愛い推しがいるんだと喧伝していたので、良いイジられのネタにもなって、コミュニケーションも活性化した。「今日は推しの出勤日なので」といえば、残業も切り上げられ、飲みに誘われることもなかった。コンカフェに通っている間は、私生活にも良い影響が多分に出ていて、「推しは精神安定剤」とはよく言ったものだと実感した。
それくらい、自分の日常の中に推しは溶け込み、なくてはならない存在になっていた。一年という期間は、推し活としては恐らく長いものではないのだろうが、ヒト一人の生活を変えるには充分な期間といえる。
推しのおかげで、自分の人生は間違いなく好転した。そのことについては、ただただ感謝したい。
ここからは少し愚痴っぽい話になる。推しは素晴らしいという前提は当然のものとして、コンカフェというシステム上、どうしてもつきまとう歯痒さというものがあって、これはいくらか共感を得られるのではなかろうかと思っている。
前述の通り、自分は推しの出勤日には必ず店に行くようにしていて、所謂全通オタク状態だった。滞在時間も大体2時間程度で、顔出しだけして帰るということは極力ないようにしていた。それは推しへの目配せとかではなく、単純に自分が少しでも長く多く、推しを見ていたかっただけだから、必然そうなってしまったのだ。
自分の知る限り、他に全通している推しのオタクはいなかったように思う。他のキャストからも「推しちゃんのお客さんと言えば貴方ですよね」という話をされて、嬉しかった記憶がある。店自体が、あまり単価の安いところではないので、足繁く通うことにたしかに抵抗はあったのだが、それを差し置いてでも通いたくなるほど、推しは魅力的だった。
しかし、会う頻度が高いほど、話す時間が長いほど、注ぎ込む金額が多いほど、推しの中での自分の存在は希釈されていく。これが避けようのないジレンマだった。
毎日顔を見る人間と、月に一度しか会わない人間、どちらとの時間を優先するかと言われると、それは後者だろう。1ヶ月ぶりにコンカフェに行ったのに、常連ばかりを相手にして自分は放置となれば、店や推しに愛想を尽かされてしまう。なので、毎日居て、いつでも話ができる自分のような存在はどうしても後回しになってしまう。
推しは客に対して非常にフラットな接し方をするタイプで、誰か一人を贔屓することはなかった。自分に会いに来る客は皆等しく対応し、新規の客にも積極的にアプローチしていた。これは自分が都合のいい解釈をしているだけで、ただ単に相手をするのが厄介だから干されていたという可能性も決してなくはないのだが、それを想定するのはあまりにも辛いので、見えないふりをしておく。
ともかく、通えば通うほど推しからの優先度が上がるというわけでもないので、実のところ、金額に対する満足感というのは求めるべくもなかった。他に全く客がいない、あるいは他キャストの担当しかいない状況であれば、推しと長く話すことはできたが、そうでない場合は、推しが自分のところにいてくれた時間というのは、決して長くはなかった。
それを不満と思うのであれば、コンカフェという、キャストにある程度接客の裁量が委ねられている業態の店に行くべきではないので、不満ではないのだという自己欺瞞は絶やさずにいた。
言い得て妙な話だが、キャバクラやガールズバーはお金を払って女性にチヤホヤされに行くところだが、コンカフェはお金を払って女の子をチヤホヤしに行くところなのだ。そこに気付くと、自分の立場が俯瞰できる。そういう業態の店をわざわざ選んで行っているのだから、甘んじて受け入れるべきだ。そう自身に言い聞かせることで、ジレンマと向き合っていた。
そんな、迂遠な理屈を介してでも行きたくなるほどに、推しは魅力的だったのだ。
推しは学生なので、学業及び就職活動に専念するために卒業する、というのが名目だ。
最終日、自分はオープン前から店前に待機し、一番乗りで入店し、ラストまでの8時間店に居続けた。
店で最高額のシャンパンと推しのオリシャンを一本ずつ入れ、フラワースタンドも発注し、細やかな誕生日プレゼントを渡し、物販のグッズは全て買い占め、ランダムのアイテムも全てゲットした。結果的に冬のボーナスを全て注ぎ込んでも足りない程の会計となったが、最後の花火なので、後悔はない。
シャンパンを開ける時も、フラワースタンドが搬入された時も、推しは喜んでくれた。推しのコンカフェ人生の集大成に、多少の花が添えられたなら、これに勝る喜びない。
最終日の8時間の内、推しと会話ができた時間はおそらく30分にも満たなかった。対面で5分以上連続で話したタイミングは一度もなかった。
推しほどのポテンシャルがあるキャストの生誕卒なので、当然ながら店は盛況を極めた。推しは絶えず各席を回り、オタク達に別れを告げ、思い出話に花を咲かせ、これからの人生の展望を語っていた。
