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はてなキーワード: 演目とは

2015-12-26

他人の子

子供が通う幼稚園生活発表会に行ってきた。園児がこの日のために一生懸命練習した歌や踊りを保護者披露するのだ。ここの幼稚園園児数が多く、市で一番大きなホールを借り切って行う。

自分の子供の出番はそれはそれは楽しいもので、涙さえこぼれそうになるほど感動的なのだが、他人の子舞台は正直苦痛しかない。

サラッと書いたけど、苦痛なのだ

合計3時間の会で自分子供が出るのが姉妹合わせて30分ぐらい。残りの2時間半は、他人の子ホント辛い。どうも感情的フラットではなく、マイナス側に振れるようだ。去年もそうだった。

終わった後、知り合いのお母さんに、「○○ちゃん(うちの子)上手やったねー!」といわれても、こっちは相手の子がいつ出てたのかさえ知らないもんだからあははは。と言うしかなくて、ちょっと気まずい思いをした。

人の親としてどうなのよ。と自分でも思うが、実際そうだから仕方がない。

いったいなぜなのか?ちょっと考えてみた。

まず、全く興味のないもの強制的に観せられるのは苦痛。というのは誰もが思う事だろう。

では、なぜ全く興味が無いのか。

切り分けたいのが、これが例えば大物演出家が園側にいて、エンターテイメントとして完成されたものであれば、それは誰が出ていても楽しいだろう。当然だ。

でも実際は知らない子供が歌ってるだけだ。お父さんお母さんに見せるため一生懸命練習したんだろう。でも他人の子というだけで全く響いてこない。自分はこんなに冷酷な人間だったのか?

そして、長い。ひとつ演目で長いものだと30分とかだ。こういう事はこの会の趣旨として違うとは思うし、求めてもいけないとも思うのだが、もう少しテンポよくやって欲しい。

ひとつホールでやっているのも原因なのかもしれない。舞台と客席。上で書いたように観る側はつい自然と興味や楽しさを求めてしまうのではないか。

授業参観形式各自教室でやればいいのにと思う。

いったい誰の子なら楽しいと思えるのか。友人、兄弟会社の人の子ならどうか。

からない。

他の方はどうなんだろう。特に父親の方に聞いてみたい。

2015-12-24

http://anond.hatelabo.jp/20151224145916

ムキになってるとこ悪いけど

江戸除夜の鐘が鳴るまでの掛取りの攻防~とか嘘だからね。


だいたい常識的に考えて欲しい。

1年スパンの掛取りとかおかしいと思わん?

そもそも大晦日より前に当然取り立てるよね?


1年待ったあげく除夜の鐘鳴ったらまた来月って

江戸業者はどんだけ資金に余裕があるんだよ?

普通にやったら間違いなく資金パンクして潰れるよ。


あんたの言ってる話のネタって落語なんだよね。

江戸を題材にした演目が一杯あるから勘違いされるけど

落語江戸を学ぶのは大間違い。

演者だって江戸のことわかってないんだもん。


そもそも除夜の鐘自体東京で普及したのは昭和に入ってからだったりする。

今の落語には除夜の鐘も登場するけどね。

それは昭和落語家演出したんだよーん。



んで、そんな変な話鵜呑みにして東京を敵視してるあたり

あんたが都市部に出たことあるってのは嘘っぽいなあ。

地方から出てきた学生友達と年越しする時にそば食うってのが想像つかないし、

典型的な「田舎に一生住むから地元至上主義の人」特有の強張りに満ちてるんだもんあんたの話。


それにぃ、

大晦日に年越しソバを喰う習慣というのが、わたし地方にはまったくないもので、年越しソバCMを見るたんびに不思議に思っておりました。

ずっと田舎にすっこんでたら、東京人もレッツパーリィしたあとの〆にソバ喰ってるもんだと思ってますよ。

学生とき東京に出たから、大晦日ソバだけですます地味さに驚愕したわけです。

で言ってることが矛盾してるしね。

辻褄考えずに即興で嘘付け足しちゃあダメよ。

2015-12-14

忘年会の出し物で女装した

ま、それはさておき、

女子社員の何人かに写真撮られたんだけど

中には一生懸命演目動画で撮ってる人らもいて、

彼女ら、それ撮って後で何に使うんや?って思った

2015-11-05

教えて! 京都人に「ぶぶ漬け」を出された人はどれだけ実在する?

