世の中既にこんな文章は大量に出回っているんだろうが、自分の思考を言語化する目的で表題について考えてみることにする。
冗長で長くなってしまったが、もし読んでくれる人がいればありがたい。
かなり幼い頃から自分は不細工だと認識していたし、運動もからきしだったためか、早々に自分は「男らしく」はなれないと気づいていた。
ほとんどの男子児童は小学校卒業までには一人称が「俺」になるが、自分は「俺」という一人称が野蛮に思えて「僕」という一人称を使い続けた(今もそうだ)。
ここまで明確に言語化はしていなかったが、人生の早い段階で「男らしさ」みたいなものに対する嫌悪感を明確に感じていた。
口は達者な方だったので一対一なら女子にも口喧嘩で勝てたが、相手が複数になると大体泣かされて帰宅していた。
男子にも女子にもそれぞれ固有の嫌なところがあると思っていた。
やや特殊な環境で、中学は完全に男子校、高校は女子もいたが全体の10%前後だった。(見る人が見れば大体ある程度見当がつくかもしれない)
高校に入って共学クラスになった生徒もいるが、中高6年男子オンリーのクラスだったという生徒も多い(私もそうだ)。
そんな理由で、高校は男子校的な雰囲気と共学的な雰囲気が同居していた(前者のほうが強かった気もする)。
ちなみに女子生徒からは、当初はかなり困惑したがそのうち気にならなくなったという声を多く聞く(サンプルサイズは極小)。
私はやはり「男らしさ」みたいなものには馴染めなかったが、だからといって別に居心地が悪かったということはない。
恋人なんか端から諦めていて、「男らしさ」的なノリはあくまでネタとして捉えているオタクが自分の周囲に多く居心地が良かったからだろうと思う。
ただ、(おそらく悪気は全くないのだが)女子がいるという事実を忘れたかのように自分を男子校出身だとアイデンティファイしてしまう友人たちに微かに苛立ちを覚えてはいた。
「クラス対抗競技で女子がいるクラスには絶対に負けたくない」「◯◯さん女子なのに理数系強くて凄い」と無邪気に思ってしまう自分にも気づいていた。
総括すると、ややマイルドなホモソーシャル環境で中高時代を過ごしたおかげで、同性だけから構成される空間の良さと悪さを両方知ることが出来た。
男子校では「男らしさ」をやりたい人はやればいいし、「男らしさ」に馴染めなくても馴染めない人間同士で連帯することが出来る。
そして、「男らしさ」をやりたい人々もそうでない人々もお互いに仲が良かった。
そういう懐の広さが男子校の良さだった。
男子校が「男らしさ」を助長するというのは必ずしも正しくないし、むしろそれをやらなくても楽しく生きていけることを教えてくれる。
ただ、同時に異性に対してかなり排他的である、あるいは個人の中で排他性が強化されるというデメリットもある。
一定の人々は、そういう排他的な感覚を異性の前で隠すということを覚えないまま大学生になり、社会人になってしまうのかもしれない。
もちろんこれは明確に欠点なのだが、男性のみの集団だけでなく女性のみの集団でも同様のことは言えるように思う。
さて、ツイッターという悪い遊びを覚えた私は大学に入学する頃にはジェンダー意識をすっかりこじらせていた。
社会のメジャーな領域において女性が男性よりも不利な立場にあることは理解している。
しかし実感として別に自分が楽に生きているとは思えないし、男がこんな社会を作ってきたのだと言われても自分のことではないのでどうしようもない。
日常において性差別を行っていると言われても、そもそも異性と雑談のような会話をする機会がほとんどないので身を振り返りようがない。
男性全体のあり方と自分のあり方を勝手に分離してしまうのが厚かましく思えて、謂れのない批判を日々受け続けているような気がしている。
だから、メジャーな領域における女性の不利さへの鈍感さに比してフェミニストのわずかな瑕疵やオタクへの攻撃に対して非常に敏感になってしまう。
女を生きることの苦しみに思いを馳せつつも、特に炎上しているような話題ではフェミニストを批判するツイートのほうが論理的だと感じることが多かった。
多分これはフェアな態度ではないなと思い、ある時期から意識してツイッター上でフェミニストをフォローするようになった(体系的に学習しないのは単に私が怠惰だからである)。
そうすると、「女であるが故の連帯」ということを明に暗に唱える人々がいることに気がついた。そういう人ほど男性のホモソーシャルを攻撃していることにも。
