はてなキーワード: 大義名分とは
(退職エントリってIT系の文化らしいけど、書きたいので書いておく)
大卒で文系学部を出た私は、就活当時公務員を志望しており、公務員に「準」ずる商工会は魅力的に思えた。(待遇が)
いや、待遇以外にも業務内容はきちんと魅力的だと思っていた。「地域のための商工会」という大義名分は当時価値があるように思えたのだった。
入職後は、数日間申し訳程度の社会人マナー研修をやり、7人やそこらの小さい職場に配属された。その7人で地域のお店を支えるというのだ。
といってもいざ働くと、7人で500近くの店を支えるなんて難しいわけで、会費の集金の時しか会わないような店もあった。
嫌味臭く「集金の時しか来ないよね」なんて言われることもあった。(そんなに不満だったら今すぐ商工会辞めろよ と思うのが本音)
しかも、経営指導員という経営指導を専門にする職員が居て、それがゴミだった。
けれど商工会組織の中では経営指導員は事務職より偉い という風潮があり、ゴミを尊重しなければならないという変な環境に3年身を置いた。
そして自分もひょんなことから経営指導員になったのが就職4年目。(ゴミを反面教師にコンサルしたいと思っていた)
慰安旅行では酔った勢いでカラオケのマイクで頭を小突いてくるし、少しミスしたくらいで翌日からそれまでの態度が180度変わった。
精神的に参っている、とクソ上司本人に訴えたら急に態度が変わり、何度もメンタルケアと称した気持ち悪い面談を重ねさせられた。
私が精神的に参っているのは上司のせいなのに、上司本人は意図的に?勘違いしてトンチンカンな分析をしていた。
挙げ句の果てに、退職したいと申し出たら、「辞めるなら俺の言う通りに文章を書け」
と言ってきた。
しかもよくわからない文脈で「お前は配属された時からプライドが高い人間だと思っていた」とか意味不明な人格否定までされた。
プライドが高いのは、あんたの方だろ気持ち悪いナルシスト豚ゴミ野郎。
こう書くと辞めた原因が人間関係だと思われてしまうので書いておくと、商工会の存在意義ってものにも疑問を感じた。
経営指導、とはいうものの(自分のいた地域だけかもしれないが)やることは融資の斡旋(要はカネ貸し)、
税務書類の事務的な作成、効率の悪い集金(未だに生命保険とかの掛け金を現金集金している)、
あぐらをかいているゴミ役人どもの代わりに地域イベントの主催…
地域イベントに至っては、祭りに来る客は当たり前のように毎年イベントがあると思い込んでいるし、
田舎の商売人ってやる気ない奴多いし、大抵が数年であの世に逝きそうな後継ぎもいない人。そんなのを顧客にして食ってるのが商工会。
中にはやる気ある商売人もいるよ、という声があるだろう。そんなのごく一部なので例外的なんです。居ても意味ありません。
こういうことをやっている組織って何なんだろう。(意地でも生き残るんだろうな)
こんなことやって給料が新卒14万、四年経っても18万だったから辞めた。
今はお役所気分みたいな業種から離れて最先端技術に触れる仕事をしている。
将来は自分一人で商工会一つ潰せるくらいのコンサルタント になりたい。
ここに、骨になっても忘れたくない恨みを刻むため記す。
この件、構造的には違法ダウンロード犯罪者が金子勇を神として崇め、俺にテロ仕掛けてるようにしか感じない。
技術という大義名分があれば、著作法違反というサイバー犯罪を正当化できる。
実はオウム真理教が弁護士殺害事件を起こした時と同じ集団催眠。ちゃんと自分の頭で考えてみろバカッター共。 https://t.co/p438KPuo90— 大澤昇平 :: AI 救国論 🇺🇳 (@Ohsaworks) November 12, 2019
フェミニストは大義名分を建前に自分たちの利益を無尽蔵に欲しがってる、みたいな言われ方をたまにしてるじゃん。あれはまあいい過ぎなんだけど。
でも潔癖で容赦ない感じになってんのって、フェミニストないし女性の利益の多くが、社会的正義と重なってるからだと思うんだよね。
適当だけど、六割か七割くらい?
