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はてなキーワード: 近代法とは

2024-03-30

  2005年頃から、 法学者加藤らが小出しに準備してきた法学入門という本に、 近代法は、常識から隔絶された場所存在しているし、暴力的強制装置であり、

  警察官は滑稽なものである・・・、 法解釈立法はすぐれて技術的専門的であり・・・ 一般人の分かるものではない・・・という記載がある

    しかしここでいう、法が、常識から隔絶された場所存在していることが、フェルマー定理が、整数論の中でも、いわば骨董品であり、あの、ポールエルデシュですら、解く価値はない

  として放置されていたものと、法が、同一のものなのか、そこまでの解説はない

2024-03-20

anond:20240320144043

結構ずらすけど

連座制なりエルサルバドルギャング対策なりアフガンを始めとする中近東政治情勢なり、

近代法原理原則有効有益社会情勢の閾値って結構興味深いと思うんだよなぁ

一応ラディカルもといリベラルからもその要請は強いし

2024-03-09

anond:20240309090256

カスでも救いましょうというのが近代法理念といえども、現場事務負担は目茶苦茶重たいのよ。

収支や家に出入りしている人間やあれやこれや、クソ分厚い国の通知を参照しながら計算しないといけないわけ。

与え過ぎたら国や県から怒られるし、少なかったたら訴訟リスクある。クソだろ?

生活保護に限らず、給付行政って基準を刻みすぎなんだよ。

刻めば刻むほど理論的には平等公平なんだろうが、そこに国県市町村がアホほど労力かけてんのよ。

そういう非生産的事務は終わりにしよう。

なんでもかんでもざっくりの定額制にしてくれ。

2024-03-08

anond:20240308115827

逮捕ときは、ワザとのほうが悪いことになってるんだぞ。

 

親鸞倫理観近代法レベルまでついてこれてなかったというわけ。

2022-11-20

なんだっけ。忘れないうちにメモ


最近ゴッホ絵画など芸術作品トマトスープをかけたり、ウォーホルアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激抗議活動が耳目を集めている。

ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。

もちろん許されない犯罪として国内外報道されているわけだが、しかし、海外メディアでは、テロという表現ラベリング)は少なく、抗議団体自称するCivil resistance市民抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道ニュートラルに構えているのだろう。

そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285

しかそもそもテロという認識日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。

https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/

そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代人権歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。

この問題は二つの視点から興味深く、注視している。

ひとつは、抗議のコンセプトの抽象性。

もうひとつは、抗議運動市民社会的な価値

抗議運動抽象性について。

https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャストストップ・オイル活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイル選択した理由を次のように説明する。

「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たち優先順位絶対的おかしいということを言いたいのです。アートに美を見出しギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」

アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である

この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。

アリストテレス時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。

これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。

そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。

しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。

おおざっぱにいうと、日本人経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉定義からまり指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人自分からみると)。

組織でも、経験常識が共有できていないと不安なのが日本人

一方、構造化された概念ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモ過激運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念オルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。


そのもうひとつ理由が、市民不服従という考え方や人々の認識の違い。

日本人社会迷惑をかけるのがとにかく大嫌いなのだ

欧米では、恐らく日本人想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体価値社会変革のダイナミズムとして認めている。

それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動趣旨理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。

この違法性というのは、実は重要視点。それを理解するには、市民社会根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。

近代から現代20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。

日本学校では昔から社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。

しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。

他者危害禁止近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗暴力性を認める市民権が存在する。

考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命トリガーになりかねないボトムアップ暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府おかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚絶妙バランスで持たせる機能果たしているともいえる。

マルクス時代、そしてワイマール憲法時代社会権を育んできた思想運動社会歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗暴力資本主義社会のなかで、たまたま労働キーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマシステムビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日SDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。

なので、抵抗暴力労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメント市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。

ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。


一方日本では。

労働」というキーワード戦後日本ははじめて市民不服従権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈

GHQの五大改革から。勤労者から労働者への主体認識の転換。

しかし、その権利過激行使は、1950年代から60年代大衆の心を猛烈にイラつかせた。

日本高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。

民間では、1960年三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争ストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。

