はてなキーワード: 少年院とは
法務省は4月から、少年院に入所する18、19歳に対する職業指導を見直す方針を固めた。
新設の「ICT技術科」ではプログラミングなどITの専門知識を学び、国家試験である「ITパスポート試験」を受験できるよう、学習を進める。
少年院の職業指導見直し…木工・手芸・陶芸廃止しICT技術新設(読売新聞オンライン)
https://news.yahoo.co.jp/articles/22d019cfc6bc1c6d390ceb07422a41238809dff1
更生支援の名目で少年院出の子を安くこき使うリアル「IT土方」が安値で仕事を取って、同業他社もその値段で勝負せざるを得なくなって、もともと苦しい中小SES / SIerがさらに苦しくなるのかな。まぁITパスポートじゃ何の役にも立たないけど。
仮に学校内で厳格な法的措置が可能になったとしても、訴える側である学校サイドに訴訟にかかる労力の現実的な限界が来るだろうから結局本当にどうしようもない生徒以外は訴えられることはないだろう。
仮に子供の悪戯一つで少年院に収監されるような世の中になったとして、そこまで皆が皆、犯罪者になるリスクのある社会なら、軽犯罪者に対する風当たりは今ほど強くはならないだろうから、犯罪歴も今ほど重い枷にはならないだろう。
いじめが何故起き、そして何故黙認されるのか、それは学校という空間が異常だからだ。
個人的背景も経済的背景も違えば勉学に対する意欲も成長の度合いも違う人間を集めて管理するなどそもそも無理がある。
その無理をどうにかするために行われているのが学校の治外法権化である。
治外法権となれば当然「外の世界」の法律は適用されなくなり、中の都合によって法は定められていく。
多くの教師が考えているのは生徒を管理下に置くことであり、分かりやすいヒエラルキー構造が教室に広がるのは管理するのには都合がいいのだ。
端的に言えば教師にとってはいじめは程度さえ大きくなければ歓迎してもいい状況である。
個人が個人の感情で暴力を奮っても、力関係が強いものがやったのであれば黙認されるべきであるという風潮は、教師が体罰をするにあたっても都合がいい。
クラスのリーダー的な存在が生まれれば、教師が機嫌を取るべきはそのリーダーと取り巻きであり、下位層にいる生徒は卒業までの間に壊れないかだけを注意しておけば良くなる。
社会が教職者に押し付けた無理を、教職者は学校という空間の法とモラルを歪めることで解決しているのだ。
もし、その歪んだ法を正そうとすれば何が起きるか?
「いじめ問題だけを隠蔽することを辞めさせれば良い」なんて簡単に考えているのだろうか?
そんなことを生徒や親が許すはずがない。
生徒が法によって裁かれるなら教師も同じでなければならない。
逆を言えば、生徒が法で裁かれることを免れているという後ろめたさが学校の治外法権化を支えているのである。
鎖はどれか一つの輪が断ち切られれば全体が意味を為さなくなるという話である。
学校とはそもそも教育施設を兼ねた監獄であり、現代の社会が抱える無理難題を無理矢理に押し込めた地獄の釜である。
この状況を生み出しているのは教育の現場であり、そこに子供を預ける両親たちであり、子供というものを無知な獣としか思っていないこの社会全体である。
そもそもをして全く違う背景を40人の人間に対して1人の人間が監視を行って管理するということ自体が容易ではないのだ。
これはなにも相手が子供だからではなく、大人であっても同じだ。
免許の更新、職場における集合教育、失業保険目当てで通う職業訓練センター、そういった所で後ろ側に席をとって周りを見渡せば話を聞いているフリをして寝ている大人やバレないようにスマホを弄っている大人が如何に多いかを目にできるだろう。
大人か子供かではなく、意欲もないのに教育の場に参加させれば自然とそうなるのである。
だが多くの大人たちはそういった場面で見かけ上はマジメに聞いている。
彼らには、免許を更新したいとか、教育を受け直しになりたくないとか、失業保険が欲しいとか、そういった極めて直接的な理由がある。
だが、小学校や中学校においてはこういった要素が薄く、それこそ出席をしなくても卒業をして次のステージに進むことが出来てしまう。
学校という空間は如何にして1人につき40人を真っ当な報酬系統も存在しない状況で監視するという異形をなしているのだろうか?
