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はてなキーワード: 命題とは

2022-02-05

anond:20220204101406

増田「AならばBである

オタ「いやaはAだけどBじゃないよね」

増田「反例あげるなら複数あげろ」

オタ「いや最初命題を真ではないことを示すにはaの例だけで十分だが」

増田「AならばB、ってのはそんなに厳密な言説じゃない、これだからオタは」

オタ「つまり主観的な話だったのか、ならば反論が反例一つという主観的な言説も許すべきでは」

さて増田のターンですが。

anond:20220204210757

横だが、この増田はこれを書いて何を言いたかったんだろう

反例を挙げられないことは必ずしも命題が正しいことを保証しない

ただでさえ反例が提示されてるのに自分命題が正しいと主張する元増田

2022-01-28

[]andとorをセットで考えるのは危険太陽と月くらい差があるぞ

「及び」と「又は」で悩んだことはありませんか?

もちろん、高等学校で我々は数学の授業で集合を学びました。我々はそれを知っています

「及び」とはand のことであり、P∩Qであり、共通部分です。「又は」とはorのことであり、P∪Q であり、和集合です。

我々はよくそれを知っています。なのに、現実文章の前に立つと、途端に何が何やら分からなくなってしまます

(以降未記載

例文をあげて「及び」なのに「又は」の意味である場合提示する

andの意味本質的に「並べること」「新たに1つ追加すること」であることを述べ、かなり原始的言葉であることを示す

対照的に、orが論理を前提にした言葉であることを示す

論理文脈でのandは「条件(命題)が並んでいる」という意味であり、orとセットで考えることができるが、

原始的意味でのandと混在してはいけないことを示す。)

2022-01-27

男はクソのパラドックス

男はクソである

しかし俺はクソではない。

なぜなら俺は男がクソであることを理解しているからだ。

男がクソである理解している男はクソではない。

男がクソである理解している男以外の男がクソである

男がクソである理解していない男がクソだ。

であるならばこの世の全ての男が男はクソである理解したらどうなるだろう。

クソな男がこの世からいなくなる。

だがクソな男がこの世からいなくなれば「男はクソである」という命題は真ではなくなり

男がクソであることを理解することが出来なくなる。

存在しないクソな男を理解することは出来ないからだ。

男がクソである理解する者がいなくなれば全ての男は再びクソになる。

これを男はクソのパラドックスと名付けることにする。

anond:20220127213704

会社命題としてその仕事を完遂するのを前提として、増田なりの意見を述べよ

その仕事の是非については個人意見を持たず完遂を目指せ、って一貫していると思うが

anond:20220127132725

ワクチン接種率の高さを知的能力の高さと主張してたわけじゃなくね?

ワクチン接種率の低さが底辺層の多さと相関してると主張してたんじゃね

真偽はともかく、この2つが同じ命題だと思うなら増田認識能力問題があると思う

2022-01-16

anond:20220115141035

やっぱり弱者である女性は、常に、誰とつるむか?が人生命題として避けられないのだと思う。

表面的には協調しつつ、本音では常に虎視眈々と自分が優位になるにはどうするか考え続けてる。

集団行動を基本とする生存戦略では、裏切りや、不都合メンバーの追い出しは避けられない。

これは幼稚園児くらいの女児にすら見られる行動形態なので、

女性は生まれつき、人間関係に興味を持たざるを得ない本能があるんだと思う。

そいう本能を刺激するから少女漫画はとくに女性受けする。

2022-01-09

anond:20220109051559

独学(笑)

論理的な会話の全くできないバカが多すぎる

議論の前提にも立ててない

社会的命題全称命題ではないことは明らか

anond:20220109050809

おバカさんだなあ

全称命題否定するには一つでも反例を上げられたら十分なんだよ

これ、主語デカ命題の弱点ね

2022-01-08

anond:20220108164806

とにかく

∃x∊X(p)

あるいは

∀x∊X(p)

みたいな書き方をされてたとき

  • pの部分を命題として見ることが可能でかつxを含むものならばpの真偽値に注目すればよい。
  • 前者ならば真を取るxが確認できた時点で前者の文が真であることが証明されている。
  • 後者ならばすべてのxについて真かどうか確認すればよい。
  • pの外側の∃(∀)x∊X()の部分は「xがXの要素である」ということをまわりくどく明示している、ぶっちゃけおかざり過ぎない

anond:20220107154422

Cがxを変数とする命題であるとき

{x|C}というのはCが真になるようなxを数え上げてるわけだ。

から{x|xは自然数}というのもたとえばxに1を代入すれば「1は自然数」となって真偽値が真になるから1が、同じように2以降のすべての自然数が元として列挙されることになるというわけ。