国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれ暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識支配的になるきっかけだったんだろう。1973年最高裁は、それまでリベラル保守裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。

ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。

その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。

例えば、正規雇用非正規雇用ギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップ非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法さらメタ視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。

歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタ視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権普遍性憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法思想根拠はと問われたときフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションオーナーシップの違いとも思える。)

欧米環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。

既存規範に書いてないものであっても、新たなムーブメント意味真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。

そのムーブメント暴力性を違法認識しつつも、時代ダイナミズムとしてとらえようとする、というか。

繰り返すと、

・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。

憲法など国の根本的なシステムアップデートするのに必要社会ダイナミズムへの関心の低さ。

この二つをひとまとめにして、斎藤平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。

2022-07-18

家族浪費癖を阻止する方法はないのか

浪費する家族から財産処分管理権を剥奪して弁護士などの代理人が代わりに執行する制度はないものか。

現行の成年後見制度認知症などで判断能力がなく、法律行為ができない場合にの限定されており、単なる浪費では個人自由とみなされて利用できない。

成年被後見人まで行くと職業制限も出てくるし一旦契約してしまったら死ぬまで続くし、利用するにはハードルが高すぎる。

昔は禁治産者という制度があって浪費者の財産管理権を家族が奪って家族が代行して本人の財産処分管理を行うことができた。

そういうのが十分に機能していれば今回のような事件は防げたのではないか

しかしこれが行き過ぎると近代法原則である自己責任契約自由私的自治自由競争」が根底から崩れてしまう。

個人選択国家によってどこまで統制され保護されるべきなのか。

心神喪失者でなくとも普通判断力を持つ健常者であっても、

消費者契約法などで契約を取り消しできるように保護されている。

2022-07-09

anond:20220709083154

民主主義じゃなくて「揉め事実力行使ではなく対話解決する主義」への挑戦だわな。

これを「民主主義」と言えなくはないが、近代法国家法治主義、ぐらいが頑張ってもまあいいところだな。

2022-05-06

中絶禁止の流れへの反論の何がおかしいのか 反論への再反論

https://anond.hatelabo.jp/20220503215621

アメリカ宗教右翼言及していない等等』

言及する必要が無い。人権敷衍してこの問題を考えれば、プロライフ派になりやすく、胎児人権人間規定恣意性と言う重要問題を孕むこの問題を、女権拡大の意味合いからそれらの問題をまるっきり無視しているのがプロチョイスである

宗教的頑迷問題になるのは、宗教的教義信条が、近代法根底にある人権思想人権原理毀損する場合であって、そうではない場合からクレームは、単に個々人の思想信条に過ぎない。善意からであろうが悪意からであろうが法理的に矛盾があるのであればそれは矛盾があるのであって、個々人の内面の思いにフォーカスするのは、それこそ宗教的悪魔である。内心のことは証明可能性が皆無であり、相手悪魔視してリンチしてやろうと言う下種な自身の心情をまずは問うべきではないか

プロライフ派とプロチョイス派の争いは人権派と女権派の争いである。近代法に適合している人権派が、自らの内心の潔白を証明するべき理由は何もない。

女性人権無視している』

無視していない。女性身体自由権胎児生存権比較して胎児生存権により重篤公益見出しているだけである

すでに体制ビルトインしているので女性意識しない傾向にあるが、男性に対する法的優遇措置は皆無である女性に対する法的行政優遇措置は多数ある。女性専用車両についても、その経済的負担身体労働からの転換物であるので、より寿命の短い男性たちに「女性権益のために奴隷労働を課している」と言う面が多々あるが、それらは公益のためには正当化され得る受忍限度内の責務とされているのである

中絶の件は、一方に乗せられているのが生存権と言う極めて最重要権利であるため、通常一方的保護される立場女性が、公共の福祉において市民的な負荷を課せられるべきであるというだけのことである