http://anond.hatelabo.jp/20151104213705 冗談が通じない相手と話すと疲れる

これを見て気になったので、よければ教えてほしい。

まず、「京都ぶぶ漬け」について語る上で、下記の知識は知っておいてほしい。

 ・「ぶぶ漬け」は上方落語の一演目ネタであること

 ・ネタは「早く帰ってほしいから、あえてもてなす」ことを逆手に取ったネタ

 ・「早く帰ってほしい=ぶぶ漬けを出す」という習慣は京都にない

  (「早く帰れ=もてなしを無理して用意するのを遠回しに伝える」ならあるかも)

 ・現在京都お茶漬けを「ぶぶ漬け」と呼ぶほぼ人間はいない(1万人に1人いる?)

その上で知りたいのだが、「実際に京都人ぶぶ漬けを出された」という方がどれだけいるのだろう。

なお、に最近だとお茶漬け京都っぽい料理として楽しむ人が多く、テレビにも高級茶漬けなどが取り上げられるため、

「帰れ」ではなくむしろ、「おいしいのあるんやでー」という意味で、ぶぶ漬けネタも気にせず出す人はいる。

繰り返すが、まず「ぶぶ漬けを出す」という古来の風習もないし、現代では「ぶぶ漬け」なんて使わないし、

大半の京都人お茶漬けからぶぶ漬けは直結しないのだ。(ちょっとラグが生まれる感じ)

なので、もてなしでなく、「帰れ」という意味お茶漬けを出された人に限るが、

これは実際のところどれだけいるのだろう。

これが気になったのは、上記の匿名ダイアリーブックマークコメントで以下のような発言があったからだ。

京都出身の方の家にお邪魔して、リアルお茶漬けを出され、その意味に気付かずにさらに長時間居座った俺が通りますよー

この発現を別に「嘘つき!」と糾弾したいわけではない。(なので、上記引用idを書かない)

実際、私も東京で「おまえ京都人? この前、京都人茶漬けを出されたぞ」と知り合いから因縁を付けられた経験がある。

個人的にはかなり疑問が浮かぶし、身の回りでも四十年間聞いたことはないのだが、知人を疑うのは嫌いなので信じたいと願う。

正直、京都の真ん中に長年住んでいても、隣近所のもてなし事情まで知り尽くしているわけではない。

あと思うのは、この「ぶぶ漬け」が新しい文化として成立している可能性だ。

京都もある程度の都市ではあるから流出入は激しいし、他地域の人が連想する「生粋京都人」なんてクラスに数名レベルだ。

から、「京都っぽい振る舞い=ぶぶ漬けを出す」という新しい文化が生まれているのかもしれない。

いや、それは考えすぎで、単にステレオタイプを誤っているのにもかかわらず吹聴するひとが多いだけなのか。

から聞きたいのだ、実際にぶぶ漬けを出された人がどれだけいるのか。

よければ、ブクマコメントなどでよりくわしく教えてほしい。

新しい文化誕生しているなら面白いが、ステレオタイプからかわれているだけなら、

ネットでこれだけ「ぶぶ漬け話」を多く目にしてしまうのは京都人として悲しい。

でも、耐えて流すしかないんだろうな。

2015-07-08

ちょっとした不快感

とある団体で発表する演目の話になった時だった。

メンバーからアンケートに上がってきた希望の中に、個人的には好きだけど、まず普通は上がらないものが含まれていて、友達

「これ数十年続いてる団体歴史の中で初めてじゃね?」

絶対最終候補に残らないだろうけど、なんか嬉しい」

と盛り上がったのだが、そこで他の友人から

「実は今回同様、かなり昔アンケート結果に上がったことがあったんだよ。あっさり落ちたけど

と言われて、なんだか水を差された感じになってしまった。

事実を伝えているだけなのに言い方の問題なのだろうか、なんとも嫌な気分というか、一瞬「喧嘩売ってんのか」くらいに思ってしまったが、何が良くないのかうまく言語化できずにモヤっとしている。

