はてなキーワード: 命題とは
「及び」と「又は」で悩んだことはありませんか?
もちろん、高等学校で我々は数学の授業で集合を学びました。我々はそれを知っています。
「及び」とはand のことであり、P∩Qであり、共通部分です。「又は」とはorのことであり、P∪Q であり、和集合です。
我々はよくそれを知っています。なのに、現実の文章の前に立つと、途端に何が何やら分からなくなってしまいます。
(以降未記載
例文をあげて「及び」なのに「又は」の意味である場合を提示する
andの意味が本質的に「並べること」「新たに1つ追加すること」であることを述べ、かなり原始的な言葉であることを示す
{x|C}というのはCが真になるようなxを数え上げてるわけだ。
だから{x|xは自然数}というのもたとえばxに1を代入すれば「1は自然数」となって真偽値が真になるから1が、同じように2以降のすべての自然数が元として列挙されることになるというわけ。
こうした考え方においては{x|xは自然数}とか{x|x^2+3x+2=0}みたいな文は、{x|C}のCにおいてxが主語であるようなケースという、特殊な形に過ぎないことがわかるだろう。つまり応用が効くわけである。
さらにあの参考書には∃x∊X(p)とは「Xの元xを変数として含む文pについて、pを満たすxが存在する」みたいに書いてあったと思う。
これらを踏まえて{x|∃A∊μ(x∊A)}をどう読み解けばという話なのだ
要するに検討すべきは∃A∊μ(x∊A)の真偽値だ。
もっというならx∊Aという文の真偽値にxやAに具体的な数を入れて判断すればいいということなのだ(とりあえず読み進めてほしい)。
そこでたとえばμの元となる集合をA1={1,2},A2={2,3}としてみるとする。
本来のの目的に立ち返ればどんなxが列挙されているのか知りたいというわけだから、まずxを固定するのが筋だ。
つまりたとえばx=1とする。
次にx∊A1やx∈A2が真か偽かを考えてみる
ここではさすがに「明らかに」x∊A1が真で、x∊A2が偽だろう。
したがって、上でA1が真になる例として挙げられたように、1∈Aを満たす、μの元Aが存在するということである。
今ここで考えているのは∃A∊μ(1∊A)の真偽値についてのはずである。
そのうちの1∊Aを、∃x∊X(p)におけるpにあてはめて考えれば、他の記号についてもそれぞれ置き換えると次のように読むことができると思う。
「μの元Aを変数として含む文1∊Aについて、1∊Aを満たすAが存在する」ということだ。
先ほど確認したように、1∊Aを満たすAが存在するわけである。
つまり「μの元Aを変数として含む文1∊Aについて、1∊Aを満たすAが存在する」という文も真なのである。
ということは{x|∃A∊μ(x∊A)}は∃A∊μ(x∊A)が1について真なので、1は列挙されているわけである。
同様にすれば
2∊A1は真
2∈A2は真
3∈A1は真
3∈A2は偽
ということでいずれのA1やA2に含まれるいずれの元の場合についても∃A∊μ(x∊A)は真なので
{x|∃A∊μ(x∊A)}とは{1,2,3}のことなのである。
ところで∪μの定義は「μの元である任意の集合Aに少なくとも一つは含まれる元を全て含む集合」であった
A1とA2のいずれかに含まれている元は1,2,3のいずれかなので
この場合∪μ={1,2,3}
だからあの参考書は「明らかに」∪μ={x|∃A∊μ(x∊A)}と言っていたわけだ。
ここではごく簡単な例について等号が成り立つことを示したに過ぎないが、これがAが何個になっても、あるいはAにどんな元が含まれていようと一般的に成り立つということはもうイメージできると思う。
「妹もの」という異形の恋愛物語を描くカルマを軽く考えている作家が多いなってのは印象としてある。
これが純文学とかになると「なぜ妹と恋愛するのか」「妹と恋愛するということはどういうことなのか」という命題が必ず設定されていて、最終的にその「答え」を出す必要があるから最後まで「妹もの」としての葛藤であったり、「妹もの」でしか成しえない結末があるものだけれど、
多くのライトノベルや漫画においては「妹」というのは単なる「属性」や「恋愛の障害のひとつ」にしか過ぎないことが多くて最終的に「実は血はつながってませんでした(テヘペロ)」とか「まぁ、妹だけど好きだからいいじゃん」みたいな「妹ものとは」みたいな結末になることがあって、そういうのは「妹もの」に対してひどく不誠実だと思うし、本当にそれってハッピーエンドなのか?本当に考えに考えてそうしたのか?と作者に問いたくなることがある。
飛んでいく、みたいになのを見せて、おおーーすげーーーっとか
思わせるの今の世の中難しいじゃない。
結局CGとかがあるし。
と問われたら難しいことじゃない。
だからね、これからの映画っていうのはもっと地味に奇天烈なことをしないといけないのよ。
なんかね、適当で奇天烈な科学的な命題が映画の中で登場してそれを解析するって話の展開になったときに
実際にその意味のない計算を富嶽みたいな世界一のスーパーコンピューターで何万時間も計算しました、
すげーとてつもない予算かけて馬鹿げた計算しました、そのデータがコレですって一瞬だけ画面に映るデータに
ものすごい予算かけててそれをみて俺たちはおーーーーすげーーーーカネかかってるって感心するのがこれからの映画の金のかけかただ!
