はてなキーワード: 隠蔽とは
これを書いてる時点で隠蔽に加担したと疑われるのでは?
もう長いことフリーターやニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分は空気のような存在でいたい。そういうわけで人間と関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校を卒業したらどこかの会社に就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさまである。未来と言うのは本当に不確かなものだ。
陽キャと陰キャの二元論で物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代の自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれて学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分の意思で関係を構築していたわけではなかった。
自分は公立の小中学校に通っていたが、公立の学校には実に様々な人間が存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である。自分はたまたま同じクラスにやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立の学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。
彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導の先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則を無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間からも自分はいたずら好きな人間なのだと認識され、近寄ってくる人たちも自然と自分と近しい人達ばかりであった。
中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験の受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分が高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育にお金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育にお金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップの主人公が自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャルの主人公がグループの反対を押し切って難関大学の受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校に入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界の学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。
高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分を自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。
高校は高校で中学までの人とは別のタイプの明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分は人生そのものに関心がなかった。
自分の性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分はベクトルの向きが真逆の人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分の意思で自分の人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分は自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質が隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。
周りに流されて生きてきて自分の性質を客観的に見る機会を持たない人間は本来の自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間の人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。
結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクやアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティを形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である。
もっと早いうちから自分の性質や人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。
もう長いことフリーターやニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分は空気のような存在でいたい。そういうわけで人間と関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校を卒業したらどこかの会社に就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさまである。未来と言うのは本当に不確かなものだ。
陽キャと陰キャの二元論で物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代の自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれて学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分の意思で関係を構築していたわけではなかった。
自分は公立の小中学校に通っていたが、公立の学校には実に様々な人間が存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である。自分はたまたま同じクラスにやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立の学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。
彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導の先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則を無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間からも自分はいたずら好きな人間なのだと認識され、近寄ってくる人たちも自然と自分と近しい人達ばかりであった。
中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験の受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分が高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育にお金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育にお金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップの主人公が自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャルの主人公がグループの反対を押し切って難関大学の受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校に入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界の学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。
高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分を自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。
高校は高校で中学までの人とは別のタイプの明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分は人生そのものに関心がなかった。
自分の性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分はベクトルの向きが真逆の人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分の意思で自分の人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分は自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質が隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。
周りに流されて生きてきて自分の性質を客観的に見る機会を持たない人間は本来の自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間の人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。
結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクやアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティを形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である。
もっと早いうちから自分の性質や人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。
最近の技術発展で、個人としては便利になっているかもしれないが、日本経済全体のパイを増やすのにつながっているのか、という疑問がある。
例えば、QRコード決算は便利だし、お釣りを渡す時間を計算すると秒単位では早くなっているはずだ。
レジを更新するために設備投資もしているはずだ。(小さいところはスマホで済ますだろうが)
だが日本全体で見たときに消費金額が増えるとか、そういうのにつながっている気がしない。
画像生成AIについて、技術サイドはクリエイター側にも恩恵があり、生産性が上がる、という。
何も知らされずにどちらが良いかを尋ねられたら、AI側を選ぶ人も居るだろう。
だがお金を払うってなると別な気がする。
裏であるだろう、計算機代金、サブスクリプション代、AIへの命令の最適化への努力、出てきた画像の選別への目を肥やす、といったことは隠蔽される。
数枚作って最終的な1枚を吐き出すために出すのにかかった費用分すら、お金を払う人は居ないだろう。
(有名人が作ったとか、そういう別の売り出し方があれば別)
だが世の中に溢れる画像は増えるので、クリエイターへの単価は下がるはずだ。
単価が下がる分、大量に作って補う方向ではないだろうか。
全体のパイは増えないのに、パイを奪う人数だけ増えないか。技術サイドの人と、新規AIクリエイターの人分だけ奪い合いにならないか。
もしくはAIが描けるようになる数枚まではお金を払うが、AIにそれっぽいのが描けるようになった時点でお役御免とする、というのが市場原理だろう。
AOKIの贈収賄に日野自動車の不正隠蔽。実はこれらは前からよく知られていた。知っていたのはPwCあらた有限責任監査法人。そう監査人である。
AOKIの監査人は天野祐一郎、日野自動車は市原順二であり、双方とも会社の不法行為を知りながら隠蔽に加担していた。
監査法人は本来不正に対処すべき機関である。しかし目先の監査報酬につられてPwCあらた有限責任監査法人は両社の不正行為をずっと見逃し続けていた。
この件について金融庁はだんまりである。なぜなら不正会計ではないから。
監査人は監査の過程で不正に気づいた場合、その報告をする義務があるが、監査報酬に目がくらんだ天野と市川はそれを怠った。
しかも、このことは上司である塩谷岳志、井野貴章もよくしるところである。
PwCあらた有限責任監査法人はパワハラで職員を自殺に追い込むブラックで有名であったが、いよいよクライアントの不正加担にも力を入れるようになってしまった。
これは酷い。
横浜市本牧町の医学博士大野禧一(当時49歳)は、同市に住む小倉鎮之助(群馬電力社長)六女の哲子(18歳、女学生)に1922年8月から気管支疾患の治療を施していたが、性に関する哲子の無知につけ込み、「陰部が糜爛しており、胸部の疾患に影響するおそれがあるのでこれを治し、また月経を順調にするため陰部に座薬を挿入する必要がある」と虚偽の説明をおこない、同年12月下旬まで3回にわたり小倉家の治療室で密かに強姦を繰り返した。この結果、1923年1月、哲子は妊娠3ヶ月の身重となっていることが判明した。
