2010-11-26

http://anond.hatelabo.jp/20101125232316

間が開いてたからもう見てないものと思ってたが、えらく丁寧にレスを考えてくれてたんだな。

 また、貴方が最終的に仰りたいのは、恐らく『自我と他我との断裂は埋め難く、それ故にレッテル自己内面との差異を言語によって証明することは不可能なのではないか?』ということなのだと私には思われました

このあたりについてはまさしくそのとおり。

溝を埋めることができたと思っていたのならば、それはただの自他混同か、レッテル貼りの延長にすぎない。

本当に埋めることができたとしたら、それは自我と他我の境界がなくなったということであって、それはやはり自我はないのか、他我を排除したのではないのか、というループに陥る。

人を理解する努力はできる。

しかし人を理解することはできない。

そういった矛盾だな。

逆を言うこともできる。

人を理解することはできない。

しかし理解する努力をすることはできる、という。

なんかこんなアニメ昔あったな。

それはいいとして、だからこそ、レッテル貼りというものに関し、ナンセンス一言で済ませていいものなどないと思っている、というのが俺の結論だ。

完全にあんたと同じものかどうかは分からんが、この点に関してはこのツリーでも別ツリーでも一定の認識のすり合わせはできたものと考えている。



さて、提示された部分について。

自己定義づけるのは人の目による観測が前提であり、その観測により生まれる関係性が自己を生み出す、ということで良いだろうか。

では自分の目による自分の観測はできないのか?

自己定義自己で行うことはできないのか?

発達心理学において、自己確立の過程には他者の目を通した自身の姿の認識を経て、自己による自己認識確立に至るというものがある。

これはあんたの言うところの関係性の産物であるというものを指していると言えるだろう。

また、他者の目を通さないと自己自我)が存在しないのかというとそうではない。

これは

すなわち『レッテルを貼るという行為における地平を超越した地平に、自我存在するのであり、そもそもそのようなことを証明する(レッテルを否定する)必要はないのだ』という言説です

これを表しているな。

このたりについて、何も異論はない。


質問を投げかけておいてなんだが、実のところ俺も答えることのできるものを持っていない。

しかし、一つ言えることがある。

というのも、それは『自我とはそもそも言語化するべきでないものなのだ、あるいは自我とは言語化できない存在なのだ』という言説です

かにそのとおり。

自我を語れるか、と言われて語れる人間は恐らく存在しない。

しかし、自分自分について「何かを認識している」わけだ。

ここにポイントがあるんじゃないか

自己認識しているのは自我はなく、鏡に映った自分の姿、ある意味、人の目を通した自分の姿であり、自己自己レッテルを貼ったものだからだ、と言うことができる。

これは

我々の自己意識自我)が、ある単独なもののみによって構成されることでは、存在し得ないからだ、ということが言えるでしょう。

 すなわち、自我存在する方法としては、ある単独のものを用いるだけでは不十分なのです

 そして、相補的な二つのものにおける関係性としてでしか人間自我存在できないのでしょう。

というあんたの考えに近いものではないかと思っている。

自己自我)を構成するためには単独では成しえない。

では「自我についてレッテルとの差異を証明する必要は無い」のか、というと、それは違うと俺は思う。

必要なのは自己自我)が自身に対して貼ったレッテルと、他己(他我)が自身に対して貼ったレッテルのすり合わせじゃなかろうか。

溝は埋まらない、しかし縮めることはできる。

それがある意味自己証明となるのだと考えるんだがどうか。



これに関して特に返答は必要ない。

あんたと俺の間での「すりあわせ」はできたものと思っている。

長々としたものになったが、中々楽しかったよ。

記事への反応 -
  • そのナンセンスなことをしているのが、レッテル貼りではないのかい?

    •  貴方の発言を肯定するには少々私の想像力に不足が見られますが、およそその通りだと思います  レッテル貼りとは、意味のないもの同士を比較し、そこに意味を見出す行為であると...

      •  貴方の仰るところの『ナンセンス』とは、つまり『別々のものは、同じである』(矛盾した命題である)ということに対する指摘ですが  私が言うところの『ナンセンス』とは、『別...

        • 別々のものは別々のものであるから、それを同一視するのはナンセンスであるというのは自我に基づくものであって、他我の存在を無視していることに繋がる。 ではレッテルを貼られた...

          • 別々のものは別々のものであるから、それを同一視するのはナンセンスであるというのは自我に基づくものであって、他我の存在を無視していることに繋がる。  正直に言うと、この...

            • 間が開いてたからもう見てないものと思ってたが、えらく丁寧にレスを考えてくれてたんだな。  また、貴方が最終的に仰りたいのは、恐らく『自我と他我との断裂は埋め難く、それ...

              •  なるほど私が実存主義的な側面から自我について論じたのに対して、貴方は心理学的パラダイムから自我について論じてくれたのですね。  他者の視点と自己の視点、自己の自己に対...

            • 横だけどマルクスのイデオロギー論以降、実存主義とか構造主義とかポストなんたらとか変わりながら連綿と続くあれだよねそれ。

      • いや、必ずしも相手を下等な物と見なしている訳じゃないよ。 だって考えてご覧よ。 なにかにつけていちいち隅々まで情報を把握していたら、キリがないだろ? だから、脳みそって...

        •  その通りなんですが  私自身がレッテル貼り(ものごとを単純な構造として把握すること)を行うとき、そこに優劣の序列を付けてしまいそうになるのです  というか、序列付けを全...

          • 横だけど 私自身がレッテル貼り(ものごとを単純な構造として把握すること)を行うとき、そこに優劣の序列を付けてしまいそうになるのです だったら、優劣の判断基準を複数(なる...

            •  なるほどいいアイディアですね  発想の転換というやつでしょうか  ただし、厳密な意味における、『真の公平性』を発揮することは、やはり仏陀の所業としか言いようがないでしょ...

          • 遅れてきたけど、先にトラバした増田の言うように、序列づける基準を複数持っていればいいんじゃないかな。 もっとも、その基準にも優劣を、、、と考えるとややこしくなるけれども...

            •  面白いアイディアだと思います、もとい、同意できます。  基準において優劣は存在するのでしょうかね? 何となく、自明として優劣が存在しないような気がするのですけど。いわ...

              • たしかにああは書いたが、自明、かどうかはわからないけど、それに近いぐらい基準に優劣はないかもしれない。 いくつかの基準があったとして、対象を判断するのにどの基準を当ては...

                •  仮に、無意識の領域においてまで、基準における優劣が存在するとしたら嫌な話ですね  それは他でもなく、我々のあらゆる価値判断が恐ろしく恣意的であるということなのですから

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