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はてなキーワード: 言葉とは

2024-04-19

anond:20240419135916

これはバカがムキになってこの場でひねり出した寝言じゃなくて、受け売りネタ元があるんだよね。

憲法政府を縛るのが立憲主義

左翼は言うわけだが、これは憲法が天与のものでないと成り立たない。

書き換え不能の全てに先立つ規範ってことだからな。

憲法だってしょせん道具であり主権者が自ら作り上げるものだという前提に立てば、憲法あくまガイドラインであって一方的に「政府を縛るものであるはずがない。

憲法も法であり広義の立法権対象である国民主権より上の存在はないので自分自分を律するためにプロセスを二段階にするひと工夫がつまり憲法本質なのだ

まあ増田で言ってもな

【書き換え不能の全てに先立つ規範ってことだからな。】

日本はともかく世界では憲法の書き換えって行われてるし、日本でも憲法改正ルールってのが設定されてるだろ、書き換え不能の天与のものだったら改正のためのルールなんて存在するわけ無いだろ。

どこをどう勘違いしたら「書き換え不能」って言葉が出てくるんだよ笑

バカがムキになってこの場でひねり出した寝言」って感じするわ笑

追記

憲法改正の発議について総務省に書いてあるから読んでみてな。

https://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/syushi.html

anond:20240419133414

うちの会社場合だと、社内全体的には誰も使っていない

自分個人的作業軽減のためにVBAマクロで使ったりする/した(過去形

ExcelVBAマクロの中で CreateObject("DBドライバかなんか") みたいな事やって

DBからレコードを取得してシートのセルに表示させたりとか

ドライバちょっと切り替えるだけで、SQLServerでもOracleでもPgsqlでも対応できて便利

今はOleDBの方がメジャーなんだっけか

本当に最近OracleODBCドライバを試してみた事があったけど、Shift_JIS対応してないようで使えなかった。。。

OleDBドライバ(っていう言葉でいいんだろうか?)を使って事なきを得た

anond:20240419131800

言葉は変わるなんてネットで散々言われてきたし

それなら女性は全くもって弱者じゃないよね

ODBC…?

三流SEを15年以上やってるんだけどこの言葉初めて聞いた・・・

システム関連やっている人おる?

この概念インターフェース?はシステムサイドだと常識レベルなの?

anond:20240419132909

過去の豪遊がまとめられて求心力順当に失ってるんだが、軽率なアホでしょ。

数年後の未来すら考えられないやつを「慎重」にカテゴライズできるような価値観なら、言葉定義が違ったってだけかな。

anond:20240419130637

そもそも憲法で明確に禁止されている違憲軍隊である自衛隊勝手解釈で「専守防衛ならOK」って言い張って保持してるのみならず、

集団的自衛権の名の元に他国への戦争支援にも使役し、さらには武器輸出ですら勝手解釈で解禁するんだから、どっちが馬鹿かって話ですよ。

共産党馬鹿と罵るなら、まずは違憲状態を綺麗さっぱり解消してから言葉を発してくれよ。

林先生北村先生と違って罵倒語の語彙が少なかったから負けたのではないか

北村紗衣先生によると

https://i.imgur.com/AXXpzMo.png

差別的でない強烈な罵詈誹謗の語彙を揃えておくといいと思いますよ。(とても私(=増田)は使いたくない言葉が書かれているので省略)

https://i.imgur.com/6zpSkEI.png

人をクズ呼ばわりするのに法的な根拠は一切いらないと思うぞ。あえて言えば表現の自由かな

とのことですしね。

林先生によるポリコレうんこ学者ダメだったってことなんでしょうかね。

林先生北村先生の認める罵倒語を使ってればセーフだったとか?