これを隠蔽しようとした大野は、哲子の母親に「哲子さんに月経がないのはポリープのためなので治療を施す」と虚偽の説明をおこない、同年2月21日、2寸5分の針金を二重に折り曲げたものを哲子の陰部に挿入し堕胎を図ったがその夜、哲子は局部に激しい痛みを訴えそのまま寝込んでしまった。不審に思った両親が問い詰めると彼女は告白し一連の犯行が小倉家に露見。翌日、医師に診察され産婦人科で器具が取り出された。胎児や母体に影響はなかったが激怒した両親は弁護士に依頼し横浜地裁に告発した。事件が明るみに出ると新聞各紙は大野を非難し人々は激怒して自宅へ罵倒に押し掛け投石もした。大野は強姦ならびに堕胎未遂の容疑で逮捕され、横浜地裁で懲役6年の判決を受け二審、三審でも有罪。懲役3年の実刑が確定し服役した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
社会人になって一番変わったの、正しいことはさっさと諦める、だと思うなあ
なんていうか、子どもの頃って悪いことはしちゃいけない、道徳の教科書に書いてあるようなひとみたいに生きるのが正しいんだと思ってたが、
社会に出てしまうとわりとそうじゃないことが多くて、解答に書いてある通りに○×つければいい仕事がないんだよね。
解答どおりでは×の答えを文章こねくりまわして他人とのコネで交渉して本来×だった答えを○にして一人前、って感じがある。
逆にいえば本来×だと思われることも○にされて隠蔽されるし、そんなことはたいてい表に出なくて、負けた奴が間違ってることになって終わる
なので、Twitterとかでこの現状は正しくない!古い!間違い!みたいに吹き上がっているのを見ても、
ああ、間違ってると思うけど、どうせ変わんないだろうなぁ、そして周りの人も間違ってるって言うだけで、具体的に何かしてくれるわけじゃないんだよなあって、
そういう諦めで物事を見てしまい、揉め事を見るのは疲れるから見なかったことにしよう…、ってなかったことにするようになってしまった。
どうせほとんどの人は大して社会問題なんかは関心がない、というのは大体職場で話しててもわかるから、
なんか自分だけ考えてるのバカらしくなっちゃうんだよな。みんなそんなに困ってる赤の他人に関心ないんだよね。
選挙もネット民だけが熱心にがんばっていて、現実の人たちはめんどくさいから行かなかったわwみたいなことが多いから余計そうなるんだけども。
そうやってみんなが見ないことにしていくから問題が解決しないんだってことはわかるんだけどね。
少なくとも学生の時はもう少し正しい在り方とか色々こだわってた気がするんだけどね。大人になるって諦めることなのかなと思ってしまう。
「何人だ?」
って、複数方向からツッコミ不可避なネタを自ら提供してくるKって、やっぱりフツーのサラリーマンとかバイトでもやったことないんだろうな。
警察学校で体育会系やって心折られつつ独特な文化に染まり、その後も独身寮で独特の文化に染まり。
フツーの人より心身ともに鍛えられているはずなのに、この自制できなさ。
って思ったけど、「言質とられたら後で何言われるかわからない」とか「センシティブな単語に脊髄反射するプロ市民に粘着されたら面倒くさい」とか、っていう感覚が無いんで「自制」とかって概念が無いのかと考え直した。
実際問題として日本国籍じゃない人の犯罪率は都心であれば高いわけだし、現場のKがそう言うのもきっとKとしてはフツーなんだろう。これは偏見じゃなくて数字から見た合理性での発言って意味な。対象を国籍に限定しなければ統計からのカマ掛けはK以外でも有ること。
チンピラ相手に恫喝合戦になるのもフツーなので、そのノリで口が悪いのもフツーなんだろう所属によっては。
他のKが見守り体制なのも、階級が下なら今後の出世の道を絶たれる危険がある体育会系だからフツーの事なんだろう。
そもそも、立件するもしないもKの匙加減なんだから、何をどうしても隠蔽可能だって根本的に思っているんだろう。概ねの善良な庶民はその事を理解しているから、とりあえずKには協力的にして社会貢献するんだってKも分かってて無茶振りしてくるんだろう。
いや、以前に職質されたときに、やっぱり「何人だ?」って聞かれたんで。
そのKは更に「親御さんどうしてんの?」とかも重ねてきたので多分、むかしのテンプレ刑事ドラマでも見すぎたんだろうと思ってたけど。
Kの文化として、この手の各方面からツッコミ待ちです的な発言を平気でするモンなのかと今回のアレで納得した。
ちな、このKも警察手帳見せてくれなかった。一緒に来ていた生活安全課?だかと名乗ったKは階級まで言ってくれたが警察手帳は見せなかったし「何人だ?」Kが大声出し始めても宥めもしねー。
20分くらい、このKと問答してたら他のKが更に集まってきて、いつの間にか「何人だ?」Kは引き離されて、穏やかに話すKばかりに囲まれて更に1時間以上は問答して開放された。その半分は「何人だ?」Kの言動について穏やかKが弁解する時間だった。
「何人だ?」Kは、コレまでも色々やってて苦情も上がってる的な内情をオブラートして伝えてきたけど、本当なら処分しないのかよ、と思うし。そっちの都合とか関係ないよね?職務に関係ないよね?ってか「何人だ?」Kの個人情報はどうなってるんだ?職務中だからちゃんと名乗れ案件ではあるけど勤務態度がどうとか漏らしてエーのんか?としか思わなかった。疑問が増えただけ。
しょっぱい。
弁護士法の懲戒請求をしたら10年前の今月に、どうやら処分決定が出たことがあったんだよね
つまり官報では一人の弁護士に2件の処分がなされた旨が出ている
まあ弁護士会の懲戒委員会も、どこぞの団体パワーの影響か、かろうじて戒告処分しかしてないし金銭被害が隠蔽されてるし、業務停止でもないからスルーしたんだろう
あと官報検索でなぜかその処分報がヒットしない時期もあって、不自然だなーと思っていた
そして2件戒告された弁護士は10年後どうなってるかというと、大手ビルディングに転居して、相変わらず被害者の味方として営業している(幽霊事務所でなければ、だが)
因みに統一教会被害などの問題を追ってる紀藤正樹氏のことではなく、オレンジ共済弁護団にいた人物
DAという女の子に銃を撃たせるにしてはあまりにも大袈裟で、テーマ性をもたせるにはあまりにも投げやりな組織
ラジアータで犯罪の発生を事前に察知してリコリスが容疑者を殺害して回ってるわけだが、
犯罪について事前に察知することさえできれば事件を阻止するのは警察でもできてしまうため、
現場対応をリコリスが行う必然性がない。結果的に少女に無駄な人殺しをさせてしまっている。
犯罪の発生を隠蔽して表面上の治安を見繕うことにどれだけの価値があるのかを描写されていないので、
政府の指揮下にないとか政府より権力を持つとか滅茶苦茶な設定盛られているわりに
やってることが犯罪発生件数を改ざんする程度の組織になってしまっている。
ツイッターでも「みんな知ってる暗黙の了解でしょ」みたいなこと書いてる京都人を見かけるけど、あいつらも犯行隠蔽で共犯として逮捕させたいわ。
京都のやつらが庇い合って舞妓の未成年強制性風俗労働の問題を隠してきたなら、京都全体の問題なんだよな
あいつらが黙ってるのはこれで逃げきれると思ってるからなんかな?
