はてなキーワード: 蒸気船とは
世の中は必ず変わる。高麗屋だけでなく、全国の廻船問屋の商いのやり方も変わるときがくる。すでに日本人は黒船を見たのだ。石炭で湯を沸かしてその蒸気で動く巨大な船を知ったのだ。その蒸気船は、薩摩の南の島から江戸までを五、六日でつなぐのだ。(潮音 宮本輝 文學界2018年9月号)
酒鬼薔薇ファンの世界地図は変わりつつある。酒鬼薔薇王国はすでに終わったのである。
元少年Aこと酒鬼薔薇聖斗の弁護士は共産党系であった。元少年Aが出所したあと、実名や所在を明かさないのには法務省が関わっているという話を聞いたことがあるが、共産党やその協力者もまた関わっていたのではないかと思う。元少年Aの実名や所在についてデマを流す工作は、おそらくすべて暗喩で行われたのだろう。それは少年法に基づく大義名分があった。
柊は立憲民主党と共産党の協力を支持していたが、政治思想は共産党とはまったく異なるし、個々の政策では決裂することもあるだろう。共産党が柊に協力することなどありえないし、柊もまた共産党に協力など求めないだろう。
もしも共産党が酒鬼薔薇王国の内紛に関われば共産党の名誉に関わるだろう。「犯罪を犯した少年の実名を守る」という趣旨でマスコミにデマを流したなら、たとえ逮捕者を出しても支持する人間はいる。しかしただの人間関係のもつれに口を出すいわれはない。
元のバイブの形状を記憶している物、もしくは新型ディルドーを石膏や強化ベークライトで型どりして左右二分割。
バイブ君を湯煎して温め、石膏の型に押し込んでから冷却するような手段で復活、サルベージする方法を探る前向きな場所にしたいと思います。
湯煎したアツアツの物体を、形状記憶しているからと言ってご自身に差し込み、「アツーー! アツーーーーー!」などと叫ぶ、熱湯風呂芸人のような事をなさらないように。
あれは50度ぐらいの火傷しないお湯です。
へそまで反り返ったような「ピー」になるように、バナナより曲がった極悪な形状にする。さらに大型艦建造を計画して「こんな大きな黒船が入港したら、浦賀港壊れちゃうよ(///)」などと有らぬことを思わず言ってしまうような蒸気船を建造する。
「上喜撰(高級茶)たった4杯で夜も眠れず」と狂歌を一句捻ってみたり、超ドレッドノート級の回転式砲台が3か所も付いた黒船にするのも良いかと思われます。
今まで小刀でご満足なさっていても、これからは大太刀二刀流だとか、室町からある打ち刀、義経が神社に奉納した業物、「神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る」ような、魔界転生が可能なムラマサブレードの錬成を計画してみてください。
ポプテピピック第五話の絵コンテの一部?が作画監督のTwitterで公開されて、「ついにこのネタをやる日がきたのか」と思った。
ポプテピ原作では、今回の「蒸気船ウィリー」のパロディの回はポプテピピックがリプライ画像用以外で名実ともに有名になってきた時期の回だったと記憶している。
その当時も、「やべえwww」「D社に消される!」みたいな感想をよく見かけた。
結論から言うと、蒸気船ウィリー自体はすでにパブリックドメインとなっているためミッキーマウスそのものの商標を除けば(基本的に)問題はない。
プニキを含めて差し替えを食らった、という演出ありきの構成だった。
とてもがっかりしている。
nice boatのネタと引っ掛けたかったのか、蒸気船ウィリーのパロディは「圧力でなかったことにされた」となっていた。
正直、ポプテピピック製作サイドの意図は読みきれないのもあってどこまでネタだったかはわからない。
ただ、結果的に「著作権ヤクザネタ」で終わってしまったのがたいへん残念だ。
いや、ポプテピピックに残念もクソもねーだろ、といわれてしまえば本当にそのとおりだとは思うんだけれど、
自分の中ではうっすらと
「PPTPなら山寺宏一(ドナルド、その他)をディズニー回にぶつけてきて、相棒が島香裕(グーフィーの声優)」くらいのことはしてくれるかな、と暴走を期待していたのだ。
消される!ネタをやるなら本気で消されるような面子をそろえてくれるかと勝手に期待していた。
