間が開いてたからもう見てないものと思ってたが、えらく丁寧にレスを考えてくれてたんだな。
また、貴方が最終的に仰りたいのは、恐らく『自我と他我との断裂は埋め難く、それ故にレッテルと自己の内面との差異を言語によって証明することは不可能なのではないか?』ということなのだと私には思われました
溝を埋めることができたと思っていたのならば、それはただの自他混同か、レッテル貼りの延長にすぎない。
本当に埋めることができたとしたら、それは自我と他我の境界がなくなったということであって、それはやはり自我ではないのか、他我を排除したのではないのか、というループに陥る。
人を理解する努力はできる。
しかし人を理解することはできない。
そういった矛盾だな。
逆を言うこともできる。
人を理解することはできない。
なんかこんなアニメ昔あったな。
それはいいとして、だからこそ、レッテル貼りというものに関し、ナンセンスの一言で済ませていいものなどないと思っている、というのが俺の結論だ。
完全にあんたと同じものかどうかは分からんが、この点に関してはこのツリーでも別ツリーでも一定の認識のすり合わせはできたものと考えている。
さて、提示された部分について。
自己を定義づけるのは人の目による観測が前提であり、その観測により生まれる関係性が自己を生み出す、ということで良いだろうか。
発達心理学において、自己の確立の過程には他者の目を通した自身の姿の認識を経て、自己による自己の認識・確立に至るというものがある。
これはあんたの言うところの関係性の産物であるというものを指していると言えるだろう。
また、他者の目を通さないと自己(自我)が存在しないのかというとそうではない。
これは
すなわち『レッテルを貼るという行為における地平を超越した地平に、自我は存在するのであり、そもそもそのようなことを証明する(レッテルを否定する)必要はないのだ』という言説です。
これを表しているな。
質問を投げかけておいてなんだが、実のところ俺も答えることのできるものを持っていない。
しかし、一つ言えることがある。
というのも、それは『自我とはそもそも言語化するべきでないものなのだ、あるいは自我とは言語化できない存在なのだ』という言説です。
確かにそのとおり。
自己が認識しているのは自我ではなく、鏡に映った自分の姿、ある意味、人の目を通した自分の姿であり、自己で自己にレッテルを貼ったものだからだ、と言うことができる。
これは
我々の自己意識(自我)が、ある単独なもののみによって構成されることでは、存在し得ないからだ、ということが言えるでしょう。
では「自我についてレッテルとの差異を証明する必要は無い」のか、というと、それは違うと俺は思う。
必要なのは、自己(自我)が自身に対して貼ったレッテルと、他己(他我)が自身に対して貼ったレッテルのすり合わせじゃなかろうか。
溝は埋まらない、しかし縮めることはできる。
これに関して特に返答は必要ない。
あんたと俺の間での「すりあわせ」はできたものと思っている。
長々としたものになったが、中々楽しかったよ。
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