それから、この言い方は世間一般的にやはりNGなのだろうか、それとも自分感覚おかしいのだろうか、そこら辺も気になる。

2015-05-26

演目が嫌でも通う、舞台俳優ファン

舞台俳優のファンは、「通う」人がとにかく多い。

自分の贔屓が素晴らしい演目に恵まれて良い役を貰った時も、そんなに面白くない舞台で出番が少ない時も。席を埋めることに使命感を感じているファンは多いと思うし、きっと贔屓に顔を覚えられている人も沢山いるだろう。健やかなるときも病めるときも支える、という意識が強いんだなぁと思う。

しかに、どんなときも支えてくれるファンは心強い存在なんだと思うし、空席よりは誰かが座ってたほうがいい。そういうファンの人はきっと毎日手紙を書いて贔屓を激励しているし、あたたか笑顔で贔屓と接触しているだろう。出待ちとか、握手会とか。

でも、初演にしても再演にしても、情報解禁された時点で演目に対して文句ばかり言うのは、どうなんだろう。

舞台が開幕して観劇してから言う文句は、いくらでも言ったらいいと思う。しかしまだ始まっても居ないのに、こんな舞台は嫌だとか期待できないとか、マイナス言葉ばかり。そりゃあ、贔屓により素晴らしい舞台に出てほしい気持ちは痛いほどわかる。それでも、彼らだって言われるがままにその舞台に出ているわけではなく、己の決断でそこに立っているのだ。決めたのは、彼らだ。

当然、ファンは情報の時点で散々文句を言ったその作品にも、贔屓が出演しているので通う。不安なら観てから増やせばいいチケットを、既に何枚も持っている。(まぁこれは、万が一面白かったときチケット完売を恐れての保険かもしれないし、埋まらなかった席を自分が埋めている優越感かどっちかはわからないけど。)

嫌なら行かなきゃいい。でもそういうわけにもいかないのが舞台俳優のファンの複雑なファン心理だということもよくわかる。

「それでも私はチケットを買った」という顔をして、連日座席に座る。

それは、ちょっと濁っていて嫌だな、と思った。

2015-01-18

http://anond.hatelabo.jp/20150118003130

理解」で合ってるよ。

阿蘇市長はSEKAI NO OWARITOKIOもしっかり理解して好きになったか演目に選んだんだよ。

2014-08-23

どぶろっく痴漢関係」を読んで、思ったこと

Love Piece Club - どぶろっく痴漢関係

http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html

話題になっていたので読んだ。

とりあえず、流し読みされやすテキストだと思った。

タイトルタレント名前が入っているので、人は集めやすいだろう。

下ネタ芸人の“どぶろっく”と性犯罪代表格“痴漢”という組み合わせもいい。

週刊誌における下世話な見出しを想起させる。

だが、肝心のタレントの話は、後半にならないと始まらない。

前半は自身痴漢体験談と「なぜ痴漢痴漢をするのか」という話。

興味深い話ではあるが、下世話な話を期待している人間にははっきり言って退屈だ。

その結果、適当に流し読みされて、間違った解釈をされるハメになる。

的を外した反論などを受けることも少なくないらしい。

話題になったテキストには、よくあることだが……。

特に“膜”についての話が話題となっている。

田房氏曰く、

「彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、
自分世界自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ」

という。

意見としては面白いが、論拠に乏しい。

引用している書籍取材されている強姦加害者は1人だけで、ケースとしては不十分だ。

それ以外では筆者の経験取材を論拠としているが、自己完結の域を出ていない。

「感じ」「感じた」という仮説的表現を多用していることが、その印象をより強調する。

それでも妙に説得力が感じられるのは、筆者の秀でた表現力が故だろう。

連続して「あの感じ」を使用するくだりは、映画を思わせる迫力すら感じさせられた。

実にドラマチックである

続けて“どぶろっく”について。

痴漢加害者の思考を“膜”の論理自己完結した筆者は、

これをどぶろっくネタもしかしてだけど』と重ね合わせる。

ここで筆者は『もしかしてだけど』の例として、次の二つを挙げている。

電車で前に座ってる女が白目をむいて寝ているが、もしかして、俺の股間を見て失神したのではないか」
「夜道で前を歩いてた女が、こちらを振り返って急に歩くペースを速めた。もしかして、俺を招くために部屋を片付けたいんじゃないのか?」