ディズニーのファンをやっていて、著作権ヤクザネタでなんとなくいつもいやな気持ちになっているファンは少なくない、と感じている。
何かあると「消される!」「ハハッ」と言われ、ツイートするだけなのに面白おかしく伏字にされたりして自分の大好きなキャラクターたちがまるでヴォルデモートのような扱いを受けている。
子供が好きなディズニーのダークサイド、というのは確かに面白いのかもしれない。
ただ、ディズニーというと一辺倒にそんな扱いを受けがちで心のそこから残念に思っている。世間に。
ディズニーが日本で著作権ヤクザの認識を得たのは学校のプール消去命令事件なのは有名な話だが、それも1987年の話で、もう31年も経っている。
あの事件は簡単に言うと、ディズニーの著作権意識と当時の日本の著作権意識の低さから起きた事件である。
線引きは何事にも必要で、それの犠牲になってしまったのがあの小学校ではないかと自分は思っている。
別のアプローチから話すと、ミッキーマウスの商標は現在もまだ続いているので、1987年当時、あの小学校をきっかけにミッキーマウスを無断であちこちの商品に使われては(訴訟とかも含めて面倒になるので)たまったものじゃない、という判断でもあったのだと思う。
商品に無断でミッキーを使うな、何かを貶める目的でミッキーを使ったらさすがに怒るよ、程度の扱いだ。(極論を言ってしまえば)
ていうか、普通につまんねーぞそういうの。
・PPTP #5のおかげでまた圧力著作権ヤクザネタで話を振られると思うとうんざりする。
・ミッキーの「アルバイト危機一髪」ドナルドの「総統の顔」程度を見せてこっちががっかりすると思ってる人が居て本当に嫌だ。ピクルスとピーナッツを見てから言え
エルトン…ジョン
コルトン…千葉にあるショッピングセンター、ブルゴーニュ地方にある特級ブドウ畑(ブコメより)
セルトン…発泡剤の分解を促進する尿素系助剤、作曲家、雨が極端に降らない地域、など該当多数
チルトン…イギリスのレーシングドライバー、羊たちの沈黙の登場人物(ブコメより)
テルトン…埋蔵宝典発掘者
ニルトン…柔術家
フルトン…傘メーカー、目標に気球をつけて航空機で回収するシステム(ブコメより)、蒸気船フラーモント号の発明者(ブコメより)
ヘルトン…元メジャーリーグ選手
ミルトン…失楽園、消毒液(ブコメより)、カルピスみたいなやつ(ブコメより)、バナナ(ボサノヴァドラマー、ブコメより)
ヤルトン…ネパールの祭り
ユルトン…南アメリカ大陸にある湖
ワルトン…胃腸や鼻、目の表面といった粘膜などを覆っているどろっとした物質
ンルトン…該当なし
ザルトン…FF13LRに出てくる人物
ジルトン…豚汁屋
ゼルトン…釣具の一種
ゾルトン…ワージ
ダルトン…インテリアメーカー、クロノトリガーの登場人物(ブコメより)、銀座の老舗バー(ブコメより)、イギリスの俳優(ブコメより)、分子量の単位、(ブコメより)実験機器メーカー(ブコメより)
ヂルトン…人名として稀に見られる
ヅルトン…該当なし
デルトン…ベーキングパウダーの種類、アメリカにある湖の名前、ホテルの名前、など
――追記――
ポルトン…ダンボール戦機ウォーズに出てくる仮想国家
――追記2――
――追記3――
イャルトン…該当なし
イュルトン…該当なし
イョルトン…該当なし
ウァルトン…水路測量書
キェルトン…正真正銘の該当なし
キャルトン…金台紙
キュルトン…フランスにある城
キョルトン…相槌の向こう側へ
スァルトン…該当なし
スォルトン…該当なし
チョルトン…韓国語で頑固の意
ツォルトン…Your search - "ツォルトン" - did not match any documents.
ニョルトン…該当なし
ヌァルトン…該当なし
ヌォルトン…該当なし
ヒェルトン…該当なし
ヒュルトン…リモンスター
ヒョルトン…該当な(ry
フェルトン…マルフォイ
ミャルトン…該当(ry
ミョルトン…該(ry
ムァルトン…(ry
ムォルトン…(r
リェルトン…(
リャルトン……
リョルトン………
ルァルトン…Your search - "ルァルトン" - did not match any documents.