それを横目で追いながら、机上に増えていくグッズを眺めることしかできなかったことが、とても寂しかった。
ほんの10分程度でも積もり積もった思い出を語らう時間があれば、この寂しさを覚えることはなかっただろう、ということはきっとなく、ヒトの欲に際限はないので、10分あったならばもう5分、さらに5分と、より長い語らいを求めていただろう。なので、この寂しさは決して埋まることはなかったのだ。最終日を迎える時点で、抱えるべくして抱えた当然の帰結だった。
ただ、しかしただ、ほんの少しでも、この一年と少しの期間の思い出が報われる時間が欲しかったと思うのは、贅沢なのだろうか。推しのために誰よりもお金を使った。自分は高給取りではないので、決して平然と出せる金額ではなかった。当日も、誰よりもイベントを盛り上げるべく尽力したつもりだって。誰よりも推しと長い時間を過ごしてきた。そんな自分が、多少でも特別扱いを求めるのは、傲慢だったのか。
推しのオリシャンは、閉店1時間前に急遽下ろしたものだった。店長には「せめて、推しのコンカフェ人生最後のポンは、自分にさせて欲しい」と頼んだ。自分のオリシャンが空いた数分後に、別卓でも軽快な破裂音が鳴っていた。自分は、横に座っていた会社の同僚の肩を叩きながら、腹を抱えて笑った。周りにいたキャストが引き気味に目線を寄越すくらいには、大声で笑った。おかしくて仕方がなかった。
その後、店長が気を遣ってか、「一番最後に退店してもらうので、席に残っててください」と声をかけてくれた。
自分と、会社の同僚と、地元の友人の3人で店を出る間際、もうここしかタイミングがないと思い、「少しだけ語らせてほしい」と推しに声をかけた。とにかく何かしら思い出を語ろうと思ったが、酔いが回っていて、うまく言葉が出てこなかった。ヘラヘラ笑いながら「これからも頑張ってね」的なニュアンスを伝えた気がする。みっともない限りだった。
それで、終了だった。
こうして文章にしてみて、自分は結局最終日に構ってもらえなかったことが悔しかったという、それだけが言いたかったのだと気付いた。
お金と時間を費やせばそれだけ推しにとって特別な存在になれるのだと勘違いしていたその結果の醜態だった。
当然、そんなわけはない。コンカフェとは、支払った分の見返りを求めて通うところではないのだと、自分は最後の日まで気付くことが出来なかった。理屈としてはわかっているつもりだったが、その日まで実感を得ることができなかった。
あるいは自分がもっと、ヒトとして魅力があって、喋りも達者で、推しを楽しませることができる人間だったら結末は違っていたのだろうかと、詮無いことを考えてしまう。ただ座って会話もままならない状態で金だけ注ぎ込んでいたら、それは養分になって当然だ。
自分の非を治そうともせず、そんなところで延々愚痴を垂れ流すことしかできない下らない人間なのだから、相応の結果だったのだろう。
推しが居ない生活に戻って、自分はこれからどうなるのか、今はまだよくわからない。
願わくば、推しの今後の人生で、ほんの一瞬でも自分のことを思い出す時間があれば良いなと思う。それが少しでも良い思い出としてだったなら、多少は報われるだろうかと思う。
私は自分を含めた全ての人に対して何かしらの不満を抱きがちで、そうじゃない相手には劣等感を抱いている。お察しの通りうつ病診断を受けて通院しながら過去働いていた頃の貯蓄と傷病手当で生きている人間です。
私は多分怒りというものを抱く生き物として生まれてきていて、その怒りが私の生きる力になってきたし、創作活動の根源になっていました。社会、上司、家族、パートナー、世界、犯罪者、何でもかんでも怒りを抱いて、その強い力を変換して明るく毎日を過ごしていました。劣等感も自分への怒りへ1度変換してからアウトプットへと変えていました。怒りの矛先をどこへ向けたら良いのか分からなかった子供の頃は、それを傷として自分に刻むことで発散していました。
ところが、とうとうその怒りそのものを変換することが上手くできなくなり、結果起き上がれなくなった私はうつ病と診断され、沢山の薬を飲みながらなんとか衣食住を整えて、普通の人間の振りをしながら生きています。
今の私に、うつ病になる前ほどの強い怒りはなく、その文穏やかに生きられていますが、反面何をする気にもなれなくなってしまいました。
あんなに頑張っていた美容やダイエットも、何もしていません。食事も、生きられればいいやという程度。何十万何百万とかけてきた美容医療。今となってはよくやったなという感想しか抱けない。筋トレで得たメリハリのある体も、今は見る影もなく貧相な猫背の女に変わってしまいました。
また怒りをため込めるようになった方がいいのか、このまま穏やかに生きた方がいいのか、わからない。
普通の人は、怒りとどうやって付き合っていきているんですか?
