はてなキーワード: インターネットとは
最近のいろいろな出来事をみるに、リベラル側ってアップデートアップデートいうけど、じゃあ「変化」という概念のアップデートは出来てないよなと思ってる
インターネット、特にSNS以降、世論の流れって可視化されたように見えるけど、実際の生活のスピードやリズムは変わってないし、
日本全土が東京や大阪の都市部のような生活も送っていなければ、名門大学のゼミみたいな知的環境に追い付いてるわけでもないのに
アップデートアップデートつっても出来るわけないじゃん、という、「無名の人々の意志」を全く無視してるよね(SNSは全員名前がある、「有名」だけど)
変化というものの持つ危機の側面をほとんど無視してるとしか思えない
無理やり例えるなら、原子力の、放射能の恐ろしさの側面を無視してるのと同じ
今の社会でリベラルが盛んに唱えているアップデートだとか進歩だとか倫理的うんぬんかんぬんって、本当に政治的や技術的要因による切羽詰まった要請による進歩や変化ではなく、
空手形みたいないつ必要になったのかそしてなるのかわからない概念や、大学のゼミの中での思考実験みたいなもので(そして大昔の教授たちはそれを必要以上に社会に持ち出さなかったわけだけど)、
じゃあインターネットでたとえば一万倍加速した言論を、ほんの二十年前まで身の回りの出来事が一年に1.05とか1.25とかぐらいしか進歩していなかった人々や、
地方都市で自分の家業や地域や交友関係に誇りを持って働いていてそれほど急激な進歩を必要としていない人々に無理やり押しつけても、従えるわけないじゃん
新幹線が通ったから地域社会に大きな変化が起きたとか、バブルが起きた弾けたとかでも、そういう変化は数年数十年単位のスパンで考えられていることで、「19XX年Y月Z日を機に社会は1500倍進歩しました!」みたいなことは無い訳でさ
まあ明治維新とか1945年8月15日とか象徴的な日付を年表的にかなりかいつまんで教えている義務教育の影響もあるのかもしれないけど、ともかくある日ある瞬間をきっかけに何かが急に加速するってことは無いのに、リベラルの中ではそれが起きてるように見えてるのかね
上の文章の中で1.05とか1.25とか仮の適当な数値出してるけど
イギリスでは社会保障などを整備するときに、ちゃんと社会にどんな変化が起きるのか、どんな職種の人々の生活にどんな影響が出そうか、
難しそうな概念や変化も本当にかなり数値化して練りに練って構築していて、少なくとも「変化」を制御しようという動きはしているんだよね
アメリカでもギャラップの世論調査とかは「数値」というものに現れる人々の意識の変化を何十年も積み重ねて追い続けているんだよ(そしてそこに、「数日で一万倍になる世論」とかは存在しない)
もちろんインターネットもない時代にこれだけの周到さが必要だったわけだし日本も整備の時恐らく同じことはしている
じゃあインターネット時代のリベラルの皆さんはどうなの?ちゃんと自身の言論を数値化・論理化して、その「進歩」「アップデート」を人に説明できるの?
俺が聞いてみたらそれなりに意味が通じる解釈が出てきたけど。GPT-4
このレスは、オンライン上での女性の経験に関する一般的なコメントであり、具体的に投稿者の友人の状況に直接言及しているわけではありません。しかし、友人が経験したオンラインコミュニティでのトラブルやハラスメントを想起させる内容です。
Chat GPTは「アタオカはいらない、お金がいる」ではなくて「アタオカはいらない」と「お金がいる」という独立の問題として解釈して「女性がしばしば遭遇する難問」として処理してるんだなと。ただちょっと意図が違うよね。
(前半の要約はほぼ同じなので省略)
レスについては、「アタオカはいらない、お金がいる」というフレーズが重要です。このレスは、友人がオタクコミュニティでのトラブルを経験したこと、そして「アタオカ」と呼ばれる人物との関係について言及しています。レスは、「アタオカ」という人物が仕事上の付き合いであり、金銭的な理由から関係を切ることができない状況にあったことを示唆しています。これは、特に女性が職場などでしばしば直面する難しい問題を指摘しており、時には「スルー」しても解決しない状況があると述べています。しかし、このような問題が法的に犯罪として扱われていないことに対する遺憾の意を表していると解釈できます。
要するに、レスは友人が抱えていた問題の複雑さを指摘し、特に職場などでの人間関係の難しさと、それに伴う精神的な苦痛を理解しようとしています。また、投稿者自身も友人の悩みにもっと注意を払い、支援していればと後悔している様子が伝わってきます。
これが穏当な解釈だとワイは思うがどう?
