はてなキーワード: 命題とは
これらはどこかで見聞きするようなもので個人の意見ではもはやないレベル。ようは他人の尻馬に乗ってるだけなんじゃない?大した根拠もないし第三者だから責任も取る必要ないし、どんなに詰めても深い話は出てこない。
仮に似た意見の人がいたとして、何が問題かわからない。ってか多くの人が「信用できない」「継続できないだろう」って感じてるPRって終わってるね。
あなたレベルの人が、もし他の人とは全く違う独自の意見を持ったとしたら、まずは自分の勘違いや情報不足を疑った方がいいと思うよ。
なんで「自分なりに」考えなきゃいけないのか意味不明。ってか今更キャラ設定レベルの改善案があろうとなかろうと「プロジェクトに継続価値がなさそうだね」って話と無関係。
もし昔からこのプロジェクトを知っていていまさら意見をしているとしたら、もっと見識高いことをいえるよね?それこそ「プロジェクトは継続できないだろう」みたいなふわっとしたものではなく、どこかで発生したであろう選択肢を提示できるはずだ。そういうのがないから薄っぺらで空中戦しかしないって言われるんじゃない?
この炎上でプロジェクトを知ったけど、それに意味があるとは思わない。「プロジェクトは継続できないだろう」ってとても明確な命題だと思うんだけど、なにが「ふわっと」してるのかわからない。まともな運営組織なら選択肢に溢れてるだろうけど、この不審な組織ではできることがかなり限られるだろうね。
具体的に改善案を考えるなら、まずは協賛がどれくらい減って、それによってどの程度活動規模を縮小する必要があるのか、を明らかにする必要があるだろうね。でもこの運営企業はそんなのやらないでしょ。協賛企業を非表示にしたことすらまだコメントしてないくらいだからね。
anond:20211104134014 に予想外に反応をいただいたので返しておきます。
「Aという主張をしている人は、Bという主張もする」は、Bと主張をしている文書への指摘じゃなければ、「書かれていないことを読み取っている」だよ。
この記述を読むと、筆者氏は「はてブコメントには、文書への指摘か、コメント者が文書から読み取ったことだけが書かれている」という前提をお持ちのように見えますね。ですが、少なくとも私はそのような使い方をしておりません。私にとっては、はてブコメントは、記事を読んで思ったことや連想したことを好きにメモしておく欄です。間違っても、元記事の読解テストの解答欄ではありません。元記事にないことをコメントしているというご指摘であれば全くその通りですが、読み取った結果書いたものかと問われればそれは明確に違います。そして、元記事にないことをコメントしているという点については、「私は、はてブコメントに、元記事が直接言及していないことを自分の思考の結果として書くことがよくあります」というだけです。Twitterに例えるなら、リプライというよりは引用RTとしての使い方をしている、というと分かりやすいでしょうか。
それはそれとして、追記部分以外の元記事の論旨には基本的に賛成なのですよ、文章を最初に読む際に持つべきマインドセットとしては。その点はお間違いなきよう。
正直済まんかった。ここで「書いていないことを読み取る」ないし「書かれていることを読み取れない」事案が発生したら面白いかも知れない、と仄かに思ったことそれ自体は否定しきれないので、その点について「性格が悪い」とするご指摘は甘受します。
一応言い訳させてもらうと、断定調は当然として「しばしば」すら避けて「時がある」としたことで、全称命題と解釈されたくないという意図は強く明示できただろう、という認識でおりました。特にわかりにくく書いた意図はありません。
一応固定されてるのは党派性よりは価値観でありたいと思っていて、価値観としては、自由・平等・博愛・公正辺りを大事にしているつもりです。
経済学理論だとクルーグマンは読んでいるが資本論はきちんと読んでおらず、容共ではあるものの共産主義というより改良主義的立ち位置なので、これを左翼と呼んでしまうとガチな人とか本職の人に怒られそうです。特にフランス大革命関連人物の最推しがラファイエットだったりするあたり。