書いてる側の気持ちとしては、情報や思考を外部のメディアにアウトプットした時点で期待の8割ぐらいの満足感を得ているので、それへの反応はオマケ。だから結構いろいろなところで気の向くままに書き散らしている(amazonレビューとか)。増田とamazonは字数制限が少ないのが良い。twitterでも色々書いてたけど、1/みたいな形式の連ツイは、書き方をどうしても140文字単位に区切ってしまうので、書いて出しができなくて少し窮屈に感じる。blogみたいに、書き手の同一性を想定して複数の書き物を読まれちゃうのもちょっと窮屈。そこも増田のよいところ。
たとえゴミ箱みたいなとこに書いて、そこでゴミみたいな反応があったとしても、最初に得られた「書いて外に出した」という8割の満足感が失われるわけでもない。書くこと自体を別に快楽と思ってなくて、あくまで何かのための手段ととらえるタイプの人には、この感覚はなかなか伝わらないかもしれないけど、世の中を広く見渡せば俺みたいなやつは結構いるもんだと思うよ。
どう書けばいいんだ?
自分では熱意をこめて書いてるつもりなんだが、読んだ人はあまり感じられないらしい。
「熱意 文章」でググると、「思いをこめて書けば伝わります」みたいな記事は見つかったが、そんなふわっとした方法じゃなくて、もう少しハウツーよりの話しが聞きたい
(追記)
夜中に書いた愚痴に反応していただきありがとうございます。
リアルで「熱意を感じる文章とは?」を聞いて回るのは無理だしなぁと、ここで愚痴ったらこんなに反応があると思わなかった。
かなりビビってる。
もともと文章を書くことが嫌いな人間なので、「単純に文章が下手で、熱意以前にそもそも内容が伝わってない」という指摘にギクッとさせられた。
結論を先に書くことはやってたけど、具体的なことや共感されそうなことは書かなかった。
文章が長いといろいろ指摘されることが怖くて、短くしようとしてしすぎてたのもよくなかったと思う。
いきなり文章下手を直すことは難しそうなので、添削する人に見せるかどうかは別にアウトプットする文章量を増やしてみることにする。
ママになって早1年ちょっと、産後初めてお友達のおうちで2.5次元ミュージカルの鑑賞会をした。上映作品は友達の推している作品である。
鑑賞中はさまざまな感情があふれた。多分泣くシーンじゃないと思う場所でも自然と涙がこぼれ、己の情緒が上に下にとジェットコースターのように暴れ狂った。
そしてすべてを見終わった後、友人たちは堰を切ったように口々に感想を言い合った。あのシーンのこの子のあの子を見つめる所作がサイコーだった、ここの演出はあの子の心情を加味してこういう動きになってたんじゃないだろうか、というような具合にである。増田も何か言おうと思った。さっきなぜ泣けたのか、クライマックスがいかに素晴らしかったか、などなど。
しかし!なんと!なぜか!言葉がまっっったく出てこないのである!!!!!
