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2019-10-18

自分ターゲットではない広告」について

 最近話題になっている宇崎ちゃん献血ポスターの件なのですが、こういった事例は「自分ターゲットではない広告」への不快感根底にあると思うのです。

過去の例で言えば駅乃みちか問題なども当てはまると思います

基本的広告というものは、ターゲットとする人々の欲望や強い興味を喚起する事を目的にして作られます

そして他者の、特に異なる価値観を持つ人の欲望や強い興味は不快ものです。

今回の献血ポスターは「宇崎ちゃんは遊びたい!」という作品の読者やこういった作品好意的に受け取る人という、比較的狭い範囲の人々をターゲットとした広告だったと思います

そうである以上、ターゲット範疇に入らなかった人にとって、今回の宇崎ちゃんポスターは多かれ少なかれ不快感を与えるものだったと思います

ですから、実際に「このコラボを今すぐやめろ!」と声高に発言するかはともかく、不快だと感じる事自体はむしろ当然起こり得る反応だったと思うのです。

 では不快に思う人が居るという事を理由として、広告を出した企業や団体はこういった広告を取り下げるべきなのでしょうか?

私は広告を出した企業や団体が、自分達の価値観立場に応じて判断すべき事だと思います

広告を出した事へのメリットデメリットを勘案した上でより良い、もしくは最悪ではないと信じる方を選ぶしかないのだと思います

当たり前といえば当たり前の事なのですが、決定権は私達の側にはありません。

無論、こういった広告を公の場に出すべきではないという価値観社会全体において支配的なものとなったのであれば、法や条例での規制という話もでてくるでしょう。

しかし、私は今はその段階には至っていないと思いますし、仮にそうなったとしても法や条例規制すべきとは思いません。

社会は様々な価値観を許容すべきだと私は思います

その為には他者価値観がどれほど不快であっても、それが社会の秩序を著しく脅かさない限り許容しなければなりません。

あいちトリエンナーレの様な例でもそうですし、今回の様な広告という形でも、可視化された価値観として社会は許容しなければならないと私は考えています

「そういう意図で申し上げたのではない」案件

anond:20191018131310

ここまで読んでくださったみなさんには、きっと分かってくださることと思うが、メッセージときに、発信者意図しない隠れたメッセージを伝えてしまう。

そして、そのメッセージによって、傷ついたり、安全を脅かされたりする人がいることを、発信者は常に意識する必要がある。

信者意図しないメッセージを読解して傷ついた人がいたとしても、発信者がすべきなのは「これはこういう意図ですよ」という説明をすることだけであって、「誤読して傷つく人がいるからやめよう」ということではない。

そんなこと言い出したら「誤読されうる表現」は全て公共の場に出すことを禁じられてしまう。あいちトリエンナーレの「表現不自由展」なんかまさにそれだし、実際誤読した人によって抗議や脅迫があったわけだけど、だから表現不自由展は公共美術館にはそぐわないか排除しよう」となるべきではないはずだ。

