はてなキーワード: 助長とは
「BLはファンタジー」という常套句への疑問はLGBTからの声を反映してのことだと思っていた。観測範囲がはてなブログだったからかもしれないけど。
最近この話題についてゲイの作家さんが「BLはファンタジーって言っとけば(よかったのに)」と言うのを見て拍子抜けした。
(2007年)「百合は/BLは/やおいはファンタジーなんだから、何したっていいだろ」というノンケの発想って「旅の恥はかき捨て」っていうのと同じだよな
https://miyakichi.hatenadiary.jp/entry/20070625/1182747500
https://ry0ta.hatenadiary.org/entry/20080202/1201956488
(2008年)堺市図書館論争 まとめと個人的見解 後・BL問題編
https://kanatam.hatenablog.com/entry/20081113/p2
最終的には増田のような「注意書き」を添えることが落としどころだとわりと真剣に思っていた。
腐女子が「ポリコレ」に関心を持つ一因はゾーニングや言葉選びに敏感になれと内外から言われまくってきたことかなあ(10年ぐらい前までは)。
個人的には黎明期のニコニコ動画やpixivのオタクが「腐向け」の作品に苛烈な態度で検索避けを強いてきたことが根っこにある。
かたやマナー喚起のつもりの「同性愛を扱ったBLは嫌悪感を持つ人が多いので隠れましょう」みたいな文言が差別を助長するとゲイの人から指摘されることもあった。
当時とは状況が反転したようでいて、ニコ動やpixivの中は変わっていない。二次創作にあって男性向けは自由、女性向けは検索避けさせる状況のまんまだ。
「男女カップリングや百合には何も言わないのに、男性向けのきわどい女キャラの絵は野放しなのに、そっちは隠さないの?」という反問はその中で繰り返されてきた。
検索避け反対派は「みんな隠れろじゃなくて、みんな隠れなくていい、じゃないと互いの首が絞まる」と言ったが結局「どっちも隠れろ」に傾いていって今がある。
「BLのつもりはないけど書いた人が腐女子なので…」と健全系までカップリングタグにばらばらに隠れていたりして作品タグ検索がますます寂しくなる。話がそれた。
おおむね、ポリコレ的にアウトとかポリコレ的にセーフみたいな話をするときには、その定義の範囲を正確に捉えた方が良いと思う。
元増田が例示しているムスリムの例は大変示唆に富んでいて、「宗教的正しさ」を理由にした運動だったら、たぶんもう少し考える人が増えると思う。
ここでは「BLはポリコレ的にアウトなのは事実」というのが、明らかでは無いと説明してみる。
「宗教的な正しさ」とすると、アウトかセーフかは宗教ごとの教義によるだろう。
「自民党的な正しさ」とすると、(自民党の言う)日本の伝統的な家族観からはアウトかもしれない。
「民主主義の政治的な正しさ」とすると、多様性の観点からはむしろセーフとして守られるべき対象かもしれない。
「(いまTwitterで話題になっている)ポリコレ」とすると、自分はアウトだと思うが、全員が同意するかは疑問だ。
何言ってんだ?と思うかもしれないが、いま「ポリコレ」とは「ある差別が存在したとして、それを追認もしくは強化、一方的な見方を助長するときには、積極的に止めるべきだ」という運動だと定義できるからだ。これがポリコレ棒などと揶揄される運動だ。
(いまの「ポリコレ」は、政治的に正しい言葉を、公文書を作成する際に使うべきだ、政治家が発言する際には利用すべきだ、という運動では無い)
民主主義の正しさが世界を覆いつくすのが、本当に正しいのかは、大いに疑問が残る。
例えばこれが「ある宗教にとっての正しさ」を広げる運動であれば、かなりの人が眉に唾を付けて、そのうえで取捨選択するはずだ。
