はてなキーワード: 百科事典とは
かつてグーテンベルクの活版印刷技術で、科学、思想、宗教が世界に均質に広まることとなった。
素晴らしいことである。そのおかけで、家庭の壁一面に並ぶ大きくて重い百科事典とにらめっこしたり、
図書館に出向いて書架の間を歩きまわったり、知識を得るためには、そんな肉体的運動も必要であった。
現代のネット時代は、実は、それ以上に劇的な変化がもたらされた。
世界中の、最先端の、多くの情報が小さな画面に集約されるようになった。
ポチポチと指先を動かすだけで、誰もが情報の海から情報が安泰と入手できる。
さらに、情報発信も軽々とできる。多くの情報はゴミクズなんだけど。
日記サイトもゴミクズなんだけど、100年後には当時の日常生活が見られるわけで、
資料として一級の価値を持ったりするかもしれない。というわけで、このサイトの意義は
素晴らしい物があるわけです。ヨイショ。
しかし、個別的に見てみると、ネットは自己洗脳を加速させる面を持っている。これ、イクナイ傾向。
色々な情報があるのに、それを比較考量せず無意識のうちに自分の知りたい情報だけを
見つけ出してきて、知りたくない情報は詳しく検討することはしない。
また、自分の考えを開陳してはひたすら肯定してくれる人達を探して群れてるだけ。
仲間内で自家中毒。これはもう見てられない。本人たちは自分正義を貫いている、偉いだろ、えっへん状態。
末期症状だよ。
紙の辞書のほうが調べる途中で他の単語も目に入るしで、探している単語以外にも覚えるから、とかいう理由で。
別の日にわざわざ紙の辞書を使っているというどっかの大学の教授についての新聞記事の切り抜きを持ってきてまで力説してた。
それから10年たった今あの先生はどうしているのかと思い出す。
英語はもとより知らない言葉も百科事典使ってるのだろうか。Wikipedia,Google翻訳など使わずに紙の辞書をせっせとひいては付箋を貼るみたいなことをやってるのだろうか。もしまだ紙の辞書を使っていたら(紙の辞書を使おうとは一ミリも思わないが)その信念に敬服するし、やってなかったら土下座して靴裏舐めて欲しい。
浪人時代は予備校に通っていたが、そこでは紙か電子かなどという講師はいなかったし、使っていた電子辞書は理科や物理についても網羅されていたので、とても重宝していたのは覚えている。
今だともうスマホで調べればOKになっていると思うけど、実際学校の現場だとどうなんだろ。まだ紙の辞書使ってるところとかあるのかな
## 差別 さべつ
上記のとおり「差別」ってワード自体が元から不当・不正な扱いといったニュアンスを含んでいる。
増田は末尾部分で一旦差別と認めた上で正当な差別とそうでない差別を峻別しろといっているけれど、そも語義に習えば差別は不当な扱いのことなんだから「正当な差別」って矛盾ワードなわけ。差別それ即ち不当なの
加えていえば女性専用車両は既に裁判で目的の正当性や手段の合理性が認められ、合憲かつ正当と結論が出ている。増田の言うように今さら正当性を争う必要すらないはずなんだよね。もう争った上に勝ったんだから。
差別とは不当な扱いのことである。女性専用車両は目的・手段等を勘案して正当だと判示されている。したがって女性専用車両は差別ではない。
で済むんじゃないの。
それで何か不都合があるの?