考え考えようやく絞り出せた言葉は「中盤のあの子、えっちだったね」だった。我ながらキモ過ぎて絶望した。友人たちは優しいのでめちゃくちゃ話を広げてくれた。ありがたい。そして情けない。
思えば子どもが産まれてからあんなに繰り返し見ていた円盤もすっかり埃をかぶり、簡単に映画やアニメに触れられる配信系も寝かしつけの後は家事して朝日と共に起きる子どもと起きるべくさっと寝てしまうからちっとも見ていない。また、素ん晴らしい作品に触れては速攻対面なりSNSなりで感想を吐き出していたあの頃とは違って「こどもちゃ〜ん、楽しいねえ」「これが欲しいねえ」といった簡単な言葉をほぼ返事の返ってこない相手に投げかけ続けるだけの日々を過ごしている。そりゃ言葉が死ぬのも当たり前か。
ノーミソって結構簡単に退化するんだな、ということをひしひしと感じながら友人達の会話を聞いていた。あーうーなんかすごいーしか言えなくなってしまった現状がわりと悲しいけど、もし友人達がリハビリに付き合ってくれそうなら、ゆっくり素ん晴らしい作品を履修してゆっくりアウトプットしつつ、いつかアツく語り合いたいと心から思った。
雑誌の投稿欄だったり、査読後の論文といった、一度人の判断が入っているといったことや、
ポスターの掲載といったような特定の場所にいる人しか見れないといったことを、
ネットで最初にアナロジーとして設計できたら、変わっていたのだろうか。
誰でも情報発信できるようになった、民主化だと持て囃されたが、
個人でインプットできる量なんてたかが知れていて、日々のアウトプットなんて不可能だ。
ヤフーのコメント欄、はてブのコメント欄、ニュースについてあれこれ言っているYou Tubeなど、ほぼ意味がない。
炎上案件についても、実際の関係者間で話し合わないと何も変わらないのに、ネットで外野が盛り上がる。
ネットなら多くの人が知恵や意見を出し合い問題が解決されるかもしれない、そんなのに夢見ていて時期もあっただろう。
だが多くの無関係な人が集まっても、3,4秒で見て思いついたことしか集まらず、知識を持った人には届かない、
煽りか炎上でなければ広まらず、それで解決する問題は偏っている。
個人としては直接お金がかからない、コスパが良いようだが、衰退する社会だと長期的にコスパは悪い気がしてならない。
政府批判にしても、見てるかどうかわからないような、はてなで「だから俺はああ言ったんだ」とか言っても全く意味がない。他のサービスもそうだ。
勝手に期待しといて勝手にガッカリするのおかしいけどう〜〜ん・・・
語彙力・リズム感・構成力がめちゃ高だが、常識に分類される知識をすべてパージするギャングスタラッパーもといネットラッパーは以前も書いたが、
今回は別の方
語彙力・リズム感・表現力がめちゃ高で随所に本が好きなんだなぁ感があり純文学アピールもするが、
・・・い〜や・・・どうしたって、そ〜はならんやろ、みたいな・・・
おそらく、この方は文体模写もめちゃくちゃ得意なはずで、萌えオタクなら必ず一度は目にする某作家とぶっちゃけ少し似ている
ただ軽快さは遥かにこの方の方が上で、クリアボイスの歌手が唄うようにスムーズに言葉が入ってくる
『え?今なんて言った?』と全くならない
おそらく、相当、幅広い分野の本を読まれていると思うのだが・・・・まぁ殆どのお話には大抵お約束があるよね?
だいたいログラインで興味を引くような展開になっているわけなのだけど・・・何故それを・・・全無視・・・なのか?
これが、読者に好かれる人物にする法則さえもブン投げていれば、逆に、『そうなんだ』って腹落ちするが、何故かそこだけはぶん投げていない
合わない人は合わない川端康成(ワイは好き)みたいな淡々とした話でも、欧州の監督が撮りそうな何も起きないノンフィクション風の体裁の映画みたいな話でも、
プログレみたいな実験的な話では無いのだわ・・・いや・・・強いて言えば、ボカロの曲でありそうか・・・?
でもよくよく考えるまでもなく、ワイくんもそこそこさまざまなコンテンツに触れておきながら、比喩ではないガチうんこばかり捻り出しているので、
記事を書いてるやつが頭が悪い上にそれに同調するやつがそれに輪をかけて頭が悪すぎた結果、小学校低学年の学級会みたいな低レベルないじめが行われていたから。
□記事を書いた増田が自他の区別すらつかないアホで卑怯者だというのは数人が指摘している通り。たとえばこのコメント
なにが「ムカつかれる」だよ!! お前がムカついてるんだろうが!!! 匿名から叩かれにくい理屈を作って非難しようとするそのやましさを根絶したい
□次に一部のはてなブックマークユーザーがそれに輪をかけて救いようがないほど頭悪い。
めちゃ分かり易かった。うん、そうだよね。
なるほどー!となった。なるほどー!
