はてなキーワード: 命題とは
> 「企業のシステムを変えずに」の部分がタイトルでは削ぎ落とされている。
https://anond.hatelabo.jp/20180408225447
元増田の言っていることは、論理的には正しい。たしかに、企業のシステムを変えれば、生産性が劇的に向上して、うまく行くかもしれない。
「生産性を向上させれば、労働時間が減って GDP が増える。何もかもうまく行く」というのは、多くの経済評論家が言っている。しかし、「生産性を向上させる」ということ自体が、「天から金が降ってくれば」というのと同様に、根本的に不可能なことなんだ。
・ 天から金が降ってくる
こういうのはすべて、現実にはあり得ないことなんだ。実際、過去の歴史を見ても、こんなことはいっぺんも起こらなかった。どうしてか? 仮にそれが起こったとしても、同様のことは世界各国で起こるから、1国だけが抜きん出て生産性の向上を果たすことはあり得ないんだ。
その例外はある。それは中国だ。中国だけは劇的に生産性が向上していく。しかしそれは、中国の生産性の絶対レベルがきわめて低いからだ。とうてい先進国の水準ではない。先進国には当てはまらない。
まとめて言おう。
「システムを変えればうまく行く」という元増田の主張は、論理的には完璧に正しい。
しかし、「システムを変える(ならば) ⇒ うまくゆく」という論理のうち、前件の仮定が成立しないから、論理としては意味をなさない。「 偽 ⇒ 偽 」という命題は、論理的には完璧に真であるが、意味を持たない空理空論であるにすぎない。
論理が意味を持つためには、仮定の前件が真である必要がある。元増田の主張は、そこを満たしていないから、ただの空理空論であるにすぎない。論理のお遊びだ。何かを指摘したつもりなのだろうが、実は何の内容も含んでいない空っぽの主張であるにすぎない。(間違いではないが。)
(付記)
IT速報などが、「企業のシステムを変えずに」の部分をタイトルでは削ぎ落としているとしても、まったく問題はない。「企業のシステムを変えれば」ということは、あってもなくても、ほとんど影響しないからだ。「企業のシステムを変えれば生産性が向上する」というのは、大きな錯覚である。やってもやらなくても、生産性には影響しないのだから、この部分は削除してもまったく差し支えない。
「企業のシステムを変えれば生産性が劇的に向上する」というのは、企業経営の現場を知らない経済評論家の、夢見る妄想であるにすぎない。
では、生産性を劇的に向上させる方法はないのか? 実は、ある。それは、経営者そのものを交替させることだ。企業のシステムではなく、企業のトップの首をすげ替えることだ。
似た例で言えば、日本を改善するためには、日本という政府のシステムを変える必要はまったくないが、首相の首をすげ替えれば、日本(の政治)を劇的に改善させることも可能だろう。文書偽造などの問題も、システムを変えるよりは、首相や政党を替える方がはるかに効果がある。
何でもかんでもシステムの責任にするのは、経済評論家の悪しき妄想だ。企業や経営の統治というものは、トップの人格や能力に大いに依存しているのである。
────────
トラバへの回答。
> この主張が正しいなら先進国の生産性は横並びのはずなのだけど、現実はそうじゃないよね。つまりその主張は間違いあるいは不完全なんだよ。
本項は、1国について、(短期的には)「システムの改善は生産性の伸びがない」と言っているだけで、異なる国同士の比較はしていない。豊かな地下資源や肥沃な国土がある国は生産性が高いが、その違いを無視して、「先進国はみな同じ」なんていうことがあるはずがない。アメリカのようにシェールガスも肥沃な穀倉地帯もある国と、国土が山ばかりで平地がろくにない日本とを比較して、「同じ生産性になる」なんて思うのは、よほどの現実無視だろう。
というか、そもそも本文中に「トップしだいで生産性は大きく変わる」と書いてある。トップしだいで企業ごとの差異が多く出るのに、まして、異なる国同士で同じになるはずがない。日本国内だって、優良企業と駄目企業がある。なのに、異なる国同士で同じになるはずがない。
ぶら下がってる増田やブコメ読んでると、論点が2つ浮かんでくるな。
https://anond.hatelabo.jp/20180327232253
現代の科学の「性欲を含めた欲求の研究」って、なんか、まとまってる本ないかな。マズローとかかな。
一見して性欲に見えるものというのは、実は性欲単体ではなく、複数の欲求が複合したものだったりする。
性欲に加えて支配欲、加害欲、承認欲求、とか。精神って複雑だ。あと性癖って複雑だ。サイコパスとか。
それとも性欲を喚起・アジテートし拡大させて性犯罪を増やしているのか?
