はてなキーワード: 白金とは
===(0)はじめに===
【例】は恣意的に挙げながら書いてみる。当然首尾一貫しない。
実際の行動や実名での言動はもう少し分別があり、おとなしいが、それはずる賢いからだけである。
現代社会において顧みられることが少なく、マーケティング上もターゲットとされない
……という感じで拗ねている(拗ねると拗らせるは同じ漢字だった)。
客観的に見てもう少しポジティブになれるし、期待されている気はするが、大学教授の先生だっていわゆる男らしくない本を書いているので、ここではせいぜい拗らせてみたい。
===2)好き嫌いの話===
【例1】萌え絵
萌え絵がすごく好きなわけではないが、萌え絵を叩く人は嫌いだ。ゾーニングしても後から後から陣地に入り込んでくる。「青少年への悪影響」その他の理屈は、所詮嫌いなものを叩くための後付けだと思う。ただし、萌え絵をずっと見ている人に何の影響もないとも思わない。
【例2】タバコ
タバコは嫌い。まともな喫煙者だけを叩き続けると、同じロジックで砂糖水とかスナック菓子もやられる、という説があるので、一応大人しくしているが、そんなにうまくリベンジはできず、結局のところ喫煙者だけが先に絶滅させられると思っている。
特定の相手に対して、相手が必ず気づく形で、中傷したり恐怖を与えたり妨害をしたりするのは反対。だが、個人や団体を特定せず属性に対して、直接その属性の人に宛てたとは言えないコメントや空リプのような形でのヘイト的な言論を「受け手が弱いから、不快であるから」封じることには反対。それくらいは自由だろう。嫌なら見るな、は残しておいてくれ。
===3)人としての良し悪しの話===
意見を述べるときに好き嫌いでは相手にされないので、良し悪しの形をとることが多いが、まぁ大抵の場合は先に好き嫌いがある、と思っている。
好き嫌いを超えた良し悪しとしては、つまり、自分がどんな属性で生まれるかわからない状況で合意できるルール(無知のヴェール)が正義だという考え方は納得できる。
「これからトランプゲームをやる、あなたに配られる札はわからない、ゲームは一度きり。さてどんなルールにする?」と言われてみんなが大富豪(大貧民)を選ぶとは思えない。
・銀色律(シルバールール)自分がされて嫌なことは相手にもするな
・黄金律(ゴールデンルール)自分がしてほしいことを相手にもしろ
・白金律(プラチナルール)相手のしてほしいことをしろ http://bit.ly/2Pkr6DW
・温情主義(パターナリズム)相手のためになると思うことをしろ http://bit.ly/2PhOy4q
この中で「自分がされて嫌なことは相手にもするな」は一見強力そうだが、これとて普遍化は難しいと思う。多様性の尊重とよくいうが、多様性を発露する立場の人と、その発露の影響を受ける立場の人は全然扱いが違う。多様性の発露を我慢しろ、というと叩かれるが、多様性の発露の影響を受けるのは嫌だ、といっても相手にされない。
また、障がい者や高齢者や外国人や要介護者や病人や生活保護受給者などであれば、自分がその立場になることもあるから「お互い様」とまだ思えるが、趣味嗜好や性別、性自認など自分に置き換えて考えにくいものまで「お互い様」とは思えない。
要するに人としての良し悪しの話はよくわからない。もちろん、世間で揉め事を起こさないという意味での良し悪しとは全く違う。
===4)人間の性(サガ)の話===
【例4】身近な人に外国人がいたり、障がい者がいたり、要介護者がいたりして、その人たちを尊重しつつちゃんと付き合っている人が、なぜか他の属性について差別的な言動をしてしまう
これがそうならないのが人として、あるいはリベラルとしてあるべき姿だと思うが、残念ながら身近にいない属性の人についてまで想像力と思いやりを持つのは難しいのではなかろうか。持てる人は尊敬するが、持てない人が標準だと思う。
私はずる賢いので、それなりに振る舞うことはできる。でも心の中は違う。
===5)リスクの話===
原発事故避難者も、過失加害ドライバーも、大きく人生を狂わされる。こんな悲劇をつくるものはできるだけない方がよい。だから原発は要らないし、早く自動運転が実用化されてほしい(ドライバー席の事故責任は大幅緩和の方向で)。
一方で、社会から不慮の死者を1人も出さないようにすることは多分できない。やろうとすると膨大なコストがかかるし、責任を問われた人は気の毒だ。
でも、どちらかをあるべき像として、理屈で良し悪しで語ることも不毛に思える。