もしかしてだけど』を観たことがある人なら分かると思うが、

ここで用いられているネタは『もしかしてだけど』の中でもかなりエグい。

これらのネタは、全体の後半で用いられることが多い。

ソフトな『もしかしてだけど』に飽きてきた観客に向けられたカンフル剤的な役割を果たすためだ。

それがメロディ歌声もない言葉だけの状態で表記されているのだから

どぶろっくを知らない人には印象が良くないだろう。

事実Twitterでは、どぶろっくを知らない数人の方々が不快感を示していた。

YouTube公式動画が公開されているから、URLで紹介しても良かったのではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=qj3bCb4a_9w

当然、それでも不快に感じる人はいるだろうが。

「そんなどぶろっくがこんなに老若男女に大人気なのは痴漢などの性犯罪に関する知識が日本の世の中に浸透していないことの表れである。」

“膜”の論理を用いて、筆者はどぶろっく人気をこのように評している。更に、

「「どぶろっくを笑う世界」には、痴漢などの性暴力存在しないことが前提になっている。
同じ世の中にそういった被害は実際にあるのに、その被害とどぶろっくは別々のもの認識されていて、
観ている人たちの中で、まったくつながっていない。」

と、どぶろっくを受け入れている世間に対して言及している。

今年の4月になって“膜”と『もしかしてだけど』を結び付けた人とは思えない。

自らのことを棚に上げて、よく言えたものだ。

そして筆者は、

性犯罪者のことを「異常者」「一生治らない病気」「性欲によるもの」と片付け、
社会全体で無視し、代わりに間違った認識だけを広めているためにその実態を知る機会がない。
つまり性犯罪というもの性犯罪被害者に対してもマトモに向き合ってないということである。
そして社会全体が「女性に対しての侮辱」に対して徹底的に鈍感なことが、どぶろっく流行を力強く支えている。」

結論付ける。

社会全体が「女性に対しての侮辱」に対して徹底的に鈍感」であることは否定しない。

が、その理由として、『もしかしてだけど』の流行だけを用いるのは、些か無理がある。

そもそも、

「例えば、お笑い芸人ギターを持って
「老人の家に孫のフリして電話して助けを求めてみたんだ もしかしてだけど 間違えて俺の口座に振り込んでくれるんじゃないの」
と歌っても、面白くないし不謹慎だしお笑いとして成立しない。
それは、「オレオレ詐欺」という犯罪が実際にあることをみんなが十分に知っていて、
その犯人はこういう発想で犯罪をしているということがパッとつながるからだ。
そして同時に「老人に対する侮辱」も感じ、不快な気持ちになる。」
女子中学生痴漢に遭って「マジ痴漢ってなんなの?! ムカつく!」と言いながら、
どぶろっくを見て笑っている、という状況は異常だと思う。」

などの記述から察するに、筆者は演芸に関してまったくの素人だ。

少なくとも、犯罪モチーフとしたネタは少なくない。

古典落語の分野を見ても、『穴泥』『置泥』『締め込み』『出来心』など、

泥棒主人公演目は数多く存在している。

現代若手芸人たちも、犯罪を取り扱ったネタを幾つも発表している。

例えばおぎやはぎは、「俺さぁ、結婚詐欺師になりたいんだよねェ」とのたまい、

結婚詐欺師になるための方法を二人で思案する漫才を作っている。

しかも彼らのネタの中では、かなり評価が高い)

筆者は立川談志は「落語は人の業の肯定である」と言ったことはご存じだろうか。

ことによると、毒蝮三太夫存在すら知らないのかもしれない。

女子中学生のくだりも同様だ。

痴漢経験したことによる恐怖と怒りを、笑いが超越する可能性を完全に無視している。

それが果たして異常だろうか。

我々は、我々が経験した哀しい経験を、世の中の全ての作品に反映しなくてはならないのか。

不幸にもそうなってしまった人もいるだろう。が、そうじゃない人もいるだろう。

そういう人たちは異常というのだろうか。

性犯罪者を異常と切り捨てる世間批判した、その口で。

痴漢に対して苛立ちを抱いていることは理解できる。

だが、その感情正当化させるために、“演芸”という他ジャンルを荒らすようなことをしてはいけない。

最後に、重箱の隅だが、

私も2008年どぶろっくの「男の妄想」芸を観たときから面白いと思って笑っていた。どぶろっくが好きだった。
だけど、2011年から痴漢に関し調べるようになり、今年の4月に「刑事司法ジェンダー」を読んで、
やっとどぶろっく自分が遭っていた痴漢被害がつながった。
10代の頃からあんなに痴漢に遭っていたのに、どぶろっくを観ただけでは分からなかった。