宇崎ちゃん表現不自由展について

ずっともやもやを抱えていて、アート界隈の方の上から目線の「アートを知らないお前らを啓蒙してやるよ」的なエントリなどいくつか読んだのですが、

全くしっくり来るモノがなかったので、自分なりにまとめてみようと思いました。なお私はアートについて全然詳しくありません。


まず大前提として、これから話されるのはすべて自主規制の話です。公的検閲の話ではありません。

あいちトリエンナーレ補助金交付取りやめなどといい出したことは完全にfuckです、あれは表現の自由侵害以外の何物でもありません。

そういった話とは別に他者を傷つけるような作品クレームを受けたら取り下げられるべきか?どこからがアウトなのか?という、自主規制についての話をしようと思います

宇崎ちゃん献血ポスター表現不自由展も、どちらも市民からクレームに端を発する話でしたよね。



マーケティング界隈の言葉ですが、世の中の情報は大別すると「pull型」と「push型」に分かれます

「pull型」というのは、対象者自分から見ようとしなくても目に飛び込んでくるたぐいの情報で、広告ポスターテレビCMなどがそれに当たります

push型」というのは、対象者がそれを目当てにして自分からアクセスしなければ目に入らない情報で、映画演劇美術展などはそれに当たります

前者はパブリックな物で後者プライベートな物とも言えるでしょう。



欧米ではジェンダーロールの強化を招くような要素が入ったもの苛烈批判さらされて、掲示を取りやめさせられたりすることがよくあるそうですが、

これは主に「pull型」の、テレビインターネット広告などに於いての話です。黙っていても目に飛び込んでくる情報からということですね。



そう聞くと、「その程度で規制するのか」とギョッとする方もいると思いますが、日本で言えば東日本大震災映像などはそれに当たるでしょう。

2011年3月11日から数日間、テレビは繰り返し被災地悲惨な状況を流し続けました。それは報道の使命であるという矜持に基づいたものだったでしょうが

まり惨状に心を痛め、PTSDになる人が多くいたことが国立病院機構災害医療センターの調べで報告されています

そのような事態を受けて、BPOは各テレビ局に「震災報道ストレスについての注意喚起要望」などを出していますし、実際テレビ局内部でもそのような懸念から配慮が話し合われたことでしょう。

かと言って、震災についてもっと詳しく知りたいという人間書籍や記録映像などでその情報アクセスすることは規制されるものではありません。

前者が「pull型後者が「push型」ということですね。

嫌でも目にしてしまう「pull型」の情報規制が厳しいが、自分から見に行かなければならない「push型」はそうでもないよ。ということです。

宇崎ちゃんポスターは前者、表現不自由展は後者に当たると思います



というわけで「pull型情報には自主規制がつきもの」ということは納得いただけたと思います、ではどこから規制されるべきなのかという話です。

「宇崎ちゃん献血ポスター」は「pull型」の情報ですが、あれは規制されるべきなのでしょうか?

かつては、ゴールデンタイムテレビでも女性の裸が平然と出ていましたが、いまはそういうことはありません。出すべきだという人もあまりいないでしょう。

チャタレイ夫人の恋人」という小説が「わいせつ過ぎる」という理由で発売禁止を受けた時代もありました、いまはあの程度の内容でそんなことにはならないでしょう。

まり、何を規制すべきかすべきでないかは「その社会市民意識によって絶えず変わっていく」としか言いようがありません。

宇崎ちゃんポスターについては、あれを性的過ぎると思う人もいれば、そんなことないと思う人もいて、単にオタク気持ち悪いと思う人もいるでしょうが

その綱引きで決まるというのが実情だと思います

個人的感想を言うならば、「あの程度で性的消費なら男女ともにアイドルとか表で活動できないよな」と思いますけどね。)



と、大体このような補助線を引くと議論に筋が通りやすいのではないかと思いますが、どうですか?




ただ、

・「pull型」と「push型」に明確に峻別出来ない情報はたくさんある。(雑誌の表紙はどっちなのか、大きく広告を打ち出しているような大作映画は本当に「push型」でいいのかなど)

・「push型」でも規制される場合はある(暴力的ゲームなど)

という二点は一応付記しておきます

anond:20191018114337

表現の自由戦士あいちトリエンナーレを全力で擁護してたんですが。あなたには何が見えてるんでしょうか。

まあ献血ポスター表現の自由問題では(あるけどそれは本質では)ないよね。どちらかと言えば対人性愛規範(ノーマティティ)の問題。「二次元性愛は対人性愛のおまけなのだから、対人性愛を前提とした社会常識に合わせるべき」という規範批判しないと。

表現の自由戦士(笑)

例のポスター表現の自由問題と結びつけてる連中はアホの極み。

日本赤十字社ポスターとして適切かどうかという話であって

表現の自由とは全く関係ない。単純に出来がすこぶる悪いから叩かれている。

それに批判表現の自由

トリエンナーレを狂ったように叩き、脅迫すら黙認しておいてどの口が言ってんだと。

anond:20191018003631

自由主義増田です。とりあえず、元の増田だけじゃわかりづらい文脈だけ補足しておきます

これはもともと、anond:20191016112942とか、anond:20191016115936とかから派生した議論なんだよね。

まり、「見たい自由尊重されるべきというなら、見たくない自由尊重されるべきなんじゃない?」と元増田(なぜか消しちゃったけど。消す必要なかったのに)が主張していたので、いやいやその2つの自由は対等じゃないんですよ、前者の方が重んじられるべきなんです、ということを説明したのが、100ブクマくらいは行ってほしいけどまあ無理かなと思っていたらまさかの800ブクマ超になってしまった例の増田anond:20191016163058)です。