こうした考え方においては{x|xは自然数}とか{x|x^2+3x+2=0}みたいな文は、{x|C}のCにおいてxが主語であるようなケースという、特殊な形に過ぎないことがわかるだろう。つまり応用が効くわけである

さらにあの参考書には∃x∊X(p)とは「Xの元xを変数として含む文pについて、pを満たすxが存在する」みたいに書いてあったと思う。

これらを踏まえて{x|∃A∊μ(x∊A)}をどう読み解けばという話なのだ

要するに検討すべきは∃A∊μ(x∊A)の真偽値だ。

もっというならx∊Aという文の真偽値にxやAに具体的な数を入れて判断すればいいということなのだ(とりあえず読み進めてほしい)。

そこでたとえばμの元となる集合をA1={1,2},A2={2,3}としてみるとする。

本来のの目的に立ち返ればどんなxが列挙されているのか知りたいというわけだから、まずxを固定するのが筋だ。

まりたとえばx=1とする。

次にx∊A1やx∈A2が真か偽かを考えてみる

ここではさすがに「明らかに」x∊A1が真で、x∊A2が偽だろう。

したがって、上でA1が真になる例として挙げられたように、1∈Aを満たす、μの元Aが存在するということである

今ここで考えているのは∃A∊μ(1∊A)の真偽値についてのはずである

そのうちの1∊Aを、∃x∊X(p)におけるpにあてはめて考えれば、他の記号についてもそれぞれ置き換えると次のように読むことができると思う。

「μの元Aを変数として含む文1∊Aについて、1∊Aを満たすAが存在する」ということだ。

先ほど確認したように、1∊Aを満たすAが存在するわけである

まり「μの元Aを変数として含む文1∊Aについて、1∊Aを満たすAが存在する」という文も真なのである

ということは{x|∃A∊μ(x∊A)}は∃A∊μ(x∊A)が1について真なので、1は列挙されているわけである

同様にすれば

2∊A1は真

2∈A2は真

3∈A1は真

3∈A2は偽

ということでいずれのA1やA2に含まれるいずれの元の場合についても∃A∊μ(x∊A)は真なので

{x|∃A∊μ(x∊A)}とは{1,2,3}のことなである

ところで∪μの定義は「μの元である任意の集合Aに少なくとも一つは含まれる元を全て含む集合」であった

A1とA2のいずれかにまれている元は1,2,3のいずれかなので

この場合∪μ={1,2,3}

からあの参考書は「明らかに」∪μ={x|∃A∊μ(x∊A)}と言っていたわけだ。

ここではごく簡単な例について等号が成り立つことを示したに過ぎないが、これがAが何個になっても、あるいはAにどんな元が含まれていようと一般的に成り立つということはもうイメージできると思う。

あの参考書もこれぐらいかみ砕いてくれればいいんだけどね。

天才には凡人がどこでつまづきやすくどこに説明を費やせばいいのかのポイントがつかめないみたいだ。

2022-01-05

今年の目標は「今年の目標を立てること」にしたんだけど

あれ?もう既に達成されてない?

こういうのなんて言うんだっけ、命題PがPを含んじゃうようなやつ

anond:20220105142709

「妹もの」という異形の恋愛物語を描くカルマを軽く考えている作家が多いなってのは印象としてある。

これが純文学かになると「なぜ妹と恋愛するのか」「妹と恋愛するということはどういうことなのか」という命題が必ず設定されていて、最終的にその「答え」を出す必要があるから最後まで「妹もの」としての葛藤であったり、「妹もの」でしか成しえない結末があるものだけれど、

多くのライトノベル漫画においては「妹」というのは単なる「属性」や「恋愛障害ひとつ」にしか過ぎないことが多くて最終的に「実は血はつながってませんでした(テヘペロ)」とか「まぁ、妹だけど好きだからいいじゃん」みたいな「妹ものとは」みたいな結末になることがあって、そういうのは「妹もの」に対してひどく不誠実だと思うし、本当にそれってハッピーエンドなのか?本当に考えに考えてそうしたのか?と作者に問いたくなることがある。

2022-01-04

anond:20220104094350

p⇒qが成り立つという命題

(pであってかつqでないもの)がなければ真

(pであってかつqでないもの)があれば偽

 

まりブコメ

 (バツイチ⇒未婚より有利) 

という命題に対して、俺は選択肢に入れない、つまり 

 (バツイチ∧¬未婚より有利) 

