はてなキーワード: 国歌とは
立場上ロシアを擁護しなければいけないがウクライナの国歌を今回初めて聞いてウクライナの現状と合致してて驚いた
Ще не вмерла Украіна, ні слава, ні воля!
Ще нам, браття-українці, усміхнеться доля!
Згинуть наші вороженьки, як роса на сонці,
Запануєм і ми, браття, у своїй сторонці.
ウクライナの兄弟よ,運命はいまだ我等に微笑みかけることであろう!
Приспів (×2)
Душу й тіло ми положим за нашу свободу,
І покажем, що ми, браття, козацького роду!
我等は自由のためなら身も魂も捧げ
Станем браття, в бій кривавий, від Сяну до Дону
В ріднім краю панувати не дамо нікому.
Чорне море ще всміхнеться, дід Дніпро зрадіє,
Ще на нашій Україні доленька наспіє.
兄弟よ,サン川からドン川に至るまで血の戦いに起とうではないか
Приспів (×2)
А завзяття, праця щира свого ще докаже,
Ще ся волі в Україні піснь гучна розляже.
За Карпати відіб'ється, згомонить степами,
України слава стане поміж народами.
我等の粘り強さと誠実な努力が報われて
Приспів (×2)
正しくはないし酷な決定だが、他にマシな選択肢はなかったとも思う。少なくともスポーツに関しては。
そもそも当初のFIFAの措置はそこまで厳しくなくて「ロシアではなくロシアサッカー連合として大会に参加させる。国旗や国歌の使用は許さない」といった内容だった。東欧諸国のチームがそれに猛反発してボイコットを宣言し、試合中止を要求。IOCが「ロシアの選手は国際試合に参加させるな」と勧告したことが決定打になって、ロシア選手の出場禁止が決まった。
IOCの勧告はかなり乱暴にも思えるが、彼らが大上段に裁定を下してくれたことで他の組織や個人がジレンマに直面せずに済んだとも言える。
勧告がなければ多くの国のチームが強硬に「ロシアを排除しろ」と主張し、ボイコットなどの敵対的行為を取っただろう。それによって国家間の亀裂がさらに深まるおそれがあった。裁定を行うスポーツ団体内部でも深刻な対立が起きかねない。
また、試合前にウクライナ支持を言明させるといった措置は一種の踏み絵であって、帰国後に政治的迫害を受ける可能性もある。特に年若いアスリートにそのような難しい決断を迫るよりは、有無を言わせず出場機会を剥奪したほうがマシなのではないか、と自分は感じた。
日本共産党の志位さん、デモは新宿西口ではなく「東京都港区麻布台2-1-1」のロシア大使館と、各地のロシア領事館でしょ?
ロシア大使がいない所でデモって、まったく意味がないですから。
わざとボケてるの? https://t.co/vKNCpXN5td— 城之内みな🌺 (@7Znv478Zu8TnSWj) February 26, 2022
抗議デモに対して、「なぜ、ロシア大使館前でやらない?」とデモすらしてない連中がイチャモンをつけるてるの地獄絵図のようですね。
ロシア大使館前は、警察によって規制線が引かれ、デモ隊は立ち入りができません。— やす ウクライナに連帯します🇺🇦 (@yasuhosei101) February 26, 2022