自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。
日本における死刑の議論において、当然のように前提となっているのが「司法は復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。
たしかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?
結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1
もう一つは、西洋における死刑の歴史を紐解かなければいけません。
西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。
これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。
なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。
また西洋における近代法や人権の考え方として、国家や権力というものは暴走し、それを個人(市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります。
フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります。
よって、西洋の諸国家には国家があくまで法に則して虐殺・恣意的な死刑を執行した歴史があり、その反省として死刑廃止がトレンドになっているという経緯があります。
日本でもたまに、政府高官が不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力の暴走による死刑です。
「冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれるものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。
ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑だけが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。
刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰で犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。
例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。
・「司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」
・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)
・司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない
⇒知らねーよ輸入したんだから。こちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。
⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑論絶対正しいマン)
日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。
私も親や配偶者や子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います。
光市の母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景をテレビでよく見ていました。
非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情を司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。
そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います。
「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパンな法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います。
これは神学命題。プロテスタンティズムと決定論に対して言及がないので不完全。
アメリカの歴史の初期においてピューリタンが重要な役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。
フス戦争やカルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学的決定論)である。カンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」
というのがあった。
こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。
因果が逆転してるというかなんというか。
この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!
となっていった。
(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイプのプロテスタントもあります)
「世俗社会の修道院化」によって、日常生活の全てを信仰と労働に捧げる。
節制と禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神で禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。
この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像の象徴。
…というあたりで、発展しすぎた禁欲的資本主義は本来の宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。
自己研鑽しない者たちに対する憎悪や侮蔑は、従来の「つまり予定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。
・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神"という本とかで書いてたこと。
今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである。
(なぜならそのほうが発展に有利だからね)
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補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸のカリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からのカトリック移民が多いからです。
ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想的原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的にOK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。
そして何より、【西海岸のリベラリズム】と対極っぽそうな南部のバイブル・ベルト。
この地域は基本的にプロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的。
ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想が固定化されたっていうのとかありそう。