答えはシンプルだ。
教師と生徒という関係に超巨大な傾斜を設けて、教師が白を黒といえば生徒はそれに従うほどの力関係を用意するのだ。
これにより教師が与える体罰、精神的苦痛、各種のハラスメントは教育という概念として昇華され、一生傷が残る行為と物理的な接触を伴うセクハラ以外はあらゆる行為が黙認されることになる。
そもそもをして、強制的に集められた40人を1人が管理するなど、こういった異常な環境下でなければ容易には実現し得ないのだ。
もちろんキチンと環境を構築するという容易でない道を選ぶことも出来るが、それを実行しようとしたものもゆくゆくは燃え尽きていく。
25歳で教職についたとして定年までは40年、個々人の意欲のみを報酬とするには長すぎる時間なのである。
かくして学校という空間は独自の法によって運営される出島、監獄となる。
ではこの監獄島に外の世界をルールを真っ当に適用したらどうなるだろうか?
教師と生徒が平等になれば、暴走する生徒を止める手段は通報のみとなる。
教室において教師が出来るのはハラスメントにならない範囲までの注意、いわば善良な管理者の注意義務までである。
その範囲は決して広くはなく、今までであれば先立って体罰によって躾けることで無理やり予防できた数多くの人災に対処が及ばなくなるだろう。
教師は超人ではないので、人間としての限界を超えることは出来ないが、法の縛りを逸脱することを許可することで擬似的に半超人化していたものがなくなるのである。
授業や生徒の管理を妨害された時、今まであれば超法規的措置によって体罰をして解決していた。
だがそれが不可能になったらどうなるか?
証拠を集め、公務執行妨害を適用し、少年院に送られてもらうことを選ぶしかない。
他の生徒のことを考えればそうならざるを得ない。
生まれついての犯罪者として真っ当な職業に付く機会は、少なくともテレビで名前を聞くような企業に入る機会は場末のアルバイト以外では望めないだろう。
今までであれば鉄拳制裁を受け、顔の腫れが3日後に引けば終わったものが、これからは一生消えること無い履歴書の傷を引きずって生きることになるのだ。
そしてこれは何も極めて救いがたい悪童に対してのみ行われるのではなく、多動性を持つ生徒、注意力散漫な生徒、偶然虫の居所が悪かった生徒、いわばほぼ全ての生徒がそう言ったリスクを背負って通学するようになるのである。
元からそうだったと言いたい人にはこう言おう、もし治外法権がなくなれば通報されるリスクが10000000倍になった学校に通うことになる、と。
我々が声高に「いじめをなくせ。隠蔽を辞めさせろ」というのは簡単だ。
だがそれは「学校への治外法権の適用をやめろ。これからは学校で起きたありとあらゆる犯罪行為が法的措置の対象となるべきだ」ということなのだ。
さて、貴方の家の子供は悪戯の一つもしないで今日まで生きてきただろうか?
悪戯とは、相手が許さなければ犯罪になる行為であり、犯罪歴がつけば人生の可能性が半分以上消えるということを理解できているだろうか?
そんな自信は自分にはないなあ
第9回BL小説大賞に出品したせいで先月は自分の創作(出品作の直し作業)が忙し過ぎて、本を読むとかいう気分ではなく、読みかけて積んでしまったものが多かった……。
馳星周先生の作品って、少年漫画や青年漫画の二次創作でBLを覚えた人間にはヒャッホー! な、ヒリヒリとした男同士の関係性を描いたものがちらほらある。私は『生誕祭』が好きだなぁー。けどここしばらく馳作品を読んでなかったなと思い、バディものだというし面白そうだなと思って本書を手に取ったのだが……。
冒頭がすごくダルい。今まで読んだ馳作品の中でここまでダルいと思ったものはなかった。うぅ……なんだこれ。でも作者あとがきには楽しんで書いたって書いてあるんだなぁ。作者が楽しんで書いた作品駄作の法則発動か、それとも中盤から急に面白くなるのか。わからないけど、十分の一くらい読んで脱落した。
BL字書き仲間から、「柴田よしき作品はBLだよ!」と教えられて、どの作品がBLなのかわからないまま、とりあえず目に留まった本作を読み始めた。しかし、最近の私にはBL貧乏神でも憑いているのか、これもいきなりダルくてくじけそう。某BLレビューサイトのマンスリーくじも外したし、散々な気分だ。
中華BLにかぶれて中国に興味を持った私、感染症がどうかというよりかは、中国の市井の人々の暮らしぶりを知りたくて、本書を読み出した。これは興味深い。封鎖下の武漢の人々の暮らしぶりもよくわかるが、中国の一般市民の暮らしや考え方も見えてくる。ステイホームするしかないので、著者のだしてくる話題がネットの話多めなんだけれど、中国流ブラックジョークとか、漢詩のパロディーとかが興味深い。