どぶろっくが好きだった」という人が、

「やっと」「どぶろっく自分が遭っていた痴漢被害がつながった」という表現を使うだろうか。

別にいいんだけど。

2014-07-11

http://anond.hatelabo.jp/20140711150931

続き。踊り子とのトラブルは、踊り子人間的罵声をどれだけぶつけたかにかかってくる。

踊り子の中には職務じゃない趣味、と言い張りながら一差し舞う人もいて、これが混乱の元になる。

人間感情を虚飾の中に見いだすのではなくそのまま彼女の素顔と扱わせる演目があった時、恵まれた立場にない増田の中にはつい生の感情を出してしまう者もいる。

彼ら二者の姿は、途端に芸術性を帯び、多くの観客がそれに見いる。踊り子着物の袂にはたくさんの銭が押し込まれ、名演を称賛する声があがるが、踊り子に罵声を浴びせた彼にその声は聞こえないし、彼女の袂を重くする札束も見えないのだ。

何よりあわれなのが、彼に投げられた小銭の数々で、キラキラと輝く銀貨や銅貨すら、彼は気がつくことな

失意の中、一エキストラとして舞台を降りることはもう決まっているのだ。

2014-06-24

なんかワラタ

かなりいろいろ書いてるけど、きれいにスルーされてるせいでエントリ痕跡すら残されてないw

憎まれてるんですねえ、私w

なんで憎まれてるかさっぱりわかんないんですが。

歌舞伎演目はもう終盤かいな。

2014-04-08

大学オーケストラをやろうと思っている新入生へ

まず、あなた大学オーケストラをやろうと思っている理由は何ですか?

友達に誘われて?大学デビュー?新しい分野にチャレンジしたい?高校でやってた?

理由は何でも構いません。クラシックに興味を持っていただけるだけで私は嬉しいです。

そんなあなたの素晴らしいキラキラした瞳を「こんなはずじゃなかった…」と濁らせないために少し話をしようと思います

まず、初心者の方。努力出来ますか?

ピアノを弾いていた方なら憂鬱基礎練習を思い出していただければ言いたいことはわかるでしょう。

運動部だった方、自分技能を上げるためにそのスポーツをやり続けるだけでなく、長時間筋トレなどがあったと思います

弾きたい曲が努力なしで出来るわけがありません。

ただ、弾けた時の感動や舞台で浴びる拍手の音には何物にも代えられない価値があるように私は思います

一つ一つ先輩に手ほどきを受けながら習いましょう。

大学ほどにもなると大抵経験はいます。上手く弾けなくたって構わないのです。あなたスピードで練習していきましょう。

焦って形にならなくて結局何だったのかわからないまま終わってしまった…と言うのが一番避けてもらいたい状況です。

大学オーケストラ定期演奏会があると思います自分が乗る曲の好きなフレーズを見つけ、「ここだけは弾ける」という部分を決めて…と言うのも極論としてはアリだと思います

周りの人に流されず、音楽を練習し、勉強し、その中で楽しみを見つけられればと思います

次に、経験者の方。貴方の主義や性格にそのオケは合っていそうですか?

あなたの入ろうとしている大学オケ過去演目を調べてください。知らない作曲家がいますか?

意味の分からない演目があったら歓迎会などで先輩にそこはかとなくその曲が決まった経緯を聞いてみましょう。

そのオケの抱える問題が見えることがあります

あとこれは新入生の方にも言えますが、サークル費を調べてみましょう。

低すぎるのもどうかとは思いますが、若干高めな上その印象を抑えるために比較対象都内私大オケになっているものには気を付けてください。

(その手法を使っているオケが全て悪いとは言いませんが)

サークル費の高さはどこに流れているのか注意が必要です。ホール指揮者トレーナー先生に充てていると言うのなら大丈夫でしょう。

ただ、サークル費を稼ぐためにバイトを頑張って単位を落としたり身体を壊しては元も子もないのです。

学生の本分は勉強です。自分限界相談をしながら楽しい大学オケ生活を楽しんでください。

言いたいことは実際はこのくらいだけです。

オーケストラは50人、100人規模の「アンサンブル」です。指揮者コンサートマスターなどの存在はありますが、大人数で1つの音楽を作り上げる中で他では味わえない感動があります