という反例を挙げたんだから、n=1だろうと反例が挙がった時点で元の命題否定される

2022-01-03

anond:20220103134537

目的が違えばいいなら原発反対とか言えなくなる

そこの整合性の話なんだよ

もっと命題ちゃんと読み取れよ

2022-01-01

映画なんかで奇天烈もの登場させることって今は難しいでしょ

昔の007とかの秘密兵器みたいなのでロケットマンみたいなの

ブオーーーって噴射する装置背中に背負って

飛んでいく、みたいになのを見せて、おおーーすげーーーっとか

思わせるの今の世の中難しいじゃない。

結局CGとかがあるし。

それ実際にやった言うて映像としてCGとの差はなんなのさ?

と問われたら難しいことじゃない。

からね、これから映画っていうのはもっと地味に奇天烈なことをしないといけないのよ。

なんかね、適当奇天烈科学的な命題映画の中で登場してそれを解析するって話の展開になったとき

実際にその意味のない計算富嶽みたいな世界一スーパーコンピューターで何万時間計算しました、

すげーとてつもない予算かけて馬鹿げた計算しました、そのデータがコレですって一瞬だけ画面に映るデータ

ものすごい予算かけててそれをみて俺たちはおーーーーすげーーーーカネかかってるって感心するのがこれから映画の金のかけかただ!

2021-12-27

プログラミング数学必要

この命題SNSでやってる連中って

ドヤ馬鹿低脳しかいない

日本低脳海外に見せつけているようで

みっともないから早くやめてくれ

anond:20211226061146

論理的に考えるために必要な知性は…(略)…10歳くらいの子の知性で十分

10歳くらいの子の知性を持つこと」 を p と置く

論理的に考えられること」 を q と置く

本文より p は q の十分条件なので、式で表すと

p ⇒ q

命題 p ⇒ q が真のとき対偶 ¬q ⇒ ¬p も真

¬q ⇒ ¬p を言葉表現すると

論理的に考えられないならば10歳くらいの子の知性を持っていない

うん!本読もう!

2021-12-26

anond:20211226095915

M1お笑いとしての真剣勝負ということのまえに

テレビ番組としての面白さが前提としてあるんだ、っていう

話は岡田斗司夫さんがしゃべってるのをTik Tokの切り抜き動画でこないだみたなあ。

明石家さんまさんが若手芸人トークしてるとき発言を取り上げて。

さんまさんは何で芸人M1に本気になるのかがわからない、といったらしい。

だって、あれってテレビ番組だろ?って。

紳助さんとか人志さんは真剣勝負としての漫才の場、ということのまえに

きっちりとテレビ番組として面白ものをつくるということを命題としている、とかそういうの。

ごめん、文章力いから上手く説明できてないね

2021-12-24

anond:20211223171928

自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。


日本における死刑議論において、当然のように前提となっているのが「司法復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。


しかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?


結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1


もう一つは、西洋における死刑歴史を紐解かなければいけません。


西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。

これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。

なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。


また西洋における近代法人権の考え方として、国家権力というもの暴走し、それを個人市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります

フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります


よって、西洋諸国家には国家あくまで法に則して虐殺恣意的死刑執行した歴史があり、その反省として死刑廃止トレンドになっているという経緯があります

日本でもたまに、政府高官不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力暴走による死刑です。

冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。


ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑けが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。

刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。


例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。

・「司法歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」

・「法律Hackして悪さをする権力者が出るかもしれない」

・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)


しかしこれは日本では受け入れられないでしょう。

司法歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない

 ⇒知らねーよ輸入したんだからこちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。

法律Hackして悪さをする権力者が出るかもしれない

 ⇒法律って市民が悪いことしないようにするもんじゃないの?

死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない

 ⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑絶対正しいマン


これは日本人が法律に疎いと言っているのではないですよ。

日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。


私も親や配偶者子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います

光市母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景テレビでよく見ていました。

非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。

そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います


「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパン法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います

2021-12-07

anond:20211207130426

感染者が減った事例の中には「ワクチンによるものもある」

これは別に否定しないけど

じゃあ「ワクチンを打つならば、他人感染させない」が真である、とはまだまだ導けないですね

あと2段階くらい命題を挟まないと駄目なんじゃないですかね?

これお前の書き込みだと思うけど、ワクチンによる感染者が減った事例、つまり感染を防いだ事例を認めるのなら、他人感染させないももちろん真でしょ

お前は言い回しを変えて別の命題であるかのように見せかけてるだけでしょ

anond:20211207123826

なんでそんな回りくどい命題を立てる必要があるんだ?

