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はてなキーワード: 暴風雨とは

2017-05-16

http://anond.hatelabo.jp/20170516125744

民間旅客機だとまず飛ばないような暴風雨や視界ゼロでも行かなきゃならん任務ってあるからな、それこそ今回みたいな救命とか。

ニュース映像見る限り今回も現場近くは一面濃い霧がかかってたっぽいし。

2016-11-18

久保帯人探偵ナイトスクープへの依頼を強く薦める理由

話題ツイートにリプ欄を覗くとナイトスクープへの熱い信頼(ほぼ関西人だと思われる)が寄せられていた。

ネタ不謹慎番組普段見ない人はそう思うのかもしれない。

しかしあの番組を見て育った関西人として、「本気で薦めている」ことがよくわかる。

そこで探偵!ナイトスクープの信頼と実績一覧(本年度分)をご覧いただこう。

尚、番組アーカイブを使わせていただいた。

先月結婚式福岡に。独身親族にいじられ、べろべろになるまで飲み、居酒屋で見知らぬ人たちに励まされた。

気付くとホテルの自室で、肩にホークスユニフォームがかけられていた。

→結果:返却成功

メキシカンバー開店の日、シェフが「ゴミ箱を買いに行く」と言って失踪

あれから10年。探し出してもらえないか

→再会。10年前の当日、急に体調が悪くなった。その後難病指定の病が発覚し戻ることもできず。4回目の結婚をしていることも発覚。

広島県男性(56)から。私には50年来「実のお兄さん」のように慕い続けてきた方がいる。50年前に放送されていた「なかよしリズム」という子供番組の「初代・歌のお兄さん」の中山克己さん。

発見。74歳と56歳おじさんたちの初々しい対面。

20年前の夏、大型トラックの僕のトラックの後ろにベッタリとつく大型トラックがいた。気持ち悪いので無視していると、横に並走してクラクションの嵐。恐る恐る見ると、運転手さんが身振り手振りで僕に何かを伝えていた。それは僕のトラックの後輪タイヤパンクしているという内容だった。そして一緒にパーキングに入り、真夏炎天下の中、タイヤ交換を手伝ってくれた。そのまま走っていたら大事故に繋がっていたかと思うと本当に命の恩人。お礼がしたくても、自販機すらないパーキングだったため財布から5千円を取り出して「これで飯でも食ってください」と渡したが、「そんなものが欲しくて手伝ったんじゃねえ」とブチ切れ出した。押し問答の末、最後運転手さんが折れてくれ「次に会ったら一緒に飯を食おう。その時はご馳走になるから」と言ってくれた。そして「次はお前が困っている運転手を助けるんだぞ。それがトラック野郎からな」

→再会

東京都女性(29)からアメリカボストン出身留学生代理で依頼をする。彼は10年前におばあちゃんから譲り受けた、沖縄の人が書いたであろう日記帳を、持ち主の家族に返したいと願っている。それは1928年・昭和3年の日記で、300ページ以上にもわたってぎっしり文字で埋め尽くされている。達筆すぎて内容はよくわからないが、持ち主であろう方の名前沖縄の住所が書かれていた。なぜ、アメリカの彼の家に保管されていたのか、はっきりした理由はわからない。彼の推察では今は亡きおじいちゃんが、第2次世界大戦の時に沖縄に行ったことがあるので、その時に持ち帰ったのではないか、ということだ。彼は日本語が少ししか話せないが、日記帳を返せるように協力してもらえないか、というもの

子供たちを発見子ども12人いた。子供は存命で、日記の持ち主は70歳で亡くなっていた。「日記をつけろ」と子どもたちにも伝えていたそうです。

33年前。中3の夏休みに友人たちと3人で大阪から自転車琵琶湖一周の旅をした。雨風が強くなったので、田んぼの中にポツンと現れたバス停横の小屋避難した。そこで雨風がおさまるまで寝ることにしたが、目が覚めると激しい暴風雨。民家を見つけたが、何軒も断られて諦めかけた時にようやく受け入れてくれるご夫婦出会った。寒さに震える僕たちを風呂に入れてくれただけでなく、豪勢な晩ご飯とふかふかの布団まで用意してくれた。本当に涙が出るほどうれしく、子どもながらに人の温かさに心が震えた。大阪に帰ったらきちんとお礼しようと、住所が書かれた表札の写真を撮ったがその写真を失くしてしまった。

→結果夫婦と再会。思い出話に花を咲かせる。

2016-04-17

http://anond.hatelabo.jp/20160417162724

と言うか16日の晩から暴風雨になるって朝からNHKとかが何回も何回も何回も言ってたのに、実際に雨が降り出して耐えられなくなってから引っ込むとか何を聞いてたんだってレベルの話なんだが。

ああラジオとかなくて情報が集まらないんだっけ?

あんだけメディア関係者が居たのに誰も教えてなかったのかよ…

2016-01-24

私がオランダ移住おすすめしない理由(※追記)

増田は初めてで、文章も普段あまり書かないので、色々読みにくかったらすんません

一部でオランダ移住が盛り上がっているようで。

100年前の条約はまだ生きていた。オランダ大使館で聞いた日本人が知らない特権

http://www.lifehacker.jp/2016/01/160118holland_embassy_nfia.html


日本人労働ビザ必要なくなり、雇用主の手間がぐっと楽になった。ただ、移住する国としてはどうなんだろうなーと、個人的に思う。ビジネスだったら一時期の経験として割り切れるけど、移住ということはずっと残りの人生オランダで過ごすってことだよね?住めば都とは言うけど、日本人外国人に関わらず、最初の1年でオランダ滞在ギブアップする人はけっこういる。

とにかくオランダは国や人のクセが強い。合う人は長く住むけど、合わない人はすぐに帰国する。

もちろん「いやそこは頑張って慣れろよ」という部分もあると思うのだけど、異文化適応は先に知ってたかどうかがけっこうネックだと思う。

ネットでは、キラキラしたオランダの良いところばかり取り上げられていて、ネガティブ情報が無いのが気になったので、個人的移住を(簡単に)おススメできない理由を挙げてみようかと。

=====

英語ができればOK!は半分嘘

よく「オランダ人英語が話せるので、オランダ語が話せなくても大丈夫」という触れ込み(?)を見るが、実際は役所移民から届く大量の手紙は全部オランダ語。諸々の申請書類も、ゴミ収集場所変更のお知らせも、銀行書類ガス給湯器説明書オランダ語書類スキャンしてGoogle Docsにぶちこめば読めるけど、OCR技術はパーフェクトではないのでそれなりに時間がかかる。年月が経てばある程度慣れてくるけど。