現代社会って、協調性や社会性や穏健さや平和や安全や肉体的弱者救済が、良いものとされてるわけじゃん。
そんで、あえて雑な言い方するけど、最大公約数的な「女性的特徴」と「男性的特徴」を比べれば、女性的特徴の方が現代社会の求めるものと合致してる。
男性的特徴……テストステロンで加速される特徴は現代社会の正義とはやや噛み合わせが悪い。
だから女性にとって、社会的に正しいことが行われるよう主張すれば、自然と自分の利益拡大に繋がる事が多い。
逆に自分の利益や快楽のために活動してても、勝手に社会正義のお墨付きがもらえたりもする。
そうするともう、主張に歯止めがなくなるんだよね。
良いことだって、あんまり徹底したり急速に推し進めたら弊害が大きいんだけど、世の中の徹底的で潔癖なまでにやりたくなる。
それに、自分の生きやすさが社会正義と重なる事に慣れきって、そこの合致を疑わなくなる。
さっき女性の利益と社会的正義は六割か七割重なるっていったけど、当然重ならない部分もあるわけよ。
なのに、女性の利益……というか「たまたま女性である私個人や周囲の同調者」の心地よさに繋がるってだけのことが、即ち社会的に正しいはずだと勘違いしやすい。
この記事はフェミニストに批判的だから女性読者はむっとしてるかもしんないけど、でもちょっと思い出してほしい、女性だけのコミュニティでも、自分の得になるってだけなのに世の中や集団のために正しいという皮を被り(しかも本人は正義だと思い込んで)啓蒙してくる人目につきませんでしたか。
これは当然フェミに限らないんだよな。
普段、真っ当なことや良いことをガンガン進めてる人が、たまにめっちゃ個人的主張を、正しいことを主張するのと同じ勢いの強さで言い張る、みたいなのがWebでは沢山見られるようになった。
まぁ、だからって良いことをするのはやめろってのもおかしいけど。
協調性や社会性や穏健さや平和や安全や肉体的弱者救済を訴えるな、口を塞げ、みたいになったら、やっぱ世の中不穏になる気がするし。
いやはや、困ったもんですね。
また、心を盗まれた。
言うまでもなく、ペルソナ5THE ROYALのことだ。
発売日が決定してすぐに有給を取得し、万全の体制で臨み、5連休が終わる直前にクリアした。(クリアできたのは八十稲羽の大神の力による所が大きかった)
あまりにも、あまりにも素晴らしかったので、2周目に突入する前に、作中の「怪盗信者」である三島のように、テキストエディタを立ち上げ、「僕らの光」を何度も流しながら、支離滅裂でキモいテキストを書き散らしている
ペルソナシリーズの存在を名前だけは知っていたが、普段ゲームなぞ殆どしない自分は、2016年の秋、8年ぶりに同シリーズの最新ナンバリングタイトルが出るという素晴らしいニュースがあったことすら露知らず、どうしてもやりたかったうたわれるもの二人の白皇の為に、PS4を購入して(こちらも言うまでもないほどのADVの大傑作だ)プレイし、Suaraが歌う、ボーカル付のシーンで涙を流していた。
それ以外やりたいソフトも無く、当時大学生で暇を持て余していた自分は、近場の家電量販店に行き、たまたま見つけた赤と黒のソフトを手に取っていた。
それがペルソナ5との、ひいてはペルソナシリーズの出会いだった。その世界にあまりにハマってしまったせいで、ペルソナ5を通算500時間ほどプレイした。そしてペルソナ3で命の答えにたどり着き、ペルソナ4ザ・ゴールデンで霧を晴らし真実を見つけ出した。それでも飽き足らず(無印と2はまだやっていないにわかにではあるが)アニメを見て映画を見て、アリーナで闘い、ダンスを踊った。
ペルソナ5は現実世界と認知世界(というもう一つの現実との)と東京という「現実」にある世界の3要素が絶妙にリンクしていて、ある意味残酷とすら思えるほどの没入感を与えることに成功している。
教室で自分の目の前に座っている杏、竜司とともに食べた荻窪のラーメン、真と共に闘ったパレス、双葉と共に食べたカレー、春と飲んだコーヒー…一緒に眠ったモルガナ…「痛み」を共有した仲間たちとの楽しくどこかくすぐったいような日々だけではない。無気力な大衆、どこにでもいそうなパレスの主たちまで、確かに存在する。