大雑把にまとめるとネット上で見つかる範囲で大使館前でのデモが禁止されている論拠として挙げられているのは「ウィーン条約」と「静穏保持法」の2つである。
前者を調べると出てくるのは慰安婦問題に関する韓国の韓国の日本大使館前での抗議活動や慰安婦像の設置に反対する自民党およびその支持者の意見。
具体的な内容としては領事関係に関するウィーン条約第31条3にある
「領事機関の公館を侵入又は損壊から保護するため及び領事機関の安寧の妨害又は領事機関の威厳の侵害を防止するためすべての適当な措置をとる特別の責務を有する。」
という文面により、慰安婦像の設置などの”日本を侮辱する”行為は国際的に許されないというものだ。
しかしこの文面はいささか抽象的かつ主観によるところが大きく、デモ自体を直接禁止するような内容にはちょっと思えない。
そもそもこの件に関しては慰安婦像の設置が侮辱と呼べるのか、侮辱するというのがはたして領事機関の安寧や威厳の侵害に当たるのかというのもよく分からないところである。
もう一つの静穏保持法、正式名称としては「国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」の方はより具体的で、
第五条に拡声機の使用の制限というものがあり、「国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域において、当該地域の静穏を害するような方法で拡声機を使用してはならない。」とある
同時に第六条では「警察官は、前条第一項の規定に違反して拡声機を使用している者があるときは、その者に対し、拡声機の使用をやめるべきことその他の当該違反を是正するために必要な措置をとるべきことを命ずることができる。」
とあり、第七条では罰則も規定されているので、拡声器を使えば捕まるということで分かりやすい。
しかし一方で第八条には「この法律の規定は、法令の規定に従つて行われる請願のための集団行進について何らの影響を及ぼすものではない。」ともあり、
実際にどう運用されているのかをみるには以下のような記事がある
https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1111/22/news004.html
5人ルール」と引き換えに、「黙る」という条件を呑んだ
つまり拡声器を使ってはいけないというのは絶対ラインとして、うるさすぎないようorやりすぎないように都度警察の塩梅でルールを決めているらしい(地下アイドルの現場みたいだな)
ちゅーわけで大使館前でのデモ自体は実際このように行われているわけだ。
ではロシア大使館の前ではなぜやらないんだというと実は普通にデモが行われているようだ
https://mainichi.jp/articles/20220223/k00/00m/030/161000c
「ウクライナに平和を」。午後2時ごろ、大使館近くの歩道に集まった参加者らは「戦争反対」などと書かれた紙を掲げ声を張り上げた。ウクライナ国歌を合唱し、その後は5人交代で大使館前に立ち、平和を訴えた。
やはり五人ルールは健在らしい
敵をぶち殺して畑を血で染めてやろうみたいなふさわしくない歌を国歌にしてる国もあるしね?
警察がパチンコを見逃しているような国で、たかがタールの塊を他人の肺に吹き付けるぐらいで絶対悪と決めつけられるのも酷いものだ。
ヤニを売りつけている本物のカスだって、ヤクザが仕入れルートを作るのを防ぐために存在していると思えば我慢できる。
もし、ヤニの一本が100円を超えれば、底辺のカスどもはよりコスパがいいからとシンナーを吸うようになるだろう。
歯と肺が真っ黒になっているぐらいならまだ奴隷として働けるが、脳も歯も溶けてしまえばもう鉄砲玉にしかなりえない。