ロックよりルソーの方が好きだったりとかで保守というよりリベラルなのは間違いないし、再分配は今より強めるべきとも思っているので、左派に類するのは間違いないと思うのですけれども。
はてな界隈では珍しいであろう船員という職業へ就いている35歳男性である私は小選挙区は自民、比例区は維新へ票を投じた。
我が海運業界ははてな界隈の一部の者たちが知るように、第二次世界大戦終結後の復興・高度経済成長期に時の政権による暴虐非道な対応によって自民党へ対し相当な恨みつらみを持つ業界である。
即ち、私たち海運業界は両手を挙げて自民党を支持することはなく、毎度毎度警戒心をもって自民党のやることなすことを見ているというのが海運業界の慣例的な姿勢である。
「また裏切られるのではないか?」という疑念は早々に晴れるものではない。
ただ、勘違いしてならないのは私たち船員は海事学生であった頃から本邦の物流を支える基礎土台であることを骨の髄にまで叩き込まれることが常であり、このような指導姿勢はもはや宗教と言っても良いレベルで「我々海運業界こそが島国日本の経済を支え、その滅私奉公は誇り高いものである」と船員ならば誰しもが心のどこかでこのような思想を信仰している傾向があると言える。
つまり我々はどこまでいっても「お国のため」「国民のため」「未来のため」と思って仕事をしているのだ。だからこそ今回議席数を減らしてしまった野党へ言おう、
本邦は島国であることは幼稚園保育園児でも知っている常識的な立地条件であり、経済が立ち行かなくなりモノを失った島国が行き着く先は他国から奪うしか無いのだぞ。
これを極論だと言うのは愛を知らぬ者か、愛を受けるだけしかしてこなかった者だろう。
愛する者が居る者たちに問う。愛する家族が子が友人が仲間が食えなくなったとき赤の他人のことなんぞ関係あるか?自分が食えなかったとしても愛する者へ食うものを与えるだろう?食うものが無ければ奪うだろう?自分が悪役に、人殺しになりさえすれば愛する者が食えると言うなら選択肢は1つだろう?
これに納得できない者たちは知っているか?我が海運業界は「憲法改正に反対していない」ことを。我が海運業界は「憲法改悪に反対している」ことを。
何故かわかるか?日本はいわゆる地政学上の概念でシーパワー論を重視する傾向にあり(島国だから必然的にそうなる)、日本が無謀なことにアメリカへ戦争を吹っ掛けたのはアメリカが日本の海運シーレーンを掌握しようとしたからだ。
日本のモノが無くなる危機へ対して起こったのが太平洋戦争であり、そもそも第一次世界大戦でロシアが物流の橋頭堡を作ろうとしたのがロシア南下政策なのだよ。
更に言えば日本の戦国時代が興った有力な説を知っているか?冷害による飢饉だぞ?食うものが無いから他国から奪えと内戦をやったんだよ。
何故、海運業界が憲法改正に反対せず改悪に反対するか、それはシーレーンを守るための保険をとっているからに他ならないんだ。
SDGsによって国内産業が致命的な状況へ陥るかも知れない、経済が冗談抜きで崩壊するかも知れない、島国日本がモノを失うかも知れないというときに野党キサマらは何をやっているんだ?戦争をそんなにしたいのか?島国日本で海上自衛隊員の数が足りなくなった際に誰へ、何処の業界へまず赤紙が届くかキサマら理解してないのか?
妻と子が居る船員の私に赤紙が届くようになった情勢下では私の選択肢は1つしか無いんだよ!悪役に!人殺しになるという選択肢しか無いんだよ!
目下重要なのは、EUの排ガス規制への対策。
EUの排ガス規制は製造段階から既定値以上のCO2が発生が確認されると著しく輸入を制限するというものであり、化石燃料を用いる自動車などの工業製品へクリティカルに影響してくる部分だ(CAFE規制)。
忘れちゃならないのは、EUはAppleやGoogleなどへも厳しい姿勢を取ることが有名であり、現在のCO2規制ではハードウェアのみを対象としているものの、これがソフトウェアへ規制拡大しないという保証が何処にもないことだ。
大規模なサーバー網を抱えるWebサービスの消費電力へ対しCO2規制が入った場合にどうなるかははてな界隈の者たちのほうが詳しいのではないか?
ある日いきなり「アナタのところのWebサービスはEU規制により増税・罰金対象です」と通達される日が来ないとでも本気で思うのか?