加えて駅や電車内のアナウンスも(主要都市の駅以外)オランダ語オランダ鉄道トラブルが多く、途中の駅で降ろされて1時間待たされるとか、急に到着ホームが変わって乗客みんなでダッシュとかザラ。そんな場合でもアナウンスオランダ語なので、わからない場合は周りの人に聞くしかない。乗ってた電車の到着駅がいきなり変更とアナウンスされても気づかないことも(実体験)。

そういう環境なので、話せる言語英語だけだった自分にとっては、毎日ちょっとした事がけっこうストレスだった。なので、ネットなんかに書いてある「英語話せれば大丈夫!」という言葉をそのまま信じて行くと、現地で騙された気分になると思う。

※ちなみにオランダ歴長い日本人オランダ人結婚した人は省く)でもオランダ語話せない人は多い。オランダ以外で役に立たないから

アジア人への差別意識

というか中国人差別。ただこれはコミュニティによる。酷いのはオランダ人の中流以下(特に田舎コミュニティと、トルコモロッコ移民コミュニティ。前から歩いてきた男数人にすれ違いざま「ニーハオ!」と威嚇された回数は数知れず。叩かれたり、蹴られたりした人も。子供にまで言われた時はどうしようかと思った。(しかも隣にいた親らしき大人は注意しない。闇)最初コミュニケーション?とポジティブに取ってたが、表情や態度でバカにされてると分かった。「中国人じゃないですよ」と返した時期もあったが、逆に日本人身バレするのもアレなので、ひたすらスルー。当たり前だが、アジア人以外の外国人と一緒にいる時は一度も経験したことは無い。

そこまで直接的じゃなくても、ローカルレストラン店員接客態度が白人と我々であからさまに違うことは、残念ながらよくある。GACKTみたいに正面からやりあえれば良いのだけど、こう頻繁にされると「そういうものなんだ」と慣れてきてしまうのが怖い。

対策としては、そういったコミュニティに近寄らないことと、身なりをちゃんとすること。あと堂々としてること。こっちの人は、服装自分ステータスを明確に表現する。黒人でもトルコ人でも、ちゃんと仕事してる人はちゃんとした服装をする。地味なダウン+ジーンズスニーカーで出かけて嫌な目に合ったことは何度もあるが、しっかりした服装の時には一度も無い。

難民問題については、色々な情報意見を聞くので割合

オランダ人は口が悪い

オランダお国柄。口が悪い。加えて無愛想で閉鎖的なもんだから、1年目これで「あ、無理だ」ってなる人がいる。慣れれば大丈夫

オランダ人コミュニティ意識

一般的オランダ人内向的コミュニティ意識が強い。京都人っぽいというか。「外者」が中に入るにはかなりの時間をかけて関係を構築する必要がある。もちろん、こちらからコミュニケーションをすれば、ちゃんと返してくれる人は多い。もしオランダ人ローカルとのキャッキャウフフイメージしている人がいたら、それを実現するにはかなりの時間がかかることを明示しておく。旦那さんもしくは奥さんがオランダ人じゃなかったらほぼ不可能都市部なら可能だけど、ちょっと外れの田舎とか不可能。まあ日本と一緒か。

オランダ人ホスピタリティ

人それぞれなんだけど、個人的体感値として。自分アメリカ東海岸にも滞在してた事があるんだけど、フレンドリーさ、対人面でのホスピタリティは圧倒的にアメリカ人の方が上。例えばオランダレストランなんかで、笑顔接客してくれる人に当たったらラッキーぐらい稀。あとオーダーの間違いとかザラにある。

食べ物がひたすら美味しくない&外食が高い

話題に上がらないのが不思議

まずパンがまずい。スッカスカ。高いお金払ってやっと「それっぽい」レベル。一度ドイツ人地元パンを持って来てくれたけど、全然違った。電車時間でここまで違うのかと驚いた。それ以外の食べ物も全体的に美味しくない。元々プロテスタントの国で土壌が貧しかたか食文化が育たなかったと言われているが、言い訳しか聞こえない。

オランダ農業先進国と言われている。確かに日本と比べると野菜は安くて大きいけど、水っぽくて味が無い。一年通してずーーーーーーーーっと同じ種類の野菜が、同じサイズスーパーに並ぶ。旬の野菜も時々出るけど(白アスパラとか)日本みたいに季節感が無い。解決方法としては、ローカル八百屋さんやオーガニックマーケット(高い)で買うこと。

あと日本では普通に売られてる豚コマとか薄切り肉が無いので、鍋なんかしたい時に苦労する。日本人が多い地域には売ってる。生魚とか怖くて食べられない。知りあいがそこそこの値段で食べた生の魚貝で食中毒になったケースを何回か見ている。日本人向け魚屋存在するが、まだ利用したことは無い。

外食が高い。そのくせ美味しくない。いわゆるファミレスみたいな「お財布に優しくて、そこそこ美味しい」ものが無い。すごい高いレストランか、格安フードかの二択。中間価格帯は中華料理屋くらいか。必然的自炊が増える。日本食レストランラーメン屋さんはアムステルダムにはあるけど高い。

インドネシア料理は許す。

天気が悪い(特に冬)

オランダの冬は暗くて日光が当たらない。朝は8時まで暗くて、夕方5時には暗くなる。雨風強い。あの暴風雨の中で自転車こぐオランダ人はタフだなあと思う。まあ、これも慣れろよって話なんだけど、自分最初一年目、あまりの天気の悪さにストレスがすごかった。日光が足りないとビタミンDが不足して鬱状態になりやすいらしい。対策としては肝油

学歴階級社会教育システム

こっちでは高校生くらいのオランダ人が、親方みたいな人について肉体労働職人仕事ペンキ屋さんとか)をしている風景を見る。オランダ場合子供10代前半くらいで成績に応じて色々なランクに分けられ、受けられる高等教育が変わる。日本場合、(職種にもよるけど)大卒じゃなくても社会に出てから叩き上げキャリアアップしていく事は可能だ。対してオランダ学歴によってできる仕事給与が明確に分かれている。(カフェレジ打ちをするにも、大学卒業資格必要だそうだ。)大学に行けないと判断された子供は、職業訓練学校に進学するレールに乗る。一度乗ったレールから外れて、大学に進むにはかなり回り道をする必要があるらしい。

オランダ教育学歴差を若いから明確にし、社会システムに組み込んでいる印象。もちろん、地域学校によって様々だと思うのだけど、自分オランダ子供を育てたいか、と言うと今のところ「うーん..。」という感じだ。この辺はまだ勉強不足。

オランダの子供は伸び伸び育てられてるせいか、すごい自由。というかうるさい。声が大きい。北欧に行った際、電車子供が騒ぐとすぐ親が注意してたけど、オランダで注意してる人は見た事ない。