個人的にはどっちもアウトだと思うんだけど難しいですね。

anond:20240419124702

弱者男性って言葉言語化してるから差別属性に見えないかもしれないけど人間よっぽどの上位者でなけりゃ(何なら上位者でも)誰しも被差別階級としての側面はある

まあそれ以上いくといじめ被害者やらブラック企業低賃金労働者やら個別問題から弱者男性としては扱わないんだけど

そういうところ無視して「お前は差別されてない」って言うから嫌われるんじゃないの

anond:20240419124029

たぶんね、弱者男性という言葉意味はもう、変わっちゃったよ。

あの頃の影はない。

彼らはもう一度透明化された。

日本人女性と付き合いたいという言葉

アプリで、ある韓国人男性メッセージのやり取りをしていた時のことだ。

恋愛の話になり、彼は前の彼女とは相手配慮尊重が感じられなくて別れたと言った。そして、韓国人女性はそういう配慮をしない、その点日本人女性は幼い頃から配慮するように教育を受けているから良いと思うと言葉を続けた。

生きてきてそんな言葉を初めて直接自分に掛けられた。

現象としてというか、そういう考えを持つ人がいるのは知っていた。海外男性でわざわざ日本人女性を選んで付き合いたいという男性は、そういう考えを持っているから気をつけろと。

でも、実際そういう言葉をかけられるのは、とても悲しく、悔しく、怒りが沸いた。

別に、そうなんですよ~日本女性って控えめな人が多いから~とか適当に返せたかもしれない。でも、できなかった。ここで我慢をしたらダメだと思った。勇気を出して発言しなければと思った。

日本女性配慮があるという説明をそんな風にしてほしくなかった。そういう発言こそ配慮や思いやりがないのではないか?私には大人しくて、従順であるよう教育された日本人女性と付き合いたいという意味しか受け取ることができなかった。

私は、それは良いことなんですか?女の子たちだけが、ああしろこうしろと言われて、男の子は何も言われず育つその結果が。それはちょっと日本人女性に対する偏見ではないですか?こういう話を聞きたくないかもしれませんが、私にはその言葉ちょっと聞くのがしんどいです。と彼に伝えた。

彼は、そういうことじゃないんだけど、お互いに配慮必要で、どちらか一方が無理をするのはいけないよねということが言いたかったんだと笑いながら言った。

ではなぜ、最初からそう説明しないのか。その説明の前に、日本人女性が~という話をもってきてしまうところに、彼の偏見があるというのに。笑ってそのまま話を流してしまえる彼が羨ましかった。

まり、私の言葉が伝わっていないように感じた。彼にとって、私の訴えは聞き流せる程度のものなのだ

そういう説明は、配慮ということを説明するためにはふさわしくないのだと、私たち日本人の女性は、配慮しましょうと教育を受けているのではなく、大人しくしていろと、出しゃばるなと、そういう風に言われて育つんです、それは配慮ではなく、ただ我慢しているんですよ、ともう一度訴えた。

彼は、それは初めて聞いたと、知らなかったと言った。

本当にそうだろうか。

なんだかもう考えるのが辛くなって、私は眠りについた。

いつもネット上で女性の為に、戦っている人たち。私はいつも発言を眺めているだけで何もしたことがなかった。でも、今回、初めて、彼女たちと同じ目線に立てたように思う。彼女たちはどれだけ空しく、終わりのない戦場に立っているのだろうか。その強い意志に支えられ私は今、あなたたちと共に一歩を踏み出した。抗う勇気を持ってみる。

ネット上だけでなく、様々な場所女性の為に活動してくださっているすべての方に感謝気持ちを込めて、26歳の私より)

anond:20240418183612

どっちかっていうと麻雀じゃなくて競馬だろう。

辞書には「見るだけで買わないこと」の意味で載ってるけど、麻雀だと何を買わないのかが分からない。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A6%8B_%28%E3%81%91%E3%82%93%29/

江戸時代からある言葉みたいだね。

他人を自他境界ガーって言葉ディスる奴、厨ニぽくて痛々しい。

十代ならまぁ。

誕生日を祝われるのが嫌いなのだ

誕生日が苦手だ。

祝われたくない。祝うのも得意ではない。

ただ、誕生日を祝う文化自体は悪いものだとは思わないので、他人がお祝いしているのは楽しく見ている。

キャラ誕生日にたくさん投稿される創作物などはとても素晴らしい。とてもしあわせになる。

だが、自分自身誕生日を祝われたくない。どれだけそう伝えても、分かってもらえないことが多い。

なぜ苦手かというと、数々の苦い記憶のせいである。

誕生日にあまり良い思い出はない。

もともと産まれたのが誕生日ちゃんと祝う家ではなかった。時々祝ってもらっても、それは親によるご近所への「ちゃん円満な家庭ですよ」のポーズで、各ご家庭に感謝手紙を書かされたりした。