自分の意志で煙草呑みをやめられない慢性精神衰弱学習機能障害者達の暴走を、ヤニの破格の安さが食い止めているのだ。
もしもヤニの一本が1000円を超えれば、奴らはガンジャを吸うだろう。
そうなったとき、現代に阿片窟は蘇り、東京の街は巨大な紫煙の渦に巻かれ人口2000万人のスラムが誕生するだろう。
日本の首都機能は失われ、気の狂った暴徒によって国歌の象徴は殺され、首脳陣の首は電柱にでも吊るされるだろう。
そうして日本という国は失われる。
ヤニ売りのカス共がデッドラインにロープを張って食いとどめている。
あまり蔑んでやるな。
底辺どもは底が抜けないように努力をして「今の底辺」に喰らいついているんだ。
その努力をたまには認めてやれ。
同和地区に生まれ育ち、多分『それなり以上の同和教育を受けた最後の世代』だと思っている私。
私は昭和の終わりかけに、関西の大都市に生まれた。自営業の父と専業主婦の母のあいだに生まれ、1歳児の頃から公立保育所に通った。
現在は幼児をもつ親でもあり、『保活』『保育園落ちた』などのワードをネットで見るにつけ、自分の育った地域や時代か現代のどちらがおかしいのかわからなくなるのだ。
まず、私の母は専業主婦だ。母方の祖父と同居だったが、その祖父が要介護だったとか、母自身が病気だとか何もなかった。1ミリも『家庭での保育に欠け』てなどいない私が、普通に公立保育所に通った。
母は私を幼稚園に入れたいと思ったそうだ。しかし、親族を含む周りの多くの人たちが、いつ保育所に預けるのか、保育所の申し込みをまだしてないのかとものすごくうるさかったらしい。『保育所が当たり前だった。同じ小学校に行く子は町内のどこかの保育所出身で、幼稚園に行く子なんていない』と言われたらしい。
母は心配しながらも私を保育所に入所させた。まず、町内に公立保育所がいくつもあった。1学年1クラス、私が通った保育所はその中でも人数が少ないところだったので、年長クラスで一緒に卒園したのは12人だった。最近の『保育所が足りない』どころか、どう考ても当時の子供の数を考えれば保育所が多すぎるくらいだった。
運動会や宿泊保育、遠足、卒園式などは合同で行われた。保育士さんはどうだったか忘れたが、市の公務員である給食調理員さんたちは、その町内の保育所のどれかにしか転勤しない。(当時給食調理員だった知人が近所にいたため、知っている)
今、雨の日でもお昼寝布団セットを自転車で運んでいる保育園パパママさんを見かけるが、私が通った保育所ではお昼寝布団の他、給食で使うスプーンや箸など、肌に触れるものや口に入るものも持参する必要はなかった。かばんに入れて持って行ったものは連絡帳以外思い出せない。
私は二人の子供を私立幼稚園に通わせた。ひとりは卒園し、ひとりは在園中。まあ、これでもかというほど指定用品を買わされ、毎日スライド式のカトラリーセットを始めあれこれ通園鞄いっぱいに持って行く。最初は自分の子供時代とのあまりの違いに驚いたが、『あ、こっちのほうが普通なんだ』と最近では思うようになった。
保育所時代はほぼ同和教育はなかったが、小学校に入ると一変した。
まず、入学時に必要なもののほぼ全てが無料支給だった。ランドセルまでタダだった。母と一緒に入学用品を近所の『会館』に取りに行ったことを覚えている。鉛筆や消しゴムまであった。筆箱は自分のものを使えたかな。それが最初の一回だけではなく、『とくしゅうひ』というものがあって、冊子が配られて必要な学用品に丸をつけて提出すると支給された。これはいつの間にかなくなった。高学年になる頃にはもうなかったかと思う。
私の実家は貧乏ではなかった。後に書くが、学用品を無料支給してもらわないと就学できないほど生活に困窮している同級生などいなかった。