役所仕事がひどい

移民局含め、役所仕事がずさん。申請書類を紛失されたせいでビザの取得が半年遅れるケース多数。今回の労働ビザ免除の件も移民局の末端で仕事する人には届いていないらしく、窓口に行くと「おまえは何を言ってるんだ」と取り合ってもらえなかったという話を聞く。

おわりに

長い。そして完全に悪口。個人の主観だし愚痴も多分に含まれているので、話半分で。文中にも書いたけど、住むエリアコミュニティによって、状況もだいぶ違う。逆に言うと住む場所ホント大事

上記の様な諸々は日本でも他の国でもあると思う。まあ、キラキラ楽園じゃないよってことで。ヨーロッパの国だからといって洗練された社会システムや人を想像して行くと、現実とのギャップで打ちのめされてしまうからね。良い意味でも悪い意味でも、泥臭いです、オランダ自分で色々切り開いてく精神があれば、大丈夫かと。

もちろん良いところも色々あると思うけど、まあそれは他のブログとかサイトにおまかせで。まあ、一度くらいは遊びに来てもいいんじゃないかな(秋冬以外)。

追記

※確かに他のヨーロッパ諸国に色々気軽に行けるのはメリット飛行機も安いし。

※いわゆる韓国系中国系日本食レストランはどの街にもある。

電車で2、3時間ドイツベルギーに行くと、とたんにパンも食事も美味しくなる不思議

中国人男性ガタイが良い人が多いので、逆にあまりまれない。

税金保険をちゃんと支払っていれば、大学含む教育費・医療費はタダに近い。この辺はすごいなと思う。税金高いけど。

追記2

個人的には、移住するということは移民になり、移民問題対象になるという認識をしている。

2015-09-12

http://anond.hatelabo.jp/20150912125259

まあ、発展途上国では、こんなもの導入してる余裕はないわな。例え日本が全部援助して、システムを構築しても、それを運用する人員はいないだろう。

先進国なら導入するだろうが、この手の洪水被害に悩まされる国って意外と少ないからな。日本みたいに、毎年のように暴風雨が来る先進国って、アメリカくらい。

韓国とか中国なら導入する余裕もありそうだが、彼らはどうせ金は払わないし、今回の災害も「猿に天罰が下った」とか言って喜んでる有様だし、むしろ連中もとっとと死ねば良い。

2015-07-20

増田に書けばフィクションって事で済まされるよね!24

台風の季節になると思い出す、夏休み強敵(とも)。

たかし。



数年前、夏休みの少し前あたり。台風直撃下の神社境内。雨が真横に降り注ぐ素敵な光景の前に、当然ながら参拝者の姿など影も形もない。



参拝者「(ガラッビュウゥゥゥゴオォォォヒイィィィィガラッ)ハァ…、ハァ…、すいません」

神主様「……こんにちは(おいおい嘘だろ台風直撃中だってのに人来たよ)」

参拝者「ハァー。ちょっと、そこ座って待ってて。(従う推定九歳児と推定三歳児)」

神主様「…。(しかも小さい子を二人も連れてきたのかよ)」

参拝者「御祈願を…、お願いしたいのですが」

神主様「どのような御祈願ですか?(この台風の中来たんだから余程切羽詰まった祈願なんだろうな)」

参拝者「え? うーん、特には…。普通ので」

神主様「(特にないんかい、じゃあ何でわざわざ台風の日選んで来たよ)家内安全ですね。ご住所を」

参拝者「〇〇県〇〇市…」

神主様「(嘘だろ…かなり飛ばしても三時間くらいかかるぞ)はい。続いて皆様のお名前を」

参拝者「〇田〇夫、〇子、〇美、たかし!(突如顔を横に向け大音量で絶叫)」

神主様「…、(大音量の直撃を受け麻痺)」

参拝者「たかし! ダメたかし!」



    社務所を離れ、台風の中に出てゆくたかし。



参拝者「(母の叱責にしぶしぶ戻ってくる感じの推定三歳児を見て)まったく…あ。すみません

神主様「…、(麻痺より回復)いえ。たかしさん、で宜しいですね?」

参拝者「はい(笑)

神主様「(さっきの音響爆弾に対する謝罪はないのかよ)どのような字を書かれますか?」

参拝者「えっと、たかしは…高い低いの高いに、たかしっ!(再度首を真横に向けて絶叫)」



   社務所を離れ、台風の中へ消えてゆくたかし。



参拝者「たかしっ! 出てっちゃダメたかしっ!」

神主様「…、(先程を超える大音量の直撃を受け麻痺)」

参拝者「待ちなさいっ! たかしっ!」

神主様「…、(麻痺より回復)あとで受付いたしましょうか? 先にお子さんを…」

参拝者「ありがとうございます!すいません!(ダッシュ)」



台風に飛び込んでゆく母。背中が怒っている。

背景といい表情といい、多分たか目線だと物凄く恐ろしい光景。なんたって、荒れ狂う台風の中で憤怒の表情を浮かべた母親自分めがけて全速力で突っ込んでくるんだから

唐突に、頭の中で坂本真綾の「マメシバ」が流れる。(

2015-04-03

桜舞い散る

この暴風雨じゃ舞い散るどころの話じゃないなw

2015-03-24

翻訳無人島に女だけでサバイバル生活をするとどうなるのか

【事件】無人島で男女が集団サバイバル生活をした結果

これを読んで無人島ネタを思い出したので惰訳を一つ。

 何年か前、フェミニストルームメイトオランダ版の『サバイバー』を見て面白い経験をした。この番組は、二つの島に女だけのチームと男だけのチームに別れて、それぞれでサバイバルをするというものだった。フェミニストルームメイトは、俺や他の学生達にこの番組について何週間も前から喧伝していた。彼女によると、「家父長制の悪から無縁の、女性によって治められた社会がどのようなものであるかを、この番組は見せてくれるでしょうよ」ということだった。

 そして、始まった。ああ、番組はそれを見せてくれた。

 番組はまず両グループがそれぞれの島に降ろされ、いくらかの食料や装備を渡され、あとは自力で生き残ってくれというものだった。両方のグループでまずチームの体制をどうするかで口論が起こった。それから男達は彼らが必要だと感じたことを何でもやっていくことにした。そこには命令を下すリーダーはいなかった。狩り、採集、漁が必要だと感じた男達はそれをやった。別の男は砂の上に座るのにうんざりしてベンチを作り始めた。他の男達は小屋を建てた。その小屋は徐々に大きく発展していった。別の男は毎晩調理をした。男達の島には数日の内に、小綺麗な文明が出来上がっていて、生活は日を追うごとに少しづつ豊かになっていった。