から、実はこの件の批判者全体に対してこの理屈で押し通そうとしてるわけじゃないんだよね。あくまで「見たくない自由はありまぁす!」増田に対して「そんな自由は(見たい自由と比べて)尊重に値しません」って言ってるだけ。

追記で色んな論点にも言及してるけれど、基本はこの文脈の中でなされていた議論なわけですよ。

だって太田弁護士は、子供に見せたくないとか見ない自由とかそういう理路で闘ってたんじゃないよね? 私の議論の射程にはもちろん太田弁護士のふるまいも入っているけど、「見たくない自由は見たい自由よりも軽い」なんて太田弁護士への直接の反論になってないじゃん。私の反論あくま元増田の設定した「見たくない自由」というフレームに乗っかったもの自由主義の前提について基本のキから解説したのも元の増田がよくわかってないと思って解説する必要があると思ったから(まさかブコメでもわかってないやつが大量発生するとは思わなかったけど)。もし太田弁護士に直接的に反論したければ自由主義解説なんぞ本筋じゃないからすっ飛ばして「別にセクハラではない」とかそういう性差別とは何ぞやみたいな論陣を張っていたはずだけど、実際はそうしていないわけで(もちろん私は太田弁護士に対しては「セクハラじゃない」と大いに反論したいところだけれど、少なくとも今回私が相手していたのは彼女ではない)。

当然、私はなるべく一般妥当性を持つように議論を組み立てているし、単なる元増田への回答という枠を超えてより広い問題に当てはめ可能議論をしている(つもり)。だから自分議論に大した意味はないと言うつもりは毛頭ない。でも、議論の枠組みとかそういうものはどうしても議論の発端に縛られている。

これは一部のブコメもそうなんだけど、みんなあいちトリエンナーレ作品への批判には文脈読めとか言うのに明らかにリーの一部である増田文脈は読んでくれないのはいったい何でなんだぜ……? まあ今回は前の増田が消しちゃったせいでツリーが追いにくくなってるから仕方ないのだけれど……

2019-10-17

表現不自由展と宇崎ちゃんを同じく擁護してる左翼なんて見たことない」増田に捧ぐ。

2019-10-16

anond:20191016172314

はいはいおなじように新宿駅ポスタートリエンナーレがあったと思ってるやつね また来た 昨晩から5人は見た

anond:20191016172141

からタチが悪いんだよ。トリエンナーレについては表現擁護派だったんだぞ、あの弁護士お気持ちが全て。

anond:20191016151629

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

自由ってなんだ??

割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念提唱している。

詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに

の違いねcf. anond:20191017201230)。

現代自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要自由とされている。

これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。

この2つの自由対立という点で考えると、私の言う

というのは消極的自由に属する話だ。一方で増田の言う

  • 子供を刺激の少ない環境で養育したい、そのために最適な環境を整えてほしい

というのは積極的自由に属する。

その環境増田個人努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。

積極的自由消極的自由ならば、基本的後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由後者を制約すべきではない。そして、増田子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。

(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかから健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府強制されたくない」という消極的自由対立する局面を考えてみよう)

ところで、

胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。

思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

なので、

思春期の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?

「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人自分敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者消極的自由侵害してよい理由にはならない、という話になる。

何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。

多様性を見たくない人も多様性勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義破壊しようと主張する政党民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者消極的自由を損なわないという前提のもとで。

なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティ存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュコミュニティとかと同じで。

ところで、私たちが暮らすこの日本ゲーテッドコミュニティではありません。

自由ってある程度整えないと無法地帯じゃないかなぁって思ってて…多様性

人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。

既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?

自由への制約は最低限であるべきだろう。

私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!

はい、それもあなた自由ですね。宇崎ちゃんポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。

追記

anond:20191016163340

その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人自由に口を出すなと言われるわけで。

これはいいんじゃねえの。聞いた側は受け入れる義務ないんだから

これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスター批判する自由もある。要望無視したり批判反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明なっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう

消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加自由」とか「健康文化的生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。

いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為消極的自由積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味夜警国家リバタリアニズムは支持できない。

ポスター非難派の言い分はとどのつまり他者消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味

消極的自由積極的自由よりも優先されるべきだなんて、そんなクソ甘えた理屈民主主義の世の中で通用するとでも?