中国といえば言論の自由のない国というイメージだけれども、それでも人々は完全に右へ倣え(いや左へ倣えかな。)している訳でもなく、動画で血気盛んに行政批判(地方自治体disくらいなら意外と大丈夫だったりするの?)や罵倒をしていたり、ユーモアを交えて上手く規制を交わしつつ本音を吐露しているようだ。
ちょっと意外だなと思ったのは、中国の人達、プライバシーを大事にしている。自由と感染症対策を天秤にかけてどっちを取るかっていう議論が出てきたりとか。また、感染症対策も大事だけれども経済を回すのも大事でしょう、とかいう意見も出たりして、完全に共産主義なのではなく、資本主義的な考えも取りれているようだった。いや、資本主義というよりは現実主義なのかな。
著者の方方先生は基本的に当局を支持し信頼していると繰り返し述べつつ、極端な思想(極左)は人々の暮らしに悪影響をおよぼすとも主張している。そしてよくネトサヨから攻撃されたりブログサイトからアカウントをブロックされている。
思い切った都市封鎖で徹底的に感染症対策をしたにも関わらず、なかなか感染者数が減らなかった武漢。本書は日記なので、リアルタイムにその状況を体験して書いている方方先生や、一般の武漢市民にはどうしてこんなに長く閉じ込められなければならないのか、分からなかったようだけれども、この翌年に俯瞰で見れる読者の私には、さもありなんと思える記述が所々にある。一般市民の多くはステイホームをしていたものの、当時の武漢にはホームレスもいれば貧民街も一部にあったらしく、それらの困窮生活者は生きる為にいつも通りの暮らしをしていたようだ。また、物資の配給に従事していた人々……多くは市の職員とボランティアだ……の感染症対策も情報不足や物資不足から万全とはいかなかったようで、それが感染拡大に影響していたのではないかと私には思える。
日本でも他山の石とすべき所は、役所というのは日常の仕事様式から、どうしてもフレキシブル対応が苦手となってしまう、という点かなと思った。こればかりは国の主義とか関係ない感じがする。全体主義・強権主義的なところのある国は感染症のような問題には強いと、外の我々には見えたけれども、現実にはそれでもかなりの苦労があったことが本書にはありありと書かれている。
……とまあ長々と書いたけれども、まだ半分ちょっとしか読んでないので、頑張って続きを読む。
BL関係ないけど。読んでみれば、一般社会から顧みられることのない、普通から脱落した女性たちの暮らしやものの考え方、世界の捉え方が書かれていて、興味深い。のばらあいこ先生の『秋山くん』『寄越す犬、めくる夜』の登場人物(こっちは主に男性だけれども、所属階層はほぼ同じだろうな)の日常とかを思い浮かべつつ読んだりとか。
性的逸脱行為を繰り返す少女が、自らの価値を「需要」のある無しで語るくだりとか、衝撃を受けた。しかし、そこまで荒れた生活を敷いられているわけでなくても、自他を使える使えないで見ている人というのは世の中にはとても多いというか、ただそこに存在することさえ許されない、役に立つのは義務であるかのような圧が社会全体にのしかかっている気はするよなあ。そういう圧が、社会の中の一番弱い人々を押し潰してしまうんだろうね。
非行や犯罪で少年院に入れられた少女達が、更生教育を受ける中でやっと自分の存在を肯定することを覚えるということ。世間的には少年院に入るなんて罰だとしか思われていないけれど、そこが人生の根幹の部分を学ぶ唯一の場所であるという人も世の中にはいて、必要な場所なんだなあ。しかし、女子少年院を出てから数年後に悲惨な姿でまた戻ってきた女性の話しは重く辛かった。せっかく自分を大切にすることを覚えても、彼女をゴミのようにしか扱わない人しかいない世界に戻っていくんだね。ネンショー出だということで……。
唐突に、紙の同人誌なんか家に一人で居られる昼間しか読む暇ないじゃん! と思って宝箱から発掘してきた。幽遊白書の同人誌、なんだけど、表紙からして誰おま。これが野火ノビタクオリティ。だが読めばなるほど蔵飛……そしてエモい。
実を言うと蔵✕飛は特に好きではないが嫌いでもなく、しかし野火ノビタ先生の作品に限っては超好きなので本を買ったという。私自身は幽白の最推しカプは男女カプなので、表向きには蔵飛読むなんて言えない。腐に媚びてんじゃねぇと陰口を言われるので。BLのカプでは仙水✕樹が好きだな。推しても誰とも喧嘩にならないし。
暴力だからよくないとか騒がれてるけど、それは流石に今更すぎないか?