小学校に入るかどうかくらいのころ、祖母が「あんたの母はケーキも買ってくれないでしょうからね」とニヤニヤ笑いながら渡してきた千円札を、母に素直に渡してしまヒステリーを起こさせたりした。

学校で「誕生日にはプレゼントを渡すのだ」と学んだので、ウキウキでお手伝いをして小遣いをせびり、貯めたお金で買ったプレゼントを母に渡したところ「現金が欲しかった」と言われたりした。

学校プレゼント交換会で「無理なく渡せるもの」という先生言葉に従って鉛筆を一本持っていって、イジメにつながったりした。周りはみな豪華景品だった。

これは世間にとって、誕生日がどれだけ重要イベントかを把握できていなかった自分が悪いが。

あとは、誕生日理由会社コラ画像を作られて貼り出されたとか、欲しいと思っていたアクセサリー自分誕生日浮気相手に贈られた、など。言い出したらキリがない。

そういった細かな積み重ねの賜物で、誕生日を祝われる行為に、さしたる意味を見出せない大人が完成した。

なんなら誕生日という存在嫌悪感すらある。

普通に老けるの嫌だ。

大人なので、とうぜん我慢して世間に合わせた動きはする。おめでとうありがとうくらいは言うし、必要ならパーティだって行く。

ただ、気心の知れた人たちには「できれば理解してくれないかな」と淡い期待をこめて「誕生日は嫌いなので祝わないで欲しい」と伝えてきた。

伝わったためしがない。

遠慮しないでとか言われる。

こっちが祝われたくないって話なんだ!

嫌いなら、これから好きになるような誕生日にしようとか言われる。

昔楽しくなかった時点で今楽しく過ごすのは難易度が高いんだよな。昔の記憶邪魔をするので。

「思い出の上書き」とか無理なんだと気がついてほしい。思い出は全て唯一無二なので、あなたとの思い出も何の代わりにもならない唯一無二である

人間は産まれながら誕生日が好きな生き物、というわけではないと思う。

結局、誕生日特別だって思えるのは今まで生きてきた中で培った能力の一つなんじゃないか

ということで、誕生日が嫌いな人間もいる。

そのへんも多様性ってことで「あーそうなんだね」程度に軽く認めてもらえないだろうか、と思う。

anond:20240419102503

調べて偉い。ちゃん存在する日本語だったろ。「てい(体)」という漢字自体にそのような意味があるから体裁とか体面とか世間体かいった言葉があるわけだ。

anond:20240419091651

おもしろい。

さて、ここで適当検索して既存言論を調べてみる…

信頼(しんらい)とは、相手対象に対し自分の期待した通りの結果が帰ってくることが信じられること。どれだけ信じられるかの定量的度合いを信頼性信頼度という。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%A0%BCtitle=]

(wikipediaには信用の項目は無し)

イマイチ要領を得ない。社会心理学用語として載せられている。ここで調べる先を間違っていたことに気づく。

信頼(しんらい)

1. 信じて頼りにすること。

  • 彼は蝗を捉へるには、それに巧でない方の犬にくらべてもずつと下手であつた。それにも拘はらず、犬どもはそんな事にまで主人の優越を信じて、主人を信頼して居るらしかつた。

信頼 - ウィクショナリー日本語版

信用 (しんよう)

1. 信じて任用すること。

2. 相手言葉を間違いないと見込んで頼ること。

3. それまでの業績などから人や物に対して与えられる評価

4. 支払能力があることを土台にして成立っている、貸借関係

信用 - ウィクショナリー日本語版

wiktionary定義によれば、信頼は一種感情的ものでさえある。しかし信用は、例えば"信用取引"などという言葉があるように、感情ではなく、どちらかと言えば"合理的な期待"に類似することが分かる。

