はてなキーワード: 大成とは
人生において、その年齢でできることって決まってるわけで、
自己啓発だと、遅すぎることなんてない、何歳からでもなりたい自分になれる、
みたいなことをYouTubeの某元お笑い芸人みたいな詐欺師めいたことを言うのだろうけど、
当たり前の話だけど、そんなの無理なわけで、
70まで生涯現役で仕事してきて、まだまだ健康で肉体年齢が20代だったとしても、
俺、本当はサッカー選手になりたかったんだ、なんて無理なわけで、
結局そこで、肉体年齢だの能力だのはこの社会で大した問題でなくて、
そんなことより最年少で竜王になるとか、そういう物語性とかの方が重視されるわけで、
少なくとも、昔は10代で新人賞ぐらいは取ってないと駄目なわけで、
要は、俺はまだ本気出してないだけ、が本当だったとしても、
じゃあ、10代で本気出してくれないとデビューできないよ、という話で
逆に趣味で漫画をTwitterなりネットに放流する方が注目されちゃったりして、
最近は漫画家は兼業でやるべき、という考え方がプロでも定着しつつあるというか、
昔は必ず出版社を通さなければ世に出すことができなかったからで、
彼等の考えであって、それがネットなりで覆されてしまったわけで、
でも、老人になってから漫画で食ってくなんて寧ろ考えられなくなった
やっぱり体力が続かない
液タブで作画するようになっても、結局作業量が同じどころか増えてしまって、
個人的には、タブレットが紙より滑るのとかが良くない気がするのだけど、
まあ、眼も悪くなるし、少なくとも緻密な絵を描くのは続かない
水木しげるみたいに、背景は誰か若い学生とかに描いてもらってそれを貼り、
そこにサラッと少ない線のキャラを描くとかしないとやってられない
でも、線が少ないということは、それだけ表現は制限されることになる
少なくとも、絵がスゴい、というインパクトでは攻められなくなる
結局、若いときとか、その年齢に適したときに適したことをしないと、
後々になって、それをやれる能力があったとしても、無駄になってしまったりするわけで、
やれるときにやっとけ、
やれないときになったらもうやるな、
というのが正しいんだろうなぁと思ったり
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20211119084159
数々の反応頂けてありがとうございます
掻い摘んでレスするよ
表現の話ではなくて老若男女向けのプロモーションで「女子高生をそういう風に扱う社会」でいいのかって話じゃん 建前だけでも「高校生は性的対象として扱いません」という体は保たれててほしいよ
あれが老若男女向けのプロモーションとは思えないけど、唯一、法に触れてしまう部分は私も引っかかったので、そこの指摘は良かったと思うし、公式も速攻で修正したね
ただそう思いつつも、表現の話として避けて通れないのも事実だと思った
フィクションのキャラ設定にそれは犯罪だろと突っ込んで修正させたのだから
フィクション中で起きるのが殺人なら「それはダメ」って共通認識があるけど、セクハラや性犯罪は「別に問題じゃない、むしろ喜ぶ人もいる」と認識する人がまだ多く、その幻想(心理学用語で投影)を強化してしまうんよ
って言う統計なり、裏付けるデータがちゃんとした形で欲しいし、そのセクハラや性犯罪について「問題じゃない」とか思ってしまう人はそれが創作の影響なのかどうか、そう言うのも欲しいね。
あとその言い分だと認識する人が減ってきたら描写しても良い感じなの?その判断は誰が
私は萌えとされる絵や、性的描写とされた絵が万人に明確な形で実際の犯罪へ影響力があり害悪だと示されるなら法で規制したら良いと思ってる
タバコなんかはわかりやすかったね。ただ嫌とかじゃなく、人体への影響として発癌性がある、しかも副流煙により他者への害をも及ぼす。そりゃ規制されるよってね
色んなコメント読んでて、それこそ萌えが好きだから擁護するとかそう言う話じゃなく、同じ部分でもやもやしてる人は多いんだなと思った
そして、そこへの明確な回答が出てこないなとも。あったらすっきりしてるからね
私はただ表現規制と言う視点で今回の批判に詰めの甘さを感じて、その穴を埋めたいだけなんだよ
ちなみに性犯罪の刑罰は被害に対して軽すぎると思うし、性犯罪者は去勢したら良いと思ってるくらいです