という見解の相違でいつもバトルしてるけど、実際どうなのだろうか?
そこは科学的な研究をして決着つけなきゃならんところだと思う。
両方あると思うので、個人的感想では意味が無くって、統計的に見なきゃならんことだと思う。
両方あるけどトータルでは性犯罪は減ってるのか、増えてるのか。
めんどくせぇやつだな~。
お前も男性専用車両が欲しくて言ってんのか?
男性専用車両もまた、今度は「無実の女性」に負担を回すだけのもの。
要りませんな。
私が求めてるのは「男女平等」。そのためにも「女がもっと自衛すれば良い」。
男に頼るな。
「女は黙って家にこもってろ」とは言ってない。
誰も痴漢だけの話なんかしてないし妄想とは一言も書いてないが、
敢えて言うなら、それは「痴漢するクソ野郎」の問題であって、「男性一般」の問題ではない。
これは飛躍しすぎ。
痴漢をするやつが居なくなれば
いるよね、こういる実現不可能な命題を吹っかけて特権を守るやつ。
これこそ、生得的な「腕力」を理由に男性を貶めるのと同じロジックだわ。
あと、うえでも書いてるけど痴漢に限った話してないし。
痴漢に限って言っても、女性だけが優先して守られるいわれは全くない。
諸外国でも痴漢はあるが、しかしそれを理由にした女性専用車両は認められていない。
それは、「真の」男女平等を理解しているフェミニストがいるからなんじゃないかな。
女性が守るべき存在だといわれる理由についてしっかり考えてみなよ。
そりゃ守られるのはずるい!っていうのはあるかもしれないけど
しかし、たとえ守られるべき理由があろうともしかし守られてはならない。
『幸色のワンルーム』についてさわりしか読んだことないし、ほうっておこうと思ってたんだけど、ドラマ化で叩きが再発というのが本当に残酷だと思ったので、書いてみる。
まず自分は小説家志望の人間で、クリエイター側に寄った意見になりがちになってしまうことは予め書いておく。
(なお自分の作風は『幸色のワンルーム』のような「危ない」ものではないため、作品へのバッシングについては正直に言うと他人事だった。ただ、だから「見捨てよう」と思ったとき、それは残酷なことではないかと考えなおした)
まず対象作品の発表またはドラマ化が悪である理由として挙げられそうなものを考えてみる。(この他にもあれば教えてほしい(⑤はほかの方に教えてもらって追記したものです))
①事件被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
②事件被害者以外の類似した事件の被害者が作品を見た場合、セカンドレイプとなり深く傷つけてしまう可能性がある
③誘拐という犯罪を美化しており、誘拐を触発してしまう可能性がある
④誘拐という犯罪を美化しており、(家出している未成年など)被害者となりうる者の正当な警戒心を阻害する可能性がある
⑤事件に対するセカンドレイプを正当化するものと解釈されたり、助長するため
上記の可能性を検討する前に、まず罰について、確認しておきたい
確認する。
あなたがたは当該作品の発表またはドラマ化が悪であり、それを罰するために下記のような罰が適切と考えている。
上記の罰は作者の人生を破壊するに充分なものであることはきちんと認識しておいてほしい。
小説は正直に言って仕事をやりながらでも書ける。けれど漫画は創作の手間から、兼業でやっていくのはかなり難しい。人生の時間のうち多大な時間を消費し、途中で別のルートを選ぶことも困難になる。
そういった覚悟はもちろん創作者の側で用意しておくべきことだろう。けれど作品の発表中止を求めるのであれば、それがどういった影響を他者の人生に及ぼすのか――特に同様の観点で作者や作品を批判するのであれば――認識しておくべきだろうと思う。
誰かの人生を破壊するから批判はやめろと言いたいのではない。逆だ。あなたには絶対に、「これはだれかの人生を破壊してでも中止させなければならない」と確信してもらいたいし、たぶんそうあるべきだ。でなければ、ほんとうに残酷すぎる。せめて覚悟をもってください。
さきに挙げた①、②はもっともな批判だと思う。そういう可能性は実際にあるし、そうやって被害者の方が傷付くのはまったく看過できない。
意外かもしれないけど、この点について少なくとも自分はまったく擁護の術を持たない。