ルォルトン…No results found for "ルォルトン"
ーー追記3.5ーー
クィルトン…サッカー選手
クェルトン…材木の種類
スィルトン…決定的なものなし
スェルトン…格闘家
ツィルトン…Your search - "ツィルトン" - did not match any documents.
ヌィルトン…該当なし
ヌェルトン…該当なし
ムィルトン…該当なし
ムェルトン…該当なし
リィルトン…該当なし
リェルトン…該当なし
――追記4――
ギョルトン…ホン・ギョルトン?
グァルトン…該当なし
グェルトン…該当なし
グォルトン…該当なし
ズァルトン…該当なし
ズィルトン…ウーって口を尖らせてズィルトン↑ って語尾を上げるとパリジャンっぽく発音できる
ズェルトン…該当なし
ズォルトン…該当なし
ーー追記5ーー
ヱルトン…倫理学概論
ーー追記6ーー
ピェルトン…該当なし
ピャルトン…該当なし
ピュルトン…該当なし
ピョルトン…該当なし
プァルトン…該当なし
プィルトン…該当なし
プォルトン…該当なし
筋さえ通れば反乱もやってのける命知らず。
不可能を可能にし、巨大な悪を粉砕する、
俺たち、「佐賀の七賢人」!
(以下はWikipediaの内容をまとめただけです)
総合すると、
横浜にある記念船日本丸と横浜みなと博物館に行って参りましたわ。
みなとみらい駅のエスカレーターが長くておそろしいおろそしいですわ。むきゅー。
みなと博物館の展示は、ほぼ黒船来航から始まったといえる横浜の歴史を伝えています。
まず黒船艦隊9隻の中にサラトガとレキシントンがあって驚きましたわ。
レキシントンを沈めたのは東京湾のかたきを珊瑚海海戦で討つですわね。
後世と同名の船ではミシシッピも3隻の蒸気船の1隻として来ていました。
博物館のライブラリーは横浜と船に関する本が集まっていて、名高いジェーン年鑑がないか探したのですけど、
横浜資料の「ちんちん」電車の本に目を奪われてしまって、雑魚ナメクジに終わりましたわ。
そして、横浜に造られた大さん橋の展示には「大さん」という方が造った橋と勘違いしました。
音声解説によれば大桟橋のことでしたわ……そこは非常用漢字でも桟を使ってほしいですわ。
みなと博物館は船の復元模型が非常に多くて目を楽しませてくれました。
ですが、ガントリークレーンの動く模型は、吊り荷の下に人形が入る配置になっていて×ですわ。
それと遠足のお子さまがたくさん見えられていたのでアクリルが脂地獄でした。
特別展では2015年になくなった柳原先生の絵画が展示されていて、
切り絵から油絵にリトグラフと晩年まで新しい画材を積極的に試している姿勢が素晴らしかったですわ。
博物館のとなりに係留されている日本丸は入り口のスロープをみて
車いすの方は甲板だけみるのでしょうか。
うっかり船にあがった鯖になりましたけど、さばかれはいたしません、さばかれはいたしませんですわ。
日本丸のあのマストに登って帆を広げたり畳んだりすると言われても、
しかも、船が動いていて傾いていて風や波をかぶっていて太陽がでていない場合でも
帆の操作をしているわけです。
いまでも毎朝船内にある真鍮の部品が磨かれているそうで、記念船を維持するための
『レヴェナント』はめちゃくちゃ難解なんですが、ポイントを押さえれば、イニャリトゥ監督の過去の作品と大してテーマは変わんねぇことが分かります。
イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』までひたすら「親子」をテーマに映画を撮り続けてきた監督です。なので『レヴェナント』でもテーマは「親子」です(インタビューでもそう言っています)。もうちょい言うと、『レヴェナント』では「親の子に対する愛がいかに深いか」ということを描いてます。
主人公グラス(ディカプリオ)の台詞をちょっと考えてみれば分かります。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
これはグラスが救出された後にヘンリーに語った言葉ですが、この2つの台詞から分かることは、①グラスにとって息子ホークは生きる意味そのものであったこと、②グラスは物語のどっかで既に死んでいて、それにもかかわらず基地までたどり着いたということです。
死んでます。具体的にはフィッツジェラルドにより埋葬された後、息子ホークの死亡を確認した時点で力尽きています。通常、熊に襲われて、内蔵が見えてしまっていて、脚は複雑骨折、その上発熱していて、ろくな治療を受けられないまま生き埋めにされたら(さらに生きがいであった息子が殺されたら)、それは死ぬだろ、と思いませんか。
あれは肉体が死亡していながら精神の力(息子を愛する力)だけで動くゾンビみたいなもんです。ジョジョを読んでる人は、ボスにぶっ殺された後のブチャラティみたいなもんだと思ってください。
小難しい話になりますが、イニャリトゥ監督は前作『バードマン』で死と再生の話を描いていて、映画では好んで用いられるモチーフです(『鏡』、『8 1/2』など)。主人公が死んで復活するというのは映画では珍しい話ではありません。
加えて、本作のタイトルが"Revenant"(つまり「死から蘇った者」〔someone who has returned from the dead〕)であることもこの説を補強します。
解釈の問題になりますが、海外サイトの中には、グラスは死にそうになるたびに、野生動物に生まれ変わった(死と再生)のだとする説がありました。
最初は熊です。これはグラスが熊の毛皮を着て、熊の爪のネックレスを身につけ、川で魚を手づかみにし(木彫りの熊ですね)、それを生のままかじり付いていた点に表れています。
次は狼です。これはインディアンにバッファローの肉を求める際、四つん這いに這いつくばって、人にへつらっていたことと、投げられた肉を生のまま貪りついていたことから分かります。
その次は馬です。これは文字通り馬の腹から這い出てきたことから分かります。
最後になんかの肉食獣です。これは最後の戦いでわざわざ銃を捨てて、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることから分かります。
グラスはこれらの野生動物に生まれ変わる過程で回復していったと見ることができます。
愛です。
ここも解釈ですが、息子を失って生きる意味を失った以上、野生動物と同然の存在に成り下がったと見られるのではないでしょうか。
グラスが一匹狼のインディアンから教わった言葉です。「神の手」というのが直接的には川下に居たインディアン(リーさん)だったため、海外サイトではリーさんは神の復讐の代行者であると言う人が多かったです。「インディアンがあんなに近くに居るのに川に流したら殺されるに決まってるだろ」と言う人も居ますが、個人的には死と再生を繰り返したグラスさんの聖人パワーでリーさんを引き寄せたと思っています。つまり愛の力です。
あの表情には元ネタがあります。タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』のイワン君(12歳)の表情です(https://vimeo.com/153979733のラスト)。どういうときの表情かというと、まずイワン君はソ連の少年兵なのですが、ナチスに母と妹を殺されています。そんで夜中に1人でナチス軍に対する戦いをシミュレーションしている最中にあの表情をします。つまり、純粋さと愛にあふれた少年の心が、ナチスに対する復讐心で壊れかかっているときの表情です。これをグラスに類推するなら、あの表情は、復讐を終えたことで(生きる意味を再び失ったことで)グラスの精神が壊れかかっている(もしくは壊れてしまった)ことを意味しているのではないでしょうか。
あの吐息音をめぐって、海外掲示板では「グラスは死んだのか否か」について熱い議論が交わされています。これは監督の前作『バードマン』でもあった論争で、そこでの論争が、主人公は生きているという決着で終わったため、今回もグラスは生きているだろうという説が有力です。ただ、私の考えとしては、グラスは精神力(愛の力)だけで動くゾンビ状態なので、その精神が崩壊した以上、グラスは真の意味で死亡したと思っています。ジョジョを読んでる人はシルバー・チャリオッツ・レクイエム出現後のブチャラティを(略