最初に語義定義を明らかにしたり、先行研究(この場合は判例か)を洗うのって論文の一本でも書けば必ず求められることだと思うんだけど、このあたり全くスルーしつつ差別と認めない奴はバカだアホだ言ってる奴はどこの大学出てるんかね
日本の失態や世界規模の事件に対して、「日本はもう終わった」だの「人類は滅亡に向かってるんだ。俺は諦めたよ」みたいなブコメに沢山スターが集まっているのをはてブで見るにつけ、
いやそんなことねーだろって感じてる。
なんだろう。俺の頭が悪いので上手く表現できないのだが、人って過去の時代を美化しすぎるきらいがあると思う。
心理学の本から得た知見に俺自身の考えを加えて愚推すると、その理由って大きく二つに分かれるのではという結論に達した。
一つ。自分が子供の頃の世界ってのはすごく狭くて、その狭い世界と、大人になった今現在に見ている (視野の広い) 世界とでは起こる事件の規模が違う。
近所の八百屋が泥棒に遭ったっていうのと、中華犯罪集団が宝石店から5億円相当を盗んだっていうのじゃ全然事件性が桁違いだからね。
それを踏まえずに、「俺が子供の時代は八百屋に泥棒くらいしかなかった。今は中国が酷い盗みをはたらいている!」なんて嘆くのは見当違いだよ。
人間には自分に都合の悪いことを忘れていくことで自分を保つっていうある種すばらしい生存戦略があるようで、その影響で現在の事件事故のような出来事が過去には起きていないように錯覚してしまう。
極言すれば、〝儂の若い頃は……〟理論を展開できてしまうってこと。
で、そういうことを踏まえると、今の時代って素晴しい時代だと思うんだ。
インターネットの発達により以前では入手できなかった情報 (百科事典なんて高くて買えないよね) が手に入って、
交通・通信の進化によって世界と手軽に関れるようになってる。他にも数え切れない程有用な進歩が起きている。
解決しなければいけない課題は沢山ある。でも、徒にそれを取り上げて、「今の時代は最悪だ!」なんてどうか言わないで欲しい。
「日本を駄目に言うな。素晴しいと褒め称えよ」なんて強制する気はないけれど、ブコメを付けるときに、「今っていい時代だよな」っていうことを忘れないで欲しい。
共感してくれる人がいることを願う。
小学生『10歳までに読みたい名作シリーズの本が読みたくて図書室に行ったら先生に断られた』→その理由『あなたは11歳だからダメ』
https://togetter.com/li/1191269
ざっくりと説明
学校司書:学校で司書をしている人。基本司書資格を持っている人が採用になりますが必須ではないので持っていなくても場合によっては採用になります。配属先は選べないので公共図書館で勤務したかったのに小学校に配属になってこんなはずじゃなかったという思いをしている人もいるかも
司書教諭:教員かつ司書教諭の資格を持っている人。学校司書のサポート役だったり、他の先生と学校司書の橋渡し役等をしてくれる先生、のはずですが担任を持っていたりすると忙しくて図書館の業務に全然関われないという場合も……
その他、地域によっては司書資格も何もないボランティアの方が司書の代わりをしているという話を聞きます
ツイート元の方の言う学校の司書がどれに該当するかによって話が少し変わってきそうです
または「この本は購入しない」「この本は戸棚の中や倉庫に隠す」というのはウチの学校や他の学校でもあります
フェイクのためどれが自校でどれが他校の話かは伏せさせてもらいます
また、それらのルールについては司書の意思の他に「司書教諭の命で仕方なく実行している」「学校の方針」「前々々々任の司書が決めたルールで、変える機会がなくずっと続いている」などさまざまなケースがあります
・図鑑、百科事典は貸し出し禁止。これらの本は授業で使う機会が定期的にあり、いざという時図書館にないと困るから。また、飛び出す絵本など貸し出ししたら即ボロボロに破壊されそうな本も貸し出し禁止。禁帯出マークの赤いシールを貼って見分けられるようにしている。
・本は3冊借りることができるが、かいけつゾロリのみ例外で1冊までしか借りられない。子どもたちには「ゾロリはとても人気だから、1人が1冊までなのよ」と説明しているが本当は「字が大きくて漫画じみて幼稚な内容のゾロリはあまり借りて欲しくないから」。ゾロリを一斉に廃棄処分にして0冊にした学校も
・強制ではないが、高学年はあまりゾロリは借りないようにすること。6年生にもなってゾロリばかり読んでいるなんて恥ずかしいから。低学年向けの絵本や○○のひみつシリーズもなるべく借りてほしくない
・あさのあつこのNo.6は教科書に紹介されているのだが、だんだんBL描写が激しくなっていくので購入するのは1巻のみ。公共図書館から取り寄せたいという時だけ対応する(自校の図書館にない本を公共図書館にリクエストして配達してもらうというシステムがある)
・公共図書館から取り寄せてほしいとリクエストがあった本でも、漫画のノベライズ版、オカルト本などこれはちょっと……というものは「こういうのは駄目よ」「近場の公共図書館になくて……(嘘)」などと言って諦めてもらう