しかし、賢しらぶった人たちが「暴力と格闘技は違うんだ、わかっていないのは不勉強だからだ」という表面上だけの話をして留飲を下げているのは、ピントはずれもいいところだと思う。
だいたい、格闘技に限らず興行なんて裏も含めりゃ大概ヤクザみたいなもんだろ。
「少年の夢」みたいに健全ぶってるプロ野球とか、裏は言うに及ばず表の部分だけでもどれだけ暴力的でコワモテなんだよ。
ガッツポーズしただけで打者への報復死球が当たり前の暴力世界だぞ。
よく奇麗事だけいって満足できるなと思う。
そもそも朝倉は、「喧嘩」が好きで暴走族や少年院にも入るような暴力の世界で生きてきて、「格闘技」相手に手も足も出ずボコボコにされたことから総合格闘技に目覚めた人間だ。
自分と同じように暴力に明け暮れる、どうしようもない不良の方を気にかけている。
かつて自分がデビューした不良たちの格闘場「アウトサイダー」のように、次世代の格闘家のプロデュースもしている。
「喧嘩の楽しさ」の延長が格闘技にある、そこには時間をかけて人生を変えるだけの価値がある、だから不良は喧嘩なんかしないで格闘技をしよう、その方が人生が豊かになるよというのが朝倉の理屈だ。
この朝倉のスタンスは、不良たちに絶妙にいい影響を与えたと思う。
朝倉のyoutubeで、地元愛知に帰った際に煽り運転をされたことがった。
相手が朝倉未来だとわかった瞬間に一目散に逃げ去る不良の姿を流し(もちろんモザイクつきで)、ダサいし危ないし何より迷惑だからそんなことやめろと動画上で説教をしている。
自分たちだったからよかったけど、他の人がされたら堪らないと。
こういう部分にこそ朝倉の意義がある。
煽り運転をやめろなんて誰でも言えることだが、不良にとって、「外部の」大人に言われるより、自分たち「不良側」の先輩に説教されることほど効くものはないのだ。
だからことあるごとに不良アピールをし、同時に喧嘩や迷惑行為はダメとも発言する。
この動画を見た、年を重ねた元不良も「後輩にちょっといいこと言いてえ」と思って、「朝倉未来もやめろって言ってたぞ」と後輩に説教をする。
これは普段から品行方正な人間では決してなしえない、朝倉だからこそできた小さな社会貢献だと思う。
だから少年院にいって講演もして、院では異例の格闘技大会の特別上映(!)も叶えている。
「暴力と格闘技は違いまーす」「僕たち健全な格闘技界は不良なんかとは違いまーす」と奇麗事だけを都合よくいう人間ではないのだ。
そして、その長年不良だった朝倉でさえも、総合格闘技に出会ったのは成人する前後だった。
だから朝倉はyoutubeでも繰り返し「格闘技の周知」「認知の向上」の話をしている。
「格闘技好きに向けたアピールをしても、格闘技の人気は出ない」と繰り返し話している。
人気の「街の喧嘩自慢とスパーリングをする企画」も積極的にやり、この企画をどんどんパクってくれと言っている。
はっきり言って、朝倉のyoutube活動が今の格闘技界にもたらした影響はすさまじい。
格闘技界のカリスマ・堀口恭司なんて正真正銘のスーパースターすらも、一般人は誰も知らない時代だ。
だが格下の朝倉は、彼よりも圧倒的に有名になった。
一躍不良少年の憧れの的となり、格闘技の布教活動をして、大会の視聴率をあげている。