/* だが、信用と信頼を、意識して使い分けている人が、どれほどあるのか?あるいは、ごちゃまぜに認識している人も、いるのではないか?というのも、私もイマイチ意識していなかったために、こうして調べているのだから

例えば「そんな人のこと、信用しちゃダメだよ」この文がどちらの意味を(感情か、合理的な期待か)持って信用という語を使っているのか?それは発言及び人物の背景を見ないと分からないと感じる。

形而上の言葉というのはそういうものだろうか。(哲学初心者)*/

辞書から離れ、では市井の使い方を観察してみる。

信頼とは裏付け担保もなく相手を信じること。 これもアドラー言葉です。 信用というのは条件つきで相手を信じること。(引用元)

アドラー用語として。感情契約という対比がある。

「信用」と「信頼」では微妙意味が違う。前者は損得を計算した上で相手を信じる行為を指すが、後者は利害を超えて相手に身を委ねる気持ちがあらわれている。違いを意識した上で英語に訳すと、「信用」は「give credit to s.b.」、「信頼」は「rely on s.b.」というのが適当かと思う。

 藤田達蔵著「ガイドとの交信マニュアル」の第5章「交信のコツ」の「5自信を持つ」から以下抜粋する:

 一般社会においても、信用と信頼は別ものですね。

 「必ず期日までに返済するならお金を貸してやろう」というのが信用です。それに対して、「きっと返済してくれると信じているかお金を貸してあげよう。もしも返してくれなくてもそれはこちらの責任。君を信頼しているから貸すよ」というのが信頼です。

---

 村上春樹氏は、『村上さんのところ』に収められた読者への返事に自らの考えをまとめた:

 長嶋茂雄さんはかつて「選手は信頼するけれど、信用はしない」という名言を吐かれました。要するに配下選手に対して「基本的にはポジティブに受け入れるけれど、細部に関してはしっかりと疑いの目を向ける」ということなのでしょう。例によって「長嶋語」ですが、なんとなく感覚としてはわかりますよね。

「信用」と「信頼」、「信任」を使い分ける | Web Pages Japanese-English And English-Japanese Wiki | Fandom

やはり対比するときは信頼に感情的な側面がある。

木浦 幹雄 / KIURA Mikio @ANKR DESIGN

@kur

イベント配信を通して下記のような学びを得たので共有します。

https://x.com/kur/status/1780169101731852737

HDMIケーブルはモノだから、信頼は不適当

テツロー

@punpupuuuun

·

返信先:

@bombombomb2017

さん

事例あります(ドヤァ)で終わること多いですよね。。。なんで?って聞くと、信頼性コスト納期ぐらいしか皆さん言わないですし。。。

ただ当方メーカー業界にいるため、そういう形になることが他の業界と比べても多い気がします。

https://x.com/punpupuuuun/status/1781122882816655462

ここで"信頼性"という語を思い出す。これは「reliability」の訳語だろうか。統計やモノ、サービスがどれほど"そうである"という期待を持てるか、というところか。この概念信憑性、確実性とも言いかえられる。やや"信頼"からは離れた言葉のようだ。


話が逸れた。まあ、ここまでの感じを見ると、「聞いた話を元に株を買うことと、株を買うために金をそいつに預けること。」は、双方、信用した結果の行動というところか。

信頼は、信用に先立ち、其の者を信用する理由として働く概念

信用は、必ずしも信頼を必要とせず、例えば過去の実績や、業績などを理由に行うことができる。という感じだな。

で、これは人間法人/組織に対して使うとき用法

モノに使う場合は、"機能を発揮することの期待"(0/1)が信用で、"可用性、もしくは妥当性を期待すること"(1が継続すること、あるいは1が1であること)が信頼かもしれないが、調べたりないし、もう飽きたのでまたいつか。

今日も一つ勉強。君よ、機会を与えてくれてありがとう

どこに住んでるか考えてみた

首都圏で生まれ、働いていた都会民だった私が、とある事情田舎で働くことになった。

田舎といっても、人口数十万で、都内へのアクセスは悪くなく、商業施設は充実している。ただ、車がないと不便で、休日に出かける場所イオンイオンになってしまうような、よくある地方都市である

都内へのアクセスの良い人口20万人以上の都市ってかなり限られる。

そこで1行目に着目すると「首都圏生活していた人が田舎へ、都内へのアクセスは良い」とあり

首都圏より外で都内へのアクセスが良い人口20万人以上の都市がある場所となると候補茨城静岡

都内へのアクセスが良い、という点ではつくば市一択か?