===6)失敗の話===
【例9】過去のネット上での発言が発掘されて、アニメ化中止になった作家
「忘れられる権利」や「名誉ある態度変更」が広まるとよいのだろうか。
===7)社会は結局良くなったのか、という話===
たとえば30年前と比べると、全体として上品かつ清潔かつ予測可能になったし、これまで生きづらかった人の権利や自由は拡大したし、それ以外の万人もより守られるようになったと思う。ただしそれらは制度を通じて政府から与えられた恩恵なのだが、同時に「あれをやってはダメ」「これをやってはダメ」という不自由も生んだ。
その権利や自由は、北風と太陽でいうと、結局は当人たちが北風的に戦うことで得られてきたものだと思う。その結果、誰にもある程度権利と自由がゆきわたった。そのことは忘れてはいけない。しかしそろそろ太陽的に行きたいものだが、これからも良し悪しを振りかざしたポジショントークが続くのだろう、と思っている。
権利や自由がすべて分捕りあいのゼロサムゲームとまでは思わないが、それでも代償なしには得られない。
選択肢が増えるだけだから良いことだけだ、というが、自分は同姓希望、相手は別姓希望だと、結婚に際しての面倒事が一つ増える。何の問題もない、とは思えない。
今でも出生前検査を受けない自由はあるのだが、出生前検査検査を受けずに生まれた子どもに障がいがあった場合の親の思いは、出生前検査がなかった時代に生まれた子どもに障がいがあった場合の親の思いとは、おそらく、違う。
もちろん、出生前検査を受けた上で、産まない選択をした親も辛い。
正解はないし、そもそも今生きている障がい者との整合性も難しい。
===8)お前はどうしたいんだ、という話===
つらつら泣きごと?をグダグダ書いてきて「お前はどうしたいんだ」と言われそうなので、考えてみた。
今のところ異性愛の男性であることに違和感は持っていないので、冷静に少しずつ、男性学を学びたい。
私と同じモヤモヤを抱えた中高生男性は多そうだが、手っ取り早くモヤモヤを正当化するための論を読み漁るのはまずい。
いつか、男としてではなく、人として恥ずかしくないように生きられるようになりたい。
先日バンドリ!内のバンド、Roseliaのイベントがありそこで明坂聡美さん(白金燐子役)が卒業されました。
それはしょうがない。人生色々あるし、そういうこともあるのでしょう。
今年3月に突発性難聴を発症され、「ライブイベントに体が耐えられないから」卒業なんです。
そもそも実際に楽器を演奏するライブバンドである必要があるんでしょうか。歌を歌うだけではダメなんでしょうか。
5ユニット全部にバンドさせてはいませんもんね。やってるのはポピパとロゼリアだけ。
それで負担が増えて声優交代ってもう何のための声優なんですか。
そりゃイベント・ライブは素晴らしいものです。でもそれが最優先になったらダメでしょう。
近年の声優さんをアイドル化して何でもかんでもやらせていくスタイルの歪みが出ていると思います。
明坂さんには本当にRoselia頑張っていただいて、お疲れ様でしたという気持ちです。
https://uploader.xzy.pw/upload/20180910220106_2175c8ff_6759667065.jpg
あまりに欲しいものがなかったのでネタとして苦し紛れに買いました…一度も使ってません…
せめて家で使えるおみくじ付きボールペンにすればよかったかもしれません…
https://uploader.xzy.pw/upload/20180910221130_46815c65_36634e326b.jpg
唯一素で欲しいと思えたのはこのMIYAZAWA KENJIハンカチと同柄の手ぬぐいだけでした…
KENJIの部分は内側になるよう折りたたんで使用しています…
https://www.timesclub.jp/sp/tanomachi_ex/iwate/hanamaki/images/001_ph015.jpg
http://www.miyazawa-kenji.com/pic/3.jpg
http://kouda.asablo.jp/blog/img/2015/12/03/3e2647.jpg
革小物とちりめん小物の多さは地方あるあるなのでいいとして、肝心の賢治グッズが…安そうなフォントの詩歌と版画もどきのイラストがあしらわれたようなやつばっかなんですよ。銀河鉄道の夜といいポラーノの広場といい、宮沢賢治ほどビジュアルモチーフに強い文豪なんてそういないのに!もったいなくないすか!マジで!