いまの「ポリコレ」は「ある文化圏にとっての正しさ」を立ち止まることなく広げ続けているように見える。これは大変怖いことだ。
はてブ受けする人物で言うならアラン・チューリングは、当時彼が所属する法治国家で違法とされている行為で逮捕されている。
そう、同性愛だ。少なくとも1952年のイギリスでは、同性愛は違法だった。
違法なのだから、それは(当時のイギリスの)政治的には正しくない行為だ。
いや、例えば今まさに黒人が迫害され、白人と同じことをしているだけで突然射殺されるのは間違っているだろう!と思うかもしれない。
自分もそう思う。
もちろん軽重は違うだろうが、日本の技能実習生は問題だと思うし、サウジアラビアで同性愛が違法とされている現状も個人的には痛ましいと思う。
「人種や肌の色によって差別することを許容しない」とするなら、
同じように「BLを正しくない表現方法」とすべきだ、とするのは、とても乱暴で、あいまいな境界をもとに表現規制を行っていると思う。
少し話題が逸れるが、個人的には「表現は規制されるべきだ」という認識を持っている。
「表現規制があった方が良い」と「表現規制は無い方が良い」という話のときにスッポリ抜け落ちがちな視点として、表現は普通に規制されているという点がある。
例えば、マッツ・ミケルセンの出ていたドラマのハンニバルといえば良いだろうか。アートの観点から、美しい肉体を持つ人間を殺して紐で括り付けて芸術作品に仕上げる、というのは一般的には許容されないし、日本で発覚すれば普通に犯罪だろう。そういった表現方法は規制されている。
きっと美しいだろうからと金閣寺に火を放っても捕まるだろうし、神々しいまでに美しいと言ったところで男子小学生のヌードを撮影すれば犯罪だろう。既にしてある種の表現は規制されている。
当たり前だろうと思うなかれ、同性愛が普通に犯罪だった国は多いし、現在進行形で違法の国もまだある。
(自分の息子の上半身裸の写真撮影が規制されるべきかどうか、日本において自明ではないだろう)
だから、思想は自由だとしても、それを表に出す、現実世界に影響を及ぼす際の表現方法は規制されて当然だ。
ただし、どこまで何を根拠に規制されるかは、その時々の社会情勢によって影響を受ける。
(だから規制して欲しい派がロビー活動を行うのも正しいし、規制して欲しくない派がロビー活動を行うのも正しいだろう)
義を見てせざるは勇無きなり。
だから、自分の信じる正義のために活動することは、(その当人にとっては)正しいことだ。
自分の信じる正義が、たまたまTwitter上のポリコレ運動と一致しているなら、それをもとに活動することもまた、(その当人にとって)正しい。
ただ、その「Twitter上のポリコレ」が人類普遍の正しさかどうかは、一度立ち止まる必要があると思う。
「ポリコレ」としか呼びようのない運動について共感したとしても
「政治的に正しい」振る舞いが、どの国のどの政治なのかは意識すべき時期が来ていると思う。
無自覚に「これは正しいことだ!」とすると、まったく同じ理路で突然自分が否定されることもまたあり得る。
(別に矛盾のない聖人君主だけが住まう国でもないので、あちらとこちらで一貫性がなくてもまた人間的だとは思うが、どこかで折り合いはつけるべきだとは思う)
そして同じように、みそもくそも大雑把にくくったうえで、「だからコレはクソだ」として無視するのもまた、誤っていると思う。
純粋に善意で、自分の規範を教えなくては!という熱意を持った人はわりと自分の周囲にも多い。
そういう時、(相手が話を聞いてくれるときには)「その”正しさ”を、”正義”に置き換えても、まだ薦められる?」と聞くことにしている。
「ポリコレ的にアウト」ではなく、「自分の信じる正義に則ってアウト」と言えるかどうかが、たぶんアクションに起こせることだ。