そして朝倉は、不良や総合格闘技だけではなく、空手や合気や剣道などの伝統武道、ボクシングやキックなど様々な格闘家、さらにはバドミントンなどほかのスポーツ選手ともコラボし続けて、武道や格闘技、スポーツの魅力を伝える活動をしている。
格闘家のyoutubeブームは朝倉の影響と言っても過言ではない。
本人のプロ戦績がしょぼくても、それだけでは計り知れないほどの貢献を業界内外にしているのだ。
仮にも「格闘技が好き」なんだったら、その功績を知らないとは言わせない。
どんなに朝倉が嫌いな人間でもそれだけは認めざるを得ない、それぐらいの活躍をしている。
(あと、興行主から体重上げて試合に出ろ金を稼げと何度言われても断わり続けたのも、昔のPRIDEで酷使された選手のことを思うと本当に偉かった)
だから恩師の前田日明に「スパーリングを公開するなんてあり得ない、絶対対策されるからやめろ」と言われても、格闘家と公開スパーをして、それを研究されてボコボコに負けても、それでもやめなかったのだ。
(そもそも朝倉本人が対戦相手の動画を入念に分析する人間なので、リスクは最初から分かっていたはずだ)
今回のabemaの件はもちろん問題があって、本人も謝罪しているしそこを糾弾するのは本当に正しいし、健全な行為だと思う。
色々な問題点は他の人が指摘している。
しかし、朝倉と彼の活動を一概に「格闘技と暴力を勘違いしているだけのお馬鹿さん」と知った風な口でひとまとめに切り捨てるのはあまりも、あまりにも浅すぎやしませんかと思う。
しかし、「格闘技と暴力を延長線上のもの」として捉えて活動しているからこそ、格闘技界や不良たちに「いい影響」を与えたことも事実なのだ。
「影響されて格闘技始めました」とか「未来さんが止めろって言ってたから」と不良が憧れるようなロールモデルを、(一時的かも知れないが)こなすことができたのは、とても貴重なことだと思う。
微睡んでるいまなら上手くかけそうなので書きます。
ひとつは皆と共にいるこの一般的な世界。もう一つは僕のみが知る世界。
順を追って話していく。昔の僕は夢を見るのが好きな子供で一日中寝てばかりいた。
大体1時間の睡眠で40分くらいは夢を見るんだけど、時々特殊な夢を見ることがあった。
他の夢と違うのは、自由に行動できること。出来事を第三者視点で見るんじゃなくて意思があって考えて話したり動いたりしている。
あと夢の自覚があること。これは現実じゃないんだっていう強い感覚を持ってる。
夢の中にいるのは半分くらいが現実の知り合いでもう半分は知らない人たち。
ある程度夢の深さを調節?できて望めばずっとその世界に居続けることができる。
ずっといるとどんどんとリアリティが増してきて会話の文字ひとつひとつや触覚や痛覚まで現実とほぼ変わらないくらいまでになる。
中学の頃からは白昼夢のような感じで眠らなくとも夢を見れるようになり、授業中とか1日の半分くらいは夢の世界に行ってた。
テロリストが学校に侵入してくる妄想をしたことがある人は多いはず。あの類の妄想を起きている間ずっと授業中・部活中問わず続けているような状態だ。
そうすると少しずつどっちが現実か夢か自分自身も認識出来なくなってくる。
テロリストが攻め込んできてクラスメイトとバリケードを築いている夢が現実になり、のんびりと授業をしている空間はいつのまにか夢になっていた。
夢と現実の違いは何?