全国の温泉客がキャラを目にする以上「公式サイトに見に行かないといけない」点で公共性を免れるというのはちょっと無理あると思う。というかこの件はほぼすべて文脈の問題では
以前萌え絵が燃えた時は街中のふと目につくような場所にあるのは相応しくないとか言う主張があったよね。それを気にした程度のものです
わざわざネットに行かないと見れないプロフィールに公共性はあるのかと言う疑問だったけど、これもやっぱり意見割れるね
知らなかったと言う意見も少なくなかったし、5年目にして火の目を見てるのはその証左とも言えるかも
私は街中で目についたものについて気になったら検索する事もあるけど、そこまでPRからネットに飛ぶことはない
少なくとも街中のその辺にポスターと一緒に文面が貼られててふと目に入ってしまうよりは公共性は格段に落ちると思う
またPRなのにわざわざ未成年者表記で問題のある文章を載せてたのは問題と言うのは上に書いた通りごもっともと承知してます
既存作品とのコラボはその作品の性格含めてコラボが適当か判断するのが責任、PR目的でキャラ作るならその世界観やキャラ設定だってPRする側の責任でしょ。そしてPR対象はフィクションではないわけで。
温泉むすめは間違いなく萌えなフィクション作品が好きな層へ向けたものだと思うよ
そして同時に、家族向けは家族向け、女性向けは女性向け、カップル向けはカップル向け、それぞれPRに打って出てると思うよ
温泉むすめが老若男女対象の唯一のPRならそりゃ違うだろうけど、そんなアホな事はしてないと信じたい
物語において悪徳を与えられたキャラクターには作劇上に「報い」が設定されることが普通でそれを以てして作者は表現の公正を担保するが、単発のキャラではそれが難しい。設定は書いて終わりじゃない。使わないと
確かに設定だけのキャラクターと、そこから成長する話では違うかもしれない
温泉むすめも物語が付けばそれはそれで流行って良いPR目指せるのかと思ったけど、多分深夜アニメらしい深夜アニメにしかならないな
すみません。色々と意見を目にしてレスしながら考えて、自分なりの落とし所が見つかりました
単にフィクションの表現としては、実際に犯罪を起こさなければどんなフィクションであれその存在自体は是としてる
もちろん然るべきゾーニングもあっての上で
でもPRとして公共の場に出すものは、公の下として公序良俗に従うと言うのが妥当な言葉かなと思った
思想や表現は多様すぎるから公序良俗のラインが曖昧でぶつかる事はあるかも知れないけど
今回フィクションのキャラ設定を外圧で変えた正当な理由としては腑に落ちた感じです
結局何じゃそりゃみたいな。基本に立ち返っただけみたいな、腑に落ちる言葉探しとなりましたが
"物語において悪徳を与えられたキャラクターには作劇上に「報い」が設定されることが普通でそれを以てして作者は表現の公正を担保する" よくわからん概念が。悪役が悪役のまま大成したら表現が不公正? 謎
創作では悪が悪のまま終えると言う話もありそれはOKだと思うけれど、PRと言う公的な場で仕事をするキャラクターにおいては公序良俗に従うのが道理と言う点を踏まえると、それに反する設定を付けられていたら、物語があればその点を克服しPRにも足る人物になり得るけど、物語がなければその余地がないから設定だけでは不適切になってしまう、と
あくまで自分の納得のいく道筋が立ったと言う話で腑に落ちました
表現に人権侵害を助長する要素がないか、犯罪容認になり得ないかという視点がオタクは壊滅的に欠落している。創作物の内容と現実は地続きだよ。
よくあるけど乱暴すぎる雑な主張だと思う
オタクコンテンツに限らず古今東西無数にあるものを上げてオタクと言う属性に文句つけるのはただの差別でしょう
だから、現実では犯せないことも創作で発散されてるかもしれないよね。その考慮は?
創作においても断固として異常な嗜好は許さないと言うのであればそれは新たな生きづらさや差別を生むよ
例えば自分の子供がそうした嗜好を持つ人間だったとしたら、そう言う嗜好だから仕方ないと子供の人生諦められるか?
そうしたことまで考えることが多様性、共生の世界だと思ってるよ
囲碁漫画読んで囲碁始めたり、サッカー漫画読んでサッカー選手になるのに、エロだけ現実に影響しないというのはなあ。大学生男子の半数が創作物のポルノから性知識得てる統計
問題とされる箇所で言うならば色んな犯罪描写がある中で性犯罪だけ敷居が低くて影響されるからダメと言う部分を比較しなきゃいけないんじゃないの?