京都労働局が「舞妓の労働性については、個別事案になるので、答えられません」とか言ってるのも詭弁としか言えん
「未成年」が「深夜」に「無償」で「飲酒」を伴い「性風俗」にも掛かる「労働」をさせられてたら、個別事案なんて言及せずとも明らかに違法以外の何物でもないだろ
それが言えないってことは京都労働局は取り込まれていると疑われるに十分だ
新海誠は2004年に「雲のむこう、約束の場所」という映画を製作している。
本論では、この映画から政治性が巧みに隠蔽され、特にアイヌ民族が消えてしまっていることを論じる。
北海道をソ連(作中ではユニオン)に占領された世界。藤沢浩紀と白川拓也はそこに建造された不思議な塔まで、自作の飛行機で密航することを夢見ていた。その秘密がふとしたことで同級生の沢渡佐由理に露見してしまうが、彼女は二人の共犯者となり、いつか彼女も塔まで連れて行ってもらうことを約束する。しかし、彼女は突如姿を消し、飛行機の話もそれっきりになってしまう。
三年後、拓也は塔の破壊を企てる反ユニオン組織ウィルタ解放戦線に内通しつつ軍属で研究し、塔の秘密を探っていた。塔の目的は並行世界の観測による高度な未来予測であった。そして、塔の設計者であるエクスン・ツキノエには孫娘がおり、その孫娘たる沢渡佐由理が原因不明の奇病で三年間眠り続けていると知る。
一方、東京に出た浩紀は、佐由理の夢に悩まされていた。そんななかで彼女の痕跡を追い、かつて入院していた病院にたどり着くと、突如佐由理と浩紀は夢の世界で心を通い合わせる。浩紀は佐由理を救うには三年前の約束を果たさねばならないと悟る。
だが、拓也側の研究の成果により、佐由理は眠り続けていることで塔からの並行宇宙の浸食を防いでいると明らかになる。彼女が目覚めれば、この世界はあっという間に浸食されるだろう。
浩紀は青森に戻り、拓也と再会する。浩紀は拓也に「ヴェラシーラに佐由理を乗せ、塔に連れていくことで佐由理は目覚める」と伝え、協力を求める。佐由理の目覚めによりこの宇宙の消失を恐れる拓也は、一度は協力を拒絶する。しかし葛藤の末、佐由理を軍の病院から連れ出してきた。浩紀は佐由理を後部座席に乗せ、米ソ開戦直前でヴェラシーラを発進させる。
緊張が極限に達した米ソは開戦し、その混乱の中で浩紀はヴェラシーラを飛ばす。塔の傍で目を覚まし、涙を流す佐由理。浩紀はウィルタ解放戦線に託された爆弾を投下し、塔を壊して宇宙の消失を食い止める。
佐由理は目を覚ました。しかし、目覚めと共に浩紀に対する思いは消えてしまっていた。
さて、先ほど述べたように、作中では日本がソ連の侵攻によって南北に分断されている。そして作中のテロ組織は(南北統一のため?)北海道の塔を破壊することを目的としている。
そこで、「ウィルタ解放戦線」という名称が問題になる。ウィルタというのは北海道ではなく、サハリン(樺太)の先住民族の名前なのだ。確かにウィルタは北海道に数名居住していたが、北海道の解放を願うなら、「アイヌ解放戦線」とならなければ筋が通らない。
アイヌ民族に言及することによる政治的問題を避けるために事実を歪曲させたのではないかと疑われる。樺太開放も目標としていたと仮定すれば、考えられなくもないが……。
祖父の名前、エクスン・ツキノエは、日本語話者にとっては異質な響きを持つ。また、ロシア語風でもない。元々新海誠は多少いい加減なネーミングを行うことがあるので、深い意味はないだろうと思って数年間はこの名前に注目してこなかった。しかし、私がたまたまアイヌ民族に関する書籍を読んでいたとき、ツキノエは国後島アイヌの首長の名であると知った。同様のことを述べたツイートがあったが、現在は消えてしまっている。
そこでエクスンとはどういう意味かというと、ここによれば「向こうへ」という意味らしい。「沢渡」という姓はここに由来している可能性がある。
http://tommy1949.world.coocan.jp/aynudictionary.htm
浩紀はラストで単身ヴェラシーラに乗り、北海道中央部にそびえる塔を破壊する。すべては佐由理の目を覚ますためであり、並行世界が流れ込んでくるリスクを引き受けてのことだった。
しかし、実はまことに政治性の強い作品である。SFっぽさと感傷的な恋愛描写がまぶされているが、描かれているのは間違いなく世界を変える(少なくとも一国の軍事施設を破壊し、地域のパワーバランスを崩壊させる)テロリズムである。米ソ開戦中の混乱に乗じてのことであり、もしも両国が責任のなすりあいを始めたらと考えると恐ろしい。
新海誠がこの件についてどの程度自覚的であったかは疑問である。どちらかといえば気分的なものでプロットを作っており、作品の政治性についてはあまり深く考えていなかったのではないか。
実際、朝鮮半島やドイツの分断に伴う深刻さは、出会えなくなった家族に言及されることもあるが目立った悲痛さはなく、この作品では過去の背景に退いている。
米ソ戦のなかで時に死体が降ってくる場面はあるけれども……?