自分の頭を整理したくて書くんだが、
炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか @gendai_biz
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864 #現代ビジネス
ここで言われているような「意味づけ」って一体何が問題なんだろう。
小宮さんの主張はだいたい以下のように展開すると理解している。
(1) 「性的な女性表象」はしばしば「女性は性的客体である」という差別的な女性観を前提として作られる。
(2) ある特定の女性観を前提として表現を作ることは、その前提を用いた女性一般に対する意味付けとなる。
(3) (1),(2)より「性的な女性表象」は、しばしば「女性は性的客体である」という女性一般に対する意味付けとなる。
(4) 同様の差別的女性観を前提としてなされる行為は、表象の外にもあふれている。
(5) 女性のうち、表象の外でその手の差別的言動に苦しめられている人は、(3) のような意味付けを行う「性的女性表象」に累積的抑圧を感じる。
で、私がまだ飲み込めてないのは、(1) と(2) なんですね。
とりわけ「意味づけ」がまだしっかりと飲み込めていない。
というのも、小宮さん自身指摘する通り、ここでいわれている「意味づけ」って表現作成者の意図は無関係なんですよね。
差別する意図がなく、単にお約束的なパターン化技法を使うだけで意味付けが成立することになる。
というか、むしろ女性を表象するお約束的なパターンなのが問題にされてるように見える。
以下で引用する「第一に〜なっています」という部分が、まさにそう書いているように見える根拠になる。
「第一に、これらは圧倒的に、女性を性的に表象するための技法です。男性が同じような技法で表象されることはあっても稀で、実際こうした表象の数における男女間の非対称性はあきらかでしょう。「女性」を性的に表象するときに繰り返し用いられるパターン化された手法であるという点において、これらは単に個別の女性を描くためのものではなく、「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づけるものとなっています。」
女性を表象するお約束的なパターンとして女性をしかじかの形で描いていることは、単に個別の女性を描くために使われているんじゃなくて、女性というカテゴリーを性的客体として意味づけるものとなる、と言っている。
これが成立するってめちゃくちゃ不思議じゃないですか? 個々の作者が特定の女性観を持っているか / 前提しているかとは一切無関係に、表現の表面的な特徴を切り取って、それが特定の意味を持つから作品全体もそうだって言いたいってことなんでしょうか。でも、これって、表現の読み方としてめちゃめちゃ不自然じゃないですか? 作者が思ってもないことが明白なヤバい命題を、作品のメッセージにするんですか? ふつうの典型的な対面コミュニケーションなら、相手がそう意図していないのは明らかなメッセージを、相手のメッセージと受け取るなんてことしないですよね? と、少なくとも今の自分は思ってる。
フィクションの女性をお約束パターンで描くというのは、現実の女性がどうであるかと無関係に、単に「フィクション女性」を一定のやり方で書いているにすぎないってことですよね。お約束パターンというのは、「俺/私がフィクションの女性を書くというのはそういうこと」という前提に基づいてそう書いているということです。したがって、個々の作者は「現実も含めた女性一般は性的対象である」(露骨に言い換えれば「現実も含めた女性一般は、男を性的に喜ばせるための道具だ」ということ)というヤバい前提のもとに描いてると考える必要はない。 男も女も主体性をもった人間じゃないですか。当たり前ですよね。現実世界でセクハラは駄目、無理やり強要は駄目、「嫌よ嫌よも好きのうち」じゃない。性的同意は性的同意。フィクションに対してお約束パターンを使ってるってことは、女性の意味付けにつながるんじゃなくて、むしろ逆に、現実の女性にたいするある種の命題へのコミットメントを逃れていることになる。
つまり、そんなヤバい前提を持っているかどうかと、作品内でフィクション女性を一定の仕方で描くことは全く独立ですよね。フィクションの女性が特定の仕方で描かれていても、女性全般に対する作者の見解が現れているとは限らない。ファンタジーを楽しんでるだけなのに、現実世界に対するある種の命題にコミットメントしていることにはならない。
そして、ふつう私達は、コミュニケーションにおいて、相手の意図を読み取ろうとする。表現の場合なら、作者の意図を読み取ろうとする(ここは必ずしも現実の作者じゃなくてもよくて、「理想的な作者」「作品から合理的に復元された作者」のメッセージとかでいいです。)。ところが作者は特定の女性観なんか持っていない(少なくとも、持っているとまでは確証を持って推論できない)。したがって、特定の仕方で描かれている個々の作品に対して、現実の女性が性的対象であるというメッセージを帰属させるのもおかしい。
にもかかわらず、小宮さんの論によれば、個々の作品はある種の意味付けを行っていることになる。それがよくわからない。意味付けって、女性はこういうもんだって人々に思わせるってことなんだろうけど、じゃあそれを誰が何を言っているというメッセージとして受け取るのか。
つまるところ、「意味づけ」がわからないというのは、「ある特定の女性観を前提して作品を作る」という言い回しが、実際のどういう営みと対応しているのかわたしにはさっぱりわからないことだ。誰が、どのような仕方で前提しているのか。本当にそれは作品を作っている人(つまり作者)と同じ主語にしてよいのか。
ふつうの会話にでてくる「前提」を比較として出しても良いかもしれない。たとえば、言語学的な「前提 presupposition 」ならば、前提に基づいて何かを発話することが発話者のコミットメントつながるし、発話者のメッセージとしたってよいでしょう。
たとえば、" The King of France is not bald" と発話しているならば、定名詞句"The King of France"が焦点位置にあらわれていて、発話者はフランス国王の存在を前提している。だから、非明示的なメッセージとして、「フランスに国王がいるのだ」とその発話者は暗に主張するといっても全くおかしくない。聞き手は「いやいや、そもそもフランスには国王はいないから」と有効に反論できるし、それに対して話し手は「あーそうなんか、すまんかった」と謝るほかない。
でも、ここで言われている「女性観を前提」はもっともっとゆるい意味で、なんなら個別の作者の意図にさえ帰属させるのは合理的ではない。にもかかわらず、表現が持つメッセージになってしまうと小宮さんは言っている。その広告を見て聞き手が「いやいや、女性はお前を喜ばせる道具じゃねえから」なんて言い返そうものなら、話し手は「いや、そんなこと思ってないしどこにも描いてないでしょ」と合理的に言い返せるにもかかわらず。単にファンタジーとして楽しんでいるだけであるにもかかわらず。
という感じで、さきに述べたようなことから「意味づけ」がなんで成立するのかがさっぱり理解できない。
但し書きとして描いておくけど、フィクションをフィクションとして理解できない方がいらっしゃるとか(お子様とかね)、こっちがフィクションとして楽しんでいるだけであることが読み取れない方がいらっしゃるとか(オタクの生態に詳しくない人とか)、そういう人々が現れること自体は全然おかしくない。そういう一般人たちが多くいるところに作品を置くと、誤って読解した人が傷ついちゃうからやめましょうと主張するんなら、(受け入れるかはともかく)理解できなくもない。でも、それって作品を誤解する人が出てしまうからやめようという話でしかなくて、作品自体が何らかの意味付けをしたことにはならないでしょ。作品ないし作者を主語にして、「意味づけ」という行為をしたと帰属させる必要はないでしょ。それ自体の悪とやらを語る必要はないでしょ、と思う。
以上が現時点での疑問点です。頭の整理を終わります。