上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。

じゃあ「山間部の過疎地政府が十分なインフラを整備していない」と「政府過疎地住民強制移住させる」だったらどうよ。

前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。

言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由侵害後者消極的自由侵害です。消極的自由積極的自由よりも重要自由であるのは当然ですね?

(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)

わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。

レーガン大統領カリフォルニア州知事時代にそういう理由バイクヘルメット義務法案拒否権行使してますね。

個人的には、子供には自己生命安全危険さらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人シートベルトヘルメットをつけるもつけないも個人自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売自由

概ね同意だけど、最後シートベルト義務化の話、日本では車対車の事故死亡事故だと相手運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由制限する合理的理由があると俺は思うね

相手シートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合情状酌量減刑すればよいのでは……。

シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費障害家族貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。

ここでは合理性の話ではなくて、自由自己決定権の話をしているので……。

anond:20191017005044

倫理自由って対立しがちなのかね。

倫理って基本的規制っていうイメージがあるな。することなかれって感じ。

そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義優越」というのがある。

何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。

大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人自由侵害しないかぎり、自分道徳を追求する自由権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。

から私は一貫して、最初増田がどんな性教育子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供権利侵害しない限りにおいて自由なので。

でも、それを口実にして他者自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。

そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由作品撤去させたりしてはいけない。右翼フェミニスト雑誌ブログに「この表現いかに許しがたいか」みたいな文章掲載する分にはどうぞご自由に)。

オタクって自由主義者が多いと自分基準勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的認識を示したり、自分に興味がないイシュー博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ頒布罪と同様に単純賭博罪廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女イラストお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。

しかし例えばリアル死体や糞尿の画像レストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニング問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?

私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物屠殺写真を展示するのは表現自由だと思うよ。

肉フェスときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。

anond:20191017100948

刺青を入れた人が公共の場温泉プールなど)で行動する自由」というのも消極的自由になるのかな?

一方で「刺青を入れた人といたくない自由」というのは

その環境を整えろ!と唱える場合積極的自由となるよね?

元増田によるとこれは他者消極的自由を妨げることになるから優先されるべきではないと考えられないか

当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。

刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。

なんで「他人自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。

自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることな公衆浴場に入る権利」よりも「刺青理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場光景自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かにまれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要

刺青少女像巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由制限しようとしたがるんですか?

ツイッター感想並べてネタバレをする自由、やっぱりあった………

ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品ネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。

もちろんあなたフォロワーにはネタバレ理由あなたリムる自由がある。

100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう

ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的施設抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツ強制ヒール強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制からあいトリの天皇アート日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。

anond:20191016151701

税金入ってるのに収益性中立性もガン無視で構わねえってトリエンナーレに限ってすげえゲロ甘さだよなあ

クールジャパン相手に言ってたことが真逆じゃん

anond:20191016113228

見たくないヤツの"お気持ち"で規制されるなら、トリエンナーレの"芸術"の規制も地続きだからな。

不快に思う」位じゃ表現まで規制まではされないのがリベラルだろうに「ドリフけしからん!」って言ってたPTAみたいな事言い出しているんだろ?と思う。

anond:20191016102025

見たくないと思っている人の事を否定しないでほしい。

別に見たくないというのはそのひとの勝手だし否定してないけど、公共空間掲示することが見たくない人のことを否定したことになるのなら(はい条件法ですよ)、公共空間から撤去することは見たい人のことを否定したことになるじゃん。

なんで見たい人の権利と見たくない人の権利を比べてデフォルト後者の方が優先されないといけないということになるの?

色んなものがあるのが公共空間でしょ。雑然としていて多様性があって、それぞれの人がそれぞれの不快感を抱えながら過ごすのが公共空間でしょ。

あと、愛知トリエンナーレの事は否定肯定もできない。

あの場合は「意見を出し合うのを目的とした芸術作品お金を払って見に行く」

という事かなと…うーんこの件とは別件だと思う。

手ひどい裏切りだよね。

私はあいトリの会場にある芸術作品について別に不愉快だと思ったことはないけど、不愉快だと思う「表現の自由戦士」も大勢いたと思うんだよね。

でも彼らは「あいトリの表現の自由は守られるべきだ。たとえ不愉快表現であっても」という論陣を張った。

それなのに「それはそれ、これはこれ」でこちらの自由を制約しようと試みるんだ?