・保健体育系の本は、性器などの写真がモロに載っていてそれを見て騒ぐ子がいるので普段は戸棚の中に隠していて、勉強で必要になった時だけ出す。何回注意してもやめない、もし一人が注意を受け入れて騒ぐのをやめても別の子が騒いでまたその子を何回も注意して……と大変疲れるので隠した方が早いし楽
・「表紙がキラキラしててかっこいい!」「表紙にドラゴンが載っててかっけー!」などの理由で、漢字どころかカタカナもまともに読めないような小さい子が、挿絵もルビもない重厚なファンタジー小説を借りようとすることがあるが「借りても全然読めないでしょ」と説得して貸し出しをやめさせる
思い出せないだけでもっとあるかもしれませんがこんな感じです
低学年向けに購入した新しい本を高学年が いの一番にごっそり借りていくと、うーん……とは思いますが口には出さないですね
あと、1年生から6年生まで各学年向けの本を並べたコーナーを作っていますが自分の学年じゃない本を借りてもOKです
今回、ツイート主の親戚の子が年齢を理由に貸し出しを禁止された本は
「赤毛のアン」「西遊記」など児童書としてはド定番の作品ばかりで
学研が出版している「10歳までに読みたい世界名作名探偵シャーロック・ホームズ」は11歳になったら借りちゃ駄目だけど
講談社が出してる青い鳥文庫の「新装版名探偵ホームズ」はOK!みたいな感じになってるんでしょうか
大なり小なりどこもローカルルールがあると思うので「誰でもどんな本を好きなだけ借りられるようにするべき!反対するなら教育委員会に言いつけるぞ!!」という流れになるのはちょっと困りますがさすがに今回は理不尽すぎるので炎上もやむなし
とか書いてる間に追記を読みましたがそんなギチギチにルールのある図書館なのに他の先生が把握してないって色んな意味で問題ですね
私の周りだと司書の立場が弱すぎて先生たちにNOと言えなくて……という悩みは山ほど出てくるんですが司書が独裁国家築いてるパターンとは
この前後におっさん芸人達も嫌がりながらタイキックされてるんだけど、なんでみんなそこには一切触れないの??
タイキック自体がダメってなら分かるけど、なんで女が蹴られることだけを糾弾するのか意味不明。
※追記
参考までに今回の番組内で各出演者がケツを蹴られた(+暴力を振るわれた)回数を以下に転載します。
田中 タイキック=>3回 ケツバット=>227回 ビンタ=>2回
浜田 タイキック=>1回 ケツバット=>277回 鼻トング=>1回
引用元: 「絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E3%81%AB%E7%AC%91%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B924%E6%99%82!
昔の引きこもりの人って、普段どうやって時間を潰していたのか気になっている。今の人だったら、ネットとかオンラインのゲームとか色々暇潰し手段はあるだろうけど、昔の人はどうだったのかな。
とりあえず、00年代は今と同じと考えて90年代以前。90年代はゲームが多かったのかな。14型くらいのテレビを部屋に置いてスーパーファミコン他いろんなゲームハードがあったし。パソコンゲームの人もいただろうね。僕自身の90年代引きこもり体験からいうと、CDラジカセも普及してきていたから音楽をひたすら聴いていた人もいると思う。音楽バブルだったしね。
80年代は、ファミコンが出てきていてやっぱりゲームだったというのは、少し早計か。この時代は深夜ラジオの全盛といわれるから、夜遅くまでラジオを聴いて昼夜逆転生活とかかな。ラジオ…この頃はFMも盛んだったようだから、昼間はFMを聴いてあるいはエアチェック(ラジオで流れる音楽等を録音して楽しむ)していた人もいだろう。
70年代以前は、読書かな。昔の家って、なぜか世界文学全集とかブリタニカの百科事典とかが本棚を占拠していて、それを紐解いといていたのかと思う。僕の家にも特に読書家でもない両親が昔通販で揃えたそういった類の本があるし、当時は流行っていたらしい。
ここまでつらつらと書いてきたが、僕自身の体験のCDラジカセで音楽を聴いていたというところ以外は全て想像である。とにかく、ありあまる時間を収入のない引きこもりがどう潰していくのかというテーマでどんな遊びがあるか考えてみた。部屋の中でできて、お金がかからなく、時間を大量消費できる遊び。いろいろ挙げてみると、閉塞した田舎の健全な中高生がしていた遊びを延々と続けているのが引きこもりのような気がしてきた。中学高校生くらいはこういう遊びを見つける天才だからね。ごく最近はちょっと事情が違うと感じるけど。
weblio辞書の百科事典でWikipediaの記事全てがクローラーで取得される
↓
weblio辞書に載っているのでWikipediaコンテンツがweblioコンテンツになる
↓
weblioの英和辞典や和英辞典の意味などでweblio辞書の内容が使われる←ここでのWikipediaからの出典などの明記無し
これ良いの?