(一点だけ気になる点があるとすれば、多くの場合、批判者自身はこの「被害者」に該当しないこと。被害者がセカンドレイプやバッシングを受ける可能性を考えると、こうした「代弁」は非常に重要なことであるのは確か。
けれど例えば(正直に言ってかなり考えにくいと思うが)当の「被害者」に該当する人が作品のファンであったり、または発表の中止までは求めない場合、こうした処罰の代行が被害者を苦しめてしまうことにならないか、ということが気にはなる。
ただ、「代弁」をしない場合のデメリットや上のような事態の可能性の多寡を考えると、やはり代弁をやめるべき理由にはおそらくならない)
というわけで、①、②の理由から作品の発表やドラマ化の中止を求めるのは不当だ、という結論は少なくとも自分は導けない。
ただしその場合、お願いしたいのは、絶対に①、②のような可能性を真剣に考えて、真剣に徹底してください、ということです。
当たり前のことですが、①、②は誘拐に限りません。あらゆる犯罪や災害の被害者にありうることです。そしてこの基準に触れている作品は世のなかにかなりあります。
もちろん時代もあります。いまほど創作物に求められる倫理的水準が高くなかった時代の作品には残念ながらこうした危険をはらむものが存在します。
そして注意してほしいのは「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というエスケープは後述する③、④には適用できても①、②には適用できないことです。
作品が悪として描いていようが、美化していなかろうが、フラッシュバックや、被害者が傷付く可能性はなくなったりしません。
お願いですから、①、②の理由で作品を批判するなら、ほかの作品に対しても(もちろんあなたの好きな作品に対しても)徹底してください。その方法はお任せします。作品をクズだと思うのでも、ゴミだと思うのでも、発表中止を求めるのでも。作品によって対応が変わることももちろんあるでしょう。けれどお願いですからあなた自身が絶対に正しいと思えるやり方で、徹底してください。あなたが正しいと思えない基準によって、ひとつの作品が消し去られ、作者の人生が崩れてしまうのが、いち創作者として本当に耐えがたいのです。
③、④の可能性についてはいわゆる「ゲーム脳」などの「創作物が犯罪を誘発する」タイプの言説を抜け切れていないと感じる。
ここでもう一度確認しておきたいのは、あなたがやろうとしているのはだれかの人生を破壊する可能性があるということ。推測によってだれかの人生を破壊して、あとで(あるいは永遠に結論はわからないのかもしれないが)「間違ってました」では済まないということ。
③、④についてはできれば科学的あるいは統計的な根拠があった方がいいと思います。作品の擁護のためではない、だれかの人生を破壊しうることを実行するなら、その根拠となる推測が正確であることを確かめてからやるべきだと思うからです。
不正確な推測を根拠にだれかの人生を破壊するというのは、残酷なことだと思います。
そしてもちろん、③、④についても①、②と同様、真剣に考えて、真剣に徹底してほしい。
「この作品は犯罪を描いているが、悪として描いており、美化していない」というのも、ただ自分の好きな作品だけ免罪させるための言い訳として使うのはやめてほしい。それは不当なことです。なにかを罰するなら、お願いですから、その正しさを信じ抜いて、貫徹してください。お願いします。
⑤についてはほかの方(anond:20180324003900)から指摘を受けたので追記した。
ただし正直なところ、単純にディベート的な命題の強弱のみを考えるなら、⑤は①、②の下位互換でしかないように思える。
作品がセカンドレイプをエンカレッジしたり助長するものであるより、作品そのものがセカンドレイプであるほうが、より悪であるということになるだろうし、より強い批判ということになるだろうから。
加えて⑤の場合は①、②よりも批判者(つまりあなた)がより際どい位置に立たされることは意識しておいてほしい。
⑤の場合、作品そのものはあくまでセカンドレイプ的言説に利用・悪用されたに過ぎず、悪いのはあくまでセカンドレイプを行う者たちであり、作者はそこに含まれない可能性があります。
その場合、あなたは作者本人は悪くないにもかかわらず、人生を破壊しうる処刑をくだすことになります。わかりやすく言えば、あなたが逆に「加害者」となり、悪側の立場に立たされる可能性もあるということです。(もちろんこうした可能性は①~④にもあります)