昨今、問題になっているトランスジェンダーの扱いの件、ハーグ条約関連の問題重要人権案件のほぼすべてが女権と人権対立周りにおいて生じている。これは女権が人権に根差しているのかどうか、女性市民社会の構成員としての責務を果たす覚悟があるのかどうかが問われているのである人権に根差さない女権は人権毀損するのでナチズムのものである

かに寿命の短い男性に課せられている負荷は受忍限度内とみなされるのであれば中絶案件受忍限度である。子を産んだからと言ってマクロでは女性寿命は1年も縮まない。そもそも子を産むかどうか、それに至る行為をするかどうかの選択肢を与えらていての話である

私は女子大学存在性差別のものでありとても問題があるとは考えているが、男性である私が支払った税金女子大学に注がない選択肢はない。

徴兵制アナロジーがしっくりこない』

徴兵制アプリオリ人権侵害と見なされていないこと自体問題なのである徴兵制の根幹は、不可避性である逃げられないと言うことだ。

徴兵で生じる給与はその不可避性を正当化しない。また、「ならば妊婦にも給与をくれ」と言う言い草ナンセンスなのはことことから自明であるが、母体保護法やそれ以外の立法措置行政支援において、既に給与相当分は得ているとも見なせる。逃げられないのは無関係第三者だ。

もしこのアナロジーで男女対立を煽るのであれば、それは中絶問題ではなく「産む性」としての保護優遇女性が得ていること自体問題視されるべきであろう。そして「負担をイーヴン」にするのであれば、産まなかった女性たちは、徴兵忌避者や脱走兵がそうされるように収監されたり銃殺されることを甘受すべきであろう。

それらの反論がまったく成り立っていないのは、そもそも不可避性を満たしていないからだ。

食べて働いて眠って、だけであれば絶対妊娠しないのである妊娠することをしない限りは絶対妊娠しないのだ。

それでいうならば徴兵制中絶禁止よりも「ひどい」と言うことになる。そして徴兵制アナロジー自体は今も公式非公式に残っている。「男は女を守れ」と言う強制である

男性にも罰を与えよ』

与えればいいじゃないか、としか思わない。ただそれは妊娠した女性vs妊娠させた男の間で発生するものであって、どうぞ好きに民事裁判でも何でも起こしてください。現行法でも可能だ。

中絶コンフリクト妊婦胎児との間で発生するので男は、胎児にとっては無関係、というだけのことである

※元記事は間違いなく私が書いたものであるが、私は5/3には記事は書いていない。つまり現在ブクマされている元記事赤の他人が私が書いた複数記事をまとめて、再アップロードしたものである

anond:20220505235151

[追記]

ちなみに現行の、アメリカにおける中絶合法化根拠になっているロー判決は、「中絶権がある」とは認めておらず、中絶禁止する州法は、当該女性に対するプライヴァシー権の侵害であるとする、いわば「財産権保護」的な意味合いでの調整が行われているだけである女性中絶権を犯しているか中絶禁止州法違法なのではなくて、プライヴァシー権の侵害である

プライヴァシー権は憲法にも関連法にも規定はなく、判例に拠るしかいかなり弱い権利だ。歴史的にも新しい権利であるが、ロー判決批判する意見としては、この判決が新たにプライヴァシー権なるものを「立法」した立法侵害であるとする説がある。連邦最高裁がかなり通常よりは踏み込んで逸脱していることは間違いない。

そこまでしても、中絶をし得る法拠はプライヴァシー権と言う、場合と状況によってはかなり緩くしか扱われない権利であって、近代法母国アメリカでは注意深く進められていることは留意すべきだろう。

2022-03-18

anond:20220318085156

外国でも痴漢はあるけどな。それと法理的な話だから必要かどうか」は関係ない。法理的に普通近代法では通らないと言う話。

2021-12-24

anond:20211223171928

自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。


日本における死刑議論において、当然のように前提となっているのが「司法復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。


しかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?