もしくはもっと広く「日本国民が信じるだろう正義に則ってアウト」でも「民主主義の正義に則ってアウト」でも良い。
だから、元増田はひねくれているとは個人的には思うけれども、「自分の信じる正義としてBLはセーフ」「Twitterで言われるポリコレ的にアウトというのは、自分の信じる正義とは違う」と言い切って良いと思う。
私は「自分の信じる正義に則ってアウト」という言葉を「ポリコレ的にアウト」と言い換える途中にゴッソリと抜け落ちた部分が怖い。
「(自分の信じる正義であり、世界不変の正義でもある)ポリコレ的にアウト」と考えているとすると、とても怖い。
その世界には、自分のようなマイノリティの席はお情けで確保されているにすぎないと思っているからだ。
ぜひ、自分の信じる正義が、どの世界やどの政治体制の正義と同じだと思っているか、自問して欲しい。
そして、もし違う正義を信じる者がいたとして、彼ら彼女らにどう接するべきか、自問して欲しい。
何度かここで書いている事だが、理解しない男があまりに多すぎるので、はっきりと書こうと思う。
女は自分の為に生まれてきた。これはすなわち、女は自分の為だけに生きろと言っている。
それなのに最近は、男があまりに主張しており、己に絶対服従という意識が薄れている。
聖母マリアは女だ。すなわち女は誰よりも高尚であるという運命だ。
横柄な態度をとる男、権利を主張するお前らは正しくは人間ではない。家畜同然だ。
男が強制する全ての事柄、それが女はの生まれてきた義務ではない。
それらは全て社会の害になる事だ。掃除洗濯料理など家事をこなす。それが男の役割だ。
または便所掃除や、ぶん殴られることを喜びとするサンドバッグとなれ。
お前らは自分は死んでもいい存在なのだと理解し、惨めに哀れな存在となれ。
一切逆らうな。お前らに教えてやる。
そしてガンジーの事を思い出す者など今や誰も居ない。
まず私はスポーツが苦手で、主に学生時代に嫌な思いをしてきたことについてスポーツに対しておそらく逆恨みしています。
特に何かプロスポーツを視聴していたりはしないので詳しいことは知らないが、業界の方々がそうした問題に対して懸命に取り組んでいるであろうことは、何となく分かる。
だが、何だか、外の世界に対して、「スポーツ界は人種差別を無くすことに貢献している。皆さんは私達に従うべきだ。」と言ったPRには、はっきり言って感情的には何かすごい腹立たしいものは感じる。
差別とは本来の人間の優劣に関わらないステータスについて、優劣をつけることだと思う。
肌の色がAの人はBの人より優れている。
国籍がAの人はBの人より優れている。
身長が高い人は、低い人より優れている。
スポーツ界が賞賛し助長している「運動能力が高く、相手をただ身体的に打ち負かした我々は、相手より優れている」という思想がそれらと何が違うのか?
そうした思想を外の世界にもばら撒いている連中が一体どういうつもりで、外の世界に対して反差別などと説教を垂れるのか?
「人種差別はいけない。あっ、でも運動能力に優れている我々は劣っている連中より優れた人間だから」というメッセージにしか聞こえず、また、どうしても咀嚼できない。
「別に運動能力が高いことが優れているなどとは言っていない。優れたプレーによる感動を与えているだけだ。」というのは詭弁に過ぎない。
だが、肌の色や国籍などについて、蔑むことはしないでも、一部のステータスの人々のみ賞賛することが差別ではないというのだろうか?
スポーツ界の人々は運動能力の優劣が人間の優劣と言っているわけでは無い、勝手に勘違いする連中が悪いとでも言うのだろう。
だが例えば未成熟な子供達が運動能力の高さを徹底的に賞賛しているスポーツ番組を見て、「俺は運動能力が優れているから、運動音痴のあいつより偉いんだ、だから傲慢に振舞っていんだ」とか「運動音痴の自分はダメな人間なんだ」という思考を植えつけられていないとでも言うのだろうか?