もちろんこれは仮定の話です。だからこそ、何度もお願いしますが、絶対に正しいと確信して作品の発表中止等を求めてください。それはあなたが悪や加害者にならないために必要な努力であるし、同時に不当に消し去られる作品やだれかの人生をなくすための手順です。
そしてもちろん、その正しさを真剣に信じて、真剣に徹底してください。お願いです。
言いたいことはだいたい以上です。長くなってしまいました。すみません。
創作者あるいは創作者志望にとって、創作は往々にして、人生をまるごと賭け金にした、自分の人生そのものの価値を左右する重要なことです。(もちろんそうでない人もいますが)
ただしそうしたある種ヒロイックな比喩でもってして、だれかを傷付けることを正当化することはもちろんできません。
けれど、そうした重みをもっている物事を、そうと知らずに軽い気持ちでゴミ箱に捨て去られるのは、正直にいって、耐えがたいです。
現在ある『幸色のワンルーム』への批判がそうした軽々しいものであるというわけではありません。ただせめて、「そうでない」ことを確認させてほしいと、思いました。
ドラマ化というのは、作者の方にとって本当に嬉しい知らせだったと思います。そうしたときにやはりまたバッシングを受ける。
ならせめて、そのバッシングだけは正しいものであってください。お願いです。本当にお願いです。正しくないバッシングによって、ドラマ化の知らせを受けた矢先に中止になるなんて残酷なことは(ありがちなことなのかもしれませんが)本当に起こってほしくないんです。
まずひとつ、私は個人的な考えとして、あらゆる創作物に対して、その客観的な価値をだれかが決められるとは思っていません。
したがって anond:20180321152456 の方の下記の記述は正当ではないし、余計だったと思っています。
まずこの方は上記の文に続いて作品の欠点を挙げられていますが、作品の欠点を列挙することが作品の「レベル」の判断になるとは自分は考えません。作品の欠点を美点が凌駕することは往々にあることだし、その美点は「自分にはわからない部分にある」のかもしれないと常に感じるからです。
またご本人が「持て囃された理由」として「「家族からの逃避と二人だけの世界への耽溺」というテーマが、思春期の少年少女や一部の人間に心地よいものだったから」を挙げられています。程度の低い理由として挙げられたのかもしれませんが、個人的な意見を申し上げれば、これは充分にすごいことですよ。
蛇足ふたつめ、
私はどこかで『幸色のワンルーム』の作者の方が女性で、若い方だと見たような気がします。(今回その情報を探してみましたが、見つかりませんでした。正確な情報ではないかもしれません)
そうした先入見が本件への自分の姿勢に影響を与えた可能性は否定できません。当然ですが、そういうことはあるべきではありません。もしそうだとしたら、反省点です。
女性が守られるべきであるとかいった考えは、フェミニズム的でないというよりその正反対だと考えるべきでしょう。もちろんそれはわかっているのですが、若い女性が漫画家としてデビューし、その後バッシングによって漫画家をやめることを余儀なくされた場合、その後の困難さが男性の場合と比してより困難であるというような「想像」が、今回の筆致に影響を与えなかった確信が持てず、そしてそれを隠すのは誠実な態度ではないと考えたため、蛇足ながら書いておきます。
・満室である
無限の客室は際限なく存在するので満室には決してならない、例え無限の宿泊客が訪れてもその概念は保ち続ける
・隣の部屋にずれる
隣の部屋にずれることができるということは最後尾の部屋が空いていなければできず「満室だった」という概念を保たない
無限という概念が人間の想像を超えてしまい、自然界にある「数えきれないけれど終わりの存在するもの」に勝手に置き換えてしまう傾向がある。
そのため無限に無限を宛がえば満席になってしまうと勘違いしてしまうのが無限ホテルの真相。
現実に終わりのないのが終わりの存在を確認したことがないため、数学的知識がない人間にはこのパラドックスが成立してしまう。
Wikipediaでは数学的に正しいとかクソバカなことを書いているけど、
実無限と可能無限の知識さえ知れば無限ホテルが命題として誤っていることに気付く。
一般人の脳だと「終わりがないのが終わり」という概念さえ把握するのが難しいし、