公的な場においては公序良俗に従うと言うのは私としてはとてもフラットに納得できた線引きだ
これで納得するということは過去にAV出演した方がプロモーションに採用されるのはダメってことにも納得できるということにもなる気がするし連中は実際いちゃもんつけて来るぞ。普通に差別の理屈だよ
いちゃもんつけてくる人は付けてくるだろうけどそれはただの職業差別だし、そんな理屈に私は納得してないよ
おまんこしたいという考えには言葉も不要かもしれないが、プライベートと研究をごっちゃにしてるって相当だよな。
相対性理論の研究には言葉(及び数式)が必須だろうし、言葉がなかったらかりに1人の頭の中で理論が大成してもその理論をチームで共有して人工衛星などに応用したりすることはできなかっただろう。
全ては写経から始まるなんて言っちゃってるけどそれなら人類には無文字時代も言語自体無い時代もあったわけで、その過渡期では写経(復唱)自体が不可能だったはずだけど、ここらへんのことはどう説明するわけ?そもそも誰もが写経してもいわゆる守破離の破や離に至るわけじゃないはずで、この文脈での人によっては知能とか賢さとも呼ばれ得るものは、そのことを逆に考えることで先天的な才能(優位性)の一つとして想定されるものに過ぎないのだけれど、それと「知能は多面的で一面からジャッジできない」ってことは関係ないよね。俺は文章を作ることに対する先天的な優位性(写経による伸び代、と言い替えてもいい)を持ってる奴が賢いと言いたいわけじゃないよ。ただそういう優位性というものが人々の間に有って、俺にはそういう優位性はないと思うから努力することを放棄したいというだけ。
多かれ少なかれそういう優位性を持つ人が文学の歯車を回してきたんだと思うよ。誰にもそういうのがなくただ写経などを行っているだけだったら、どんなに時代が進んでも延々と同じような文章が作られ続けていただけだったろうね。
むしろ知的コンプレックスなのは同じツリーに数か月単位で居座って妙にレイアウト凝らせて長文書き散らしてるお前だよ。
どうにも知性を相対化することで自分は人より劣ってないと思わせたい節があるようにみえる。まあちょっと真似してみるか。
twe********さん
2019/6/27 23:47
迷路の最短経路の形態をとれる粘菌に知性はあると言えそうですが、「心」もあると言えるでしょうか?
ゆえない
モジホコリという菌の一種は判断力や記憶力、学習能力も有しているようですが、「クオリア」もあると思いますか?
ない
単細胞生物にも知性があるということは、知性が必ずしも脳に依存したものでは無いと言えそうです。
ゆえない
だとしたら進化は必ずしも結果というだけではなく目的因もあることになりませんか?
なるわけない(・o・)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14209757759
あかんで。
そもそもそのセリフは劇中の三十年前のエピソードやし山岡は精子にもなってへん。
主人公の里井がトンカツ大王の店主にケンカ沙汰から助けられタダでトンカツ定食を食わせてもらって諭されたくだりが
「~それが、人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ」
って言葉に繋がるんやが里井はこの恩義を礎に渡米して全米に支店を展開するスーパーマーケットチェーンのオーナーとして大成するんや。
ほんで30年ぶりに帰国したらトンカツ大王の店主は地上げ屋に騙されて店を取り上げられ路頭に迷っとった
思い出のトンカツが食いたかった里井は恩返しとして以前よりも立派な店を店主にプレゼントした
店主は渋ったが里井はタダが嫌なら儲けから少しずつでも返してくれればええんやで、と店主を説得して大団円になるんや
やまなみ工房という障碍者福祉施設があってそこに通う人がリハビリがてらに描いた文字を羅列しただけの絵に100万だかの値がついてる。
割と時間をかけた力作もあるがそれでも300万とか400万とかいう値がつくのは行き過ぎではないか。
他にもNFTだかいう技術の波に乗って小学生がWindowsのペイントで描いたようなクオリティの絵が万単位で売れていく。
その小学生は数か月で300云十万稼いでいる。どうにも海外の有名人の目に留まりSNSのアイコンに作品の一つが使われたことによって価値が爆上がりしたらしい。
俺はなんでも鑑定団をよく見るがあの番組では芸術に文字通り生涯を捧げた人達が紹介される。
画材などに財を全てなげうって、食べるものも切り詰める清貧の生活の中で芸術家として大成していく様が伝えられる。
そんな人が描いた絵なのに、たとえ本物でも「150万円」という鑑定額だったりする。
前はそれを安いとか思ったことはなかったが今の風潮に照らし合わせると過小評価な気がする。
あるいは逆か。障害者の描いた絵が数多の芸術家達の歴史を踏まえず評価されすぎているきらいがあるように思える。
なんで芸術家と比べてしまえば本気度が低いに決まってる人たちが悠々自適に描いた絵に悠々と大金をかっさらっていくのか。これでは芸術家が報われないのではないか。
別に「障害者が作り出すものは劣っている」とか言いたいわけじゃない。障害者どころか健常者の平均的な画家と比べても、なんでも鑑定団で特集される芸術家の芸術に捧げる熱量は、比較にもならないだろうが。
まあ作品が一品物だからということもあるわけで、たまたま金持ちがその障害者の絵を気に入ってそういう金額が買い取ったというだけの話かもしれない。
つまりそういう金額は一個人にとっての価値であるだけで、客観的な価値を反映したものではないのかもしれないというわけだ。
「客観的」という言葉を途端に胡散臭く感じるだろう?「『客観的な価値』ってなんだよ」と言いたくなるだろう?