 女達も同様にルーチンに落ち着いた。タオルを乾かすための物干し竿を掛けた後は、日光浴と口論を始めた。男達とは違い、女達はグループ全体のコンセンサス無しには何もすることができなかったからだ。そして12人の女達の間でコンセンサスが得られることは一度も無かった。続く数回の放送の間に、女達は最初に与えられた食料を全部食べつくしてしまった。暴風雨で何度もびしょ濡れになり、砂ノミに喰われ、どんどんみじめになっていった。一方男達は非常に満足していた。もちろん意見の相違もあったが、それらは徐々に解決されていった。

 これをフェミニストルームメイトと見るのは最高だった。彼女も始めのうちはこの男島女島の違いをなんとか正当化しようとしていたけれど、その主張も段々弱くなっていった。結局、番組側が助け船を出すことを決めた。女達を助けるために、3人の男達が選ばれ女島に行くことになった。その代わりに、3人の女達が男島に行くことになった。この回を見ていた時のフェミニストルームメイトの顔はプライスレスだった。

 選ばれた3人の男達も当然有頂天になっていたんだけど、彼らが女島に到着し女達に迎えられるまでだった。

小屋はどこだ?」

小屋なんて無いわ」

「食料は?」

「全部食べちゃったわ」

 それで結局3人の男達は犬のように働くことになった。彼らが最初の数週間のうちに試行錯誤して得たスキルを使って、小屋を建て、魚を捕った。女達にも食料探しをしてもらおうとしたが、女達は文句を言って日光浴を続けた。

 男島に送られた女達3人は喜びに満ちていた。食料もあるし、雨風をしのぐ小屋もある。男達からチヤホヤしてもらえる。彼女達もまた日光浴を続けた。

 これこそが家父長制だ。元ルームメイトフェミニストをやめたよ。

原文はなぜ家父長制が史上最高の社会制度なのかという記事についたコメントの一つでredditにも転載されている。

2014-08-10

20代女性の知人、この状況下における電車の「運転見合わせ」の意味わからんらしい

おっかけているアマチュアミュージシャンのために暴風雨の中30分かけて駅まで出てきて駅で1時間以上待機してた

そのことをつぶやいていたので連絡を取り帰るように促したので恐らく無事だろうが

以前は彼女に近いくらいの体型だったこともあるしその手のことでネタにされていることは少なくなく

一言でいえば人間扱いはされていない

かつてそうだった自分から見ると言い様のないしんどさがつきまとう

チャーリーゴードンの心持ちはきっとこんなふうだったんだろうと思うとさらにしんどい

誰よりも彼女の側にいたくないと思うのは自分なのだ

彼女の側に立たされる可能性について考えてもみないのとどっちが酷いのだろう

どっちがどっちというわけでもないような気もするが

2014-07-07

○○島に避難勧告

暴風雨の中船や飛行機に乗るわけにはいかんし避難しようがないだろ

2014-03-15

前乗り後降り・運賃不均一バスは、不便だ

愚痴ネタ

都内バスだと、「前乗り後降り、運賃均一」でわかりやすい。

一方、関西とか、或いは広く全国的には、「後乗り前降り、運賃不均一」なバスが多い。

この場合、乗車時に整理券を取って、後者時に整理券に合った運賃を支払えばいい。わかりやすい。

ところが、不思議なことに、多摩地区神奈川には

「前乗り後降りだが、運賃が不均一」というバス存在する。

この場合、どういうことになるか?と言えば、

「乗車時に、運転手に行先を告げ、それに合った運賃を支払う」ことになる。

から自分は、この手のバス不思議で仕方なかった。

仮にA停留所まで200円、B停留所まで250円だったとして、

自分はA停留所まで行きます」と告げて200円だけ払い、しかしA停留所では降りずに、

何食わぬ顔でB停留所まで乗り続けても、果たして運転手がそういう不正乗車を見破っているとは、思えないのだ。

まあ空いてるバスなら見破れるんだろうが、多摩地区神奈川地区バスはそこそこ混んでいるから、

そこまで監視するのは難しいと思うのだが。

で、昨日、豪雨の中、初めて行く場所へ行くために、神奈川中央バスに乗車した。

ケータイナビサイトに表示されたバス停まで乗車しようとしたが、運転手に「行先は?」と聞かれた。

で、行先を告げても、「そんなバス停、ないよ」と言われる始末。

「●●の最寄のバス停ですよ」と言っても「わからない」とのこと。

しかたないので、ケータイナビサイトの画面を見せて、「このバス停ですよ!!!」と運転手に主張した。

それでようやっと「ああ、そのバス停ですね」とのレスポンス

どうやら、難読地名バス停で、音読訓読みを違えて自分が発音したため、通じなかったらしい。

・・・このやり取りをしている間、自分の次にバスに乗り込もうをしている乗客10名ほどが、

バス入り口で、傘を差しながら、いや、傘が無意味暴風雨でずぶぬれになりながら」、待っていた。

自分の後続の客から見たら、

バス停名前も知らないKY客のせいで、バス乗車もできず、自分達が濡れ鼠になってしまってる」

ということで、自分に対して怨嗟視線を向けていた(ように、自分には感じられた)

前乗り後降り運賃不均一バスというのは、システム上「自分の後車バス停を正しく認識し、かつ正しく発音できる乗客」が

大前提システムであり、自分のような地理不案内者は勿論、言語障碍者外国人などにも「優しくないシステム」だと思うのだが・・・

それでも「前乗り後降り」を神奈川中央バス採用する「理由」を、誰か教えてほしい

2013-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20131017104549

挙句の果てに叩きコメモラル戦士だのと言い出す輩までおるし。

なんだこいつらは…

id:martyan

不注意で事故らない自信があるものだけブコメで批難しなさい。

いやいや、暴風雨の中100km/h以上出すのは不注意とかそういうレベルじゃねーだろ!