本当に手ひどい裏切りだと思う。そりゃないよ。

でも優しくて快適な世界が良い。

あい画像公共空間に堂々と掲示される世界が俺にとって優しくて快適な世界です。

俺の優しくて快適な世界文句をつけるあんはいったい何様?

何を優しいと感じるか、何を快適と感じるか、それは人それぞれで、だから表現の自由っていうものがあるわけなんだけど、無条件に「見たくない人の権利」を上位に置くあなたはいったい何様なの? というね。

表現不自由展と宇崎ちゃんポスター共通点について

ああアホらしい。全くもってアホらしい。

何がアホらしいかといえば、例によってはてブの連中のことである

あいつらここ数か月のトレンドであった表現不自由騒動を通じて少しは賢くなったかと思えば、全然そんなことはなく以前の位置からミリも動かずに、以前と似たような話題で延々騒いでやんの。

言うまでもなくhttps://togetter.com/li/1417228のことである

例によっていつもの太田啓子弁護士適当に難癖を付けて周囲のフェミニストを焚き付けて、いい感じに燃え始めたら自分つぶやきを消して「え、私、そんなこと言いましたっけ」となかったことにしようとする火付けしぐさなんだからはいはい、いつものね」と黙ってスルーしておけばいいのに、こぞってブクマつけまくってやがる。

馬鹿か? 馬鹿か。

まあ炎上喧嘩はてなの華であり、この手のエントリに大量に集ってしまうのは蟻が砂糖に群がるのと同列の種の本能レベルなので仕方がないのかもしれない。

生き物の習性ケチをつけるというのも野暮なのものだ。

しかし、群がるのは仕方ないとしてもこの手の騒ぎはもう何十回も繰り返しているのだから、多少は認識アップデートしてもらいたい。

ましてや先日の表現不自由展のことを思えばなおさらである

しかし、はてブ馬鹿馬鹿なので今回の件が表現不自由展とは全然別物だと考えているのだ。はははは、馬鹿だ。

たとえば、こんなコメントである

grdgs あいトレの場合は「表現自体を許さない」だったのに対し、こちらは「TPOを考えろ」だからまったく違うわな。

はい馬鹿丸出し。確かに表現自体を許さない」とのたまったネトウヨもいただろう。立川流を名乗るワイドショーコメンテーターもいただろう。

だがそんな過激な言い分はまともに取り合っている奴らはほとんどいまい。

クソ馬鹿がクソ馬鹿なことを言っているだけなのだから黙殺して何ら問題ないし、この程度であればいくらでも反論可能だろう。

典型的なセレクティブエネミーというやつである

あいトリエンナーレの一連の騒動で、一番問題になったのはそこではあるまい。

あの騒動で真にクリティカル問題提起は「こうした表現税金を使うのはおかしい」というものだ。

実際こうした意見同調するかのように文科省補助金を打ち切ろうとして非難囂々である

そしてこのような「こうした表現税金を使うのはおかしい」という考えの裏側にあるのは何か?

それは、この世には『良い/悪い表現』『許される/許されない表現』があるという考えだ。

もちろん世の表現にはR-指定18禁といったように、特定基準で明確に線引きが行われることもあるが、それはどちらかといえば例外であろう。世の大半のアート表現がでそうした線引きが成されず曖昧なままであることが多い。

にもかかわららず、アート表現に対してこのような線引きをして、弾圧規制される。

それに対する問題提起こそが「表現不自由展」のテーマの一つだったはずなのに、それを無視して「表現自体を許さない」という一番馬鹿げた非難を持ち出して「まったく違う」などと主張してしまっている。わはははは、馬鹿だ。