そして、プレイを終えたあと、自分は確かに怪盗団であったこと、しかしこの世界には怪盗団がいないということを実感せずにはいられない。
ペルソナ5の物語は、当事者になってしまった鴨志田事件から、真加入の前半は勧善懲悪的な物語であり、中盤は、大衆の期待に煽られていき、「人一倍許せないこと」があり、それを貫いていく、という怪盗団のポリシーがブレはじめ、絶頂と凋落を味わう。
終盤はその大衆の集合的無意識を切り口として、人々の世界のどこにでもありふれている閉塞と怠惰の中で、それでも人間には前進していく・立ち向かっていく意志と希望があり、(矛盾しているが)それらを自ら選択していくエンドである。
「人間の希望を集めて作られた」モルガナが「人間には、世界を変える力がある。今はそれをほんの少し忘れてしまっているだけ」という台詞であらわされるように、作中には「意志と選択」がありふれている。
その最たるものとして、主人公は獅童の事件の証言者として、警察に出頭し、少年院に入ってしまうことになるわけだが、「痛み」を共有した仲間たちが主人公の冤罪を証明する。
作品の答えが、そして作品のテーマであった「真なる更生」が果たされる。彼らの「意志」はわれわれの現実にも還元され、ありふれた怠惰と閉塞の世界で、「ほんの少し」忘れていた希望と意思を思い出す。
さて、ペルソナ5 THE ROYALでは、そんな「意志と選択」の物語であったペルソナ5から、今回の「ROYAL」な3学期では、異なるシチュエーションで「意志と選択」の物語が繰り広げられることになる
パーフェクトであった物語に、一学期から当然のように追加される新しい登場人物たち。
言うまでもなく、芳澤すみれと丸喜拓人のことだ。ネタバレになってしまうが、二人には共通点がある、「大切な人」を失ったという「痛み」を持っている点だ。丸喜拓人は恋人を、芳澤すみれは、姉であった「芳澤かすみ」と自分自身「芳澤すみれ」である。丸喜は恋人であった留美の家族が殺されたショックで、留美が廃人になる。
芳澤すみれは、世界を獲ると共に誓った姉を、自らの不注意で事故に遭わせてしまい、失う。
丸喜は「彼女を救いたい」という「願い」をもって、ペルソナを覚醒させ、留美を救った代償に、留美は丸喜のことを忘れる。
すみれは「かすみになりたい」という「願い」を持ち、それを丸喜が認知を「曲解」させることで、すみれは自身を「かすみ」と認識して生きていく。その代償にすみれはすみれ自身を失う。
3学期に解禁されるすみれコープにおいて、芳澤すみれは「かすみ」のように凛々とした少女ではなく、いつも姉の背中を追いかけている内気な少女として描かれる。
かすみの影から自ら脱却し自分の意志で歩み始める。彼女のコープで、下していた髪を再度括るシーンは、かすみの持っていた強い目が、すみれの中に宿っていた。
すみれの強さと脆さ、そして主人公や丸喜にすがってしまう点は「怪盗団」の女性にはない、どこかギャルゲーチックなトラウマの向き合い方で大変好みだっただけに、もう少し長く仲間として使いたかったという本音もある。
話しを怪盗団に戻そう。怪盗団が無意識にも願っていた願いが叶えられた世界。「幸福な幻想」の中にいる怪盗団は、自分たちが「現実にいない」ということにすら気が付かない。彼らが無意識にも願っていた願いが変えられた世界。モルガナは人間になり、竜司は陸上を続け、杏は志穂と共に過ごす。真や春には父がいて、双葉には母もいる。かすみはかすみとして、凛々とそこにいる。ただ、主人公だけであるジョーカーは違うかのように描かれる。現実が、現実ではない感覚。彼は同じようにここが現実ではないと気がついていた明智、そしてパレスを見つけていた芳澤と協力して、元の世界へ戻ろうと調査を始める。
パレスを発見したのち、戦力を増やすためにもまず、ジョーカーは一人一人一味を説得していくわけだが、改めてジョーカーの精神的な意志の強さには驚嘆する。彼は問いかける「これで本当に幸せか?」自ら痛みを乗り越え、選ばなければ意味がなかったんじゃないのか?