2013-08-15

人生が荒波

俺の人生は、嵐に巻き込まれた小舟のようだと思う。

毎日暴風雨転覆しないよう必死に舵をとっている。

そもそもこの航海には目的地がない。

強いて言うなら、「沈まないこと」だけが目的だ。

ひたすら耐えているだけの人生だ。

つらい。

2012-04-03

犬が

犬があるいていて、暴風雨にまきこまれて、

川に流されていったよ。

クラムボンはにたにた笑ったよ。

予悼

今日これから暴風雨にて亡くなることになる方々のご冥福を、前もってお祈りいたします。

2011-09-22

ブコメうそつきが居る

http://anond.hatelabo.jp/20110922010047

"あれだけのストレス状況で一切押し合わない"→ウソ結構押し合いへし合い。民度もクソもない。"

ないない。

あの密度で、キレて押し合いする人がちょっとでも居たら本当に人が死んでるってw

ただの満員電車ラッシュ時でも不可避な、密度から来るおしくら饅頭ニアミスのことを言いかえてるんだと思う。

たぶん悪意で。

"5時半ごろには完全に東京を通り過ぎ、~"→ウソ、18時半頃まで暴風雨だった。

ウソ

18時半なんてもう雨どころか風もやんでたよ。

ちょうど18時半に時計たからはっきり自信持って言える。

私も駅からそう遠くない品川建物にいたんだけどなー。なんでこんな食い違うのかふしぎだねー。


こういう「実は…」みたいな口調のシンプルウソって

わりと鵜呑みにされちゃうからうまいよね。

2011-08-12

だって寂しい

と、気持ち悪いエントリ名で綴ろうと思う

夜はともかく寂しい

ぼっちな男にとっては余計そうだ

「寂しくない」を味わえば味わうほど

「寂しい」は増えていく

寂しさはじわじわと染み込んでくるものだ、と表現する人がいるが間違いだともう

寂しさはもっと激しくい暴風雨のようなものだと思う

苛まれて、暴れて、苦しみもがくほどの悪夜を過ごす事になる

恋愛に失敗したり、大事な人を亡くした人が自殺する気持ちが分かる気がする

気がするだけなんだろうけど

だって、こんな気持ちを紛らわせてくれる人がいなくなったら

とてもじゃないけど耐えられないだろう

結局、耐えられなくても死ぬ事はないんだよね

耐えられないからって、血管が破裂したり毒物が生成されるわけじゃないんだ

苦しい状態が続くから、逃れる為に死ぬんだろうなと

死ねいから手首を切ってみたり引きこもってみたり

自己破壊的になったりネットに書き込んでみたり

助かりたいんじゃない

目をそらしたいんだよな

だって現実って辛いじゃん

これを読んだ人の内、何人が現実を逃げずに見れてるんだろうか

しょうがないじゃん、だから良いじゃん

ずっと頑張り続ける事なんてできないよ

2011-08-08

http://anond.hatelabo.jp/20110808134955

元増田の話であれば、修理が済むまでで、精々が収集一回分だと思うが?

なにを問題にしたいのか今一つ見えない。

たかだか収集一回分がモラルと関係ない問題である場合台風などの影響でゴミの収集が行えない場合でも、街にはゴミがあふれ出るイメージなのだろうか。

仮に、外が暴風雨警報が出ていれば出さないよと言う場合、下のような人はどういう判断で出さなかったんだろ。

ゴミは既に発生していてどう始末するかの問題なので、始末を先送りする(=持ちかえる)事の出来ないサイクルで生きている人間は持ちかえりはしない

2010-09-01

2010年8月31日退職まとめ

みなさんの新しい門出を祝ってまとめ。

はてなのnaoyaさん

http://d.hatena.ne.jp/naoya/20100831/1283249089

本日8月31日をもって、はてな退職しました。

退職の理由を聞かれます。しかし、これといって"これが退職の理由"という主だったものはありません。うまく説明できず、少々困りものです。6年間やってきた中で得られたものがある一方で、自分を縛り付けるものや、あるいは今の環境では自分が、自分の怠慢や妥協をはね除けられないなど、様々な理由があってタイミング的に今かなと思ったというのが正直なところです。何か物語があったほうが分かりやすいのかもしれませんが、その動機はもっと平坦な、日々の延長上にあるものでした。

日経BPの矢崎さん

http://d.hatena.ne.jp/ShigeakiYazaki/20100831/1283257395

2010年8月31日id:ShigeakiYazakiこと矢崎茂明は、日経BP社を退職しました。

ご存知の通り、日本メディアを取り巻く昨今の状況は、激しく変化しています。強風の中、風向きが素早く変わるその様子は、さながら外洋の暴風雨のようです。これから3年先、5年先を確かに見通す視力は、おそらくだれも持っていないことでしょう。編集者としての私、メディア人としての私も、回りと自分をよく見ながら、考え、話し合い、試しながら最近の日々を過ごしてきました。ここで日経BPという船を降りて、新しい船で新しい航路を進むことにしました。

Baiduのはぎわらさん

http://twitter.com/mhagiwara/status/22618664446

退職なう本日バイドゥ株式会社での最終出社日となりました。これまでの人生で間違いなく最高に楽しい1年半でした。お世話になった皆様、多方面にわたりありがとうございました。

野村総研の玉置さん(女京大生だった人)

http://twitter.com/sayuritamaki/status/22607907796

本日私、玉置沙由里は、野村総合研究所退職致しました。短い間でしたがたくさんのことを学ばして頂きました。とても感謝しています。たくさんの素敵な人々とも巡り会うことができました。これからは未来を目撃し続けることに時間エネルギーを集中し活動していきたい思います。

http://twitter.com/sayuritamaki/status/22608060398

私はブログで「創職時代」「露出リテラシー」「ソーシャルジャーナリズム」「家メディア」などの提案を行ってきましたが、自分自身がそれを実践したいと思います。私がブログに書いていることは評論ではなく、アクションに繋がる文章なんだという思いがあります。今後もよろしくお願いします。

GoogleYoshikiさん

http://www.sodan.org/~penny/blosxom.cgi/2010/08/31#xoogler

本日をもって、5年5ヶ月+3ヶ月(インターン)間勤めたGoogle退職しました。 すごい人達とおもしろいサービスに関わることができて幸せ時間を過ごすことができました。 明日からは他のGoogle卒業生と一緒に三人でstartupをやります。

2009-10-16

この夏の不思議

今年の夏最大のイベントといえば、皆既日食だろう。トカナ列島暴風雨屋久島も雨、奄美も曇りだったあの日。結局、何のための皆既だと、空に向かって叫びたかったあの日。

その日から、ちょっと違う夏が始まった。

皆既日食を見る前、見に行く1年前から気になっていたBと飲みにいくことに成功し、携帯アドレスを聞いていた。

皆既日食を見た後、皆既日食の話をするために、ある人の紹介で、Aと飲みにいった。またよかったら飲みましょう!!そんな話になった。

俺は、拡大解釈と、誇大妄想もあるが、一気に2人とメールしたり、飯食いにいける関係になったのだ。その2人というのが、俺の人生の中で見ても、トップクラスにいい女性なのだ。