僕にとって夢が本来の場所になりつつあった。夢の中で教師に授業を受け、友達と遊び、家族と夕食を食べた。
次第にこっちの世界の人と話さなくなり機械のようにただ黙々と日常を過ごした。
体は現実で動いていても頭の中は常に夢の中にあった。日常を無意識のうちにこなすようになった。
コミュ症そのものだったが何故か成績が良いから周りもとやかくは言わなかった。変わってるんだ天才だ変人だ、そんな扱いで済まされていた。
高校生になった。高校が控えめにいってカス(*受験少年院と言われるとこ)だったので、夢で現実から逃避できたのはありがたかった。高校生活3年のうちクラスメイトと話した日数はおそらく100日にも満たない。
登下校や昼食、休み時間など常に1人で過ごした。ただ全く寂しさはなかった。常に心は夢の中にあり妄想の友人と共に過ごした。
受験期になり流石に勉強に集中しようと思って、高3の夏休み前に夢の人たちに少し出かけると言い、暫しの別れを告げた。受験が終わるまでの少しの期間ではあったがある程度寂しさがあった。
その時くらいから段々と現実に引き戻されてきてそれと同時に訳のわからない苦しみが湧き上がってきた。
それまでは現実がどうなろうとどうでもよかった。成績が悪かろうが人にどう思われようが何も感じなかった。
正常な人間が夢の中の出来事で悩まないように僕も現実の出来事では悩まなかった。当然夢の中は僕の自由だから悩みなどない。
ただ現実を生きると成績を上げたいといった欲が出てくる。これが辛い。
成績を上げたい→上げなきゃいけない→上がるはずなのに上がらないといったふうに欲が焦りを生みプレッシャーを強く感じた。
過剰な悩みとストレスを捌く能力もなく、どんどんと知能と成績が下がっていった。頭に学んだ内容が入ってこない。文字を文章として理解できない。
あと今まで別にどうでもいいって思っていることに気を使わないといけなくなった。
夢ばかりでろくに人付き合いもしたことがない僕は気づかないうちに人として基本的な能力を喪失していた。
人ときちんと接すること、強制されずに机に向かうこと、他の人が普通にできることを今更習得しなければいけないしんどさとそこからもうあっちの世界に逃げられない苦しみと。何度も逃げ込もうとしたが受験に失敗したらもう生きていけない、そんな焦りが邪魔をした。
大半の人が経験してるストレスへの対処法とかそんなものを全く知らずに生きてきた自分にとってこの苦しみは重すぎた。
今更辞めても中途半端になる、そう思いながら1年近く苦しみ何とか大学に入学した。
晴れて受験から解放された時、普通の人間としても生きていきたい気持ちが既に芽生えていた。
それとあっちの世界に戻ろうとした時、もうその世界がかなり薄れてきてたのがわかった。
戻りたくても人の記憶が消えて靄がかかったような夢しか見られなかった。
もうどうしようもない、戻れないし戻らない
普通の人間らしく振る舞うことを心がけて少しでも社会に馴染むように振る舞った。
サークルに入りバイトをした。友達と昼食を食べ、休日には旅行に行った。
ただどうやっても馴染むことができない。普通がわからない。人と普通に接することができない。
この現実から逃げていた数年間の代償はあまりに大きく周りについていける気がしなかった。
普通を教えてくれ、どうすればいいのかわからない。精神的に不安定になり、人付き合いを辞めた。相変わらず文章は読めないままだった。
苦しくなって大学を辞めようと思った。けどもし辞めたら本当に生きていけなくなる、冗談じゃなく生命が危機に陥る。高卒で働いてもうまくいかないほど自分が弱いことはわかっていた。
知力に頼るしかない、そう思って色々と知識を増やし、資格を取った。そうしていれば少なくとも排除されることはない。
そんな感じでこっちの世界に適応し始めてもう数年になり最近はなんとなく苦しみも減った気がする。
今でもどっちが幸せだったんだろうと考える。両方の世界で生きることはできない。
僕は現実を選んだ。
多分夢の世界に行ったっきりになってたら僕は頭のおかしい人、精神病者として分類されることになってたんだろう。
友達に1人そういう人がいる。話している時も常に夢の世界にいるような人で僕があった中で文句なく1番の天才だった。今は隔離病棟にいる。
側から見たらキチガイ、でも本人は多分幸せなんだと思う。ずっと幸せだけを感じられる生き方ならそれはいい人生なのかな。
少し羨ましく感じる今までの自分とそれを否定するここ数年の自分がいる。
話は少し変わるけどボケ老人ってこんな感じなのかなって思う
側から見たら徘徊とかそういうのでも本人の頭の中は幸せに満ちてる
そうであればいいな
今日さっきまで寝てた
戻ることができた
昔いた人は随分と減ったけど新しい人たちがいた
正直多幸感の塊だった
全てが自由でなんでもできる空だって飛べるし法を犯してもある程度捕まらないようにだってできる
これからどうしようかなって悩む
寝ていたホームレスの男性を驚かそうとコンクリート片を壁に投げつけ 17歳少年を少年院送致、岐阜家裁
https://www.gifu-np.co.jp/news/20211112/20211112-122206.html