ただしつくば市は元々何もない土地学園都市として開発された経緯から「よくある地方都市」ではない。

そもそも都内へのアクセスが悪くない、と増田が感じてる事自体一般とずれているのではないかと思う。

都内へのアクセスが良ければ休日に出かける場所イオンじゃなくて都内だろう。

それなのに都内に行かずにイオンに行く、車がないと不便な場所は「都内へのアクセスは良くない」。

自分の置かれた状況を理解してもらうために言葉を足しているうちに矛盾だらけになった感じを受けた。

これで実は首都圏でした、とかだったら笑う。でもありそうなオチだと思った。

anond:20240418200740

「疲れすぎた状態」って何か言葉は無いのかな?

疲れたり、運動不足だったり、ストレス過多だったり、寝不足だったり、病み上がりだったり、老化や個人差などで

元気がなく、抵抗力が落ち、病気にかかりやすくなり、自律神経がおかしくなったり、胃腸おかしかったり、不定愁訴がたくさん出るような状態

 

便宜上「疲れてる」って言ってるけど、ちょっと違う気がする

原因もたくさんあるし

 

最近朝にご飯食べたり、薬飲んだりするとドクドクしてそういう状態になる

人口数十万人で田舎はないだろ」って言う人、埼玉を見たことなさそう。

東京ベッドタウン土地だけは広いか人口無駄に多いけど、イオンすら車がないとアクセスが厳しいし、雄大自然はないけど、娯楽施設観光施設文化的資産もなく、特色ある施設と言えば鉄道博物館くらいで、県民は遊びに行く時はみんな東京に出る。東京に隣接しているか東京恩恵は受けられるけど、埼玉県内には戸建て住宅ちょっとした商業施設しかなくアパートですら殆ど見かけない有り様。田舎以外で表現する言葉がないくらいに田舎人口さえいれば都市になるってのはあまり無理筋過ぎる。

出口へ辿り着けない増田住まい泣け吊り戸田へ痴愚で(回文

おはようございます

話題の出口ゲームを私もやってみようと、

そうよ!流行に乗るのこのビッグウェーブに乗るの!

いつもニンテンドースイッチパズルゲーム上海ばかりいや上海だけをやってられないわ!

私もそう話題のそのゲーム

オンラインストア飛び込み前転して入店してパスキーログイン

そんで早速ゲット。

インターネッツときどき見かけるこのドキドゲーム人気があるよっての。

これ以上ネット情報に晒されているとネタバレを喰らっちゃいそうなので、

じゃもうこっちから向かって立ち向かっていって向かってゲームクリアしてやんよ!って思った

とにかく言葉意味はよく分からないと思うけど、

凄い自信なの!

で、

挑戦したけれど一向に出口に出られない!

つーかたどり着けないの、

曲がり角で何が起こるのか?起きないのか恐怖!

1ミリでの違いも見逃さないようにして通路突破しないとまたゼロからなのよ?

今の通路何か違った?ってもう謎、

つーか次コーナーを曲がって何が起こるのかジワジワくる迫り来る初夏の気配と同時に

その迫り来る恐怖が通路に漂っているのよね。

5番まで行ったけど

なかなかその次まで進まないの。

恐怖!

不気味!

いきなり襲っては来ないと思うんだけど今のところ、

すれ違うこの男性いきなりステーキ差し出されたらそれはもう小さな些細な違いを見逃さないので、

引き返すに越したことはないんだけど、

たぶんヒットポイント回復アイテム提供してくれると思えど

このゲームに関しては何もパラメーターがなく

なんのプレイヤー状態情報がなく、

敵にやられんのかやるのか?それもいまだ分からない状況で8番出口を探し続けているのよ。

探すのをやめたとき見つかることもよくある話しでって井上陽水さん戦法!