そして、音楽を通して様々な事を学んでほしいと思います技術感情、人との交流…そこには様々なものがあります

辛いことも、嫌なこともあります。人が多くなればサークルの中でも苦手な人・嫌いな人は出てくるでしょう。

その人と何とかやっていくのか、辞めるのかは貴方次第です。

音「楽」という字面だけ見て、音楽は楽しまなければならないモノだと思い続ける必要性ははありません。

自体にも悲しみやジレンマ表現したものもありますし、音楽が全て楽しいものだとは私は思いません。



同期や先輩、後輩との楽しい時間

指揮者トレーナー人生経験

オーケストラほど「音楽」と言うもののために、これだけ多くの人と交流するは他にはないと思っています

貴方の4年(6年)が楽しい大学生活と共にあることを祈っています






最後に皆さんが失敗しないために私の知っている2人の学生オケ「失敗経験者」の話をしたいと思います

後味の悪い小話ですので気分を害したくない方はここまででお帰り頂いた方が良いかと思われます

また、これはどちらも大学以前にクラシック経験があった知り合いの話ですので初心者の方には参考にはならないかと思います

(さらに、当人たちから聞いた話ですのでそのオケの悪い部分だけが誇張されている可能性も否定できません。)

それでは、1人目から

1人は割と厳しい高校吹奏楽経験者で、(わかる人にはわかるかもしれませんが)吹奏楽部のようなドロドロとした中でひたすら技術音楽理解を追い求めて行ったタイプです。

彼女が入った大学オーケストラは割とゆるめのほんわかしたタイプオケでした。

定期演奏会は有名作曲家を並べたもので、オケメンバーもやる時はやるもの基本的には飲み会やおしゃべり多めといった雰囲気だったそうです。

彼女は2年目以降は(練習の鬼と言えばいいのか)練習一辺倒になり、周りから頼られつつも1歩引かれていたように感じていたそうです。

彼女最後まで大学オケをやり切り、音楽だけは楽しかったと言っていました。

私としては個人的には仲間や先生方ともっと楽しんで欲しいかったなと思います

2人目は逆にポップス曲や有名曲をやってきた高校オケ経験者で、入った大学オケが性に合わなかったと言っていました。

そのオケ技術メインで(技術一辺倒が悪いとは私は思いません)、各パートトレーナーが付くほど本気な大学オケだったそうです。

彼は経験者と言うこともあり、サークルの枢軸といいますか、選曲などかなり重要な部分に関わっていたようです。

しかし、オーケストラトレーナー名誉顧問(?)のような人に半分牛耳られていて、定期演奏会の曲の案を出しても中々許可が下りず、毎回1,2曲不本意な曲を入れて妥協していたようです。

(夜な夜なサークル選曲係系の幹部と一緒にヤケ酒をしていたとか。)

[これが定期演奏会のの演目を聞けと言った理由です。]

彼はさらに、高校オケ音楽雰囲気大学オケ頭でっかち音楽ギャップにも耐えられず、役職交代のタイミングで退部届を出したそうです。

後味は悪いですが、話をこのぐらいで閉めさせていただきます

(回避するためにインカレと言う手段もありますね。インカレはそれはそれで苦労はありますが、私は悪くない選択だとは思います。)

年寄り妄言最後まで耳を傾けて頂きありがとうございました。

これを見た人の中には「これは全く馬鹿げた意見だ!聞く必要もない!」と言う人もいると思います

様々な人が音楽に、学生オケにそれぞれの思い入れ・考えを持つことは当然の事ですし、私とは真逆の事を思う人間がいることにも何ら疑問はありません。

ただ、こういう意見があると言う事を頭の片隅に入れて頂ければと思います

私は皆さんに学生オケをするなとは言いません。むしろ積極的に参加して欲しいと思っています

ただ、意欲的に参加したサークル憂鬱な4年(6年)を過ごす人がいないこと望んでいるだけです。

皆さんは大学オケ選びに失敗しませんように。

2014-02-25

http://anond.hatelabo.jp/20140225091724

確かに、フィギュアよくわからない人には何のこっちゃになる状況なのかも。

浅田選手は最終的に6位で確かに思ったような成果ではなかったのかもしれないけど、彼女フリープログラム世界で最も難しい構成をしていますトリプルアクセル女子選手で跳べるのは現在彼女だけで、過去にも跳べた人は4人だけととても難易度の高いジャンプです。