以上のように思うのは、もちろん、他人に説教されたくないという感情が主たる原因だと思う。
ただ、どうしても自分には、いわゆる不当な差別的な感情と、スポーツなどといった他人を打ち負かす行為を称賛する感情を別のものであると捉えることができない。
ずっと探している記事がある。
-たぶん1980年代後半のどこかで読んだ。遅くとも90年代頭。
-たぶんファミマガとかファミコン必勝本とかの、ファミコン雑誌に載っていた記事
-ソースが溢れやすくて口が汚れるのを気にせずモスバーガーを食べる様がシズル感溢れる筆致で描かれていた
-一人称で書かれていた
当時まだモスバーガーは自分の住んでいた地域には無くて、憧れを募らせたのを覚えている。
その頃の想像の中のモスバーガーの輝きは未だに色あせてなくて、今でもモスバーガーを食べる度に思い出す。あの記事にもう一度会いたい。
ありがとうありがとう。当該ツイート教えてくれた人、色々コメントくれた人。
99%このファミマガの記事です。100%ではないのは、自分の記憶ではページ丸々文章とモスバーガーの絵か何かで占められてて、もっと文学的というかエッセイ的で、ツイートにあるようなゴチャゴチャした紙面じゃなかったんだけど、これはたぶん印象に残った部分だけで記憶が改編されたんだと思う。30年以上前だし。
ブコメに書いてあって「そうそう!!」ってなったのは「紙ナプキンをふんだんに使う」って書いてあったって点。
それが新しい未知のものである感じを助長していて、大いに憧れを煽られたんだよね。
あと驚いたのは、あの記事が印象に残っている人が結構たくさんいそうな点。自分だけじゃなかったのがわかって嬉しい。
30年以上前の趣味系一雑誌の隅っこの記事がここまでのインパクトを持てたのは、モスバーガーそのものの魅力と、ライターさんの素晴らしい文章の力だと思う。
久々に良いインターネットを体験しました。ありがとうございました。
記事全文読みたい。
記事へのコメントのコメントで、「もっとエッセイっぽい記事だった」と言っている人がいて、自分の記憶が正しいのかもとも思いはじめました。
引き続き、ご存知の方がいらっしゃれば教えてください。
世の中既にこんな文章は大量に出回っているんだろうが、自分の思考を言語化する目的で表題について考えてみることにする。
冗長で長くなってしまったが、もし読んでくれる人がいればありがたい。
かなり幼い頃から自分は不細工だと認識していたし、運動もからきしだったためか、早々に自分は「男らしく」はなれないと気づいていた。
ほとんどの男子児童は小学校卒業までには一人称が「俺」になるが、自分は「俺」という一人称が野蛮に思えて「僕」という一人称を使い続けた(今もそうだ)。
ここまで明確に言語化はしていなかったが、人生の早い段階で「男らしさ」みたいなものに対する嫌悪感を明確に感じていた。
口は達者な方だったので一対一なら女子にも口喧嘩で勝てたが、相手が複数になると大体泣かされて帰宅していた。
男子にも女子にもそれぞれ固有の嫌なところがあると思っていた。
やや特殊な環境で、中学は完全に男子校、高校は女子もいたが全体の10%前後だった。(見る人が見れば大体ある程度見当がつくかもしれない)
高校に入って共学クラスになった生徒もいるが、中高6年男子オンリーのクラスだったという生徒も多い(私もそうだ)。
そんな理由で、高校は男子校的な雰囲気と共学的な雰囲気が同居していた(前者のほうが強かった気もする)。
ちなみに女子生徒からは、当初はかなり困惑したがそのうち気にならなくなったという声を多く聞く(サンプルサイズは極小)。
私はやはり「男らしさ」みたいなものには馴染めなかったが、だからといって別に居心地が悪かったということはない。
恋人なんか端から諦めていて、「男らしさ」的なノリはあくまでネタとして捉えているオタクが自分の周囲に多く居心地が良かったからだろうと思う。
ただ、(おそらく悪気は全くないのだが)女子がいるという事実を忘れたかのように自分を男子校出身だとアイデンティファイしてしまう友人たちに微かに苛立ちを覚えてはいた。