ランドセルはデザインも何もかも皆同じ。ほとんどの学用品が全員同じだった。出どころが一緒だからそうなるんだろうけど、他の学校のことを知らないのでそれが普通だと思っていた。給食で使うお箸、食後に使う歯ブラシまで皆同じ。歯ブラシの色選びでじゃんけんをしたことも覚えている。
それから『子供会』というものがあった。放課後に行くところで、別に親が働いているからとか何もなく、ほとんどの同級生が在籍していた。行くか行かないかは自由だったが、小学校の下校時に集団になって歩いて行ったことを覚えている。おやつが出たり、遊んだり、土曜日は昼食も出た。学童保育のような感じだったが、違いは『(ほぼ)全額無料』で『まあまあゴリゴリの同和教育機関でもあった』こと。そこで働く人たちのことは、先生やさん付けではなく、『指導員』と呼んでいた。(例 田中指導員)
主に教えられたのは狭山事件のことで、歌まであった。私はその歌をなぜか今でも覚えている。小学校1年生のときから教えられる。それから、何の日だったかは忘れてしまったが、5月23日と10月31日が近づくと、狭山事件のことをいつもより色々聞かされた。
大人は集会もやっていた。たまに祖父について行ったことがあったが、集会の最後はシュプレヒコールがお決まりだった。後になって祖父はその集会になぜ参加していたのか母に聞くと、『お父ちゃん、その年確か町内会の役しとったからちゃうかな』そんな理由だった。
小学校の名札のところに『差別裁判をゆるさない』とかワッペンをつけて登校する期間があったりもした。『ワッペン登校』と呼ばれていたが、今考えるとすごい。小学生の制服に、別にその子の意思でもなくそういうワッペンをつけさせていたのだ。
学校の道徳の授業は、同和問題を始め、とにかく何かと差別を絡めた内容だった。在日コリアンの問題とか。私の子供が入学して教科書に名前を書いていたとき、道徳の教科書を何気なく見ると、『金の斧 銀の斧』の話が載っていたりして、自分のときとの違いにまた地味に驚いた。
小学校1年生に狭山事件のことを話してこれは差別だ!とか言われても正直よくわからなかったし、狭山がどこかもあまりよく知らなかった。『かなり昔、遠い関東で無実の人が逮捕されて、裁判が何か差別らしくて………』といった感じで記憶している。
他にも後で特殊だと気づいたことがある。天皇制の否定、国歌を教えない、卒業式の定番『仰げば尊し』はなぜそこがダメなのか忘れたが『我が師の恩』のところに文句がついていたっけ。
ある日の子供会の集会のとき、『天皇制はおかしい』という話を聞いたのをおぼろげながら覚えている。『天皇誕生日が祝日なのはおかしい』と力説されたが、子供心に『学校が休みになるんだし祝日にまで差別とか言うのか』と思った。
洗脳レベルの教育だったが、低学年頃にはなくなっていった(後述)こともあり、『差別に負けない大人になってほしい!!』だとか『(何にか忘れたが)誇りをもってほしい!!』と言われても全くピンとこなかった。
ワッペンをつけたり、子供向けの集会があったりというゴリゴリの同和教育は私が高学年になるより前くらいから一気になくなった。そのため、冒頭に『最後の世代』だと書いたのだ。
理由は、狭山事件の容疑者とされた人が仮出獄となったからだと思う。学用品がタダとかそういうのも、その頃からだんだんなくなっていった。
一世代上、私の母世代は、狭山事件が起こった頃に小学生くらいなので、大人になり、子育てをする頃までずっと続いたということになる。
母は私立高校を卒業しているが、『タダだった』らしい。無料だから私立高校を選んだわけではなく、公立高校に行く学力がなかったかららしい。高校の無償化なんてつい最近一部の地域で始まったことだが、これも『同和特権』のひとつだろうか。それよりも驚いたのが、自動車教習所の授業料も『タダだった』と言うのだ。私も運転免許をもっているが、確か教習所に入るときは30万円くらい払ったと思う。それもタダ?