第4の壁によってそれらは真っ二つに区切られている。
「一度もゲームオーバーになることなく最終決戦まで生き延びる主人公たちの物語」
「何度もゲームオーバーになりながら、リトライを繰り返しながら成長するプレイヤーの物語」
もちろんこの二つを両立させることは出来る。
それはゲームオーバーと死を結びつけないことだったり、周回プレイさえも含めてキャラクターの設定に組み込んでしまうことがそれだ。
クリアと同時にセーブデータを消去したり、更にはセーブデータを消した事実さえゲームの中に組み込んでくる作品も出てきた。
それでも、新しいゲーム機やPCを購入すればプレイヤーは0から世界をスタート出来てしまう。
同時に、まだプレイしたことがないゲームのネタバレを知ってしまえば、0からゲームを始める機会は永遠に失われる。
「ゲームの物語」と「プレイヤーの物語」は絶対的に独立している。
それを打ち破ったのがMMOゲームの凄さであると語る人もいるが、たとえゲームの中の時計を止めることを不可能にしても、プレーヤーの物語をゲームの中に組み込もうとしても、結局それらはゲームであることから脱することはないと私は考えている。
ゲームがスポーツとしての側面を追求することでプレーヤーの物語をゲームの勝敗に引きずり込むことは出来ても、そこまで来ると今度はゲームの中におけるストーリーは形を失い、競技のための触媒でしかなくなるのではないか?
将棋盤の上に広がっていた国盗りの物語は、プレーヤーの技術向上に伴いただの記号となる。
その昔、「物語が素晴らしい」と語られるゲームは「ゲームの中の物語」に対して送られる言葉だった。
だが、時代と共にそれは変化し、ナラティブの重要性が語られるようになる内に「プレーヤーの物語」こそが重視されるようになった。
たとえばSEKIROだ。
主人公では死の淵から蘇る設定こそあるが、ボスキャラクターに敗北したときは世界の時間そのものが巻き戻る。
第二形態になるまで痛めつけたはずの敵は無傷へと戻り、登場人物は同じ会話を何度も繰り返す。
「主人公の物語」は「ただ一度の敗北を除けば、不死の力により強敵を打ち破り続けた豪傑」であるが、プレイヤーは「何度も敗北しながら相手のモーションを盗み、時に攻略サイトや動画を覗いて対策を練り上げることにより遂に勝利した」という物語を歩んでいる。
そして、SEKIROで評価されている物語は、この後者、「プレーヤーの敗北と復讐の物語」である。
プレーヤーはコントローラーを通して画面上の何かをラジコンのように操作し、それによって何者かを演じる。
独裁政権の暴君であったり、愛らしいマスコットであったり、不気味な怪物、英雄たちの指揮官、様々なものに乗り移り成り代わる。
ゲームがまだ全くリアルでなかった頃、ゲームセンターや喫茶店でレバーを握っていたプレーヤー達が演じていたのは画面のキャラクターではなかった。
「難しいゲームをスイスイと攻略するゲーマー」という役を演じていた。
レトロな世界は人間の想像力を掻き立てはしたが、そこにある没入感には限界があり、プレーヤーと画面の中のキャラクターの間にある第4の壁の厚さは現代の比ではない。
そんな中、ゲーマーを名乗る者達は「ゲームというごっこ遊びを上手にこなす自分」を演じたくてコインを投入し続けたのである。
段々とゲームは映画のように物語を見せるものへと変化していき、プレーヤー側も「キャラクターの冒険を追体験する」という感覚を求めるように変化していく。
そのうちにゲーマーは観客となり、コントローラーを握る行為が本のページを捲るのに似通ったものとなっていく。
ゲームを薦めることはストーリーを追うための手段であり、それ自体は目的ではなくなっていった。
そんな時代が続くと今度は、「自由度」「選択の影響」といったものが重視されるようになった。
単に決められたフラグを順番にこなすだけの作業は、ごっこ遊びとしては退屈になってきたのだ。
選択がゲームの世界に影響を及ぼすことにより、その世界の構成要素としての没入感がより強まることが発見される。
だが、その時代も少しずつ陰りを見せ「結局はトゥルーエンドがある」だとか「何周もするのが面倒だ」とか「どうせ全部動画で見る」だとか、そういった体験が積み重なることで、自由な選択もまた単なるフラグ管理の確認作業へと認識が変化していったのである。
「自由な選択」や「選択の責任」といった要素が飽きられだした今、ごっこ遊びはどこへ行ったのか。
再び「ゲームを遊び倒しているゲーマーの自分」を演じる遊びへと帰ってきたのである。
トロフィーの獲得状況を見せ合ったり、考察を語り合ったり、配信で盛り上がったりと、プレーヤー同士の交流が盛んになることによりゲーセン時代の「ゲームやりまくりな俺凄くね?」の遊びがインターネット上で繰り広げられるようになった。
その中で伸びていったのが、「高難易度と成長しやすさを両立したゲーム」だ。