言いたいこと全部書いてくれててすごい。
言われてわかる内容
あ~~納得。彼女らにとって、マンガは「文章読めない人でも絵がついてると飛びついてくれて注目浴びれるチョロ~」であり、読み手の「面白い」は捨て置かれ、書き手にしかメリットのない形式として完成してるのな。
こういうコメントを書くやつは自分がいかに異常かということを認識できてない。鬼殺隊にうんざりする無惨様の気持ちがちょっとわかるくらいに頭が悪い。ここでいう頭が悪いは知性の問題じゃなくて情報に対する接し方がひどいということ。これらの頭の悪いユーザーははてなブックマークというシステムに甘やかされていて意志や思考をアウトプットする力が極端に弱くなっており自分ではまともに意見がいえない。善悪の判断すらできなくなっており、その場の空気がそれを許すなら誹謗中傷や暴言、いじめに類する行為も平気でやるくらいに主体性がなくなっている。だから自信満々で理路整然とそれっぽいことを言ってる人がいたら深く考えずに流されて、「自分もそう思っていた」というポーズをとってしまう
□中にはものすごく正直な人がいて、このようにコメントしている
(´・ω・`)正直なところ叩かれ始めるまでは特に何も感じてなかった。叩かれ始めてから何か鼻につき始めた。周りに感情を誘導されてるのかな
この人は取り繕ってないから好ましく思う。上の連中は自分の思考を他人にコントロールされてるのに喜んでるからもう手の付けようがない。
□普通の知性を持つ人なら「発達障害女性の半生漫画がムカつかれる理由」という記事に流されない
漫画の構成として違和感あるのはわかる。ムカつくのはよくわかんない
言いたい事は分かるが世界の見え方が違ってるんだからしょうがないんだ
もしや文脈わかってない発達障害が「読みたいのはそこじゃねぇ!」って発達障害の漫画を叩いてる?
あの漫画は自分の子供を通して発達障害を知り、過去の自分を許せるようになったってだけの話だろ。そのテーマでは横道に過ぎない理解ある彼くんに過剰反応する人がここを深堀しろって勝手に言ってるだけじゃん
このエントリ、「理路整然と正しい事」書いてるか?私がエッセイ漫画に求めるのは作者の視点から見た世界だから、描かれないことは作者には取るに足らないことだと認識するだけで、ないからつまらないとは思わない
今回はこのタイプのコメントが一番多かったので本当によかった。
今回は増田と1割の馬鹿のせいで不愉快になったが残りの6割はまともだったので安心した。3割はどっちでもないコメントだった。
毎年のBとかMシシスとかのネタをかんがえてる。それがしごとだから。いよよますますめんどくさくなってきた。
今後数年かもしくは十年ぶんのネタについて課題としてあたえられないか?
ウェブクラスかなにかで小論文形式。べつにGitHubでもいいけど。○○方式は?第一図から○○図までをしめしたうえでそれに必要な要習得事項などをならべとく。どうすればいいんだろ???どっかのだれかがすでにやっちゃっている仕事の追試ベースにする?それなら、ブログ記事を参照すれば手順がかいてあるし、だすべきアウトプットのすがたもしめしてある。それがいいかも。Bシシスは基本追試。追試。追加試験。
さきほどおもいだしたけど、あれはどうか?TMGE. 対象となるブツあるか??スパラくらいしかおもいつかないけど・・それだと・・ちょっとかんがえなければ。あとは〇光社からもらったやつ・・どうなるべきかわかっている。すでにしっているたぐい。開発したことにおもみ。まあでもそれでもええかも。Bシシスなら。。じゅうぶん。
★ エスティマ
こちらは追試ちゅうわけにはいかんやろ。さすがに。リポジトリに登録してるネタ貯金をきりくずすんでしょうな。なんかをはからせたいときにどうたのむか?