当然その対策にAWSやGoogle Cloud、Microsoft Azure、Akamai、CloudFlareなどは価格を上げるだろう。
リモートワーカーにも他人事ではなくなってくるかもな。
EUは規制によって自国産業保護をすることへ間違いなく旨味を覚えいる状況で、よく調べもせず何でもかんでも新自由主義などとレッテルを貼って無自覚にEUの自国産業保護政策を後押しする者たちの体たらくには開いた口が塞がらないし、それ以前に今回の選挙で間違いなく重要であった経済分野を主軸と捉えられず、桜を見る会やモリカケ、夫婦別姓や同性婚が最重要のような言動をしていた者たちへは「本当に労働者か?!」と疑いの目すら持ちたくなってしまう。
冗談抜きで仕事無くなる可能性のある動きが世界で行われている状況で、公文書偽造問題を精査することが第一声という党に民意が見えていると本当に思うのか?
「私たちの仕事を守る気は無いのか?!」と「コイツら何にもわかっちゃ居ねぇ!」と目を見開いてしまった多くの国民は愚かなのか?
このような状況で18歳以降の若者が自民を支持するのは当たり前だろうが!
就職氷河期世代に聞きたい、18歳・21歳の子たちは自分の就職と未来が掛かっているのに経済の話を第一声にしなかった党へ入れると思うか?自民へ恨みつらみを持つ就職氷河期世代だからこそ理解できるはずだ。
アナタたちがご丁寧にも就職氷河期の話を一杯してくれたお陰で若者は経済に無頓着な政党を支持しないという選択を取ったんだよ。アナタたちのようになりたくないから!
自民の議席数が思ったよりも減らない?むしろ維新が増えたお陰で悪化した?そりゃ維新も増えるだろうよ!
明確に経済のことを第一声として打ち出してくるこの2党へ託すしか無いんだからな・・・。
もう一度言おう、我が海運業界の命題は日本国経済を支えることにある。
野党は目を覚まして欲しい、民意へよく耳を傾けて欲しい、そして今回野党へ投じた者はその働きかけを私と共にして欲しい。
自然に溢れ、街並みが綺麗で、歴史もあって、飯は美味い、私はそんな祖国日本が大好きで、そこへ暮らす同胞を不幸にしたくはないのだ。
自民党一党独裁のような状況はよろしくないが、今の野党に日本は任せられない。
だからこそ野党を育てよう、野党が惨敗した理由を説明し、野党にこうして欲しかったと語り合い、野党へ声を届けよう。
次は自民に勝とう。
「性的」は辞書の定義としては”性または性欲に関するさま”らしい(コトバンクで調べた『精選版 日本国語大辞典』)。文脈考えず定義の話だけするなら、性的という言葉の定義には特にポルノや18禁を除くというものはないので、性的であるという言葉の対象にポルノが含まれていても定義としてはおかしくないと思ったけど。
宇崎ちゃんみたいな議論で対象になっていた範囲が「いわゆるポルノや18禁ではない表現だが過度にセクシーな印象を受ける問題のある表現」だったから、必然的にそこで出て来る”性的”という言葉が指す範囲も文脈としてポルノのような直接的な、”性または性欲に関するさま”のど真ん中を行くようなものでなく、性的なものと性的でないものの境目の表現が対象になっていたんじゃないかと。
例のVtuberが性的であるとして非難されるような表現だったかという問題とは別問題のこととして、「性的であることに何の問題があるのか?」という言葉・命題に対して、じゃあ「昼間にテレビでAVを流しても問題ない」のか?(いや、問題はあるだろう→性的なものはいつどんな場所に存在しても問題ない、訳ではないんだという公共における表現の問題提起)みたいな話は意見の内容は是非があるとしても、論理的におかしいとか言葉の定義における違和感を自分は抱かなかった。
あのね、論理ってのは現実にあてはめなくても成り立つからこそ論理なの
A君のりんご100個とB君のりんご100個を合わせたらいくつか?は頭の中だけで答を出せるんだから「A君が本当にりんごを100個持ってるかどうかはどうやって確かめるんですか?」とか考えなくていいの
で、自己言及っていう言葉だけで通じないのは単に君に学がないだけなんだけど、もうちょっと説明すると