俺は、年齢=彼女いない暦

かなりいい年の20代だ。

仕事以外で、女性と話すと、とても緊張する。

そんな俺だから、AとBという2人の女性メールしたりしているだけで、二股か?不真面目か?なんて考えちゃうから、もうどうにかしている。

土曜日Aとあって、日曜日Bとデートする。

そんな8月を過ごした。

ディナー、ドライブ映画

夢のような、日常

俺は、Aが好きになった。

告白しようと、呼び出したら、都合が付かなかった。

Aからの代替案は、俺が予定が合わなかった。

それから、何となく会えなくなった。

俺は、Bが好きになった。

Aが好きになってから、1月以上Bには、メールさえ送ってなかったのに、Bによかったらつきあってほしいとそう伝えた。

明日、答えを聞きにいってくる。

付き合い始めたら、Bを大切にするし、好きだし、いい関係を作っていけると思うし、その自信がある。

人生において、happy!!な時なのに、なんか盛り上がれないんだ。

Bはきれいだし、落ち着いていていいやつだ。

話の持って行き方とか、うまくて、口数の少ない俺としては助かる。

しかし、正直、Aはかわいいんだ。

Aは、刺激的なんだ。

多分、もうちょっと、女性とのつきあい方がわかってたら、Aとうまくいってたんじゃないかって思ってしまう。

もし、Bに断られたら、Aに電話するし、好きだーっで告白すると思う。

それに、Bと仲良くなっていって、女性というのもに対して、緊張が解けたら、Aと楽しくやっていけるのにとか考えるんじゃないかと思う。

そんなこといえる立場じゃないのにね

馬鹿だ。

Bと楽しくやっていきたいと心から思う一方、ふとした瞬間に、あーA何しているのかなーとか思ってしまうだろう。

あーあ

なにやってるんだろう。。。

2009-07-19

弟の相談を笑っていたら死にやがったw

2年前、弟が自分マンション風呂場で死んだ。死亡診断書によると心筋梗塞だった。もともと心臓が弱かったらしい。

先月、父親の納骨に京都の墓にいった。弟の骨を入れた袋は、去年、納骨したばかりだったので、まだ、新しかった。

父親と弟は仲が悪かった。父親は飲んだくれで、昔、酔っぱらって自動車に轢かれたことがあった。警察から電話があってお宅の御主人が道で酔っぱらって道に倒れていますので救急車を呼んでおきましたと連絡があった。後日、近所のひとにきいたら、確かにその夜パトカーがその付近にとまっていたらしい。救急車が運んだ病院で父親は服を脱がされると、身体にはタイヤの跡がついていた。事故証明かなんかをもらおうと警察に連絡すると、その夜、だれも酔っぱらいを発見して救急車を呼んだ警官なんていないといわれた。そんなことがあれば必ず記録には残るそうだ。だれが父親を轢いたのかは謎のまま残った。

アル中気味の父親は家庭では尊敬されていなかった。妹や弟から馬鹿にされても父親は特にプライドがないのかいつも笑ってごまかしていた。

弟は難産だった。母親医者出産するとあなたは死ぬから子供は堕ろすようにといわれたそうだ。母親子供を産んで死ぬのは親の本望だといって無理矢理に弟を産んだ。帝王切開だった。

どちらかは死ぬはずだった母と弟はともに生き残った。

母親占い師にいわれたそうだが、弟の運命は僕を助けることだそうだ。

なので、ぼくはいつか弟は僕を助けてくれるんだろうとなんとなく昔から信じていた。

人付き合いが苦手な僕と違って、弟は社交的だった。中学時代から彼女はいたし、友達も多かった。

そんなにレベルの高い大学にはいけなかったが、楽しそうに生きていた。

僕は社会人になって27歳のときに勤めていた会社倒産してヘッドハントとかされなかったのでやむなく仲間を集めて会社をつくった。

何年かして会社もなんとか軌道にのったあたりで弟が相談をしてきた。弟は大学卒業した後、デジタルハリウッドにいってCG勉強したらしい。友達と一緒に大阪の大手ゲーム会社の下請けの仕事をしたいんだという。ただ、仕事を貰えると決まった訳じゃなくて、まず、タダで仕事をして、能力を認められたら、きちんと発注してくれるらしいので、そしたら、弟の友達は会社をつくるという。で、弟はそこで働きたいそうだ。すごいチャンスだと思うと弟は熱心に説明した。

ちょうど、その数ヶ月前のことだが、ある別の大手ゲーム会社の重役に挨拶にいったことがある。そのときにこれからなにをしたいんだと尋ねられた。僕はネットゲームシステム開発会社として日本一会社になりたいと答えた。それってようするに下請けだろ、と目の前の重役にいわれた。下請けというと、つまりゴミだ、おまえはゴミになりたいのか、と重ねて尋ねられた。もっと目標を高くもて、コンテンツ世界自分コンテンツをつくらないと一人前じゃないと説教された。

そのことがすごく頭に残っていたので、僕も弟に同じことをいった。お前が掴もうとしているのはゴミになる大チャンスだ、と責めた。しかもゴミの一番下っ端になりたいのかと問い詰めた。

結局、弟は夢をあきらめて上京した。

何年かして僕の会社の取引先のひとつに弟は就職した。僕は縁故とかはあまり弟のためによくないと思っていたので、1年間勉強して、他の会社に移れといった。

しかし、2年たっても3年たっても弟は同じ会社にいた。

すくなくとも僕の前では、弟は仕事についてはあんまり自信がなさそうに見えた。でもプライベートでは友達も多く面倒見もよかったらしい。

ある日、弟に相談をされた。鬱病の友達がいて、頼られていて、ずっと相談にのっていた。1週間以上も家に泊まったこともあったらしい。ずっと話をきいていてあげたら、元気になったといって自宅にかえっていったんだが、すぐにその夜に、また、相談にのってほしいと電話があったので、いいかげんにしてくれと思って断ったそうだ。そうしたら、結局、友達じゃなかったんだね。これまでありがとう、恨んでないから、といわれて電話を切られたそうだ。その友達はその晩に自殺した。弟は自分のせいで友達は死んだと責任を感じているようだった。

僕はこれは笑い飛ばしたほうがいいと思って、たいしたことじゃないじゃん、しょうがないといって、あまりとりあわないことにした。

弟は不満げだったが、僕はこういうのは思い詰めるのはよくない、と思った。

そんな相談されたことも忘れたある日、僕は弟が勤めている会社取締役と話をしていた。弟は結構会社では戦力として活躍しているそうだった。ただ、勘違いをする癖があって、ある時、社内で弟が、僕は一番重要な取引先の代表取締役の弟なんだから、それを生かして自分にしかできない調整をやるのが自分の使命だ、とか言い出したことがあるらしい。そのときは勘違いするな、生意気なことをいうな、と散々説教したそうだ。しばらくそんなことはいわなかったらしいが、おととい、また、飲み会のときに、ぼくがいなくなったら、みんな困りますよね、とか言い出したらしい。最近仕事ができるようになったからといって、また、生意気なことをいいはじめたと、みんなでよってたかって虐めたそうだ。一人前になったのなら、最初の予定どおりに独立するなり、別の会社転職すればいい。