仲間たちは気がつく。竜司の言葉でいうなら「あいつの言葉が正しいと思ったからなのかも」
その瞬間、幻想は打ち砕かれる。
丸喜は「みんなが幸せに暮らす」世界を作りだすことによって全てを救おうとする。そのことに気がついた時、怪盗団は今まで考えていなかった、改心することの是非を問われる。という問いにぶつかる。しかし!目を覚ました怪盗団の答えは自明である。「幸福」よりも「意志と選択」を尊ぶのだ。例え、その現実が幸福なものでなかったとしても。
丸喜は叫ぶ「僕は君たちも救いたいんだ」そして、共闘している明智という存在が「ジョーカーがもう一度闘いたい」という願いに丸喜が応えたことによって生まれた存在だということを明す。そして、明智は自らの存在のことを知りながらも、主人公に、自らの「意志」を貫くよう勧める。明智らしい、突き放すような言い方で。
その時、私はそうか、と少し嬉しくと思う。ジョーカーにも、きちんと願いがあり、後悔があったのかと。あまりにも強靭な精神を持っているので忘れていた。私ははじめてジョーカーが真なる意味で「我々の仮面」になったような実感を得た。
そこから先はもう言うまでもなく、「歪んだ善意」と「まっすぐな意志」との対決である。本来怪盗団に改心することの是非や葛藤など必要ではない。大義名分を気にしてるようでは怪盗団なんかやってないからだ。確かに今回の丸喜は根っからの悪人ではないし、どこか衛宮士郎を彷彿とさせるような一種の正義の味方だと思う。それでも、怪盗団にとっては悪人なのだ、自分の力でまだ見ぬ未来を切り開いていく障害になるものは。
ラストバトルで、ジョーカーは仮面を外し、丸喜といかにも陰キャな殴り合いを行う。少し狙いすぎるきらいはあるが、その青臭さと眩しさを再度確認できただけでも、ペルソナ5THE ROYALは最高の物語であったと私は言える。
エンディングムービにおいて、丸喜はタクシー運転手として主人公を駅まで載せていくシーンがあり「大人になってから失敗しても、もう一度やり直せる。それが僕の復讐かな」(大意)丸喜も見事に未来をつかむことが出来たのだと思い、うれしくなる。
見送りの際にかすみが現れないのも、怪盗団の見送りがやけにあっさりしている所も、自らの「意志」によって、自分だけの道を歩みはじめたことの証左だろう。新幹線のホームで、「前を向いて歩けよ」という声がする。前を向くと、強い目をした「すみれ」がいる。「それでは」という挨拶だけを交わして、二人はすれ違っていく。前を向いて進む、だが、二人は同じ方向を向いていない。なんと素晴らしい別れ方だろうか。
かすみと、怪盗団と、もう一度会いたいと思わずにいられない。もう一度、ありふれた閉塞と怠惰から、未来を切り開くために。そして別れをする為に。その為に何度もペルソナ5THE ROYALを周回し、そのたびに、自分自身の心の中に怪盗団があることを確認するだろう。
実は昔からあるものの今になって可視化されたのか、今が問題があるのかはわからないながらも人類がもう末期だなって感想しか出てこなくなった。
理由を並べていきたい。
別に黙って消費しろというわけではないが、いかんせん声がでかい。
その内容もやれ男ガーとか女ガーとか軽視ガーとかそれっぽいことを言っている事は理解できても、とどのつまり大義名分()でデコレーションした単に自分のわがままというだけのもの。
構造の改変や廃止を正義は我にありという顔で意見しはじめ、それに釣られて賛同するアホがおまけでついてきたときにはでっちあげた中身のぺらっぺらな正義の凱旋が始まる。
地獄絵図という他ない。