俺自身も最初は無限ホテルのやっていることは成立することだと思っていた。
単に、無限の客室がどこかで終わると脳が負荷軽減のために止めてしまい、有限にしてしまったのが原因。
無限の客を泊めているうえで
小説なり漫画なりで好きなシーンや良いシーンがあったら自分なりの解釈でそのシーンの絵や小説にすることがあると思う。
先に述べるが、私はそれに大いに賛成である。
私は小説を書くのだが、その中で「ここのシーンたまんない!」とか言われて絵にしてもらえた日には感激で夜も眠れない。
さらに言えば、私宛に送ってくれれば喜んで家宝にしたから軽率に送って欲しかった。
だが世の中そんな人ばかりではない。
これは私が以前に経験し、現在も未解決に近い(理由は後述する)話だ。
今でこそそのAは凄い人気なのだが、当時は登場して間もないこともありpixivなどで検索しても総数で2桁ないくらいだった。
そんな由々しき事態に、私はそのジャンルで出会った仲間たちと共にキャラの良さを広めるべく日々小説を書いていた。
これはいいと私も最初は書いたり読んだりしていたが、作品が多くなるにつれて主流が可愛いAという風になっていった。
それも仕方ないことだ。
Sに対してはAもツンデレのようなところもあったし、そもそも公式設定からして童顔など可愛い要素多めなのだ。
けれど初登場や要所要所で現れる格好良さ、正体不明の頃から時折見せる恐ろしさなども魅力なキャラだ。
そして悲しいことに、私は後者の部分でAを愛していた。
こうなってはS×Aに触れにくくなる。
幸いにして当時はAの魅力を全力投球で書いたA攻めの別CP小説が好評で普段のメインはこっちだった。
ないのだけど——
これまた悲しいことに私はSも好きだったのだ。
特にAと絡むのが好きだった。
これは原作のエピソードのせいとも言えるのだが、語ると長いのでここでは省く。
そうなるとAとSが絡む二次が見たくなる。
雑食とはいえ、解釈違いばかりというのはさすがにキツいものがある。
ならばと、逆CPに手を出した。
今から考えればこれがいけなかったのだが、当時は雑食の利点を生かした良い手だと思ったのだ。
そして私はA×Sを検索するようになった。
まぁ当時ジャンル自体マイナーな上に、その主流CPとは逆なため作品総数が少なかった。
仮名はエヌ子としておこう。
エヌ子は絵も小説も書けたため当時のpixivにあるASの大半は彼女の作品だった。
なので真っ先にエヌ子の作品をみることになったのたが、正直ドストライクだった。
小説にしても小話を書いた絵にしても私の好みでヤバかった。
本当に好みすぎてpixivに日参し、Twitterもフォローして新作を待ち望むほどのファンになった。
けれど声をかけることはしなかった。
理由としては単純だ。
私はそうではないが人によっては逆CPは絶対NGなんてこともある。
そもそもエヌ子はS総受の人だった。
ならSA以外にもS攻めを書いている私なんか範疇外の可能性がある。
だが悲しきかな、雑食書き手の性。
そして同時に、エヌ子さんの作品をもっと多くの人に見てもらいたいと思った。
そのためにはどうすればいいか。
そんなある日、エヌ子の新作が投下された。
そして、その中のひとつが、私の心に深く刺さったのだ。
それは普段Sにひどく当たってしまうAが酔っ払い甘えるというシチュエーションだった。
簡潔に言えば凄く萌えた。ヤバかった。
この萌えならばエヌ子さんの作品紹介に打ってつけではないかと。
が、それでは足りないと思った。
そして、私はある作品を書き上げた。
そう、それが冒頭の説明に繋がるのだ。
つまり、私はエヌ子さんのその絵のシーンを元に小説を書いたのだ。
そしてそれを、pixivにアップした。
そのときはまだpixivにまとめた作品がアップされてなかったのでURLは乗せてなかったが、代わりに「エヌ子さんのASに萌えて」とも「元ネタはエヌ子さんの作品から」なども明記していた。
これが多分いけなかった。
これがどういう経緯でかは未だにわからないが、人伝に私が上げた作品を知ったエヌ子は「嫌だ」とツイートした。
今はそのツイート自体消されてしまい残っていないのだが、はっきりとした拒絶だった。
今でもそのショックは覚えている。
だが考え方の違いもあるだろうし、何か不手際もあったのだろうと心を落ち着かせた。
そしてすぐに該当作品を消し、リプでエヌ子にその旨を伝えた。
すると今度はそれを「嫌だ」と言われたのだ。