「クレタ人が『すべてのクレタ人は嘘つきである』と主張したら、その「嘘つきである」という主張を言った人も嘘つきであることになっちゃってわけわからなくなる」
「でもクレタ人じゃない人が『すべてのクレタ人は嘘つきである』と主張するぶんには他人事なので矛盾しない」
っていうのが自己言及の例
(念のためだが論理の話なので、現実のクレタ人がどうであるかは全く関係ない。日本人でも火星人でもなんでもかまわない)
元増田が言ってることを要約すれば「(すべての)A(男)はxである。なお私はxではない」になるけれど
このとき元増田が非A(女)であるならば、元増田は非Aについては何も語っていないので、論理的には矛盾はない
(念のためだが元増田が本当に女かどうかはどうでもいいし、本当にすべての男がxかどうかも今は気にする必要はない。単に仮説として問題ないという話)
ところが元増田がA(男)だとすると、そのまま適用したら「Aはxである」という命題がいきなり誤りになってしまうから
それを解消するために「なお私はAでありながら非xという例外である」という主張を付け加えなきゃいけなくなって、すると「では例外とは何なのか」という未決定事項が生まれてしまって、もはや単体では命題として成立しなくなってしまうわけ
「例外とは私ただ一人である」くらいにはっきり言うつもりならとりあえず論理的には成立するけど、まさか本気でそんなこと言うつもりもないだろうしね
で、「わかったわかった、要するに君が本当に言いたかったことは『すべての男は』じゃなくて『多くの男は』なんだよね」
「でも多いか少ないかは論理じゃなくて感覚の話になるね。1000人に1人を多いと感じる人もいるし、過半数じゃないと多いとは言えないと感じる人もいるし」
「でも100億人に1人だったら最大で地球に1人しかいないわけだから、さすがにそれは全然多くないよね。つまりソースによっても変わってくるね」
って話になって、ここではじめて論理を離れて現実の話に降りてくるわけ
でもこんな遠回りをしなきゃいけない時点で「そもそも元の疑問の立て方がまずかったよね」ってことになるわけ
わかったかな
肌感覚で当たり前だと思っていたけど、改めて考えると理由がよく分からない。
ある商品がそこにしか置いてないから、安いスーパーマーケットに行く。
そこにはほぼ毎回と言っていい頻度で育ちが悪そうな子供がいる。行動で言えば冷凍食品を握って戻す、肉を叩きつける。見た目で言うと襟足が長かったり、完全にコントロールされていないだろってレベルで太った子供が走り回っている。
さすがに紀ノ国屋とまでは言わなくても、イトーヨーカドーレベルの価格帯ではほとんど見ないんだよなー。
収入が高いほど教育レベルが高くなるのは分かる。だけど躾くらいは収入に関係なくできるんじゃないか?低収入は全員ケーキの切れない親なわけでもなかろうに。
もちろん収入が高ければ全て育ちが良いわけではないし、低収入だろうが育ちが良い人は沢山いるから必要十分条件は成り立たないのは理解しているが、
恋愛に責任は存在するか、と問いを立てると、何故か男性中心の話題になる。
恋愛(異性間恋愛)において責任があるのは主に男性の側であるとされる。女性が恋愛に対して責任を持って行動することは、現代社会においてさほど求められていない。そもそも、女性の恋愛における責任が一体何なのか、イメージすることさえ難しい。強いて言うと、浮気をしないことと、子供がいるならその養育に力を注ぐことだろうか。とは言え育児は恋愛とは別のタームに属しているので、こと恋愛においては関係ないかもしれない。となると、女性の恋愛における責任とは「浮気をしない」という一点に絞られる気がする。とは言え、「浮気をしないこと」が「恋愛において責任を持って行動すること」であるという命題は、幾分無骨な造りをしている。何だか違和感のある命題だ。
ともかく、女性の恋愛における責任が「浮気をしない」という一点に絞られるとするならば、男性の恋愛における責任は多岐に渡っている。
第一に、女性を傷つけないことである。女性は強い生き物で、男性と比べて自殺率も極めて低い。社会においてある部分では男性よりも奔放に活躍しているし、今後様々な分野で活躍するだけのアドバンテージとポテンシャルを備えた存在である。とは言え、男性は女性を傷つけてはならない。これは当たり前のことである。女性は強い存在だが、女性を傷つける男性は恋愛に関して責任のある存在とは見做されない。精神的に傷つけることは当然として、女性を肉体的に、物理的に傷つけることは決してあってはならない。