西暦2015に最高裁が「選択的夫婦別姓は却下」と判断を示しました。
これを受けて原告団長の塚本協子さんは「判決を聞いて涙が止まらなかった」
「『塚本協子』として生きること、死ぬことができなくなりました。」と述べました。
しかし待ってください。それって法律で解決しなくちゃいけないことでしょうか?
真犯人の名前を教えましょう。旧姓で呼んでくれない職場、旧姓で呼んでくれない銀行、旧姓で呼んでくれない葬式。
やつらです。
数年をかけて裁判を何度も起こすより! 三井住友銀行に毎日クレームを送りましょう。
この投稿を見たら「ペンネームでも簡単に口座が! マイナンバーを持ってお近くの銀行へ!」のキャンペーンをしてください。
「パスポートに名前を記入させないで」とお便りを送りましょう。
年賀状なんてやめて、外務省とか東京都生活文化局とかに絵葉書を送りましょう。
「佐藤から始まる同姓同名なんてたくさんいるんだから『本日は晴天なり』と自筆記入させてくれませんか?」と添えて。
「子供の姓はどうするんだ」
今回の訴訟では、子供の姓のルール改正は求めていませんので、「結婚時に決めた戸籍筆頭者の姓に統一する」だけです。もし、別のニーズ(子供は新しい姓にするとか)が発生したら、また時代に合わせて改正を検討すればいいと思います。海外のように、両親の名字をくっつけて子供の姓にする時代が来るかもしれませんね。「ますだおかだ」とか。
みなさんには役人の友達がいませんか? みなさんの友達は泣いていませんか?
「鈴木と佐藤が結婚するだけで『鈴木』『佐藤』『鈴木佐藤』『佐藤鈴木』『鈴佐』『鈴藤』『佐木』『木藤』とにかくたくさんだ!」
ただでさえ無駄の多い役所仕事に無理難題を要求するのは、みなさんの反対するところではありませんか?
選択的夫婦別姓は結局、戸籍にしがみついているだけですから最高裁が別姓を認めてくれたところで無意味です。
子供の名字は、親の名字は、先祖の名字は、友達の名字は……。戸籍に全てを任せようとしてしまいます。
選択的夫婦別姓の先にあるのは、子供が「父親の名字になりたい。母は要らなかった。戸籍を変えたい」と訴訟を起こす未来です。
効率的・実務的に言って役所をただ混乱させるだけの選択的夫婦別姓制度には断固反対していくべきで、
「そういえば所ジョージさんって芳賀隆之って戸籍上なってるらしいですが、所ジョージの方が本名って感じがしません?」と不動産会社の人に言いましょう。
選択的夫婦別姓なんて結局、子供の名字をどうするのか決めなくちゃいけないんですから。
既に主旨は述べましたが、ではどうして戸籍を擁護するのか整理させてください。
みなさんもご存じの通り、夫婦別姓というのは極めて男女差別的な側面があります。
中韓が現在も夫婦別姓であるように、極東では女性は家族の中でただ一人、男の姓を名乗ることを許されないものでした。
そこで明治維新の頃、列強のルール「妻は夫の名字を名乗る」という先進的な男女差別へと乗り換えたのが日本です。
名字の話をするだけで昔の各国のパワーバランスの話になりました。
名は……ちょっと土地を変えれば全く違う理論で働いている、とても価値のあるものです。年輪です。地層です。百科事典です。
ロシアには「父親の名前が、子供に自動的に足される風習」があります。「父称」で検索。
プーチン大統領は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン」という名ですが、ミドルネームにあたる「ウラジーミロヴィチ」は父親から来ています。
砕いて言うと「ウラジーミル、ウラジーミルの子の、プーチン」です。ウラジーミル・プーチンの父もウラジーミルだとミドルネームに書いてあるのです。
父親と子供の名前が同じというのは日本からすると変かもしれません。
しかし「名前に無頓着な名前」は世界的には多々あることで、マクドナルドは「ドナルドの息子」という意味だとされています。
マクミランは「ミランの息子」、マッカーサーは「アーサーの息子」とされています。
名は文化・歴史的に価値のあるもので、善とか悪とかそういう尺度で語るべきものではありません。
日本では源義経は牛若丸だし、豊臣秀吉は羽柴藤吉郎だし、鳳凰院凶真は岡部倫太郎だし……。
名は大切なものではありましたが、そのせいか代わりの名前がぽんぽんと出てくるものでありました。
選択的夫婦別姓の先にあるのは「寿限無」や「ピカソ」のように長い長い名前です。
「親のせいで俺の名前120字以上になった! ツイートできない!」となります。
そういう一般的な人間のユーモアと役所仕事というのは相性が悪いものです。
名乗りたい名前があるなら自由に名乗ってくれて構いません。それが国民の総意になる未来もあるでしょう。
しかしそれはともかくとして国がきちんと古くさく管理するのを許してあげてくれないでしょうか?