そして「きっかけのツイートは消すから戻して」と上記のツイートを消されてしまった。
そうは言われてもこちらももう消しているしと困惑する中、リプでは埒があかないと言われDMに移行することとなるのだが。
そのときのやりとりは最初に消されてしまったツイート以外すべて画像に残しているのだが、先方がネットに公開しないことを約束しろと言うので上げられない。
だが内容としては早々にこちらから「どうしたいのかわからない」や「そちらの主張が一貫していない」ことを指摘した。
すると先方からよくわからない問題を出されたり、果ては「消して済むなんて思うな」「こちらの仕事に影響が出て困る」などと送られてくるようになったのだ。
こうなったのは多少は私の落ち度なのだろうが、それにしてもよく意味がわからなかった。
その中で1番訳が分からないのは直接やり取りしているのに「仲介役になってくれ」と私と仲のいい相互さんに連絡していたりするところなのだ。
幸いその方にはエヌ子とのDMやり取りに移行するときからずっと相談しており、DM内容も見せていたので中立に徹してくださったのだが。
なお、エヌ子がその方に送った文面は私は見ていない。
その方が見ない方がいいと言ったからだ。
それよりも最初の方に述べているが、これは未解決に近いことが問題なのだ。
結果を先に述べると、先方からの返信が来ていないのだ。
DMでも埒があかないからSkypeにしてくれと言われ、証拠が残らなくなるからと断ったら返信がこなくなった。
そしてフォローが外されてしまった(当時は相互フォローではないとDMを送れなかった)。
まぁ返信が途絶えるのは既に何度もあり、その都度こちらから折りをみて催促していたからそこはもうどうでもよかった。
それよりもフォローが外された方が困ったのだ。
正確にはブロックはされていないので違うのだが、それでも返信しないという意志の現れである。
解決したいってのも、責任を取ってくれっていうのも先方の要望なのにそれを達成する前に切られてしまってはどうしようもない。
このまま活動するにもまた絡まれ訳の分からないことを言われても困るし、そもそもCPを変えようとジャンルは同じなのだからどこかで出会う可能性が高い。
そして考えた結果、私はアカウントごと引退することを決めたのだ。
そうする以外手段が思い付かなかったし、少なからず仲間たちに迷惑もかけていたのが嫌になっていた。
そうして私は先方の消すなという言葉を尊重し、pixiv作品には閲覧制限をかけ、ことの経緯を書いた文面を公開した。
もちろんよく分からなかったところや、二転三転していた発言には触れずだ。
そしてTwitterのアカウントも消さず、あらましを書き放置した。
「解決してよかった!ってあの人すごく喜んでるんだけど」や、ちょっと人としてどうなの?という話を聞くのだが、もう関わりたくなさすぎてスルーしてしまった。
でももうエヌ子には愛想が尽きていたから話も聞きたくなかったということで許して頂きたい。
あと私の作品を好きだと言ってくださった人たちへの申し訳なさすぎが強かったのもある。
閲覧制限をかけたあともpixivのメッセで「好きでした。残念です」や「どうにか見れるようにしてもらえませんか」など当時はもちろん、数年経った今でも届く。
なので、というわけではないがこれを書こうと思ったのだ。
こういう人もいるからという。
そして冒頭のそれになるのです。
つまり、いくら萌えようと安易に人の作品を元ネタに書かない方がいいよっていう。
書いてくれーって言ってる人は大丈夫でしょ?とか思うよね。
ダメです。私の関わった人も言ってました。
じゃないとこうなったときすごく面倒くさいです。
神の作品とか書きたいよね。
でも神ほど気を付けた方がいいです。
神に失望したくないなら余計に。
件のエヌ子ですが、最近は浮上していないようですけど未だにそのジャンルに居ますし、どうも商業でお仕事しているようですし、別垢を持ってないとも限らないので本当に気を付けて。
途中からパクリだとか、出るとこ出るとか気の弱い方だと心が折れそうなことまで言ってくるような人なので。
そして、そんな人間はエヌ子だけではないと思うので私の実体験を元に紹介しました。
が、山中研究室の不正問題で議論が起こっているのをみていると、途轍もなく言いたいことが湧き上がってしまいます。
日本の優秀な研究者は海外に行って研究すればいいのではないか?