それから、これは自分の家族にはいないが、市の公務員になれるルートみたいなものもあったそうだ。失礼な話だが、『この人、どうやって公務員になったんだろう?』と思うような人が、市の職員だったりした。
母も私と同じで、そういう環境で周りもそれが普通だったし、他のところのことを知らないので、疑問をもったことがなかったらしい。大人になってから、『あれは普通じゃなかったんだ』と思ったという。
江戸時代の身分制度の名残で同和問題や差別があるわけではないと、成長するにつれわかった。私が背負ったランドセルも、入学試験で特待生だったわけでもない母がタダで通った高校も、税金から…と考えたら、嫌われるようなこともしてるよなあ、知らなかったとはいえ…といつからか思うようになっていった。
その後、高校、大学と進むうち、部落差別っぽいものは時々あった。というより、特に悪気のない、同和地区に対するイメージを誰かが話しているのを聞くことがあったというくらい。
まず、『あのへんは治安が悪くて行くもんじゃない。どんなやつがいて何をされるかわからない。最寄駅で降りないほうがいい』と言っていたバイト先のおじさんとか。
確かにイメージとして、ガラ悪いとか治安が悪いとか思われがちだが、これが意外とそうでもない。麻痺してるのか慣れきってるのかとも思ったが、夜になると人通りはほぼなく、ガラの悪い人や治安を乱しそうな人もいない。夜の町は、『ここ?本当に関西の大都市?』と思うほど人通りもほぼなく静か。逆にそれが不思議だとか怖いだとかで動画サイトに載っていたりするが。
確かに治安がよくて人が住みたいイメージではないよなと長年思っていたが、最近では転入者も増えて、昔はボロボロの団地ばかりだったところに一戸建ての家が建ち並ぶようになった。相変わらず市営住宅が多く、整備されているものの見た目がほぼ同じ。スマホのマップが普及するより前は、宅配ピザの配達員さんが迷って電話をかけてくることもあるくらいだった。
そういう街はここだけではない。似たようなところをたまたま電車などから見ると、『あ、ここ…同和地区かも』とわかるようになった。
人生で、『あ、これが部落差別?』と思ったのは一度だけある。結婚のときだった。目の前でやりとりしたわけではなかったが、夫の両親は同和地区の嫁が来るのは嫌だと言っていた。私に直接言ったことはなかったが、義母から夫へのメールを見たら結構すごかった。
結局結婚したのだが、10年経っても『ほら、同和地区の人となんか結婚するから』みたいになったことはない。結婚を反対されたことを知った両親も、『まあ、そりゃ、どうぞどうぞ大歓迎ですってことはないよな』というような反応だった。従姉妹たちも同和地区出身でない人と結婚している。親である伯父と伯母は、娘の結婚相手の両親に出自を話したらしいが、それを理由に反対や差別はされなかったという。
私が昔受けた同和教育の題材にもよく結婚差別が出てきたり、同和の子は貧乏でいじめられて排除されて…みたいな内容が多かったが、思い出してみれば小学校の同級生には食べるのにも困るような生活をしている子は誰一人いなかった。それでも色々支給されたり…あれは何だったんだろう?と思う。
これもまた同和地区特有の話だと知ったのだが、とにかく近所の人達の情報を何でも知っている。私達世代はそうでもないが。今時隣の家の人のこともあまり知らないのが普通みたいな世の中だが、母より上くらいになると、『全くの他人のことを何でそこまで知ってるの?』と驚くほどだ。
私は聞いているだけのことが多いが、たまたま何となく会話にAさんという人が出てきたとする。たとえば私が『Aちゃんのお母さんが入院したんやって、Aちゃん大変そうで心配やなぁ』とか言ったとする。
すると母と伯母が、
『A?ああ、あの子な!うちの一学年下の子で旧姓増田やろ?増田のおっちゃんとこは立ち退きなる前は◯◯に住んでて、今団地入ってるやろ?おばちゃんは滋賀から来た人やったわ。Aは高校出て化粧品屋に勤めとって、学会の男の人連れてきて結婚して西宮のほう行ったけど、結局別れて娘二人連れて帰ってきてたなぁ。増田のおっちゃん怒ってたわ。あの子入院したんや、それは心配やな』