別に現状維持が商品、サービスの得策というわけでもない。必要に応じて変わっていくことは非常に重要なことではある。
個人的に気に入らないなんてのはたくさんあるのは間違いないし、それでも見る見ない触れる触れないは個人の自由。
ただ文句言うのに大義名分を掲げたり男が女がと世間様がバックにいると思い込まないと言えない主張などレシートの裏にでも書いて捨ててくれ。
パターナリズムにも良い面もあると思うんだよね。
例えば弱い立場の子ども達を率先して守ってあげるのが大人の役割なわけ。
結婚していなかったり、子どもがいない大人だって地域の子どものために身を張って頑張れることはあるはず。
現代は血のつながりが特に重視されることもなくなったので、実子じゃなくても助けてあげたらいいし、少子化で子どもが減っている以上、国のためにも子どもを助けてあげる大義名分がある。
女性である上に身動きの取りにくい妊婦さんに対しても、まず優しくしなきゃいけない。
席を譲ろうとしない人もいるけど、ミソジニー中高年男性なら貴方の年金を支える子どもを大切にしようと言える。
面白いね
なのにまだ納得できない。まだ何かムカつくんです。何か尤もらしい理由をつけて、「〇〇というマナーに違反してますやめてください😠😠😠」って言いたくてたまらないんです。
「私が嫌だ」という感情を「皆が迷惑してるマナー違反」という大義名分でコーティングして、気に食わない人にぶつけたくなってしまう。「あの人はマナー違反をしてる」って周りの人に言いふらして同意を集めて、「酷い人がいる!!」と憤りたくなってしまう。強い言葉で他人の悪口を言いあうと、手軽に一体感を味わうことができて気持ちがいいですね。
この辺りとか特になるほどな、と感じる
動画を見て「嫌だな」と思ったこの理屈じゃない感情は、理屈なんかつかなくても別に認めてよかった。「嫌」の理由が「マナー」とか「界隈の平和」みたいな正当っぽい何かじゃなくても「嫌」なままでいていいんです。誰に納得されなくても、私が「嫌だ」と感じたら「嫌」で良かったんです。
これで終わるか終わらないかの差は大きいな
いやもうさあ……いちおうこれまで何lか献血で抜いてるわけだけどさぁ、ほんと何なの最近の献血ポスターバッシング……
医療や血が関係ない作品とのコラボは控えろとか、よく言うよね……世の中そうそう医療や血をテーマにした人気作品が転がってるわけでもないし、医療とも血とも関係ないって理由で俺の好きな作品とのコラボが批判されてたら俺もう献血行く気なくすわ……
別に献血してるから偉いとは思ってない。9割くらい自分のためだし(ルームで無料で長編漫画読める3割コラボグッズもらえたりお菓子食べ放題ジュース飲み放題だったりする1割献血に行くという大義名分で秋葉原に行ける1割社会の役に立ってる気がして自己肯定感がアップする4割)。純粋な善意は1割くらい。
でもまあその純粋な、ささやかな善意もオタク向け作品とのコラボを理由にこうやって踏み躙られるんだね、って思うとなんかもう心折れる。
しかも叩いてる連中はろくに献血行ってない層だというね。それで献血ルーム凸とかほんと生きてて恥ずかしくないのかな。
分断を煽るポスターはいけないとか言ってる人がコラボむっちゃ批判して分断煽りまくっているという地獄。
誰かの未来のためだという1割くらいの善意で献血してきてたけど、なんかもうつらい。やめたい。
これまでのフェミ関係の炎上、憤りはありつつもどこか他人事感あったんだけど、まさか献血を叩きに来るとは思わなかったので動揺している。自分の善意が叩かれるとは思わなかったので衝撃を受けている。