感染者数が減る」は「誰か(その誰か自身にとっては自分が)が誰かにうつす事例が減る」ということなだけだけど

ワクチン効果科学事実と認めてる時点で「自分が誰かにうつす」に関しても自動的に認めてることになるでしょ

2021-11-25

anond:20210617064202

これは神学命題プロテスタンティズム決定論に対して言及がないので不完全。

アメリカ歴史の初期においてピューリタン重要役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。

フス戦争カルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学決定論)であるカンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」

というのがあった。

こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。

人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。

因果が逆転してるというかなんというか。

この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!

となっていった。

(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイププロテスタントもあります

世俗社会修道院化」によって、日常生活の全てを信仰労働に捧げる。

節制禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。

この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。

勤勉性、探究心の強さ、合理主義社会活動への参加という18世紀における近代人間像の象徴

…というあたりで、発展しすぎた禁欲資本主義本来宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。

自己研鑽しない者たちに対する憎悪侮蔑は、従来の「つまり定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。

・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義精神"という本とかで書いてたこと。

今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである

(なぜならそのほうが発展に有利だからね)

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補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸カリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からカトリック移民が多いからです。

ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的OK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。

そして何より、【西海岸リベラリズム】と対極っぽそうな南部バイブルベルト。

この地域基本的プロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的

ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想固定化されたっていうのとかありそう。

2021-11-24

萌え絵表現女性にたいする「意味づけ」になるって何故なんですか?

自分の頭を整理したくて書くんだが、

炎上繰り返すポスターCM…「性的女性表象」の何が問題なのか @gendai_biz

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864 #現代ビジネス

ここで言われているような「意味づけ」って一体何が問題なんだろう。

小宮さんの主張はだいたい以下のように展開すると理解している。

(1) 「性的女性表象」はしばしば「女性性的客体である」という差別的女性観を前提として作られる。

(2) ある特定女性観を前提として表現を作ることは、その前提を用いた女性一般に対する意味付けとなる。

(3) (1),(2)より「性的女性表象」は、しばしば「女性性的客体である」という女性一般に対する意味付けとなる。

(4) 同様の差別的女性観を前提としてなされる行為は、表象の外にもあふれている。

(5) 女性のうち、表象の外でその手の差別的言動に苦しめられている人は、(3) のような意味付けを行う「性的女性表象」に累積的抑圧を感じる。

で、私がまだ飲み込めてないのは、(1) と(2) なんですね。

とりわけ「意味づけ」がまだしっかりと飲み込めていない。

というのも、小宮さん自身指摘する通り、ここでいわれている「意味づけ」って表現作成者意図無関係なんですよね。

差別する意図がなく、単にお約束的なパターン技法を使うだけで意味けが成立することになる。

というか、むしろ女性表象するお約束的なパターンなのが問題にされてるように見える。

以下で引用する「第一に〜なっています」という部分が、まさにそう書いているように見える根拠になる。

第一に、これらは圧倒的に、女性性的表象するための技法です。男性が同じような技法表象されることはあっても稀で、実際こうした表象の数における男女間の非対称性あきらかでしょう。「女性」を性的表象するときに繰り返し用いられるパターン化された手法であるという点において、これらは単に個別女性を描くためのものではなく、「女性」というカテゴリー性的客体として意味づけるものとなっています。」

女性表象するお約束的なパターンとして女性しかじかの形で描いていることは、単に個別女性を描くために使われているんじゃなくて、女性というカテゴリー性的客体として意味づけるものとなる、と言っている。

これが成立するってめちゃくちゃ不思議じゃないですか? 個々の作者が特定女性観を持っているか / 前提しているかとは一切無関係に、表現の表面的な特徴を切り取って、それが特定意味を持つから作品全体もそうだって言いたいってことなんでしょうか。でも、これって、表現の読み方としてめちゃめちゃ不自然じゃないですか? 作者が思ってもないことが明白なヤバい命題を、作品メッセージにするんですか? ふつう典型的な対面コミュニケーションなら、相手がそう意図していないのは明らかなメッセージを、相手メッセージと受け取るなんてことしないですよね? と、少なくとも今の自分は思ってる。