家事労働を行わない男性は、恋愛において責任のある存在とは見做されない。休日は当然として、平日においても家事労働をする必要がある。恋人と一緒に生活する上では、家事は男女双方における共通の課題であり、男性が避けて通り得るものではない。
女性は強い存在なので、多くの場合経済的に自立している。とは言え、男性はそのような女性らを金銭的に不自由な状態においてはならない。このような瑕疵を冒す男性は恋愛に関して責任のある存在とは見做されず、女性に対する経済的DVの咎を負うことになる。
「君は何もしなくていいよ、家事も全て僕がやるし、全ての労働は僕がこなすよ。ゆくゆくは育児についても任せて欲しい。もし仮に君との子供が生まれるとして、出産という大役を果たした君に不自由な思いをさせたくはないからね」
無論、男性は極めて能力の限られた存在なので、これほどまでに理想的に振る舞うことは難しい。とは言え、このような言動を女性に対して取ってはならない。女性は決して無力ではないし、女性の能力は家庭における随所で発揮され得る。家事に関しても、労働に関しても、育児に関しても、重要な役割を持ち、その役割を果たすことができる。女性からその能力を発揮する機会を奪ってはいけない。このように女性を無力な存在と見做す男性は、恋愛に関して責任のある存在とは言えない。
男性は自身の能力を誇示してはならない。知的能力、運動能力、それらの能力を仮に有していたとして、それらをひけらかし、自尊心を満たそうとしてはならない。そして、その自尊心を満たす営みに、女性を巻き込んではならない。これらの行為は「マンスプレイニング」などとされ、現代においては男性特有の問題行動とされている。これらの行動を取る男性は、女性との恋愛関係において十全に責任を果たしているとは言えない。
男性は女性に比べて自殺率が二倍以上もあり、非常にか弱い存在である。女性に比べると男性は自死について考えることが多いと言える。とは言え、自殺する男性は恋愛において責任を果たしているとは言えない。男性は自殺をしてはならない。
女性は魅力的な存在なので、しばしば女性の魅力に惹かれて、男は浮気に走る。しかし、勿論浮気をする男は恋愛において責任を果たしているとは言えない。男性は浮気をしてはならない。
以上を見て「男性の負うべき責任の何と多いことか、男性であることは何という災厄か」などとのたまっている男性は、恋愛における責任を果たしえない。上記は多岐に渡っていながらも、女性とのコミュニケーションや恋愛関係におけるごく当たり前の事柄である。この程度のことで恋愛の責任の多さに打ちひしがれているようではいけない。そんなことでは、恋愛における責任は果たしえない。
女性に関しては特に責任を負う必要はない。強いて言えば、浮気をしないことが女性には求められるが、以上のような責任を果たし得ない男性がパートナーであれば、その限りではない。そのような場合、パートナーとの関係を打ち切り、より優れた別のパートナーとの関係へと移行するべきである。
社会を変えるって社会の構成員全員を説得することではないですよ。
またあなたの性別とあなたの思想にはなんの関わりもないですよ。
あなたが女性で差別されていないと思っていることは分かりましたが、
それと差別されている女性が存在すると思っている女性たち(フェミニスト)や男性たち(謎の人々)とは何の関係もないんですよ。
「差別されている女性が存在する」ことは「あなたが差別されている」ことを意味しません。
確かにフェミニスト側は戦略として女性全員を巻き込むようなことを言うことが多くて(左派の人って割とそういうところありますよね、啓蒙思想的というか)、それは個々人のことをあまり考えていない言い方で良くないなと感じます。
ただ、「全ての女性は差別されている」という命題には「差別されていない女性もいる」という反例を挙げられますが、それによって命題が「全ての女性が差別されていない」に変わるわけではないですよね?