ググったら出てきたビレバンのグッズの方がだいぶマシだったぞ!
https://vvstore.jp/s/search/q=%E9%8A%80%E6%B2%B3%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E5%A4%9C
記念館および隣接する童話村はほんと素晴らしい施設なんです。特に童話村の展示の、各々のイメージを壊さない絶妙なラインをきわめた世界観の再現っぷりには感動しました。あとイルミネーションが言葉を失うほど美しかった。インスタに写真を載っけたらえらい数のいいねがついた。車でしか行けないような山中なのに10代20代の男女がたくさん来てた。
だからこそ悲しかったんです…あれだけ素晴らしい展示だったのに、ろくに貢ぎようのない売店だったことが…。同時に地元(瀬戸内海)のおみやげ達がいかにデザイン頑張ってたかも思い知らされました。国際芸術祭があったからでしょうか。
お願いです、次来る時はもっと花巻に貢がせてください。何かしらは買わなきゃなんて血眼にならなくても済むようにしてくださいお願いします。欲を言えば刺繍絵本(https://www.amazon.co.jp/dp/4898152783)のモチーフでなんか作ってくれたら泣いて喜びます。
なのでからくりサーカスについて気になってる点を
以下ネタバレあり
終盤のたたみ方が強引で駆け足というのはもういいや、置いとこう。
気になってるのは鳴海が受け継いだ仮面。いつの間にか物語からフェードアウトしてる仮面。
あれは騙し絵みたいなやつで笑いの表情をひっくり返すと嘆きの表情だからそれを活かしたエピソードでもあるのかと思ったらなかった。いつの間にか消えてた。さらに言うと、白銀が何であんなもんを身につけてたのかも分からない。何だか思わせぶりに出てきて特に何もないまま消えた。
もうひとつ気になってる点、生命の水を飲んだ者はオートマタを憎む白銀の感情に支配されるって話、そもそも白銀はオートマタを見たことがない。日本で正二と出会ってからフランスに戻ったけど、そのときには既に白金もオートマタも村を去ってた。なのに目の前でオートマタに家族を惨殺されたルシールよりもはるかに強い憎しみを持ってたというのが分からない。
日本にいたときは仮面をつけてなかったから、白銀が日本からフランスに向かう途中でオートマタ絡みの何かの事件に遭遇して自責の念混じりの深い憎しみを抱くようになって、その事件絡みであの仮面をつけるようになったとかだったらスッキリするんだけど。というか読んでる途中はそういうエピソードがあるもんだと思ってたら終わってしまった。緻密な物語を組み立ててるだけに気になる。
表題の通り、5歳の息子が最近の戦隊モノにすっかり熱を上げております
寝ても覚めてもタマタマキューキュー
買い物に出てもタマタマキューキュー
あのね、お外ではあんまりそのお歌は歌ってほしくないな、と優しく諭しても無駄でした
自分のタマタマと呼称が近いことにも気づいてしまったのでしょう
お風呂の中でもすっぱだかで腰を振りながらキューキュータマタタママキューキュー踊っています
そんな姿を見てか、妹すらもわたしもタマタマが欲しいと言い始める始末です
ほしいのがキュータマなのかそれともタマタマなのか恐ろしくてそれ以上は聞けませんでした
夫は私の気持ちもしらずに子どもたちと一緒にタタママキューキュー踊っています
いつかこいつのタタママキューキューいわしてやるから覚えておけよ
せめて人前でタタママキューキュー歌わせることだけでも止められないものでしょうか
アンタークを失ったことで成長?したというよりも、元増田が書いているように取り込んだ金属のせいなのかなーと自分も思うけど、
そうすると宝石達の性格や伸び代は最初から決まっていることになるよね。
もしフォスが白金を取り込まずアンタークを失っていたら、あのように変わっていたのかどうか……。
初期フォフィライトは……もう帰ってこない
洞道(とうどう、英語: cable tunnel/英語: service tunnel)とは、通信ケーブル・ガス管・送電線などの専用管路トンネルのうち、
特に敷設・撤去・保守作業用に人が立ち入れる管径のものを指す。常用漢字表外の訓読みのため、とう道との表記も一般的。
1925年、東京都中央区に開削式で作られた電信用通信線管が日本で最初期の洞道とされている。
地上に影響を与えないシールド工法式としては1963年に東京都港区白金に作られた電話線用管が最初とされている。
インフラを支える施設だが、NTT(旧電電公社)が敷設したものだけでも総延長は600kmにもおよび、うち40%が敷設から40年近く
本来、三大命題の二つ目を書きたかったところだが、こちらの問題を先に論じさせてもらう。