人の話が聞けない人は、他人の価値観をインストールできず、世界が自分だけで構成されいて、人間関係も歪む方向に拡大するが、
それらの負債は他人だけが見えているもので、本人は幸せものなのではないかという話。
例えば、人間関係において平和主義だと考える人に、他人に対して「怒り」をアウトプットしない事をポリシーにしている人がいるが、
自分が「怒られたくない」ことが重要である人がいて、その様な人は、他人の「怒り」を受け取ったときコミュニケーションにバグが生じる。
(自分が平和主義でありたいならそうすれば良いだけだが、相手にも平和主義を押し付けるマインドが隠れている場合にバグる)
たとえば、このような行動が見られる。
何もないところから怒られる事が振ってくることなどなく、原因が存在するが、
そこを見ることができない(=人の話が聞けない)ので、本人は解消の仕方が分からない。
なぜ、怒っているかを理解できないながらも折り合いをつけるための着地は必要で、自分の価値観で相手を決めつけて納得感を作り上げて解消する。
あなたの「怒り」を聞いてあげている努力(実態なしのポジションだけ)をしているが解消されないのはあなたが悪い
あなたの「怒り」に頭を下げているにもかかわらず解消しないあなたが悪い
本人の中の努力基準があふれたとき、それでも「怒る」相手にたいしてバグる。
(怒らないポリシーで耐えていた分をひっくり返して逆切れ散らかしたり、相手を見下し判定し今後の存在を無いことにするなど)
それを積み重なると曲がった世界観の中で、何度も重ね塗りのように自分の価値観をアップデートしてゆき、
どこかの宗教の教典のような教えが確立され、その価値観から脱却できなくなる。
このような人はたまにいるが、総じて思うのが、みんな幸せである(ように思う)のだ。
なぜならば、世界は自分だけなので、受け取れない物は耳をふさいで、受け取りたいものや言葉だけをチョイスして、
人間関係における問題解決はせず、本人は問題解決をした気になり、ストレス解消という名で、自分の世界の中だけで勝手に解消して、それでも溢れるときは存在をrejectして終わりにするのである。
このような、自分ばっかりにする人のことを「いつか自分に返ってくる」と折り合いを付ける人がいるが、(私もそのように感じているのだが)どこの角度をとって見ても、
曲がっているなりに幸せな世界に生きていおり、一体どのような形で「何が」返るのかが分からないのだが、
経験値の中であった例を教えてもらえないだろうか?
3流大学出の自分は新卒でのスタートから出遅れていたので、最新の情報を常にキャッチアップして闘ってきた。
個人開発、勉強会への参加、OSS開発等、仕事終わりや土日に時間をかけ知識を蓄えていった。
大変だと思ったことはないし、むしろ楽しかった。学びがそのまま自分のアウトプットの品質や、待遇に結びつくのでやりがいがあった。
まず、PCの前で作業している時間や勉強している時間を、仕事と認識されてしまい非難をあびるようになった。お金も出ないのに仕事をしすぎと言うことらしい。
次に勉強会などコミュニティ活動に参加する時間が無くなった。必要ではないことを優先し、家庭との時間を蔑ろにしていると感じるらしい。
奥さんはどれだけ家族の時間を過ごせるかを大切にしていた。会社での昇進や昇進のための日々の学習よりも、一緒にTVドラマを観たり旅行の計画を立てたりといった家族の時間が重要なのだ。
という話はAIとは言えないレベルのプログラムが反応を返した数十年前から、まるで出来の悪いSF小説のようにある人は危機感とともに、またある人は新しい飯の食い扶持として盛んに議論されてきた
ここ数年の進化でにわかに現実味を帯び、さらにここ数ヶ月の画像生成系AIによって実際にイラストレーター界隈で筆を折る人まで出てきてしまった
クリエティブ領域をAIが侵略するのはまだまだ先だと言われていたものの、Microsoftが発表したデザイン系AIによってクリエイティブも焼け野原にされ駆逐されてしまうかもしれない
デザインで生活をしている私にとってもこれは由々しき事態で、かつて紙系のデザイン業界には二度の嵐が襲いかかり、卓越した職人技や伝統的な技法などが失われた
一度目の嵐は、活字を一文字ずつ拾う写植や、烏口やロットリングで手作業だったアナログ製版という分業で成り立っていた印刷業界を「DTP」という方式が統一してしまい、専門的な職人たちはデジタル移行への波に乗れず廃業を余儀なくされた
二度目の嵐は、このまま印刷物のデザインに留まるか、それともweb業界にも進出するかという岐路で、web業界へ漕ぎ出した会社や個人のことごとくは成長の一途をたどり、留まったものたちはまるで蠱毒の壺のような様相を呈している
ここにきて三度目の嵐だ
「過去の作品やデータを参照して機械学習を繰り返すAIに、新しいものは生み出せない」という言葉は虚しく消えかけている
何を隠そう、デザイナーの多くは先人たちが残したデザインをインプットし、そのほかに見て聞いて触った体験を織り交ぜてアウトプットをしている
時折、世間を騒がす盗作騒動も、こういったインプットからアウトプットまでの試行回数の差によるもので、こればかりはいつどのデザイナーが倒錯の謗りを受けるかなんて、神のみぞ知るところだ
もしデザイン系AIが過去のデザインだけを参照する単純なインプットだけを繰り返したのちに、ほかの領域の要素まで取り入れ始めたら勝てる気がしない
デザイナーが何日も頭を悩ませ、作っては消し、並び替えては戻しを繰り返し、出涸らしのような状態になりながらもひり出す工程が「AIなら2分で完了です」となったら、殺されたも同然だ