『増田のおっちゃん覚えてるわぁ、Aちゃんて姉ちゃんの一個下やったら、うちの二個先輩やろ?その子の弟がうちと同級生やねんけどな、中学の同級生のCと結婚して、夫婦で市に勤めとったから、お金持ってんで。団地出て関空とかあの辺りに家買うたらしいわ。増田のおばちゃん不倫しとったん覚えてる?近所同士でようやるわぁとかみんな言うとったなぁ』
こんな感じ。一体何の話だったかこちらが忘れそうになるが、私の友人の母親の実家事情を、同学年で仲が良かったわけでもない二人が知り尽くしている。
これは、同和地区出身者同士の結婚が多かったこともあるからかなと個人的に思っている。大人になってからは、では近所に住む誰かの会話に『私』が出てきたとすると、ここまで知られているのかとゾッとして、母に聞いたこともある。
『まあ、このへんやったらそうやろうな。でも、若い子らはそこまででもないと思うけど。うちの娘ていうことはみんな知ってるやろうし、行ってた学校ぐらいは知ってるやろな』
と、当たり前のことのように言われた。
同和地区も、私のように町並みでわかる人でなければあまり他の町と変わらないようになってきた。それに、顔を見たら同和地区出身者とわかるわけでも、戸籍を見たらわかるわけでもない。有名な同和地区が現住所や本籍であった場合はわかるかもしれないが。
解放会館も人権センターとか名前を変えた後、いつの間にかなくなった。『部落差別をなくそう!』『差別落書きを見つけたら云々』という文言が書かれた町内会のポスター掲示板もなくなった。私が少し通ったあの子供会もなくなった。
今でも、『住まないほうがいい町』とかググると私の地元が出てきて、理由に同和地区がどうのこうのと書かれているが、外から人はたくさん来ている。市営団地の入居者は全員知り合いだとか、市会議員や解放同盟のコネで団地に簡単に入れるという話も聞かなくなった。
実際、24年ほど住んだが、事件らしい事件のひとつも見たことがない。通り魔やひったくりに遭った人が近所にいようものなら3分で噂になるはずだが、これも聞いたことすらない。いや、別に『B地区とか犯罪がとかヤクザがどうの、治安悪いとか言われてるけど、全然怖くないですよ、町も綺麗で平和で、他のとことそんな変わりないですよ』とここで主張したいわけはない。
イメージしかない同和地区と、そこに生まれ育った私とでは、全く違うだろうなと思って書いたに過ぎない。
改めて、自分の生まれ育った場所を考えてみたとき、そこがたまたま特殊なところで、確かに差別されたり嫌われたりしても仕方のない面をもっていて、でも何だか『普通の生活の中で出さないほうがいい話題』のひとつであって…
何かそんなことを思って書いてみた駄文だ。
メディアの報道とは異なり、選挙でリベラル派がかなり善戦したことはよくわかっている。
しかし、リベラル派はこの20年が自分たちにとって「失われた20年」だったことを認め、総括すべきではないか。
なぜ20年なのかというのは、ほぼ20年前に1度目の敗北を、10年前に2度目の敗北をしているからだ。
1度目の敗北は1999年に国旗国歌法を成立させてしまったことだ。
これによって右派は政治的な足掛かりを得ることになり、日の丸君が代の下での戦前の侵略行為への反省とそれに基づくリベラルデモクラシーという戦後の枠組みが大きく揺らいだのは間違いないだろう。
日の丸君が代が国旗国歌とされたことそのものに異議を申し立てる論者は圧倒的に少なくなり、国旗や国歌は従前よりも格段に神聖視されることになってしまった。
リベラル派は国旗国歌を前提としつつ、そこからの退出の自由を主張し続けるしかなくなっていったのである。
しかし、同調圧力の強いこの国で、しかもこれまでリベラル派の間でも共有されてこなかった「退出の自由」などが容易に認められるということはあり得ない。
結局、退出の自由という最後の砦すらいとも簡単に崩されてしまい、右派言説に対抗することはもはや不可能になっている。
2度目の敗北は2010年前後にSNSを普及させてしまったことだ。