作中では「ヴェラシーラ」とは「白い翼」の意味だと説明されていた。
はじめ、自分はこの言葉をスペイン語だと思っていた。つまり、Bella Cielaだ。アルゼンチン方言ではbをvで発音することがあるらしいし。しかしよく調べてみると、スペイン語の語順や活用の形としてはおかしい(当時のウェブ翻訳は今と比べてずっと貧弱だったし、単語の原形で検索するしかなかった)。
そこで、ロシア語ではないかと思い、いろいろなつづりを試みた。すると、「白い」は「белый」ベリイ、「力」で「сила」シラとなり、それっぽい。ソ連にいる祖父がいるのだから、彼女にロシア語の知識があったとしてもおかしくはない。意味は「白い力」になるが、「白い翼」には十分近い。ベラルーシの「ベラ」が白なので、そこから取った可能性もある(同じことを言っているページを見つけた)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216740382。
ただし、これもまた活用の問題がある。「白い力」はロシア語では「белая сила」ベラヤ・シラとなる。それに、よく考えればbとvの音の混同が起こっている。
もっとも、「星を追う子ども」では潜っても呼吸できる水を「ヴィータクア」、世界の果てを「フィニステラ」とラテン語としては語順が逆の形で名づけているので、そのあたりはいい加減なようだ(それぞれアクア・ヴィタエ、テラ・フィニスが標準的なラテン語の形である)。
また、同作の中では深い意味もなくセフィロトの樹が引用され、シャクナ・ヴィマーナやケツァルコアトルなど無関係な神話がコラージュ的に用いられている。その背景には明確な思想を読み取ることはできなかった。
「雲のむこう、約束の場所」では感傷的なまでに甘い思春期の心情を描いてみせた。一方で、この作品はかなり政治的な危うさをはらんでもいた。危うさの一つはテロリズムの肯定であり、もう一つはプロットに入り込んでいるはずのアイヌ民族の存在を背景に退かせたことであった。後者に関しては少なくとも筆者の知る範囲について、ヒロインがアイヌ民族のクォーターであることに言及した資料は見当たらなかった(註:とあるウェブサイトで、佐由理は恐山かどこかの巫女の家系だという初期設定に言及したところがあった。興味深いのでここにリンクを貼るhttp://www.green.dti.ne.jp/microkosmos/anime/promisedplace2.html)。
しかし、2004年には許された描写だったが、ゴールデンカムイなどで正確なアイヌの描写が出てきた2020年代にあってはどうだろうか?
最近筆者は新海作品からは遠ざかっている。映像が十分雄弁なのに、台詞で説明しすぎてしまうからだ。あるいは加齢による感受性の変化かもしれない。あるいは、この感傷マゾから「卒業」しようと自分を鼓舞したからかもしれない。本稿を書いているうちに、少し懐かしいような苦しいような気分を思い出しかけた。
作中では、北海道に建設された塔が東京からも(かなりの高さで)見える描写がある。しかし、それにしては塔が細すぎやしないだろうか? 以下、視聴当時にした計算を抜粋する。
塔が経っていたのが北海道の中央部、都心から道央まで凡そ1000kmはある。
かなりいい加減な推定だが、視力1.0を有するとは視角60秒の二点を見分ける能力があるということだ。つまり空気による散乱だの屈折だのを度外視すれば、主人公がそれだけの視力があると仮定することで塔の直径を算出できる。それにウィキペディアによれば大きく見えるときの金星がこれくらいの視角だそうだ。塔が自ら光っているわけではないだろうし、このくらいの値でいいだろう。映像を見てもそのくらいだったし。
sinθ=tanθ=θ(ラジアン)の近似を用いると、都心から道央まで凡そ1000kmはあるので1000km×(2π)×(1°/360°)×(1′/60′)= 290.8m程の直径が必要になる。荒っぽい計算だが、作中のヴェラシーラとの比較から見てもそこまでずれていない。ただ、空気があることからはるかに太いと考えたほうがいい。北海道全体が映るシーンでも塔はしっかりと見えていたし、直感的にも300m程度の太さの道央の物体が都心から見えるとは考えにくい。
なお、仰角は30°はあろうかという様子であった。三角関数で考えれば577.3km以上の高さだ。地球の自転の影響でこれだけの構造物は大きくたわむことであろう。ソビエト連邦にそれだけの物資があったかどうか。一応ユニオンは全共産圏を統合した国家だそうだし、この世界では宇宙開発の代わりに並行宇宙が研究されているとすれば、なんとかなる……かな?