愛する息子を殺され、肉体的に死亡した主人公が、愛の力で死と再生を繰り返し、敵に神罰を与えて、やっと死ぬ話です。つまりテーマは親の子に対する深い愛です。
ちょっと違いますが、そういう側面があった可能性が高いです。というのは、イニャリトゥ監督が今回の撮影で目標とした映画というのが、①黒澤明『デルス・ウザーラ』、②コッポラ『地獄の黙示録』、③タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、④ヘルツォーク『フィッツカラルド』、⑤ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』だからです。映画ファンであればすぐ分かるのですが、これらは映画史上最も撮影が困難だった映画群です。例えば④の『フィッツカラルド』なんかは巨大な蒸気船を滑車を使って実際に山越えさせています。つまり、監督が映画史に残る過酷な映画撮影がやりたかったところに、アカデミー賞がどうしても欲しかったディカプリオと利害が一致した、というのが真相なのではないかと思っています。
掘り起こそうと思えばたくさんあります。例えば『レヴェナント』では上記の表情以外にもタルコフスキー作品からの引用が多い(「宙に浮く女性」、「貧しい人にご飯を分け与える姿」、「鳥」、「隕石」)のですが、それがただタルコフスキーの真似をしたかっただけなのか、意味があるのかがよく分かりません。それとフィッツジェラルドが神について2回話すシーンがあるのですが、その意味がよく分かりません。
それと、作中何度も繰り返される"As long as you can still grab a breath, you fight."という台詞の意味が実はまだよく分かっていません。特に、エンドロールが始まってからも聞こえる吐息音を考え合わせると、グラスが生きている説も導き出せるため、重要な要素である可能性があります。何か思いついたり新情報が出たらこっそりこの記事を訂正するかもしれません。
「『レヴェナント』テーマ解説(2)(ディカプリオのテーマ編)」(http://anond.hatelabo.jp/20160524110234)に続く
『レヴェナント』を観た。
監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイトの議論を参考に、テーマの考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーやインタビューが出るのを待つことにする)。
そこで以下、結論、難解な理由、様々な視点からの問題提起、現段階で考えられるテーマ(妄想)の順に書いていくことにする。
考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。
『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。
主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。
最後の戦いではフィッツジェラルドに瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神は崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。
本作のテーマは、親が子を愛する気持ちがいかに強く、大きいものか、ということである。
『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラ』である)。
このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明の批判である。
しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである(復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビューで復讐の物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。
さらに、②文明批判がテーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明と対立する人物が出てこない)。
ということで、『レヴェナント』は単純なテーマで理解することが困難である。
『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的に意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さらに監督の過去の作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語を解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。
(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)からの引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。
しかしタルコフスキーの作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこからの引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキーの意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキーの表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。
そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外のファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたことから、これをいくつかまとめておく。
まず、イニャリトゥ監督の過去の作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。
監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。
これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。
この点をどう評価するのかがまず1つの問題である(問題点α)。
前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台で拳銃自殺をする場面で、拳銃に実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。
こうした死と再生のイメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。
① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。
ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。
これについて、海外サイトに面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである。
まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。
次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンにバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。
さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである。
最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。
上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である(問題点β)。
なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。
先に貼った動画(https://vimeo.com/153979733)から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品からの引用が非常に多い。
そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果てた教会」、「隕石」である。
このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用は解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。
この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だった』である。この映画の主人公イワンくんは、ソ連の少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス軍相手に戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである。
つまり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである。
これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。
しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。
イニャリトゥ監督はインタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。
① 黒澤明『デルス・ウザーラ』② コッポラ『地獄の黙示録』③ タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォーク『フィッツカラルド』⑤ ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』
共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである。
①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局の検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影の過酷さから引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。
そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである(問題点δ)。
これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアンの言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。
ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手はインディアンのリー(誘拐されたポワカの父親)である。このことから海外サイトの中には「リーは神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。
イニャリトゥ監督の作品のテーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要な言葉を残している。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビュー作から親子の関係を描き続けてきた監督自身の言葉でもあるだろう。
息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味を見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である。
このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。
海外サイトの掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である。
これが問題となる理由は、①復讐モノの物語は復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである。
さらに映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公が最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。
死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。
しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。
これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。
結論:
「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。
その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクターは史実に存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督がインタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビュー作から前作まで延々親子関係をテーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である。
② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。
前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。
その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味を喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。
その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。
その根拠は、(a)元ネタである『僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である。
結論:グラスは死んでいる。
この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品のテーマから考えなければならない。
前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品のテーマが「『中年の危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり、主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。
しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。
ここからは解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか。
グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか。
フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンのリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神は崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。