いや違う違う斉藤由貴さんの夢の中でのバージョンの戦法で

探すのをやめたときに急に周辺の状況が変わってきたり、

え?待つのも松なの?と

一瞬松竹梅の松と竹と梅がどれが一番デラックスかのグラデーションが分からなくなるぐらい待つなの。

明日春が来たらは松たか子さんなの。

だんだん慣れてくると走って通路を駆け抜けて行こうと思ったら瞬時に0番出口の看板に戻っちゃうし、

もうこの8番出口へ行く通路大喜利は、

だんだん数字が重なって増えていくごとに

その違いを見付けられなくなって、

これもしかして歯医者の定休日が違ってる細部まで見んの?

ライブの日程の日付や料金の違いも細部まで見んの?って

もう何が何だかからなくなってきて、

ずーとずーっと同じ通路を繰り返し通り続ける、

B牛チー牛を彷彿とさせる

違う違うそうじゃないのってマーチンも言いそうな勢いで違う

B級ホラー映画のようで抜け出せない部屋から延々と彷徨うって感じの閉じ込められた恐怖が迫り来る初夏より恐怖だわ。

これってもう分かんないけど、

やるからはいつか8番出口から脱出したいものよ。

この通路の何が起こるか分からないけど何か起こったら怖い恐怖大喜利

ネタはいくらどのぐらいたくさんあるか分からないけど

付き合っている女性と揉めたときのくだりで

私と仕事どっちが大切なの?って尋ねられて黙って自分の唇で相手の唇を塞ぐような戦法は使えない、

どっちとも言えない何か分からない仕掛けがたくさん仕掛けられていて、

想像もつかないわ。

これはじっくりやって変化を見付けて8番出口から出なくてはって思うの。

私にもクリアきっかな?って思うけど

スイカゲームはあまりスイカの大きさでフィールドが満杯になってその手前のメロンだっけ?それで画面がパンパンになって到底スイカまで到達できない諦めたことがあったけれど、

私は8番出口から脱出できまくりまくりすてぃーになれるように脱出したいわ。

もう恐怖におのののかだわ。

ってそれはかつて東京ドームビール売上ナンバーワンの売り子さん!

幸いにも続け続ける中毒性はなく、

いつでも気持ち次第で中断やめたりすることができるから

それは幸い中の幸い番地一丁目よ。

でもどんどん数字が大きくなるほど小さな違いが見付けられなくて、

この単館映画しかやらなさそうなホラー映画話題になって全国区になるかのストーリー駆け巡るサクセス的な

人気の上がり方だけど、

しっかりと通路歩って違いを見付けて私は8番出口から絶対に出てみせるわ!って

誓ったの。

誓っただけで必ずやるとは言ってないところが味噌よ。

料理さしすせそで言うところの味噌よ。

ちょっと難しいけれどでも頑張ってみるわ!

絶対8番出口からでて

新宿駅でさ地下からここだ!って思って出た出口から見た地上は、

つんバス停しかなくて、

え?ここじゃなかったかも地上に出る出口!

って間違った出口から出ることが多くて、

目的場所ピンポイント真下の出口から出るのと同様の難しさは新宿の比ではないかも知れないけれど、

それと比べると随分8番出口を探すのはいっそのこと簡単かも知れないわ。

都心のここの出口から地上に出ればここのはず!って全然違うところに出たとき

なんか浦島太郎感と言うかそういった感じの否めなさは

8番出口より強まった難しい出口を思わずはいられないのよね。

うふふ。


今日朝ご飯

今日は無しよ。

事情があって食べてはいけない朝ご飯だったので、

エア朝ご飯もぐもぐって感じかしら?