結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2

https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1


もう一つは、西洋における死刑歴史を紐解かなければいけません。


西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。

これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。

なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。


また西洋における近代法人権の考え方として、国家権力というもの暴走し、それを個人市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります

フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります


よって、西洋諸国家には国家あくまで法に則して虐殺恣意的死刑執行した歴史があり、その反省として死刑廃止トレンドになっているという経緯があります

日本でもたまに、政府高官不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力暴走による死刑です。

冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。


ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑けが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。

刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。


例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。

・「司法歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」

・「法律Hackして悪さをする権力者が出るかもしれない」

・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)


しかしこれは日本では受け入れられないでしょう。

司法歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない

 ⇒知らねーよ輸入したんだからこちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。

法律Hackして悪さをする権力者が出るかもしれない

 ⇒法律って市民が悪いことしないようにするもんじゃないの?

死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない

 ⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑絶対正しいマン


これは日本人が法律に疎いと言っているのではないですよ。

日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。


私も親や配偶者子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います

光市母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景テレビでよく見ていました。

非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。

そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います


「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパン法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います

2021-07-15

飯塚幸三さんは犯罪者ではない

被告刑事裁判中に死亡した場合公訴棄却となり判決はでないらしい。

氏はおそらく判決前に亡くなられるので、有罪にならないままの無罪の人として以後語り継がれるのだろう。(この事件以前に有罪判決を受けたかは知らない)

裁判とは存命中人間有罪無罪判断有罪なら量刑判断をするところらしいので死んだら裁判を続ける意味がないのだという。


然るに、われわれが修飾的に大悪人犯罪者、極悪と言う言葉を使っても、存命中に裁かれなかった人は(死後の評価別にして)無罪の人ということか。

具体的に誰とは思いつかないが、ヒトラー毛沢東ポル・ポトあたりが国家単位で悪そうなことをしたと言われそうかつ死亡状況が受刑以後ではなさそうな人だろうか。

こと独裁者と言われそうな人はその立場から裁かれる前にこの世を去ることができるのだろ。

民主主義国家でも韓国の廬武鉉元大統領自殺により逮捕を逃れることが出来たそうだ。


日々のニュースでは推定無罪意識容疑者を不当に扱わないようしていても、歴史上の人にはなかなか考えが及ばなかったと反省することろだ。


余談だが、そうなると近代法が成立した以後の世界最大の犯罪犯罪者というのはイメージよりも小さなものかもしれないと思った。

2021-02-01

anond:20210201084828

今の政治家に「主権在民が間違ってる」とか、「国民権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たち基本的考え方です。」

とかみたいなのが憲法改正チームから飛び出していて国民主権や天賦人権否定して近代法無視して十七条憲法まで引き戻されるから憲法改正やめたほうがいいって話だと思うが。

実際本当にやめたほうがいいとおもうもの

2020-09-19

anond:20200919092336

復讐、仇討を考える時点で対象は絞られてるし、死刑廃止したら自力救済に走るだけじゃないの(なお近代法国家による応報刑論は排除されており、建前上は復讐の要素は一切ない模様)

2020-06-10

anond:20200609170307

なるほど俺は基本哲学知識に基づいて書き込みしたけど、法学で言うところの「内心」は意味が少し違うのだろうか。

 

心身二元論に基づいている気がするが、考えてみれば、近代法現代ではなく近代にできたんだからデカルトの影響下にあるのも当然かもしれない。

2019-12-11

anond:20191211234841

自然法は神がそのように被造物に与えた秩序それ自身のみを存立の根拠としているので、誰のためのものでもないぞ。

近代法学の人定法も人間の理性が自然法発見するところに依拠しているのだし、まずは我々が神の被造物であることを認めるところからはじまる。

2019-05-21

anond:20190521094519

うーん。一個前の増田だけど、俺は「性/生殖」の話はしたが「性愛」の話はした覚えがないなあ。「性/生殖」に絡むパートナーシップ(すなわち1対1の子作り関係)と、育てる-育てられるというコミュニケーションからまれる親子の情的な何か、が「家族」と言われるものの原点と思ってるし、そこに「愛」なるものが入り込む必要はもちろんないと思うね。その点は同意するよ。