マーケティング的に考えて。
先輩にも友人にも、大学院で研究をしている方が数多くいますし、私はその方々を本当に尊敬しています。
し、研究者はもっと研究に専念できる環境で研究すべきだと本気で思っています。
その前提でお読みいただけると幸いです。
また、以下の文章は全て、「日本ローカルでないと研究できない領域の研究者」は対象外です。
史学や考古学、人文科学などの領域で対象が日本列島のいずれかと密接に関わるやつ。
雑に行ってしまえば、「設備とか環境さえ整ってればぶっちゃけどこでも研究できるやつ」についての話だと思ってください。
山中研究室を取り巻く諸問題に関する議論を見ていてとても悲しく思うのは、
バカなマスコミとその先にいるとにかく不正を叩きたいバカな日本人、そして学問研究の価値を理解しない日本政府
VS
学問研究は人類・ひいては日本のために絶対必要かつ有益、なのに理解されない、だから日本では優秀な研究者が育たないんだ系研究クラスタ
になってしまっているように見えること。
実際 http://blogos.com/article/273575/ こう言う記事とか https://togetter.com/li/1193209 こう言うまとめとかバンバン出てます。
ただ、上の対立構造になっている以上、議論は平行線を辿る一方だと思うんです。
だって、日本で研究者が資金面・設備面・雇用環境の面で生きづらいのって、
マーケティング的に考えると、「日本人がバカだから」じゃなくて、
じゃあ「日本での学問研究の価値が相対的に低い」原因って「日本人がバカだから」なんでしょうか?
http://www.tsukuba.ac.jp/students/campus/184/1.html
ものすごくざっくり言うと「国立大学の予算の削減が著しい。このままだと高等教育の質が担保できない。」と言う内容です。
大学の社会的な機能は、おおざっぱに分けると「研究」と「教育」の2つ。
つまり予算が削減されると、大学運営上はどちらも厳しくなります。
ただ、国立大学の収支を考えると、国からの予算だけで運営されているわけではありません。
例えば「研究」だったら科研費とか、「教育」だったら授業料とか、収入を得る方法はありますよね。
ただ、筑波大学によれば、予算が厳しいからと言って授業料を上げるとなると、「どんな地域のどんな人にも均等に教育の機会を与えるためにある」と言う国立大学の存在意義の一つを失いかねない、と言うのです。
ここで、「日本に必要なのは質の高い高等教育なのか?」という命題について考えて見ましょう。
ご存知の通り日本では急速な勢いで少子高齢化が進んでいますね。
現在と同一水準の質を担保しようとすれば、福祉や社会保障にかかるお金は今後増していくことでしょう。
また、中国や新興国の急速な台頭によって日本の産業構造も大きく変わっています。
日本の貿易が今どう言った状況にあるのか詳しくはわかりませんが、普通に考えたら競合が増えてますので、貿易の利益(とそれからくる法人税)は減る一方でしょうね。
尖閣諸島への積極的なアプローチを見ていると、防衛費が過去最高額を更新し続けるのもうなずける一面はあります。
ざっとこれだけ考えても、日本という国の先行きは非常に厳しい。
果たしてこの状況で「日本に必要なのは質の高い高等教育なのか?」
「高齢者の社会保障を犠牲にして頭のいい学生のためだけの学びの場を提供すべきなのか?」
日本政府の意思決定は果たして論理的に破綻している「バカな」ものなのでしょうか?
■”質の高い高等教育”は他の教育を犠牲にしてまで優先されるべきものなのか?