脱線するがアレイスタークロウリーなる魔術師を自称した実在の人物は法の書という出版物のなかで「真の意志」という概念について説いている。
「真」という言葉も、客観性と同じようなうさん臭さを持っていると思う。
たとえば惰性で好き勝手に振る舞うことを真の意志とは異なるというようなことが書かれている。でも見方によっては、好き勝手に振る舞うとは何かしら律するものの影響下にないということで、そこで発現されている行動はありのままの意志の反映なのではないのか。
ありのままを「真」という言葉で言い替えれるとするなら結局それはそのまま真の意志という概念に対する反論になる。
それを退けるためにはこのような「ありのまま」が真というものに対する言い替えとはならないわけとともに、では真という言葉は具体的にどのような性状を指しているのかを説明する必要がある。
真とか客観とかいう言葉を使う人たちは往々にしてそこらへんを「当たり前のもの」として、分かっているものとして論を進めてしまうから胡散臭いのだと思う。
とはいえ、こうも当たり前のように客観とかいう言葉が飛び交っていると、その中身は素人にはブラックボックスながらも客観というもの自体は幻想ではなく確かに存在すると思うことこそが妥当で健全な生き方なのかなとも思えてきてしまう(こういやって長いものに巻かれる感じで客観や真などのような概念の存在を信じることにしたのは俺だけだろうか?)
俺は気象学が好きでその勉強をしているなかで「予報精度はモデル計算の不確実性に依存する」という文言が出てきたのだが、まあ不確実性って言葉もまた客観とか真という言葉と同等なあいまいさ、抽象性を帯びているったらない。
そりゃ人間が作ったモデルは現実の物理法則に完全に依拠したものではないだろうことはわかるが、不確実性って単語一つで言いくるめられてもしっくりこないわけよ。それでもまあ「モデル計算の不確実性」が在るものとして、そらんじれるぐらいに自分にとって真実になるように努力するわけ。科学的な文脈で語られていることまでいちいち無いものとして疑ってかかるよりも、とりあえず丸呑みにする方が妥当な態度な気がするから。学術的な文脈でも「客観」という言葉をよく見るから、とりあえず客観というものは存在するものとして妥協しておくというのと同じ。
話を戻すが、たとえば俺がモナリザとかひまわりを価値ないといったところで、それらの絵画の価値には微塵も傷がつかないだろう。
そう言うときの価値が客観的な価値だ。逆に言えば、一人の人間がいくら熱狂的に特定の絵を愛して大枚を叩いたところで、ただちにその絵の客観的な価値がそれに相当する客観的価値をもつものとして裏付けられるわけではない。個人の好き嫌いと客観的価値はいうまでもなく独立したものであるはずである。
ダヴィンチとかピカソみたいな大芸術家、あるいはバンクシーも含めてああいう人たちに作品の絵の価値は客観的価値を反映しているといえる。
それは同じ絵が(何度も)オークションにかけられるという過程を経てその経済的価値が民主主義的に固まっていっているからだ。これを実勢価格ともいう。
一方で障害者の絵に対するにわか景気はある個人にとっての価値の反映でしかない。それを指標としても客観的価値は見えてこない。
だからまあ結局、このような状況は五体不満足な障害者にせめて富がもたらされる機会が作り出されているだけであって、芸術家より評価されているというわけではないから、まあ誰も(故人も含めて)実体的そして精神的な被害者はいないからこのままでいいかなと思う。
・シャワー浴びて、身支度して(髪の毛までセットできた)、アクセサリーつけられた(いつぶり)
・ゴミ捨てできたワーイ
・出社できた
・やなこともたくさんあるけど、気持ちの切り替えが少しは出来るようになったかも