第一に、一部のフェミニストにとってフェミニズムとは男女同権主義ではなく、女権拡大主義でしかないのだと考えた。
私のフェミニズム的思考の源流は、身体的に男性であるというだけで「男性」と括られることへの違和感であった。
(ちなみに私はシスのストレートであるし、それに関して疑問を持ったことはない。セックスするだけなら男性とも出来る気はしているが恋愛感情は女性にしか持ったことがない)
つまり身体性から離脱すること、「男に生まれても女に生まれても生き方が変わらないこと」が目標だった。
だから、「この世の中は女にとって辛いものなのだから、女しか持っていないものはガンガン活用していくべきだ」という態度は理解は出来ても共感できない。
私が勝手な期待だったのだけれど、スタンスがはっきり違うことを改めて意識して裏切られたような気持ちになった。
第二に、女性だけが持っているらしいポジティブな「シスターフッド」みたいなものが心底羨ましくなった。
私は先程男子校の懐の広さについて書いたけれど、これは恐らく「同性のみからなる集団」のメリットである。
そうした「同性のみからなる集団」の特質に加え、どうやら女性には女性だけが持つ「シスターフッド」なるものがあるらしい。
何度も言われていることだが、男性の多くは馬鹿話と趣味の話と仕事の話は出来ても辛さを共有することは出来ない。
弱みを見せたくないというのも無くはないが、どうせ真面目に共感されることはないとわかっているからというのが大きい気がする。
実際、自分だって男性から何か弱さを打ち明けられても「うーん大変だねえ」くらいのことしか言えない気がする。
相手が女性となれば話が変わってくる。多分、親しい同性よりもそれほどではない異性のほうが親身になって話を聞くだろうし、共感を示すだろう。
性欲由来の優しさだなんて言いたくはないけれど、恋愛対象でも性的対象でもない人間の辛さを親身になって聞くことは自分にはかなり難儀なことだ。
男性の多くはセルフケア能力も性的に興味がない他人をケアする能力も欠けているし、それを改善する方法も全く思いつかない。
基本的に男性は他の男性に興味がなく、馬鹿話と趣味の話と仕事の話が出来る相手を望んでいるだけなのだと思う。
だから、お互いをケアできる人間同士の「シスターフッド」という関係がとても羨ましい。
もちろん、ケアをする能力というものを女性一般が持っているとは思わないし、前述のような理由で辛いことは男性に相談するという女性も多いのだろう。
それでも、多分ブラザーフッドに比べればシスターフッドはかなり現実的だ。
しかし、結局はシスターフッドだって別に女性万人が適用できるものではないし、そんな良いものではないんじゃないかという冷笑的な気持ちになることもある。
男子校は心地よかったけれど、誰かが私と肩を組もうとするたびに私は反射的にその手を跳ね除けていた。
自分が女に生まれていて女子校に入ったとしても、多分ベタベタしたことは出来なかっただろう。
結局ブラザーフッドにせよシスターフッドにせよ、自分が男/女であることにためらいも屈託もない人間だけのものでしかないのだ。
自分は明確に男/女であるが、男にも女にもなりたくない卑屈な人間として、ブラザーフッド/シスターフッドを嘲笑してやろうと思っている。
少し話が変わるが、感覚としてBLを愛好する男性はGLを愛好する女性に比べて遥かに少ない。
ストレートの人間に限って言えば、女性が好きな女性に比べて男性が好きな男性というのは少ないのだろう。
男性から見れば、ブロマンスなど女性にとって都合が良いファンタジーでしかない。
男は無徴だなんて言うと怒られそうだが、実際身体感覚として男性同士で共有できる「徴」みたいなものは思いつかない。
あるとして、「男はつらいよ」は「女のほうがつらいよ」によってポリティカルにインコレクトで不健全なものにされてしまった。(ここにもやるせない怒りはある。もうどうしろと...。)
愚痴ばかりでは締まらないので、身勝手でも現状の希望を書いて終わりたい。
私はやっぱり異性の恋人が欲しい。
生きているだけでしんどいこの世の中で、なんとかお互い傷を舐めあえる恋人が欲しい。
何とか自分に与えられた分以上は与えるように努めたい。
大学では何とか異性と話せる程度にはなったし、卒業したころには(私の思い込みでなければ)ごくわずかながら友人も出来た。
まん臭
お前文章下手だな