そうしてきちんとされたものが百年先、千年先にどう解釈されるのか私たちには全く想像できないのですから。
読んでくれてありがとう。
実例を、とのことで、何か著名なものを、と思ったのだけど申し訳ない、、
たぶん著名な作品で例はないや。
これを書いてる時に頭のなかで想定していたのは、いわゆるゲームや漫画の二次創作における表現のことで、その辺あたればたぶん結構な量があると思う。
↓根拠が貧弱で申し訳ないけど、ピクシブの百科事典にも「しばしばこの「月が綺麗ですね」と「死んでもいいわ」はセットで使われる。」とある。
https://dic.pixiv.net/a/%E6%9C%88%E3%81%8C%E7%B6%BA%E9%BA%97%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%AD
あとは…私の観測範囲では、艦これの二次創作(特に鳳翔というキャラ)において、数ページの漫画をツイッターやピクシブにアップされたものをみていて、殊に感じたしだい。
資産運用について調べれば調べるだけ何故そんな事をしないといけないのか分からなくなってきているので、やっている人に理由を聞きたい。
私が分からなくなっている原因の一つが、資産運用を始めるときに最初に知ることになった「運用はリスクを伴う」と「投資は余剰資金でやるべし」という鉄則らしき言葉である。
リスクがあるというのは損をすることがあるということのようだ。それで余剰資金とはなんだと思ったら、「手元流動性のうち,運転資金,設備資金に充当する必要のない資金を指す。:出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」ということらしい。
これは要するに、「まったく使う予定の無いお金」のことらしい。
つまり、「資産運用は損をすることもあるので、まったく使う予定の無いお金でやりなさい。」ということのようだ。
上記のことが分かったこの時点で、私はもう意味が分からなくなっているのである。
「まったく使う予定の無いお金」があれば、損をするリスクを負ってお金を増やそうとする必要がないと思うのだ。
何がしたいのか分からないのだ。生活に必要なお金が十分にあって、将来に備えた貯蓄も十分にあって、それでもまだお金が余っています。という人は、ではなぜそれ以上のお金を必要とするのだろうか。
目的は何だろうか。それは趣味だろうか。趣味ならわかる。趣味にお金を使うのは正しい。生活にハリが出るからだ。
だけど、楽しいのだろうか。趣味は楽しむものではないだろうか。使い道のないお金が、使い道のないまま増えていくことが楽しいのだろうか。楽しいならいい。
しかし、ただお金を増やすことが趣味でない人は、いったいなんのためにやっているのかわからない。
また、別の疑問もある。そもそも資産運用をしている人はみんな「全く使う予定の無いお金」を使っているのだろうかということだ。
みんなそんなにお金が余っているのだろうか。日々の生活費だけじゃなく、将来にわたって安心安全な蓄えがあるのだろうか。あるのかもしれない。まあそれは結構なことだ。
しかし、仮にそうでないとすれば、それはもっと意味が分からないことになるのである。
なにせ資産運用の鉄則が「損をすることもあるので、まったく使う予定の無いお金でやりなさい」だからだ。
つまり、使う予定のあるお金を、損をすることもあると分かっていて運用しているのだ。これはやばいだろう。やばくないの?
使う予定があるお金で損をすると、使う予定だったことはどうなる。できないよね。できなくなっちゃうんだよね。
やるつもりのことが出来なくなるリスクを負う理由なんですか。分かりません。
そして何事もそうだが鉄則を無視して成功することは難しいだろう。無視すると失敗するのが鉄則だからだ。
つまり、余剰資金でない資金で資産運用をしている人は失敗するのだ。失敗するんだぜ?損をするんだぜ?
