2022-11-02

ネットが、いきなりパブリックに公開されないなら違った形になっていたのだろうか

雑誌投稿欄だったり、査読後の論文といった、一度人の判断が入っているといったことや、

ポスター掲載といったような特定場所にいる人しか見れないといったことを、

ネット最初アナロジーとして設計できたら、変わっていたのだろうか。


誰でも情報発信できるようになった、民主化だと持て囃されたが、

個人インプットできる量なんてたかが知れていて、日々のアウトプットなんて不可能だ。

ヤフーコメント欄はてブコメント欄ニュースについてあれこれ言っているYou Tubeなど、ほぼ意味がない。


炎上案件についても、実際の関係者間で話し合わないと何も変わらないのに、ネット外野が盛り上がる。


ネットなら多くの人が知恵や意見を出し合い問題解決されるかもしれない、そんなのに夢見ていて時期もあっただろう。

だが多くの無関係な人が集まっても、3,4秒で見て思いついたこしかまらず、知識を持った人には届かない、

煽り炎上でなければ広まらず、それで解決する問題は偏っている。

そして多くの人がそういったことに時間を使っていることだ。

個人としては直接お金がかからない、コスパが良いようだが、衰退する社会だと長期的にコスパは悪い気がしてならない。

政府批判にしても、見てるかどうかわからないような、はてなで「だから俺はああ言ったんだ」とか言っても全く意味がない。他のサービスもそうだ。

いきなりパプリックに公開されないなら、よっぽど伝えたいなら相手の連絡先に投げていたんじゃないか

Twitter毎日これで今日は殴り合おうなんてのもなかったんじゃないか

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