そして、性も愛も親子の情も全部一緒くたにぶちこんだのが近代家族像であって、それが近代国家が求めた社会の最小単位だった、というのは確かなところだよね。だから近代制度規定する「家族」なるものがそういう近代不自由さを背負っている(だからそんなものにこだわる必要なんてない)という元増田の話は、実は俺は結構もっともな意見だとは思ってる。ただ、現行法の下にある現在「家族」の姿全てが、近代国家が求めた(つまり新たに作った)「家族」像かというと、必ずしもそうではなく、そこにはもう少し古い時代から伝わる「家族」の姿が入り込んでいるだろうと思うし、それはそんな簡単に変更できないと思うんだよ。だからこそ、「同性」によるパートナーシップを結ぼうとする人々が「結婚」という形式にこだわったからといって、必ずしも近代的な結婚制度に囚われた迷妄とかではなく、もっと古い時代から伝わる「家族」の姿を踏襲することにこだわっていると捉えてもいいんじゃないかと思うのだ。

それはなんというか、「自分背中を任せられるあったかい生き物に寄り添い、寝食を共にすることの喜び」みたいな、そういうもの。「結婚」って、赤の他人との間でそういう「家族」を作る契約じゃん? 「新しいパートナーシップ」とやらは、そういうものすごく原始的私たち感覚に、本当にちゃんと寄り添えるのだろうか? そこを疑問に思うのだ。

2019-02-09

anond:20190208224333

なるほど。

ただ近代法国家はいうに及ばず極端なはなし狩猟時代から社会基盤のほぼすべては人間思い込み欺瞞で成立してるよね。

子供の頃からあらゆる決まりごとが内面に刷り込まれてるから何も疑問を抱かなくなってるけど、わりとぶっ飛んだ珍妙世界わたしたちは生きている。

増田が「役に立つウソ」に対して感じる面倒くささは、そういう社会生活上の利益のためにたまたま出来上がったプロトコルに対するバカバカさなのかもしれない。

2018-10-18

anond:20181018164418

本人に責任のない親の罪で殴るのって近代法国家の行いでしたっけ?

現代俺らが近代法国家に生きているのは先祖がそれを獲得したからなわけね。つまり現代俺らが近代法国家に生きている」ってのは先祖遺産なわけよ。増田はその先祖遺産をあたか所与の権利のように振り回しているけれど、所与でも権利でもないのよ。遺産なだけ。そして遺産を受け取った以上、望むと望まざるとにかかわらずその歴史的経緯という連鎖継承せざるを得ないわけ。「近代法国家の行いでしたっけ?」なんて都合よく遺産を利用しておいて、負の側面を拒否しようというのは卑劣行為よ。

増田個人オタクでありもしかしたら弱者男性で、遺産から大きな利益を受け取ってないというのは事実かもしれないけれど、そんなの何の関係もないのよ。「現代人(遺産継承者)だ」というだけでもうすでに「関係者」なのよ。その歴史連鎖否定することも逃げることも誰にもできないっていうだけ。

オタクは「男性ゆえのメリット」も受けてないんだから殴られるのは間違ってる。

反撃するのみ。

そもそも増田という個人メリットを受けてるから叩かれてる」なんて妄想は誰から挿入されたの?

何度も言うように公平性原理から、男女お互いに殴り合えばいいし、それは歴史的経緯があるってだけの話だよ。そして殴り合うときに、戦術的に見て、相手のチームの弱いところを攻撃するのは合理的でしょ? それだけのことになにか正当性とか倫理性をもちこもうとする増田おかしいよ。

anond:20181018163945

現代に生きる男性全ては、過去存在したすべての男性歴史的意味での先端にいるわけ。

まり過去の全男性が作り上げてきたジェンダーロールという遺産継承者であって、すべての利益(まあ不利益も)を得ているわけよ。

それは望むと望まないとにかかわらずそうであって、それら遺産をうけとったうえでその遺産形成する上で過去におこなった戦いの遺恨だけは拭い去れってのは無理なわけ。

本人に責任のない親の罪で殴るのって近代法国家の行いでしたっけ?