お前の善意は叩いてないって? 同じ口でオタク向けコラボは控えろとか言ってんだから同じだよクソが。オタクは見返りがないと献血に来ないのか? とか煽ってるやつもいてクソオブクソ。
どうせ最初から見返り目的が9割で献血やってるんだから俺が嫌になったらいつでもやめられるしやめていいんだよクソが。お気持ちを根拠に自分の身体への自己決定権を行使しているだけなんだからそれに文句は言わせないぞお気持ちを根拠に他人に文句をつけまくってるクソフェミども。
まあでも赤十字はちゃんとセクハラじゃないって突っぱねてくれたからまた献血行こうかな。赤十字は俺らを歓迎してくれるみたいだし、きっとなんかのアニメのポスター貼って漫画もお菓子も取り揃えて快適な空間作って待っててくれるんだろうし。これまでの炎上と違って赤十字が毅然としてくれてたのはよく行く者としては嬉しかった。炎上事案はみんなこういう対応であってほしい。コラボ第二弾期待してますね。
へいふく【平服】
とはいえレストランウェディングや社長の通夜にユ●クロのデニム履いて行ったらたぶんぶっ飛ばされますが、いわゆる「平服マナー」というものは常に無条件に適用されるものでありましょうか。
ファンが自由に参列できるような著名人の「お別れの会」の類は、「平服でお越しください」という案内が通例のようです。
(この場で直接お名前を出すのは控えますが)ある偉大な漫画家さんの「お別れの会」でも、「平服でお越しください」とのアナウンスが行われていました。会には、ダウンジャケットにニット帽のお爺さんも、抱っこ紐をつけた子連れのお母さんもいらっしゃいました。リュックサックを背負った若い男性も、スニーカーの若い女性もいらっしゃいました。長年まんがを描き続け、老若男女に愛された氏らしいすばらしい会になったことと思います。
4年ほど前のことですが、当時は特に服装について問題視されることも、疑問を呈されることもなかったと記憶しています。
インターネット上には、色々な方の「お別れの会」の様子をとらえた写真が数多くあります。
(お偲びの場の写真を無神経に撮るのも、それをインターネットに上げるのもいかがなものかという議論はひとまず置いておくことにしましょう)
多くの場合、一般参列者は文字通りの「平服」、普段着で参加していらっしゃいます。学生さんなどのお若い方だけではなく、お子さん連れや、ご年配の方も含めてです。
平服=略礼服は、特定のシチュエーションにおいては確かに正解であるが、常に無条件に適用されるルールではない−−というのが、私の見解です。
とはいえ私は「だから服装なんてやりたい放題でいいじゃん!」と言いたいわけでもありません。
どういう方がなぜ亡くなられたのか、関係者は今どういう心境でいるのか。それによって、参列者が取るべき態度はまた変わってくるのかもしれません。
「主催側がどういう意図で言っているのかはっきりしない以上、失礼のない服装で行けば間違いない」というのも、一つの正解だと思います。
「普段着で来る大多数の人がちょっと非常識なだけで、良識ある大人ならきちんと略礼服を着るべきだ」というのも、また一つの考え方だと思います。
定食屋とかによく貼ってあった、水着のおねえちゃんが写ってるやつである。
何であれが嫌いだったのだろうとさっき5分考えて、あ、あれに似てるからだ、と思い付いた。
あれとは。
あれだ。
うちの地域だけかもしれないが、子供会の会議だと称して親たちが公民館に集合し酒盛りをしていた、ということ。
お前ら酒盛りしたいだけじゃねーか!子供の為とか大義名分こじつけてんじゃねーよバーカ!