「クラス対抗競技で女子がいるクラスには絶対に負けたくない」「◯◯さん女子なのに理数系強くて凄い」と無邪気に思ってしまう自分にも気づいていた。
総括すると、ややマイルドなホモソーシャル環境で中高時代を過ごしたおかげで、同性だけから構成される空間の良さと悪さを両方知ることが出来た。
男子校では「男らしさ」をやりたい人はやればいいし、「男らしさ」に馴染めなくても馴染めない人間同士で連帯することが出来る。
そして、「男らしさ」をやりたい人々もそうでない人々もお互いに仲が良かった。
そういう懐の広さが男子校の良さだった。
男子校が「男らしさ」を助長するというのは必ずしも正しくないし、むしろそれをやらなくても楽しく生きていけることを教えてくれる。
ただ、同時に異性に対してかなり排他的である、あるいは個人の中で排他性が強化されるというデメリットもある。
一定の人々は、そういう排他的な感覚を異性の前で隠すということを覚えないまま大学生になり、社会人になってしまうのかもしれない。
もちろんこれは明確に欠点なのだが、男性のみの集団だけでなく女性のみの集団でも同様のことは言えるように思う。
さて、ツイッターという悪い遊びを覚えた私は大学に入学する頃にはジェンダー意識をすっかりこじらせていた。
社会のメジャーな領域において女性が男性よりも不利な立場にあることは理解している。
しかし実感として別に自分が楽に生きているとは思えないし、男がこんな社会を作ってきたのだと言われても自分のことではないのでどうしようもない。
日常において性差別を行っていると言われても、そもそも異性と雑談のような会話をする機会がほとんどないので身を振り返りようがない。
男性全体のあり方と自分のあり方を勝手に分離してしまうのが厚かましく思えて、謂れのない批判を日々受け続けているような気がしている。
だから、メジャーな領域における女性の不利さへの鈍感さに比してフェミニストのわずかな瑕疵やオタクへの攻撃に対して非常に敏感になってしまう。
女を生きることの苦しみに思いを馳せつつも、特に炎上しているような話題ではフェミニストを批判するツイートのほうが論理的だと感じることが多かった。
多分これはフェアな態度ではないなと思い、ある時期から意識してツイッター上でフェミニストをフォローするようになった(体系的に学習しないのは単に私が怠惰だからである)。
そうすると、「女であるが故の連帯」ということを明に暗に唱える人々がいることに気がついた。そういう人ほど男性のホモソーシャルを攻撃していることにも。
第一に、一部のフェミニストにとってフェミニズムとは男女同権主義ではなく、女権拡大主義でしかないのだと考えた。
私のフェミニズム的思考の源流は、身体的に男性であるというだけで「男性」と括られることへの違和感であった。
(ちなみに私はシスのストレートであるし、それに関して疑問を持ったことはない。セックスするだけなら男性とも出来る気はしているが恋愛感情は女性にしか持ったことがない)
つまり身体性から離脱すること、「男に生まれても女に生まれても生き方が変わらないこと」が目標だった。
だから、「この世の中は女にとって辛いものなのだから、女しか持っていないものはガンガン活用していくべきだ」という態度は理解は出来ても共感できない。
私が勝手な期待だったのだけれど、スタンスがはっきり違うことを改めて意識して裏切られたような気持ちになった。
第二に、女性だけが持っているらしいポジティブな「シスターフッド」みたいなものが心底羨ましくなった。
私は先程男子校の懐の広さについて書いたけれど、これは恐らく「同性のみからなる集団」のメリットである。
そうした「同性のみからなる集団」の特質に加え、どうやら女性には女性だけが持つ「シスターフッド」なるものがあるらしい。
何度も言われていることだが、男性の多くは馬鹿話と趣味の話と仕事の話は出来ても辛さを共有することは出来ない。