実際、フリープログラムでは浅田選手の基礎点は全選手の中でもトップでした(全選手の中でのフリー順位は3位)。採点は「技術点(基礎点+出来栄点)+構成点=総合点」で行われます採点競技問題点でもあるのですが、フィギュア場合は後半に滑る選手にどうしてもジャッジは点を多くつける傾向にあります浅田選手ショートミスが響き前半滑走でしたので、ノーミスで素晴らしい演技をしたにも拘らず出来栄点と構成点があまり伸びませんでした。

結果的にはフリー3位、総合6位なわけですから、確かにここまで騒ぐほどの結果ではないと思われるのもわかります。ただし、それは本当に結果だけでの結論であって、フリーに限って言えば歴史に残るぐらいのものすごい偉業だったわけです。

それと、どうしても長年フィギュアを見続けている者にとっては、浅田選手がずっと逆境に晒されてきた状況を知っています彼女に不利なルール改正が数多く行われました。それにも文句ひとつわず、苦手なジャンプを練習してきたこと彼女の肩を持ちたくなるフィギュアファンは、とても多いと思いますフィギュア芸術的な要素が強いとはいえやはりスポーツですから、難しいジャンプや苦手な要素を克服し、努力する選手を称賛したい気持ちになるのは致し方が無いことなのかもしれません。

特に彼女は既に二度トリプルアクセルに失敗していましたし、前日のショートはひどい出来でした。直前の練習でも身体が固く、これはもうだめかと誰しもが思っていたところでした。それが、フタを開けてみれば、ノーミスで美しい、最高の演技だったわけです。実際私も前半の段階で大泣きしておりましたし、今でもそのシーンが映るとちょっと泣いてしまますフィギュア好きにとっては、感動なしでは見られない最高の演目だったわけです。ナショナリズムの欲目もあるかもしれませんが、正直なところメダリストの誰よりも記憶に残る滑りでした。

…とはいえ、本当にフィギュアファンでもない人には、ただただ演技を流してスタジオで泣いてるアナウンサーが「真央ちゃんすごい」って言うだけでは、さっぱりわからないと思います。きちんと何が凄い、ここが良かった、という解説があれば、多少は違うのかもしれませんが。日本メディアの軽薄さは自分も実感しているところです。

2014-01-07

http://anond.hatelabo.jp/20140107173220

から増田の言う協力プレイってなんだよ。一緒に酒を飲んで笑うことか?

違うだろ。 演奏屋は言われた場所で言われた演目演奏をすればいい。 それ以上になにか必要か?

 

一緒に酒を飲んで笑わないと 相手を信じられないとか ありえないだろ。 どんだけ人間不信なんだお前ら。

2013-07-09

安藤美姫さんについて

安藤美姫出産にまつわる騒ぎについては、なんでこんな騒ぎになるのか分からんという感じだった。けど、アイスショー演目曲が『ママへ』というタイトルだと聞いて、なんかちょっと面白くなってきた。

最近、こういう自己陶酔的なパフォーマンスというか、『若気の至り』的なニュースって、あんま無かった気がするんだよな。こいつ、後々のこと何も考えてねーだろなっていう。打算とか下心なく、ただただ自分世界に入り込んでんなっていう。

個人的には、長い人生のうち、こんな時があってもいいと思うけどね。青春やん。『あの頃、ちょっとおかしかったわ』と、笑いながら振り返るような過去があったほうが、いい人生だと思う。