と、大人の汚なさにめっちゃ唾を吐きかけたかった、あの頃……。
ビールのポスターもそれと同じで、ビールの宣伝をしなきゃ!という名目だが実は単に美女を水着にしてセクシーポーズを取らせたいという欲が駄々漏れだったから嫌いだったのだ。
大人って汚い。
だが、宇崎さんの例のポスターは、ビールの宣伝ポスターの美女ほどの嫌悪感を私は感じなかった。大人って汚いとは思わなかった。あれはあれでそこそこ性的だったにも関わらずだ。
何故か?
それは、あのポスターがあの生意気な巨乳の女を見たいが為に作られたものというよりは、あの生意気な巨乳女を好きなオタクの一本釣り狙いのポスターだと、私は思ったからなのだ。
なんというか、ビールのポスターはビール会社のお偉いさんだか広告会社の人だか誰だかは知らんが誰かの欲が経費で消化されたものの残り滓みたいな感じがするけど、献血ポスターの生意気な巨乳女はただのエサにしか見えないのである、私には。
残飯とミールワーム……というと、どっちもどっち感あるなぁwと思いつつも、私の中ではそんな感じで分けられている、ということなのである。
大前提として 人は人をボコることに本能的楽しみを見出せる生き物なんだけど 社会的規範とか道徳がある以上人はそれに悖る行動はしちゃいけないわけだ
振るうに足る大義名分を得られればいい
正しく生きることで間違った人間に対して 正論でぶん殴れる権利が生まれる
ぶん殴りたいから正しく生きるなんて きっと道徳のそもそもの目的に反しているが 世の誰がこんなちっぽけな自分の内面にまで目を向けると言うのだ
誰も知ったことではないだろう 自分はこの考えを修正することはない
弱きものに手を差し伸べる 柔らかいものを愛おしむ 正しいものを信仰して綺麗なものを慈しむ 誰からもケチをつけられないように 正しく
某小学校でこんな話が来て、校長・副校長が頭を抱えているそうだ。いちおう「小学生にめったに見られない一流選手のスポーツを見せる」という大義名分のようだが、要するに満席にならない不人気競技の空席が目立たないように動員していかにも観客が集まっているように見せるためだろう。いちおう区市町村単位で拒否するかどうかの決定権はあったようだが、そこの教育委員会では話を受けてしまったらしい。
しかも「飲み物や弁当は持参するな」「公共交通機関を使うな(あるいは一駅前から下りて歩け)」「貸し切りバスも禁止」というむちゃくちゃな条件らしい。「飲み物や食べ物は現地で買え」「出場選手やスタッフの移動の邪魔にならないように動け」という理由だろうが、真夏に小学生にそんなことをやらせたらどれだけ恐ろしいことが起こるのか大会組織委員会は考えていないんだろうか。
たかだか徒歩数十分の公園でも校外実習や遠足となれば、教員が事前に実踏に出かけ、保護者にはうるさいぐらい「水筒やプラスアルファの飲み物を持たせてください」としおりなどで注意を促す。それでも行った先で気分を悪くする子や怪我をする子は絶対に出るのだ。それが小学生という生き物なのだよ。
それが真夏の炎天下で水分も食べ物も持たせずに同じことをやったらどうなることやら。「どんな不人気競技でも満席にしよう」と無理な目標を掲げ、「そうだ、都内の小・中学生を動員すればいい」と決めた大会組織委員会の連中は、子ども達に何か起こったら責任を取れるのか。どうせ事故があったときの矛先は学校と教育委員会に向かうぞ。
一時期Twitterで同様の噂が流れ、都の担当者が「そんなことはない」と否定したようだが、やっぱり本当じゃないか。結局組織委員会やIOCの偉い人のメンツをつぶさないことと、電通やスポンサー企業の利益しか考えてないんだろう。オリンピック何様だよ。これで犠牲者が出たら大会組織委員会の担当者も切腹しろよ。別に首つりでも都庁から飛び降りても手段は自由だけどな。