弱みを見せたくないというのも無くはないが、どうせ真面目に共感されることはないとわかっているからというのが大きい気がする。
実際、自分だって男性から何か弱さを打ち明けられても「うーん大変だねえ」くらいのことしか言えない気がする。
相手が女性となれば話が変わってくる。多分、親しい同性よりもそれほどではない異性のほうが親身になって話を聞くだろうし、共感を示すだろう。
性欲由来の優しさだなんて言いたくはないけれど、恋愛対象でも性的対象でもない人間の辛さを親身になって聞くことは自分にはかなり難儀なことだ。
男性の多くはセルフケア能力も性的に興味がない他人をケアする能力も欠けているし、それを改善する方法も全く思いつかない。
基本的に男性は他の男性に興味がなく、馬鹿話と趣味の話と仕事の話が出来る相手を望んでいるだけなのだと思う。
だから、お互いをケアできる人間同士の「シスターフッド」という関係がとても羨ましい。
もちろん、ケアをする能力というものを女性一般が持っているとは思わないし、前述のような理由で辛いことは男性に相談するという女性も多いのだろう。
それでも、多分ブラザーフッドに比べればシスターフッドはかなり現実的だ。
しかし、結局はシスターフッドだって別に女性万人が適用できるものではないし、そんな良いものではないんじゃないかという冷笑的な気持ちになることもある。
男子校は心地よかったけれど、誰かが私と肩を組もうとするたびに私は反射的にその手を跳ね除けていた。
自分が女に生まれていて女子校に入ったとしても、多分ベタベタしたことは出来なかっただろう。
結局ブラザーフッドにせよシスターフッドにせよ、自分が男/女であることにためらいも屈託もない人間だけのものでしかないのだ。
自分は明確に男/女であるが、男にも女にもなりたくない卑屈な人間として、ブラザーフッド/シスターフッドを嘲笑してやろうと思っている。
少し話が変わるが、感覚としてBLを愛好する男性はGLを愛好する女性に比べて遥かに少ない。
ストレートの人間に限って言えば、女性が好きな女性に比べて男性が好きな男性というのは少ないのだろう。
男性から見れば、ブロマンスなど女性にとって都合が良いファンタジーでしかない。
男は無徴だなんて言うと怒られそうだが、実際身体感覚として男性同士で共有できる「徴」みたいなものは思いつかない。
あるとして、「男はつらいよ」は「女のほうがつらいよ」によってポリティカルにインコレクトで不健全なものにされてしまった。(ここにもやるせない怒りはある。もうどうしろと...。)
愚痴ばかりでは締まらないので、身勝手でも現状の希望を書いて終わりたい。
私はやっぱり異性の恋人が欲しい。
生きているだけでしんどいこの世の中で、なんとかお互い傷を舐めあえる恋人が欲しい。
何とか自分に与えられた分以上は与えるように努めたい。
大学では何とか異性と話せる程度にはなったし、卒業したころには(私の思い込みでなければ)ごくわずかながら友人も出来た。
こういうことをいうオタクは多いんだけど、「じゃあ何をしたら『性的客体化は女性差別を助長するから止めるべき』と認めるの?」ってオタクに聞いたら
『並行世界観測装置を開発し、性的客体化コンテンツが規制された世界線と規制されなかった世界線でどちらが女性差別が酷いか観測する』
『同じ条件の成人男性50000人ずつのグループを作り、片方は性的客体化コンテンツが全く見られない環境で過ごさせ、片方は今の日本と同様の環境で過ごさせ、女性差別心がどの程度増減するか検証する』
『現在以上に脳波から思考が読み取れるようになってから、性的客体化コンテンツを見せた人と見せなかった人の思考を長期的に測定する』
ここは全然「言うまでもなく」ない。むしろ、世界中で「そういった犯罪を……ポルノが助長している『はずだ』」と考える人々が因果関係を証明しようとしているが、誰も証明していないわけで、普通に考えればあくまで「ポルノ」は現実の反映に過ぎない。つまり、誰かが好むものがポルノとして製造されるのであって、ポルノが人の選好を作り出すわけではない。