フィクション女性お約束パターンで描くというのは、現実女性がどうであるかと無関係に、単に「フィクション女性」を一定のやり方で書いているにすぎないってことですよね。お約束パターンというのは、「俺/私がフィクション女性を書くというのはそういうこと」という前提に基づいてそう書いているということです。したがって、個々の作者は「現実も含めた女性一般性的対象である」(露骨に言い換えれば「現実も含めた女性一般は、男を性的に喜ばせるための道具だ」ということ)というヤバい前提のもとに描いてると考える必要はない。 男も女も主体性をもった人間じゃないですか。当たり前ですよね。現実世界セクハラは駄目、無理やり強要は駄目、「嫌よ嫌よも好きのうち」じゃない。性的同意性的同意フィクションに対してお約束パターンを使ってるってことは、女性意味付けにつながるんじゃなくて、むしろ逆に、現実女性にたいするある種の命題へのコミットメントを逃れていることになる。

まり、そんなヤバい前提を持っているかどうかと、作品内でフィクション女性一定の仕方で描くことは全く独立ですよね。フィクション女性特定の仕方で描かれていても、女性全般に対する作者の見解が現れているとは限らない。ファンタジーを楽しんでるだけなのに、現実世界に対するある種の命題コミットメントしていることにはならない。

そして、ふつう私達は、コミュニケーションにおいて、相手意図を読み取ろうとする。表現場合なら、作者の意図を読み取ろうとする(ここは必ずしも現実の作者じゃなくてもよくて、「理想的な作者」「作品から合理的復元された作者」のメッセージとかでいいです。)。ところが作者は特定女性観なんか持っていない(少なくとも、持っているとまでは確証を持って推論できない)。したがって、特定の仕方で描かれている個々の作品に対して、現実女性性的対象であるというメッセージ帰属させるのもおかしい。

にもかかわらず、小宮さんの論によれば、個々の作品はある種の意味付けを行っていることになる。それがよくわからない。意味付けって、女性はこういうもんだって人々に思わせるってことなんだろうけど、じゃあそれを誰が何を言っているというメッセージとして受け取るのか。

つまるところ、「意味づけ」がわからないというのは、「ある特定女性観を前提して作品を作る」という言い回しが、実際のどういう営みと対応しているのかわたしにはさっぱりわからないことだ。誰が、どのような仕方で前提しているのか。本当にそれは作品を作っている人(つまり作者)と同じ主語にしてよいのか。

ふつうの会話にでてくる「前提」を比較として出しても良いかもしれない。たとえば、言語学的な「前提 presupposition 」ならば、前提に基づいて何かを発話することが発話者コミットメントつながるし、発話者メッセージとしたってよいでしょう。

たとえば、" The King of France is not bald" と発話しているならば、定名詞句"The King of France"が焦点位置にあらわれていて、発話者フランス国王存在を前提している。だから、非明示的なメッセージとして、「フランス国王がいるのだ」とその発話者は暗に主張するといっても全くおかしくない。聞き手は「いやいや、そもそもフランスには国王はいいから」と有効反論できるし、それに対して話し手は「あーそうなんか、すまんかった」と謝るほかない。

でも、ここで言われている「女性観を前提」はもっともっとゆるい意味で、なんなら個別の作者の意図にさえ帰属させるのは合理的ではない。にもかかわらず、表現が持つメッセージになってしまうと小宮さんは言っている。その広告を見て聞き手が「いやいや、女性はお前を喜ばせる道具じゃねえから」なんて言い返そうものなら、話し手は「いや、そんなこと思ってないしどこにも描いてないでしょ」と合理的に言い返せるにもかかわらず。単にファンタジーとして楽しんでいるだけであるにもかかわらず。

という感じで、さきに述べたようなことから意味づけ」がなんで成立するのかがさっぱり理解できない。

但し書きとして描いておくけど、フィクションフィクションとして理解できない方がいらっしゃるとか(お子様とかね)、こっちがフィクションとして楽しんでいるだけであることが読み取れない方がいらっしゃるとか(オタクの生態に詳しくない人とか)、そういう人々が現れること自体全然おかしくない。そういう一般人たちが多くいるところに作品を置くと、誤って読解した人が傷ついちゃうからやめましょうと主張するんなら、(受け入れるかはともかく)理解できなくもない。でも、それって作品を誤解する人が出てしまうからやめようという話でしかなくて、作品自体が何らかの意味付けをしたことにはならないでしょ。作品ないし作者を主語にして、「意味づけ」という行為をしたと帰属させる必要はないでしょ。それ自体の悪とやらを語る必要はないでしょ、と思う。

以上が現時点での疑問点です。頭の整理を終わります

2021-11-23

anond:20211123142239

世の中に大量の人間がいれば大抵の存在は現れる可能性があるので

「出てくるかどうか」という命題は「いつかどこかで雨が降るか」と同じくらいに無意味

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