使う予定があるお金を失敗すると分かっていて運用するんだ。恐ろしいほどに意味が分からない。
ということで、実のところ、調べれば調べるだけといっても、そもそもの大前提みたいな鉄則の部分でひっかかり、
その後の具体的な運用方法とは詰まるところ「リスク」の大小についての話であって、そしてやはり鉄則というだけあって、「だから余剰資金でやりなさい」という話に戻ってくるのである。
私はABという某ゲームのカップリングを最近好きになったのだが、1年ほど前ABで検索したら
「ABなんて有り得ない!CB以外認めないし許せない!」
といった感じの文章が出てきた。
ABで検索したら出てきたのだ。
こちらはABのイラストとかABの小説とか色々探したくて検索したのによりによって出てきたのがこれだった。
しかも見なければ良いのに最後まで見たらABがなぜ有り得ないのかひどく否定した後にCBをこれでもかというくらいに上げている文章だった。わりと長文だった。
「まあ趣味嗜好の違いはあるしABを嫌いな人だっているだろう。ただCBが好きならCBの良さだけ語っていればいいのになぜわざわざABを下げる必要があるのだろうか」くらいは思った。
もやもやはしていたがそんなこと言ってもこういう人は耳を貸さないだろうと思ったし、
貴方の中ではABは有り得なくても私の中では有り得るし私はABが好きだったからこの文章をこの世に存在しないものとしようと思った。
「CB,BCはいいんだ。けどABとかACとか言い出す奴って本当に原作をプレイしたのか疑問だ。原作をプレイして、原作を尊重したならCB意外有り得ないはずだ。
きっとABとか言ってる奴は自分と同性のキャラに自分を当てはめてさも自分がかっこいい/かわいいと思い込んでる気持ち悪い人種だ。そんな奴にCBを汚されたくない」
といった感じの文章が出てきた。その後はずっとAB下げのCB上げだったのだが、あまりにもABを批判されすぎてむしろショックでこの文章を忘れられなくなった。
その半年後くらいだっただろうか、気が付いたら某百科事典のABの項目が7割方削除されていた。
私は悲しくなった。なぜこんなに文章が削除されているのだろうか。やめとけばいいのに編集履歴を見た。
わかっちゃいたが文章を消したのが上記の人物とおそらく同じ人だった。(名前?id?が同じだった。)
でも「もう2人とも結婚できる年齢ですね」って個人の主観でもなんでもなく事実なのになぜ消したのだろうか。
もうABは2人とも20歳超えてるから結婚自体は出来る年齢なのは主観でもなんでもなく事実なのではないだろうか。
それは勿論この人がABが嫌いだからだ。
個人の主観なんてのは言い訳で本当はこの人はABが嫌いで嫌いで仕方ないからABの項目を半分以上消したのだ。
私は悲しくなった。
こんなにもABを嫌う人がいる事実と、そんな人がこのジャンルにもいる事実にとても悲しくなった。
以前はCBを見ても「かわいいな~」ぐらいの感情はあったが、「ABなんて認めない!CB意外許さない」という文章を見てしまってから、
CBを見た途端「ABなんて有り得ない!」という文章がフラッシュバックのように脳裏に浮かんできて毎回凹むようになった。
そして次第にCBを見ても「かわいいな」と思えなくなり、CBを見ると吐き気を催すようになってきた。
CBを見るたびに「もしかするとこの人もCBが好きってことはABが嫌いで嫌いでたまらないのかな」と、そう思ってしまうこともあった。
CB好きの全員が全員そんな人ばかりではないのはわかっているのに、CB好きが怖くてたまらなくなった。
次第にCBを全く見られなくなり、所謂地雷になった。CB好きとも関わりたくなくなった。
以前はCBの事を特に好きとも嫌いとも思っていなかったが、CB好きが「ABなんてありえない!」と言った文章を公開し、それを見てしまったことで私はCBが嫌いになった。
今思えばなんであの時最後まで文章を見てしまったのだろうなと思う。あそこで深入りせずに最後まで見なければ私はCBを嫌いにはならずに済んだのかもしれない。
私はABが好きだが、もちろんこのゲームの世界感も、他のキャラクターとの関係性も雰囲気も全部好きだったのに、そこにCBの要素が垣間見えるだけで吐き気がするようになった。
このゲームが全部好きだったはずなのに、全部好きだと言えなくなった。それが何より辛くて悲しくて苦しい。
その人の好きなもののために自分の嫌いなものが下げられていたら、その人も、その人が好きだと言ってしまうものも嫌いになってしまうものなんだなと思った。
勿論今までも気を付けてはいたが、今度から好きな事を言う際はわざわざ嫌いなものを下げることを絶対にセットにしないように今以上に気を付けようと思う。