そこを分かっていただきたいのです。
俺は裁判ってのは
・人に危害を加えうる猛獣に調教を施す期間や殺処分の可否を設定する
って機能を持った精度だと思ってる。
そして、このどれに当てはめても責任能力がないことが無罪になる理由がわからない。
起こしてしまった犯罪という行為に対して「狂ってたから仕方ないんです」では犯罪者予備軍たちに「狂ってるふりすればいいだけじゃん!!!」という動機づけをしてしまう。
犯罪予備軍度が低い人に対して「でも狂っちゃったら裁かれるならもう頑張って生きても結局裁かれるかも知れないしバレない程度に犯罪してこ」と感じさせる部分はあるかも知れない。
だがそれだって「もしも狂っても犯罪をしない内に病院に行ったり、犯罪をしないように普段から距離を置いていこう」と考えさせる効果もあるはずだ。
危険予知運転の基本として教習所で「速度を低めにする。かも知れない運転はしない」と誰もが教わっただろうが、それらを道交法以外の部分にも応用していく。
狂ってしまった瞬間の自分の瞬発力を予測し、日頃から犯罪との距離をとり、そして近づいていると感じたら早めに病院に行く。
キチガイ無罪の否定はそういったことへの動機づけになるはずだ。
有罪判決によって懲役や死刑を課する目的の本質は、犯罪者を無辜なる者達が暮らす社会から遠ざけることだ。
そして、戻ってきても再び犯罪をさせないように調教を施すことである。
調教に失敗した場合のリスクを考えると生かしておくこと自体が不適切と判断した場合はもはや殺処分しかない。
犯罪者に対する処置は保健所による害獣指定と大枠は変わらない。
実刑判決を受けた人間は人権の何割かを奪われ、そのへんのペットよりも悲惨な階級の生物となる。
さて、それでは気が狂っていたから責任能力がないとされた人間はこの調教を逃れる権利を与えられるべきなのだろうか?
与えられるべきではないだろう。
狂ってしまったからといって犯罪を犯しておきながらキチンと処罰を受けなければ、犯罪に対しての価値観が歪んでしまう。
さながら某アーチストが過去の障碍者イジメをイキりながら自慢したように、歪んだ価値観からは歪んだ行動が生まれるばかりなのだ。
歪み始めた価値観を矯正するためにも、治療と並行して刑務所での調教も施すのが本人のためではないだろうか?
もちろん、一時的な狂気によって外れたと思われるタガが殺人と行った禁忌にまで及ぶのならば殺処分も検討していくべきだ。
ここだけは少し悩ましい。
その需要とはなにかといえば、究極的に「悪いやつは裁かれる。正しいやつは裁かれない」というシンプルな勧善懲悪論の肯定だろう。
人類全体の教養レベルが向上したことで、現代人の道徳観は昔ほどは短絡的でなくなったにしろ、未だに基本的な部分はこのシンプルな理論に基づいている。
そして、裁判というシステムの需要はこれによって支えられている。
裁判においてキチガイ無罪が成立すべきか否かとは「キチガイ故に犯罪をしたものは悪いやつなのか?」という命題に置き換えられる。
悪いやつという曖昧な定義の中身に「実際に犯罪をしたら悪いやつ」「望まずに犯罪をしたのならギリ正しいやつ」といったものが含まれている。
これらの衝突によって生まれた歪の間でキチガイ無罪は宙に浮いている。
時代によって変わっていく価値観によって、最近の社会では多少人間として欠落していても許していくべきという方向で世界はまとまっている。
が、それでもなお「人に大きく危害を加えないなら」という注釈がつきがちだ。
そしてキチガイ無罪に対して考えるべき点は、「現代の精神医療を持ってすれば多くのキチガイが治るキチガイである」ということだ。
強い薬の服用によって元の人格が歪むリスクや様々なホルモンのバランスが崩れる可能性もあるが、それでも治せるキチガイの数は非常に多い。
そうなると現代の価値基準では「人に危害を加える前に病院に行く選択肢もあったのに、チンケなプライドや我が身可愛さにそれを忌避した時点で悪いやつ」となるのではないだろうか?
道徳観が進歩したからこそ多様なあり方が肯定されたが、同時に医学が進歩したことでキチガイで有り続けるという愚行権の行使が許されにくくもなってきている。
ロボトミー手術を受けろと行っているわけでもなく、単に1日3錠のカプセルを服用しろというだけのことを嫌がって、人に迷惑をかけることが、現代の道徳では許されるのだろうか?