表現不自由展にしろ宇崎ちゃんポスターしろ、世にある表現を良い/悪いに切り分けて規制しようとする。

そうした動きこそが「表現不自由」というやつでなかろうか。

この二つの問題について「まったく同じ」というつもりはないが、「まったく違う」はずがないのである

そんなこともわからないようであるなら津田大介も草葉の陰で泣いているであろう。

あとついでにこのアホな。

tikani_nemuru_M id:memorystock 「公権力による規制大衆から批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違いを指摘したブコメを見ても「きちんと言語化出来る人がおらず」とか口走るから表現の自由戦士」っていわれちゃう

と、例によって上から目線ドヤ顔披露しているがここでidコールされているmemorystockが問題視しているのは、

memorystock この絵やキャラを守りたいのではなく、規制理由をきちんと言語化出来る人がおらず「NGじゃん」「本当に嫌」が規制トップなのはアレすぎではと危惧するものです。挙句戦士」↓のような無意味侮辱に逃げるし。

とあるように、あのポスター批判派がポスター撤去するだけの理由をまともに言語化していないことである

から、もし彼の意見反論たかったら、あのポスター撤去に値するだけの理由をきちんと言語化して批判する。

あるいは、既にきちんと言語化出来ている批判意見を持ってくれば良いだけなのだ

にもかかわらず、相手が「規制理由」と書いたのをいいことに「公権力による規制大衆から批判」の違いを理解していないなどとドヤ顔で上げ足を取るのは、詭弁以外の何物であるまい。この件についてまともに話し合いたいのではなく上から目線小馬鹿にしたいだけというのがはっきり伝わってくる。

また「 「公権力による規制大衆から批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違い」などと抜かしているが、他のブコメでも指摘されたように、そうした大衆から批判公権力による規制に繋がる危険性が炙りだされたのが表現不自由展ではなかっただろうか。

文科省補助金交付しろ河村市長座り込みしろ、いずれも大衆から批判がなければまかり通るものではあるまい。

もし、大衆から批判が皆無な段階でこのような横紙破りを行えば、新聞各社は文科省に対する批難を毎日のように一面で展開し、河村市長にはリコールが飛んだであろう。

大衆から批判公権力による規制を後押しする。

そんな危険性をつい最近目にしたにもかかわらず、得意げに「「公権力による規制大衆から批判」という表現の自由を考える上での最も基本的な違い」などと抜かしているから本当に薬のつけようがない。そんなんだからいつまで経っても労働組合政治運動をする理屈の続きが書けないのである

ああアホらしい。全くもってアホらしい。

2019-10-15

anond:20191015184259

トリエンナーレの件は調べてみると結構深くてジャッジが難しいんだよな

展示作品の偏りがあるのが余計難しいことになってる

ほとんどの人は「酷い作品が展示されている、撤去か中止しろ!」「表現の自由を守れ!」で思考情報も止まってるしな

anond:20191015175238

トリエンナーレ特定思想の人をターゲットにしたイベントではなかったにもかかわらず、入場者が誰でも目にする形にして展示してしまったんだよね?

悪質じゃん

anond:20191015175055

トリエンナーレ作品が誰でも目にするポスターにして新宿駅に貼ってたまでとは聞いてねえな~

どこソースよそれ?

まさかごっちゃにしただけ?

表現の自由は民VS民のクレーム合戦が今はトレンド

もちろん補助金停止の様な公権力から圧力に対抗するのは前提として

今のトレンド炎上煽りによるクレーム殺到による現場疲弊自粛自主規制なんだよ

タブーなんか典型的だしだからトリエンナーレもこじれたわけだ

それなのに公から権力に逆らうばかり言う人は認識が一周遅れてるし

TPO論で不適切だ!と言うのは天皇燃やした絵を不謹慎だというネトウヨ同類なんだよ

熟議による対応がいるのだろうけどツイートで反応して電凸する正義暇人が今2番目に表現の自由の敵なんだわ、もちろん1番は公権力恣意的運用だけど

表現の自由戦士って煽ってる人たちはそこをわかってほしい

2019-10-14

ウヨサヨ実験

あいちトリエンナーレ表現不自由問題

先に自分立場を言っとくと、

慰安婦はあったのだろうけど韓国対応否定的

天皇陛下はそれなりに好き

表現の自由は具体的な損害を出さないのであれば最大限認める(なので「俺は不快だ」では制限する理由にならない)

表現不自由展はもっと丁寧な説明必要だったと思う

公共の福祉に反しない限り多様な考え方を社会は許容すべきなので税金使うのも別によい(自分の考えに相反するものでも)

ってとこ。

ネトウヨ天皇陛下写真を焼くとは!反日反日!とか大村津田断罪断罪!とよく言うてる。

天皇写真を焼いた〜云々は、説明文を見ればわかるように別に反日意図はさほどなく、天皇写真を使った作品富山県議会に焼かれたのを再現した作品

なので「さほど反日意味ないですよ」とネトウヨっぽい人にツイッターでリプを送ってみたが、返ってきた返事は

・お前は左翼だ!反日だ!