SNSの外、つまり家庭や学校で民主主義的な実践が行われている欧米諸国であればともかく、小学校から大人になるまで、そして大人になった後でも続く同調圧力に基づく奴隷教育を受け続けて奴隷根性がよくできたおでんの大根以上に染み付いた日本でSNSが普及するということがどういうことなのか、リベラル派には想像ができなかった。むしろリベラル派はSNSでこそ自分たちの意見が広まるという期待すらあった。奴隷根性の染み付いた人たちがそんな意見に触れても簡単に変わるわけはないだろう、と私は当時からSNSを冷ややかに見ていたが、思った通りだった。
SNSが普及したことによって、もともと1000字程度の新聞記事すらまともに読めない多くの日本人は短文でのやり取りに慣れきってしまい、長い文章をもはや書くことはおろか読むことすらできなくなってしまった。その結果、SNSでは真実でなくても短文でわかりやすく、自分の信じたいことが書かれているストーリーだけが受け入れられるようになっていった。リベラル派の言説はもともと短文で理解してもらうのは容易ではなく、SNSでの情報発信は不利を極めているのはこの前の選挙を観ても明らかだ。10年前にSNSの普及を阻止できていれば、あるいはSNSでの差別的な投稿やデマを取り締まる規制をリベラル派が主導となって作れていれば(民主党政権であれば作れる可能性はあった)、今の世の中は少しは変わっていただろう。
リベラル派は20年間敗北し続けてきたという事実に向き合い、この先20年で自分たちに何ができるのかを真剣に模索しなければならないだろう。
もはや日本国内にリベラルが定着する素地はすぐには見当たらないので、先進諸国との協力も必要になるだろう。
「中国に対抗するためにはリベラルな価値観の共有が必要だ」というアピールを日本国内外で地道に発信し続けるということしかリベラル派が生き残れる道はない。
これすらできないようでは、10年もたたないうちに日本のリベラル派は消滅することになることは間違いない。その先にあるのはシンガポールや南米、東欧のように対外的にはリベラルを謳うが対内的には独裁・腐敗国家と変わらない将来だ。
太郎乙も漢語・英語・蘭語を使えたので、幕府の洋学校教授や外国奉行などを歴任した。
1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッドの来日が決まったとき、
各藩から英語が出来る人物が呼ばれて接待係に任じられたが、静岡藩からは太郎乙が選ばれた。
その折、薩摩藩の軍楽隊を指導するために来日していた軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから、
「歓迎の式典では国歌を流さなければならないが日本の国歌は何か」との問い合わせがあった。
接待係たちは国歌などというものを聞いたことがなかったので、どうすべきか政府上層部に問い合わせたところ、
「その程度のことでいちいち問い合わせてくるな、そういう問題を何とかするためにおまえらを呼んだんだろ」
そのときに太郎乙が「もう古歌のなかから適当に選定すればいいんじゃね」と、
徳川将軍家が毎年の正月に行っていた「おさざれ石の儀式」で歌う、
という古歌を推薦した。
これが採用されて、そこにフェントンが作曲したメロディが付けられた。
つまり乙骨太郎乙は国歌「君が代」の生みの親と言っても過言ではないのである。
ただし諸説あり。
なんつーか左寄りの人達って文化人は左翼贔屓が当たり前って感じで、そうでない文化人は裏切り者扱いする人結構いるよね
あれはなんでなんだろうか
例えばネトウヨが国歌斉唱の時に君が代歌わないスポーツ選手を非難するのは、その行為の是非はさておくとして国歌を軽んじていると感じたからっていう理由は分かる
どんなに優れた作品を生み出す文化人でもネトウヨ思想にかぶれるなんて事は普通にあり得るだろ
むしろネット文化に免疫なかったりして、あっさり染まっちゃうケースだってあり得る
それにすぎやまさんくらいの世代だと、日曜や祭日に日の丸を玄関先に掲げてた家も珍しくなかった訳でしょ
今の世間の感覚からしたらそういう人達の思想って極右に近いと思うぜ(逆に筋金入りの極左も居るけどな)
流石に歳だから街宣車とか乗らないし、そもそも既に死んでたり認知症になってたりする人が多いからあんまり問題になってないけどね
「文化に精通し深い教養を身に着けた人は、例外なく左翼思想に目覚めるはずだ」みたいな考え方は正直、甘いというか慢心じゃね? って気がするんだよね