許されないことのほうが多いだろう。
秋篠宮家の眞子さんの結婚関係記事は、何故あれほどに炎上するのだろう。一体、何が人々の心を燃え上がらせているのだろうか。私には分からない。自分のことでもないし、自分の家族の話でもないし、そもそも話したことも会ったこともない人のことで、時間を、そして感情を注ぎ込むことに疑念をもたないのだろうか。分かっているとは思うのだが、あれは「他人」だよ。これまでも、そしてこれからも、あなたの人生に何の関わりもない人なんだよ。当然のことながら、あなたには何の決定権も、批判する権利すらないんですよ、と言いたい。しかしそういう私も、恥ずかしながら俳優やアイドルの結婚記事を見て心がざわついたことはあるし、それと同じ話なんだとは思う。結局、自分と他者の境界線がきちんと引けてない証拠だ。
ただ、皇室関係の話題となると、なぜか自分の感情の暴走を正当化しようとして、「皇室には自分達の支払った税金が支払われているので、国民として意見を言う権利がある」などと臆面もなく主張する人が出てくる。・・・いるよね、金を払えばあらゆる権利が与えられると勘違いしている人。こういう人が、「俺は客だぞ」と店員を召使のように扱ったり、「お前らは税金で食わしてもらっている身分だろう」と、役所の窓口で吠えているのだろう。家庭で「誰の稼ぎで生活できているんだ」とマウンティングする人も同類か。ドコモキャリアなら、ドコモの社員が自分の言うことを聞いて当然と思っている?発想が根本的に間違っている。金銭の支払いは契約の履行に過ぎず、支払った対価と等価分しかサービスとして受け取れない。お客様は神様ではない。
まあ、税金については等価交換とは少し違うかもしれないが、「納税をした者は、皇族の結婚相手について意見をいう権利がある」という命題がおかしいことくらい分かるだろう。皇族について主張するなら制度についての話であるべきで、個人の生き様について見解を述べること自体が間違いだ。「一時金制度そのものがおかしい」と言っている人は、さーや(紀宮清子内親王)のときにも「一時金は高すぎる」と怒り狂っていたのか?結婚相手が黒田氏なら祝福するのに、小室氏なら駄目なのか?・・・もっとも、ヤフコメで暴走している人たちは、制度について議論をしたいわけではないのだろう。自分の気持ちを声高に主張することに目的があるので、議論が成立しない(議論は、互いに反論し合える内容であることが必要だ)。
感情をむき出しにして、嬉々としていじめをしている人は、おそろしい。しかも「自分は正しい主張をしている」と信じ込んでしまっている様子は、本当におそろしい。
(追記)この方のブログを見て、「有名とされている人の結婚・妊娠・出産・離婚・死去にはまず反応しないようにしています。」という人間は自分だけではないのだなと思い、少しほっとした。
皇室結婚絡みでの4年間のマスコミ報道・SNSを見る限り、皇室に婚姻の自由は不要と考える日本人は多いのだろう - 斗比主閲子の姑日記
つかぬことをきくけど
判別できる絵師が10や100じゃ効かなくなってくるとあの絵もこの絵も考えてみるとおなじパーツで判別してるということがありえそうだ。
たとえばある絵を眉毛が○○のようになってるので分かると単に部位を示すよりはもうちょっと具体的に言語化したとして、別の日にじゃあこの絵はどうやって判別してるのと訊かれて、無自覚に先日と同じ趣旨のことを根拠として言ってしまったとしてそのあたりを「言ってること変わんないじゃん」突っ込まれたら、なんで言語化しようとすると同じような言い方でしか根拠を言えないのに実際には別々の絵師として区別できるのだろうと、言語の次元とは異なる人間の判定能力に脳の神秘を感じてしまうことだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210929165009#
(ツリーも参照)
これも言語の次元と脳の判定能力に隔絶があるみたいな問題じゃなくて文体を学べばちゃんとそれぞれの根拠についてたとえ微妙だとしてもしっかり差異のコントラストを出せるように説明できるようなるものなの?二次元的なことを対象に文章という一次元に置き換えるようなことには原理的な限界と不可能性を帯びていそうなものだけども。
命題風に書けば「(類似するものがどんなに多数あっても)脳で区別をつけられるものであるならば、その根拠を言語によって(その多数全てについて)差異をもたせて説明できるものである」は成り立つか。逆に言えば言語で区別できるようなことを脳は区別しているにすぎないのか。言語で区別されないことも区別されるという神秘性が脳に認められるわけではないのかということ。