この論考は以下のURLにたいする一人の若者からの反論である。
https://togetter.com/li/1080097
以上の新聞記事で、上野女史は「経済を犠牲にしてでも、平和国家として衰退すればいい」と主張している。
この主張にたいする批判等は、本職の社会学者に任せるとして、ここでは私の純粋なる反感について述べていきたい。
上野女史は無邪気にも、戦後日本を「平和国家」としてとらえている。
この考えはまったくの見識違いといわざるをえない。
そもそも、戦後日本の社会体制は1940年代の「総力戦」体制を「経済最優先」の形として再編したものである。
扶養控除、源泉徴収、終身雇用制、護送船団方式のすべてが元々「戦争を想定して」造られたものだ。
1950~60年代には、「高度経済成長」の美称の裏で、世界でも稀にみる学生運動、市民運動、社会不安が吹き荒れていた。
70~90年代にかけては、家庭や企業に社会体制のガタが入り、人々を「死へと誘う」システムへと変貌していった。
これが少年非行やいじめ、過労死などの狂気的な状況を引き起こした。
戦後日本とは、世界的にも稀にみるただの「ゆたかな社会」である。
まったく「平和」でも「民主的」でも「自由」でもなかった。ただただ「ゆたか」だっただけである。
しかも、「ゆたかな社会」は90年代~2011年にかけて完全に崩壊した。
最後に、原発事故とともに社会の安全神話が吹き飛んでしまった。
この事実について語らない者はすべて、今の時代にたいして不誠実である。
それはギデンズやバウマン、ジョッグ・ヤングなどを見てもらえば分かるが「流動的、効率的」である。
企業におけるセーフティーネットが「生産性や自己実現の神話」の名のもとに縮小され、
政府が担っていた安全保障は「構造改革」の名のもとに縮小され、
監視カメラやSNSの監視なしに、人々は安心して生きることができない。
不誠実な脳科学や認知神経科学、AI研究によって人間という「私」の特権性が失われ、
人々は常に失職と人間的尊厳の消失を心配するようになっている。
そして、このような多様な人々が同じ町で同じように暮らしている。
このように、後期近代社会とは
当たり前だったものがすべて崩れ去り、人間を永遠の虚無へと投げ出すのである。
このような状況では、人々は二つのレベルの不安を抱えることになる。
である。
人生の多くを占める活動である仕事にふさわしい「対価」が支払われなくなってしまった。
一方、ただ一日中、パソコンを見つめて投資とやらというギャンブルをするだけでも「対価」を得られる人々もいる。
「不当な地位にいる!」
「ふさわしい金額、敬意をもらっていない!」
という相対的剥奪感を抱かせる。
また、後期近代の社会はいわゆる「コミュ力」の高い人々が成功する。
軽薄に仕事にたいする敬意なく、強者に追従する人々が「評価」され、グローバルエリートとして出世していく。
そして、仕事に真面目ながらも報われない弱者は常に「自己批判」と「変革」を迫られる。
二極化する現実に人々は「私は人間らしい扱いを受けていない」という存在論的不安を抱かせる。
そして、人々はつねに不平不満をもらすのだ。
「私はこうなれたのに……」
「私もこうしたかった……」
ここでは深く述べないが、この可能性としての私=‹他我›にたいする深い怒りの感情が現代の社会不安の核心にあるように思う。
上野女史は「みんな貧しくなる」ことによって、この怒りを無くせるなんて無邪気にも思っている。しかし、それは不可能である。
この感情こそが永遠の虚無において、私を生きることのできる唯一の鍵だからである。
――常に人々に嫉妬を抱かせながら、その嫉妬を用いて欲望を加速させる。そして、その嫉妬を全身に受ける者は高笑いしつづける。
このような後期近代のグロテスクさに最初に抗議をあげたのが赤木智弘だった。
彼はある論考で「夢は戦争」とドゥルーズ的な集団自殺の理論を主張した。
今や「戦争」こそが「富裕層」を富ませ、「貧困層」を殺すことを知っているからだ。
加藤智大、植松聖などの社会的自殺者は、情報として処理され資本となる。
そして、情報となった「自殺」は「貧困層」による社会転覆の不可能性を解き、
後期近代において、「自殺」こそが「富裕層」へのもっとも積極的な「支援行為」なのだ。
防ぎようのない「天災」によって、
この瞬間を心の底から待ち望む。
109が崩壊し、秋葉原が灰塵に帰し、大手町のサーバーがダウンし
白金の御婦人たちが焼け出され、お台場の子どもたちが押しつぶされるとき、
そのときに来るのが、
東のいう変質したファシズムなのか
知ったことではない。
相対的剥奪感や存在論的不安に晒されることなく嗤いたいのである。
そして、私は嗤いながら確信する。