「教育にかけられる予算が限られているのであれば、他の教育にかかる予算を削減してでも高等教育や研究に予算を割り振るべきだ。」
と言う意見もあることでしょう。
文部科学省のデータを超ざっくり見ると、私学助成金と国公立助成金の配分はおよそ1:3。(ソースは以下のP.31から。超ざっくりです。)
この配分を変えるべき!と言う意見もあるかもしれません。
実は日本の大学進学率は51%らしいです。OECD加盟国で見ると低いらしいです。(ソースは以下のP.24から。)
(http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/002/002b/19/082.pdf)
全大学生のうち、大学院に進学する/しないで比率をとったら圧倒的にしない人の方が多いでしょう。
純粋に「最大多数の最大幸福」の原理に立つならば、「私立大学の教育費を削って、国公立の教育費や研究費を捻出しよう」などと言う考えがいかに暴論か。
日本人の豊かさって、「普通にしてれば大学を出れるし、仕事もある」ことに集約されてると思うんです。
飛び抜けて優秀な人が幸せって方向に振らなかったからこそみんな幸せ的な日本があると思うんです。
ここまで考えると、「日本において高等教育・学問研究の価値が相対的に低いのは日本人がバカだから」って思えないんですよね。
残念ながら、日本が研究者にとっていい環境でないことは、しょうがないんじゃないかと思うんです。
頭のいい人間に投資しろなんて、この分断の時代にあってはとても危険な思想と受け取られかねないじゃないですか?
■日本の優秀な研究者は海外に行って研究すればいいのではないか?
ここまで来てようやく本題です。
日本の優秀な研究者は海外に行って研究すればいいのではないか?
日本では研究や高等教育は価値になりにくいみたいです。さてどうしよう。
日本の優秀な研究者に残された道は2つです。日本で研究するか、海外で研究するか。
「1.学問研究の価値自体を底上げする」か「2.自分の研究を価値化する」か「3.ひもじいのを我慢して努力する」か。
1. ってこれまでずっと研究者が言って来たことだと思うんです。
学問研究は将来の豊かさにつながる的な。実際本当にそうだと思うんです。
ただ、です。それが日本人全体の価値になるのか?は確かなのか?
極論を言えば、10年後の豊かさための研究は明日死ぬ人にとって何の意味もない。
日本人全体の価値になるかどうか?の確からしさってどうなんでしょう?
少なくとも日本では半分以上の人は確からしさを感じていないのでは?
そうなったらそれって所詮は思想であって、「正義」ですよね。日本人のために!ってやつ。
それって、「不正はいけない!」って言う「正義」と何が違うんでしょう?
少なくとも「正義」の強さ(≒正しさ)が民主主義的な数の暴力的プロセスで承認(≠証明)されるのであれば、「不正はいけない!」って言う正義の方が強そう。
弱い「正義」は残念ながら資本主義社会では利益を生みにくいんです。
「正義」対「正義」はどちらかが屈服するまで終わることはありません。
少なくともこの対立構造の中で議論することに、研究者のメリットは全くない。
となれば2.でしょうね。実際このタイプの方は成功を収めているパターンが多いと思います。
今話題の落合陽一准教授とか。本当にすごいと思います。後は尾木ママとかね。
3.は本当にないと思います。
研究が目的とするのに、研究環境を悪くするって何なんでしょう?
研究環境がプアなら、秀逸な成果に辿り着く可能性もプアになるでしょうね。
そんな頑張りに意味があるのか?
そう考えると、本当に研究がしたい研究者にとって残された道って、
「日本で自分の研究を価値化する」か「海外に行って研究をするか」しかないと思うんです。
どっちの方がハードル低いですかね?
「研究を価値化する」ために、「価値になりにくい環境で価値を探す」のと「価値になる環境に行く」の。
それはとても弱い「正義」です。
後進のために少しでも良い環境を!という思いを抱いて頑張ってらっしゃる方もいるでしょう。
と言うか、海外で「日本の研究者は優秀だ!」って言う評判を作ってくれた方がよっぽど後進のためだと思います。
これってマーケティングだと思うんです。
世界が資本主義を中心として動いている以上、一番強い「正義」は多分資本主義です。
資本主義の中で強そうな武器(方法論)として採用されているのはマーケティングです。
強いところで戦いましょうよ。
優秀な研究者であればこそ。