おとといは遅くまでのみすぎたせいか、昨日から、弟は連絡もなしに会社を休んでいた。今日もきていないらしい。

弟は父親は嫌いだったが、母親は大好きでしょっちゅう母親とは会っていたし、頻繁に連絡をとっていた。

その夜、母親が弟といっこうに連絡がつかないことを怪しんで騒ぎはじめた。弟のマンションは僕のマンションのすぐ近くだったが、いったことがなかった。夜中だったので、どのマンションかどうしてもわからず管理人のひともいなかったので、その夜は諦めた。

ふてくされて部屋にひきこもっているんだったら、明日でも一緒だし、そうじゃなかったら、たぶん、もう…、おそい、となんとなく予感した。

翌日、会社会議にでていたら、弟の自宅にいった母親から携帯電話があった。会議中だったが、電話にでた。携帯電話からは、僕の名前を絶叫する母親の声がきこえた。

弟のマンションの部屋には鍵がかかっていなかった。見つけて欲しかったのだろう。弟の死体母親が浴室で発見した。

弟の死因は死亡診断書によると心筋梗塞だ。もともと心臓が弱かったから寿命だったに違いない。

弟とはほとんど話をしたことがなかった。僕は弟のプライベートはまったくしらない。部屋には僕の知らない弟の趣味のものがあふれていた。母親はいろいろ知っているようだった。

母親も弟から友達の自殺の話を何度も相談されていたらしい。不幸にはなりたくない、でも幸せになるのもいやだ。弟はそういっていたそうだ。

台所に楽天の箱があり、中身を見ると練炭だった。期日指定配達で、ちょうど弟が死んだ3日前に届けられていた。

調べてはいないが、一年前に死んだ友達の命日なんだろうと思う。

弟が死んだ夜は東京台風がきていて記録的な暴風雨がふきあれていた。その日の昼間には、権利者団体との和解後、暴騰をつづけていた僕の会社株価が、その月に三度目となるストップ高記録していた。

弟は服を着たまiPodだけもって浴室にはいった。窓とドアに目張りして明かりを消した浴室の中で、弟はなにを考えながら死を待っていたのか。コブクロからはじまっていた最後のプレイリストは、いったいどの曲まで聴いたところで、弟は息絶えたのか。

葬式は身内だけでやるつもりで、まわりに連絡はしなかったが、弟の勤務先にはそうもいかず、ぼくの素性をしった葬儀屋の薦める最低限の告別式は、ずいぶんと派手になった。弟は来週から出向する予定だった会社副社長通夜にも告別式にもきてくれた。嬉しかった。

弟の死で僕の家族の生活は一変した。結束は強くなったと思う。父親ははじめて酒をやめた。そのつぎの正月ゴールデンウィークにもひさびさに家族が集まって海外旅行にいった。

父親と母親は弟の死を弔うために四国八十八寺のお遍路参りをはじめた。乗り物は使わずに歩いてまわった。さすがに一度にまわるのは老人の足には無理で、2泊3日の旅をなんども繰り返した。徳島県からはじめて高知県の最後の難所の足摺岬をまわったところで、父親は何をおもったのか、帰りに高野山によった。

あとでわかったが、お遍路を全部まわったら、高野山に報告にいくものらしい。徳島高知を終わったわけだから、ちょうど半分のところで最後のゴールにいってしまったことになる。母親はせっかちな父親らしいと笑っていた。

足に疲労がたまったのだろう、東京にもどってきた母親が駅で転倒して、足首を骨折した。

母親入院したので、父親は僕が両親用に買った高層マンション最上階の部屋でひとりで生活することになった。父親は入院している母親にぐちをこぼしていたらしい。早く退院してほしい、あの家はひとりだと広すぎるんや、弟の幽霊が現れて、こわいんや。

父親はやめていた酒をまた飲み始めていた。

ある日、母親から携帯電話があって、父親が連絡つかないから家を見にいってほしいといわれた。またかと思った。

家の扉に鍵はかかっておらず、家中を探すと、父親は浴室で溺れていた。鼻まで水に浸かっていたので生きていないことはすぐにわかった。

入院中の母親車椅子のまま、家にやってきた。

父親は酔っぱらって溺れたのだろう。ちょっとだけ苦しそうな表情をしていたが、幸せそうな顔だ、と母親に告げたが、けっして遺体をみようとはしなかった。

きっと弟の死を発見したときの光景が目に焼き付いていて、そんな思い出を増やしたくないのだろう。僕も父親の死体を見つけたときの記憶はあまりにも強烈で、きっと死ぬまで忘れることはできないと思う。

父親が死んだのを発見した翌日には、JCBホール会社の大きな発表会があった。父親の葬儀はその翌日になったので、やることもそんなにはなかったから発表会の現場には行った。葬儀屋一年前と同じで、僕も葬儀屋も慣れていた。

葬儀が終わってから、僕はいつものさぼり癖が出てきて、会社へはほとんどいかなくなり、ずっと母親と一緒に暮らした。

なんのために会社をつくってがんばってきたんだろうと僕は思う。

会社をつくるときの資本金は親が出した。僕は貯金は1円もなかったからだ。後で聴くと、それは妹の結婚資金だった。米国親会社倒産したときには、倒産した親会社の持ち分を減らして独立した日本会社にするために増資をした。僕が買い増した株の代金は、父親の退職金だった。父親は某大手スーパー子会社で経理をやっていて、定年まであと2年あったが、父親の退職金が必要だったので辞めてもらった。僕の会社には経理の経験者もいなかったので経理もやってほしかったというのもある。

父親が30年以上勤務して、最後に得た退職金は、僕の会社の3ヶ月分の運転資金となって消えた。

僕の人生の中で後悔している最悪の決断会社をつくったことだ。僕は人生最大のギャンブル家族と両親の人生そのものに等しいお金を賭けて勝負した。本当は賭けていいようなお金ではなかった。本当はやっていけないギャンブルだった。

結局のところ、僕の会社は数年後に上場を果たしたから、賭けには勝ったことになるのだろう。だからといって卑怯なギャンブルの罪が消えるわけではない。起業した時に、結果的に成功するまでの道筋は、僕にはまったく読めていなかった。

会社をつくってまもなく僕は自分の判断の間違いに気づいた。生まれてこのかた好きなことしかやらず、努力なんてしなかった僕は、なにかを成し遂げるためではなく、会社をつぶさないためだけに睡眠時間も削って働いた。