・お昼ご飯外ランチできた、一人で外ランチしたの久しぶりかも。なんかちゃんと仕事してないくせに外で食べるなんて、、、みたいになっていたので(謎ロジックなのはわかるんだけど)よかった
・あとは帰って洗濯物畳んでシャワー浴びて寝たらもう花丸の日にする💮
ーーーーー
久しぶりの出社、落ち込むこともまあたくさんあるんだけど。くよくよするんじゃなくて起きたことは仕方ないしここからリカバリしようって思えるようになりたいと思えただけ大成長な気が。一歩一歩、少しづつ改善していこ。
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あと昨日のブコメで「書いてくれてありがとう」と言ってくださった人、ありがとう。こんな自分向けのメモを読んでくれただけでも嬉しいのに、そんなコメントもらえるなんて思ってなくて、すごく嬉しかったです。
あと「もし明日できなくてもくよくよせずにね!」と言ってくださった方もありがとう。つい、連続記録みたいなものを求めてしまうので、ハッとさせられました。
それも「ネガティブな空想が突然自らの意思と関係なく発生する」という症状だ。
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と言っても友達もそれなりにいたし遊んでもいたけど、中学に進学してから引きこもりになったりしてぼっち化が進んだ。
それで1人でいる事が多くなってやたら空想する様になった。
内容は
①もしもこんなサッカー選手がいたら日本代表強くなるよなあという空想をする
まあ、ここまでは割とありふれた内容なんだよ。それも高校から大学に行き、ぼっちからも卒業する事で程々にするぐらいで収まったんだけども、このコロナ禍で空想する事が増えたんだよ。
問題はその中身なんだが
①今までと違い俺自身が登場する様になった
特に③がキツい。
実は③は俺自身がとあるバンドのファンでそのバンドが炎上した時、俺はそのバンドの行動を肯定してたんだよ。
あの時は周りから間接的に色々言われて最終的には謝罪したんだけど、どうも空想の中での俺はバンドマンとして大成したけどその事で大炎上した…というイメージが延々と頭の中に残り続けてるんだよな。
ぶっちゃけ空想癖だろ?何言ってんだよ?と思う人といると思うし、俺自身も有り得ないと思うんだけど、そのイメージが無意識のうちに突然「バンッ!」で頭の中に入り込んでくるようになったんだ。
最初のうちは「いや、これ実際にはないから。俺はただの一般人だからな。冗談も休み休み言えよ」と思ってたんだけど、通勤中や仕事中、昼休み、休みの日に外出する時も同じように突然「バンッ」って思い浮かぶ様になってしまったんだ。
例えるなら、道を歩いていると突然「全く知らない場所で知らない奴から因縁をつけられて殴られる場面」が何故か頭の中でイメージとして勝手に挿入される感じだ。上手く伝えられなくて申し訳ないが大体こんな感じだ。
そんな感じだから凄く辛いしイライラするし、何より「現実には有り得ない」から余計にしんどいんだ。
気を紛らわそうとしてゲームをしたりTVやYouTubeを見たり、休みの日に遊びに行ったり仕事もなるべく他の事を考えないようにしてるけども、それでも突然そのイメージが挿入されるんだ。
当然今までやってた事に集中出来なくて収まるのを待つしかないのが現状だ。
最初は直に収まると思ってたけど、かれこれ半年以上悩まされているんだ。
何とか仕事は出来ているけども、気を張り続けてるせいか仕事が終わるとその反動でイメージが延々と頭の中に残る様になって凄く疲労感が溜まる。
だから家に帰って1人でいると逆にしんどい。流石にここまでくると何か精神的な病気なんだと思うんだけど、症例とか見ても一致するものがないんだ。
ここで聞くなよ。と思うかもしれないが誰か思い当たる病気を教えてくれないか?このままだと気が狂いそうだ。もしかしたらもう狂ってるのかもしれないけども。