増田自分の受け取った遺産について都合よく忘れて「おれは無関係だし手を出したことない」と口清く言うけれど、

現代に生きている現代人って言うだけで過去がべっとり全身にくっついてるわけよ。それを理由に殴られてるわけ。

オタクに「男性ジェンダーゆえのメリット」なんかないだろ。

寧ろもっと男性ジェンダーから遠い男性

もちろんこのへんは男女主語を入れ替えても成立するから、それを理由女性を殴っても(公平性観点から言えば)問題ないよ。でも「おれは無関係だし、戦闘から降りる」だけは許されないわけ。

オタクは「男性ゆえのメリット」も受けてないんだから殴られるのは間違ってる。

反撃するのみ

2018-10-08

やっと#metooに「推定無罪理解しろ」とベタツッコミが入った

性的暴行疑惑C・ロナウドポルトガル首相擁護。「推定無罪理解すべき」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181007-00292128-footballc-socc

 国を代表する大物スタースキャンダルについて、コスタ首相にもコメントが求められた。同首相は、現時点ではあくま疑惑しかないことを強調しつつ、C・ロナウドを信じる立場を取っている。

推定無罪原則理解すべきだ。疑わしいだけでは誰かの罪を責めるには十分ではない」とコスタ首相。「我々にとって確かなのは、彼が並外れたプロフェッショナル、並外れたスポーツマン、並外れたサッカー選手ということだけだ。ポルトガル名誉をもたらしてきた」と続けた。

世界中で#metooという名の私刑がまかり通っていたが、ここにきてようやく公人がまともな見識を述べるようになった。

カバノー氏の連邦最高裁判事就任と併せて、ぜひともこの首相発言が「推定無罪」「疑わしきは罰せず」「自力救済禁止」という近代法大原則に立ち返るきっかけになってほしい。

2018-10-04

https://anond.hatelabo.jp/20181004143708

ごく簡単にいうと、教育勅語は、「帝国憲法」によって形作られた近代法国家を、

道徳的に補うために、同じ時期、同じ人物が起草した。

井上毅という。だから井上毅の目論見を考えないと教育勅語本質なんて分かるわけないのだが、

井上はあまりにも難しくて、一般向けの伝記がない。

から、「現代にも通じる要素がある」とか、どうでもいい表面的な理解しかできなくなる。

詰め込みすぎの観がある教育勅語。その中で最も重要な一節を、

当時の御用学者の多くは、「克ク忠ニ克ク孝ニ」だといっている。

忠孝一致、つまり天皇に使えることと、親に仕えることに「全く」矛盾はない。

これぞ万世一系日本のみの特質中国にも西欧にも日本が優れる所以だ、という主張になる。

江戸後期以来の、古典的国体観ですよ。

わかっていってるならいいよ。それを、

教育勅語友達大事しろってかいてあるから、今も使える」とか

井上元田永孚が聞いたら泣くよ。そんなことはどうでもいいんだよ。

あの時代人達は、建前と半分わかっていただろうが、残り半分は真面目に必死に、忠君愛国をしていたんだよ。

2018-09-29

anond:20180926185210

イスラム教の人はこう思ってると思うよ。

「多分、近代法国家が一番の問題なんじゃないかね。イスラム法矛盾しちゃって。」

2018-08-08

anond:20180807093823

西欧諸国イスラム移民教育で「リベラル」なイスラム教徒に変えて、近代法支配女性の権利を受け入れさせる戦略を取ってるんじゃないの?

なんだかんだでヨーロッパまれ二世以降の価値観近代人になってるそうだし。

一部がテロに奔るのも母国より生活水準が上がれば文句なしの親と違って、周りのヨーロッパ人と自分たちは同じ権利を持つはずなのにって怒りからだろうし。

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