自分ひとりのことだったら、どこかで投げ出して逃げていたと思う。でも、僕が失敗したあとの両親の悲惨な老後を考えるとできなかった。会社をつくったときに万が一失敗したときにだれにも迷惑がかからないように相棒と一緒に生命保険を掛けた。最初、1億円で翌年は2億円に増やした。日本では会社が大きくなればなるほど、借金リスクも増えていく仕組みになっている。勝負に勝っても、そのままダブルアップで賭けつづけることを強制されているギャンブルのようなものだ。2億円あっても全然、会社を整理するには全然足らない規模に成長したため、上場できるか、できなければ、いずれ一家で破滅するか、そういうゲームになった。

上場の準備を進める中で、父親は仕事を外された。創業者の近親者が経理をやっているのはまずいと証券会社に指摘されたからだ。定年間際まで勤めた会社を辞めて息子の会社を手伝い資金まで提供した父親は息子の会社で居場所を失った。父親が勤めていた某大手スーパーは、いくつかの同族企業合併してできた企業派閥争いが絶えなかった。どこの派閥にも属さない父親はずいぶんと嫌な思いをたくさんしてきたようだ。ずっと傍流で冷や飯ぐらいだったサラリーマン人生の最後で、父親はやっと息子の会社で念願だったろう主流派の一員に加わることができた。それも長くはつづかなかったわけだ。

後ろ盾のいないサラリーマン人生で父親はきっと言い訳ばっかりさせられていたのだと思う。父親の話には論理的に一貫しておらず何を説明しているのか要領を得ないところがあった。能力的にもいまの会社にはふさわしくないと僕は判断し、父親を切ることに同意した。

父親はよっぽど仕事をしたかったのだと思う。やるべき仕事がなくなっても、一所懸命自分データを集めてつくった会社資金繰り表や損益計算書を僕のところにもってきては、会社問題点を指摘しようとした。

僕は、もうそんなことはしなくていいと、父親がつくった資料もろくろく見ないで突き返した。

1年、2年たつと諦めて、会社にもあまりこなくなった。暇をつくるのが怖いのかのように隙間無くカレンダー母親との旅行の予定で埋めた。

会社にあまりこなくなってからも母親には仕事への未練を話していたらしい。息子のために自分会社に必要だから、また仕事をしようと思うと定期的に言い出す父親を、そのたびに母親は、もうやめなさい、と諫めていたそうだ。

お金の心配はせんでようなったけど、あんま幸せにはなれんなあと、ことあるごとに父親は愚痴をこぼしていたらしい。

弟と父が死んで、母親と暮らすようになって、そういう話を何度も僕はきいた。

僕は両親の人生を担保にしてゲームをして、そして勝った。勝利の証しとして得た報酬はそういう現実だったらしい。

何のために生きているのか、何のために頑張って仕事をしているのか、自分自身のことだけでいえば、死ぬまでのたんなる暇つぶしだ。別になにか世の中を変えようとか、大きなことをしたいという使命感なんてない。ただ、僕のまわりにいる好きなひとたちが、僕を必要としてくれているから、自分ができる芸を精一杯見せているにすぎない。

僕の望みは、まわりにいるひとたちの幸せのなかで生きたいということだけだ。

でも、僕の一番の身内のふたりは死んだ。あまり幸福にはできないまま死んでしまった。

僕には他人を観察してすぐに値踏みしたがる癖がある。子供の頃から父親や弟と自分がどっちが優れているかを何度も値踏みした。最終的には大差ないという結論をだした。僕もだらしない父親が嫌いだったが、同じ部分は僕にもあり、父親と同じ人生を生きていたらやはり同じようになっただろう。弟も同じで頭の回転も似たようなもんだった。弟も「自分と兄は得意なものが違う。勉強は兄よりもできないがプライベートでは自分のほうが上だ」と高校の時ぐらいからいっていた。僕もそのとおりだと思う。そもそも人間なんて環境がつくるものだ。本来の素質に意味ある優劣なんてさほどない。

でも、現実世界では、僕は弟の相談は上から目線で笑い飛ばし、父親の仕事は奪った。

弟のことはあまりにも知らなすぎた。何を考えて、何が好きだったのか、何をしたかったのか。

本当に死ぬしかなかったのか。たとえ時計の針をもどせても、なにをすればよかったのかまったく想像はつかない。

人付き合いは弟のほうがよっぽどうまかった。死を選んだ人間が最後の相談相手として選んだほど弟は信頼されていた。過去にもどれたとしても僕が弟に与えてやれるとしたら、仕事アドバイスお金だけだ。弟はブランド品が好きだったし、きっと僕なんかよりも贅沢なお金の使い方はしっていただろう。人間ダメになると母親は僕が弟や妹にお金を渡すことは許さなかったが、金まみれにしてダメ人間になっても生きていてくれるのならそのほうがよかった。そんな貧しい後悔しか僕には思いつかない。

母親は命をかけて弟を産んだ。占い師は、将来、兄を助けるのが弟の運命だと予言した。弟の存在は僕にとってなんだったのか。補佐してくれるんじゃなかったのか。

弟が死によって、僕を助けるのであったとしたら、そして、僕の仕事が世の中にとって意味があるものだとしたら、きっと僕は弟の死に触発されてなにかをしないといけないのだろうと思う。

父や弟には幸せな居場所を与えることはできなかったが、僕の仕事でたとえ赤の他人であっても、よりどころになる居場所をつくることができるなら、多少は心が救われる。

弟が死んだとき、親戚は、このことはあまり話さない方がいいと助言してくれた。話すべきことじゃないといわれた。

でも、たんなる感傷にすぎないのかもしれないが、僕のことをしっていてくれたり、僕の仕事を評価してくれているひとには父と弟のことを話したいと思った。そうして、このエントリをいま書いている。

死なんてものは世の中にありふれている。僕にとって特別なふたつの死も他人には関係のないはなしだ。

父と弟の話を書いても、ネットの中に埋もれて、僕のまわりのひとすら見つけられないのはさみしい。そう思って2ヶ月ほど前にブログをはじめた。僕に少しでも関心をもってもらえそうな話なんて、あたりまえだが仕事しかない。そもそも仕事の話以外に自分にはとりえもなければ、価値もない。弟のいうとうりだ。父親の納骨で区切りをつけてこのエントリをあげるつもりだったが、ブログに予定外の反響があったことや、僕自身のためらいもあって、それから1ヶ月以上たってしまった。

結局、いろいろ手垢のついてしまったブログに書くのも違うと思って増田にしました。

僕の仕事に興味があってブログを見に来ていたみなさん、最後にこんな文章を読ませてしまってすみません。でも、これが僕が聞いてもらいたかった話です。

最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました

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