からお腹がぐーっと空いたわ。

つーか今残材進行形能動的にお腹が空いているわ。

ランチはだからその分楽しみまくりまくりすてぃー。

デトックスウォーター

グレープフルーツ炭酸ウォーラー珍しいの店頭に並んでいてもなかなか買ってゲット出来なかったものを買っておいたのに、

事情があってそのグレープフルーツ炭酸ウォーラーも飲むことが出来ずじまいで、

でも準備していなかったって言い訳をしたいわけじゃないの。

実際にちゃんと準備をしていたけれど、

事情があって今朝は飲めないのよ。

から分かって欲しいの。

明日飲むわ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

大同言葉を繰り返していい感じにしてるやつ

HUNTER×HUNTER

キレイキレイ

あと一つは?

武漢肺炎という何時のまにか死語になった言葉

悲しいなぁ

言葉に対するイメージがわかない

例えば俺は麻雀がすきなんだが、麻雀雀荘という言葉賭博とか酒タバコイメージ内包されてる人もいるらしいが、俺はそういうのがない

このように、人が持っているような言葉に対するイメージが全く持てないらしい

良い意味でいえば偏見を持たないし、悪く言えば危なっかしい世界に入り込むきっかけになってしま

から偏見を持てる人が羨ましい

熱いものを持って熱いと感じる危機意識があるように俺もその危機意識がほしい

他人一方的愛情を向けることの気持ちよさと恐ろしさについて

一方的愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元キャラクター」だとか、そのあたりのことだ。

から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。

近日、「蛙化現象」という言葉があたかミームのように流行った。流行ったそれ自体誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。

あるとき自分分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。

これが、適当意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすとき根底にあるんだろう。

己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である

から、「自分いちばん近くで自分理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。

ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。

から、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。

本題。

私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。

特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである

ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。

自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。

私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。

元々はAの紡ぐ言葉けが大好きだった。

世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズ自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。

そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。

要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。

から凄く辛い。

自身尺度他人の持つポテンシャル性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。

なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。

Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空人物言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。

ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。

自分特に好きなAの言葉は、主に後者だ。

とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路バックグラウンド空想してしまう。

まあ、ただ考察するくらいなら至って個人自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。

どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライド自分性質がそれを許してくれない。

薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。

私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。

だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。

私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。

拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察事実であろうと、他人が私の秘めたる感情時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。

Aの言葉は、結構これに類するものが多い。

自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。

そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉自分の中で大事大事仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。

あくまでも自伝であるのに、その言葉共感したり感銘を受けている私が。

だけど、好きなのである。どうしても。

人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉性格に惹かれる。

けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。

から絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。

私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。

乱雑でこんがらがったままだけれど、自分感情を推察する余地他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。

最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである

他人一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとから好意を受け入れたい。自身根本を推察されることを拒絶したくない。

とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。

このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います

なぜ絵師は生成AIを憎むのか ~機械翻訳との類似性に着目して~

絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。

審美眼がないねんお前ら

暴論だけど、言ってしまえばこの一言に尽きる。

少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。

絵を描くときには基本的目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。

これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲン意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。

でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。

最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラスト凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。

リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師別世界棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである

だがしかし絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。

それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。

他の、著作権がどうのという問題は、絵師共通で抱えている嫌悪感すり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。

冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。

少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。

おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。

当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。

最近は、どうみても実写丸出しの自称アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。

どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替え問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。

だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ

このままだと何様だよで終わるので釈明させてくれ

この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。

それが機械翻訳翻訳者関係性だ。

機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。

これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語論文機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。

小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。

そうした現状にあるのに、海外製品公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。

これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。

なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。

その結果、ネットには不正確な日本語が溢れている。

日本話者にとって、日本語の質なんてどうでもいいからだ。

それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージ存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。

この関係性が、生成AIとその消費者層に類似している

というわけだ。

現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。

さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。

彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージ市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分市場に支持されているのだと信じることができた。

が、今は違う。

生成AIから出しただけの画像手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまたからだ。

から自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望理解できる。

そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像クオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。

高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげ画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。

そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージ理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術評価してくれない」という絶望世界だ。

それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在伝統製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。

その絶望を「肯定派」は理解せず、やれ既得権益がどうのと批判を繰り返す。そうした後にやってくるであろう世界も知らずに。

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