たぶん、めちゃくちゃ父親の男性のことが好きなんだろなー。恋は人を狂わせるよな。おれも25歳のとき、狂ってたな…。

うーん、きっと共感してんだな、俺。はは。

2013-06-11

「正しさ」を標榜して社会運動をしてる人を見放して、その人達の行っている運動には近寄りたくないと思うとき

それは他人の言動を「脅迫」「暴力」「勤務先への電話」等で押さえつけようとする行為

これを行ったもしくは行う事をwebでほのめかしている人やそれに賛同したり正当化している人達が目立つクラスタには

近寄りたくないし、その人達が行っている社会活動も正しさを隠れ蓑にした反社会的勢力と看做している

いくら良さげな事を言おうが共感できない

他人に「善意」の共感や強制を押し付け行為

先鋭化してる人達教育の「格差社会」というものを感じてしま

影響力のある人の言葉をただなぞるだけの人たち、他人の作ったデータを刷り込まれ続けるだけの人たち

ネット大衆意識が今何処に向かっているか狭いクラスタに閉じこもって空気の流れを読めない人たち

ネット大衆が次にどんなパンとサーカスを望んでいるのか 与えるべきパンの種類とサーカス演目を間違えている人たち

そういうのが分かっていれば、クラスタから抜け出して人から眉を潜められる行為をしなくて済むんだろうけどね 

抜け出せないだろうよ 狭いクラスタ内での共感意識の気持ち良さから

前に一度注目を集めた人がネットでの影響力を維持しようとどんどん過激な言動に走っていく行為についてダイアリーに書いた

ネット論壇で何かの意見を通そうとして常に影響力を保ち続けようとした結果が、大衆コンテンツエネルギーを消費され尽くして

「過激さ」「惨めさ」までコンテンツとして提供してしまい、SAN値すっからかんになっていく人達を見てると常に物悲しい

スターを夢見る路傍のパフォーマー

 

影響力も若さと同じく永久不変の物では無いのに

 

2012-07-28

文楽問題に関するいくつかのこ

以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、

大阪の文楽問題をめぐる公開メールを一読して

文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。

文楽大阪市補助金だけで成立しているのではない

産経の記事によれば、

橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース

 同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。

記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。

大阪市補助金カット後、別名目の補助を出す可能性がある

公開されたメール記録から。池末浩規参与3月24日メール

http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html

③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化芸術に関する補助についての委員会名称未定)により決定する。

③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。

ただし、同じく池末参与6月5日メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)

文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります

文楽守れ!=(国も地方も)税を入れろ!となりがちです。

文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。

→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。

そうなると若手育成も国では?

→本来はそういうことになります

また若手育成について、国 と地方役割はどうなのでしょうか?

→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪奨励金を出す考え方もあるかもしれません。

将来、技芸員が自分の子息に芸を継がせたいと思い、家業として芸の継承が出来れば安定するのでしょうね。

市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。

文楽では過去様々な新作が作られてきた

文楽伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。

文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。

そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。

こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。

例えば歌舞伎演目コピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。

またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトコンパクトにまとめられている。

素人控え「操り浄瑠璃史」

 その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。

 昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。

 この反響の大きさに驚いたのが、本家文楽である人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである

 よく復曲といわれるが、昔通りの演奏復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七コンビ主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。

 上演すると、元禄の初演当時のようにお初徳兵衛の純愛葛藤が評判を呼んで、興行的に大成功を博したのである

これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人ハムレットテンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書福音書物語文楽で、といった試みまである

まり文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。

したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである

なぜ文楽が他の「伝統芸能」「大衆芸能」と同じでないのか&なぜ継承が難しいのか

しばしば、歌舞伎落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。

まず、文楽音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎竹本葵大夫さんが軽く書いている。

歌舞伎義太夫の世界

人形芝居で創りだした演目歌舞伎流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中お召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。

今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。

もちろん実力の裏付けがあってこそで、

 ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎演目文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。

ということになる。

葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃皇室関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣い吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。

繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。

しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか

また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。

義太夫節構造のものは簡単で、決まったメロディーパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。

ところがそう簡単にいかないのは、文楽古典場合演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。

以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうもの継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。

やや話がずれたかもしれないが、たしか落語歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。

この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。

観客動員を増やそうという努力必要、ただしその限界も率直に認めるべきだ

大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュースマネジメント必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。

ただし、それには一定限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。

音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育ほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。

一定限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。

まり観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。

「なぜ大阪府市が文楽の保存に公金を出さねばならないのか」という疑問に対する私の考える答え

私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。

そこで西洋音楽比較した場合文楽匹敵するものワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。

それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。

その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。

ただ、一方で、ヨーロッパオペラしろオーケストラしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっとなのだ

文楽匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人ワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないかワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナードイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。

大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。

彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉けが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。

ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)

現代大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。

そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。

それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。

もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。

もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミング文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか

そして同様のことは、なぜ国が補助金文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。

予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しか大阪場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄プロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。

日本の偉大な芸術しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。

(追記)

これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。

したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。

また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki

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