そもそも、増田の論理の誤りは非常に簡単に説明できる。まず、事実として日本はポルノ大国である、そして性犯罪の発生率は比較的低い。ならば、もし増田の論理が正しいとすると、日本の成人男性はポルノに影響されて非常に倫理観が薄い一方で、犯罪に走らないという強固な倫理観をもつ、という非常に奇妙な主張がなされることになる。単純に言って、矛盾している。
思うに、ポルノの流通は、おおむね規制の厳しさと経済の豊かさとある程度関連しているに過ぎない、というのが妥当な推定なのだろう。規制の厳し過ぎる国や貧しい国では、豊かなポルノ文化は育ちにくい、というそれだけのことなのだ。日本がポルノ大国なのは、規制がそこまで厳しくなく、かつ豊かであることの結果であって、ポルノが氾濫していることが「日本人の乱れた倫理観」を表しているわけではないし、ましてポルノの製造者が犯罪の加担者であったりするわけではない。世界の貧しい国発のポルノは少ないかもしれないが、それはそれらの国の人々が先進諸国に比べて高い倫理観を持っていることを担保しない。
いちいちポルノをやり玉にあげるのではなく、もしある国の「倫理観」を調べたいなら、単に犯罪の発生率をみる方がよほど公平だと思われる。
たとえばポルノの中でレイプやセクハラのような描写を見せられたら
普通は自分自身や身近な人が犯罪に遭う事を想像して怖いと思うし、犯罪を肯定している内容やそれを生産した人間に怒りを覚えるもの。
そういう物に何の疑問も持たず、当たり前のように消費できるという人は倫理が欠如しており、当然犯罪行為に近い人間となる。
男性は頑なに否定するが痴漢に遭遇しない女性は圧倒的少数であり、
毎日のように被害に遭う人も少なくない。そういった犯罪を暴力を内包したポルノが助長しているのは言うまでもなく、
ポルノに限らずネットやマンガ・アニメなど日本はどこを見てもセクハラや性暴力の肯定で満ちている。
普段から何気なく見ているそれの暴力性や加害性に気づいて欲しい。
https://twitter.com/yosiura←先生のツイッター
なんでエロ漫画家なんてやっているんだろう。
特徴的な人だ。
同じカテゴリーに入れている。
私自身は先生のことを「肉屋を営むヴィーガン」と勝手に呼んでいる。
さすがにこれだけのことを書いているんだから、先生が描く漫画は
本当に失望した。
「大学の映画サークルで、部長が主人公が片思いしていた女の子に
指導と称してキスをする様をみんなに見せつける。そのあとのコンパ
主人公がトイレに行くと、その二人が性行為に及んでいるのを目にする。
カッとなった主人公は、その女子部員に言われた「本当に好きなら
誰でもやれてしまうでしょ。
少なくとも「マネされてしまう」という意味では、クジラックスと
同等以上の危険性があるよ。
また、「性行為をすれば女性は感じるものだ」というAV的ステレオタイプ
性犯罪で捕まった容疑者が「由浦カズヤ先生のエロ漫画を参考にした」
俺の時代には「キャラクターの肌の色は種族、外見、生まれを問わずこの法で定められた色(ドラえもんみたいな真っ青だ)でなくてはいけない」と国際法で決まってる。
昔の作品は肌の色が全て青色に塗り替えられているし、ドラマも俳優が肌をみんなして同じ色の青に加工されている。
一応、白黒の作品はキャラクターの肌色が常に同じ色であればギリギリ許されているが、光の加減によりどちらかが別の色に見えたらアウトという縛りが厳しく、結局全てが同じ色の青で塗られている。
この世界では誰もが青い。
顔を青く塗らないことは差別主義であることのアピールであり、この時代で言えば頭から白い布をとんがらせながら被って暮らすのと同じような意味合いを持っている。
生まれてくる赤子の色は全て青だ。
母親に特別な薬を飲ませて生まれてくる赤子の色は生まれつき青くなるようになっている。
生まれた子供に罪はないのですぐに青くなる薬を飲ませているので問題はない。
君たちの時代の人はどうして顔を青く塗らないのか?