大村津田はひどい!

・お前は親の写真を燃やされて芸術言っても許せるのか!

と話にならなかった。

まりにお前は左翼左翼!と言われるので(前の選挙自民にいれたんだけどな)ちょっと実験してみることにした。

ツイッターネトウヨ垢を作り毎日ネトウヨ発言を2週間ほどして、その上でネトウヨな皆さんに「天皇を焼いた作品はさほど反日意味ないですよ」と振ってみた。

一般人垢な前回はやたら左翼だ!アホだ!反日だ!と返ってきたのに、今回5人ほど送って、誰からも反応がなかった。こいつらどういう思考で動いてたの?人間ウヨサヨしかいなくてどっちの考えも混じってる人間なんて想像できなかったの?何フリーズ起こしてんの?

もしかしてパヨクネトウヨもなんか高尚なこと考えてるようで脊髄反射思考なしに反応してるだけのやつらばっかりなの?

2019-10-13

下北沢税金を投入してバンドマン保護しよう

あいちトリエンナーレのやつ、芸術から権威主義擁護してるやついるけど、これが「下北沢税金を投入してバンドマン保護しよう」だったら全員一致で批判するだろ。

一部の人間の自己表現税金を投入する馬鹿馬鹿しさに気づけよ。

anond:20191013002413

愛知トリエンナーレ議論を見ても分かるけど、芸術表現というのは不快感を覚える人がいることも含めて芸術なんだよ。

2019-10-12

anond:20191012224002

そんな赤味噌しゃちほこトヨタトリエンナーレの地は

民放がいっぱいあってうらやましいだろ?

豊田スタジアムラグビー見に来ていいぞ★

anond:20191012060522

現実的に考えて、

今回のトリエンナーレ以降、面倒ごとを恐れる自治体スポンサーは間違いなく審査基準を厳しくするだろうから

製作者が補助を受けるハードルがより上がったんだよなあ

表現の自由かいふわふわした理念が守られるか否かより、

金銭自由の方が遥かに表現を抑圧する

表現の自由を訴えるという企画の建前とは裏腹に、

日本における表現不自由を一層強化した結果と言わざるを得ないだろうね

anond:20191012060522

ここでいう「自費でやれ」は税金を使うことに対して言ってるので、それを否定するのは「納税者は払った税金の使い方に文句をつけるな」ってことになると思う。


↑このコメントが一番スターを集めているのでコメントしたいけど、それは芸術についての議論と、立憲主義についての議論混同していると思うよ! 僕は法学の方が得意なのでコメントしておくと、納税者税金の使い方に文句をつける権利はあると思う。しかしそれは、個々の芸術に口を挟む政権にこそ向けるべき。芸術に対する判断は、アホには出来ないって言うのが元増田立場だと思うし、現政権にできるわけねーだろと思う。

芸術はその場で鑑賞しなければ、まっとうに批評することができない。図録でわかるのは、そんな作品があったってことだけだ。その作品がどのような芸術性を有していたのかをきちんと判断するなら、その作品に向かい合える空間に足を運ぶしかない。もし僕の友人の作家たちが、図録だけでその作品芸術性を判断されたとしたら、たとえほめられても喜ばないと思う。いや、ほめられたらちょっと喜ぶか。でも、作品本質理解したとは考えないだろう。

その点、今回あいちトリエンナーレに対する補助金交付を決定した文化庁は、我々が芸術をその場において鑑賞する権利を奪っている。すなわち、本来意味芸術批判する権利さえ奪っているという点で、芸術に対する冒涜と考えられる。そのような文化庁の決定に対して、我々はまっとうに税金を使えと要求する権利を有していると思う。

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