「遊びにくさと難しいを履き違えるな」という金言があるが、これを完璧に守りきり「遊びやすいが難しい」を完成させたゲームがこのジャンルだ。
一見理不尽なほど難しいが、プレーヤーが成長することによって確実に強くなれる丁寧な階段がその中に仕込まれているゲームである。
それの亜種として「入り組んだ設定があるが、情報を整理すれば読み解けるゲーム」も人気となっている。
苦戦した強敵を軽々と倒し、まだクリアしてないプレーヤーが苦戦しているのを高みの見物をするゲームと、何回な設定について考察サイトで議論を重ねたり盗み見て理解し、それに初めて触れたプレーヤーに「いずれ分かるさ」と上から目線をかますゲーム、コントローラーを握っている間の難易度こそ違うが、そこの性質は良く似ている。
「やり込んだプレーヤーが自分の成長(成功)を感じることが出来る」という点だ。
ゲーム内外にプレーヤーの成長(成功)の物語が散りばめられており、その成長(成功)を「つい最近始めたばかりで苦戦しているプレーヤー」との比較によって実感できるようになっている。
人は、昨日よりも優れた自分になりたいという願望がある。
現代人気のゲームは、その願望を実現したかのような気持ちにさせてくれる機能があるゲームだと言えるだろう。
カルトな人気を誇るゲームを「ものすごい体験をした」と持ち上げるプレイヤーの中にある心理も、「物凄い体験をした自分」と「その体験をまだしてない自分」を比べて、成長や成功の感覚を、自分の物語として味わっているのである。
残りあと50年生きるとする。
後半の20年は年金暮らしになるだろうが、体が自由に動かなくなることを考えると労働と同じレベルでそれらとの戦いがあると身構えた方がいいだろう。
そして20時に家につく。
24時に寝る。
8時に起きる。
24時に寝る。
休日が125日あるが、用事で潰れる日が5日あるとして120日。
残りの平日が245日。
120*10=1200
245*2=490
そりゃそうだ。
1年1690時間のうち730時間も漫画を読んでしまっているんだから。
漫画だとやや非現実的だが、これがテレビゲームなんかになるとだいぶ現実的になる。
これだけで日々が終わっていく。
そこまでハマれるのなら幸福ではあるのかも知れない。
だけど、そこまでやっても「ゲームを遊び尽くした」と呼べるかは怪しいものがある。
趣味で遊ぶゲームなんて、年間でたったの1690時間でしかないんだ。
大作ゲームのレビューをみれば2000時間や3000時間遊んだプレイヤーがボコボコ出てくる。
そういった時間の使い方は人生でたった30作程度にしか出来ないだろう。
100時間で妥協しても年間17本、10時間で妥協すれば170本遊べるには遊べるが、その遊び方が「十分なやりこみ」と言えるとは思えない。
SNSで流行りを追って、流行りの映画を見て、流行りのイベントに行って、一通りのメジャーソングを聞いて、一通りの名著を読んで、一通りのゲームで遊んで、一通りのスポーツに触れて、冠婚葬祭を一通り味わい、子育てや立身出世に精を出すなんてことをやりきれるほどに人生は長くない。
何かを切り捨てないと無理だ。
だけど私にそんな自制心はなさそうだ。
毎日30分アプリのスタミナを使い切ろうとして漫画を読み、毎日30分アプリのスタミナを使い切ろうとしてソシャゲをやる。
毎日30分トレンドを追うためにインターネットを眺め、毎日30分孤独を癒やすためにSNSや掲示板に書き込む(今やってるなう)。
そして休日は溜まったドラマやアニメを見て、ソシャゲのイベントを進め、話題の映画を見に行ったり、趣味の買い物、オフ会、LIVE、飲み会、たまにアウトドア、話題作が出た直後は引きこもってひたすらゲーム。
気づけば人生があっという間に失われていった。
結婚もしないまま過ごしてきて、未だに「遊び足りない!人生が足りない!あといい加減ちょっと創作活動に手を出したい……あともうちょいキラキラした仕事につきたいから転職……その前にスキルアップとか……」とばかり考えている。
ヤバイ。
しょうがないじゃん?
な?
言ってるとおり完全な偏見だな
そういう発言を摂取して悦に入るようになった人間の方が老害みが強いと思うぞ
趣味の極まった人がたどり着く領域を小馬鹿にして無知を誇るようになったら人間としておしまい
実際このへんは保守的なんじゃなく常に技術が進歩していき知識のアップデートが必要なため、革新的気質のデジタル・電気系オタクが集まる
オーディオ界隈でも真空管とかレコードとか言ってる周辺やピュアオーディオ周辺は保守的傾向があると言っていいかもしれないけどな
もちろんオーディオは聴覚という数値化しづらい分野なので、この中のどこにでもオカルト的要素が極まった製品に熱中してしまう低リテラシー民も一部いることは認めるが
すべてを一緒くたにしてネガティブ印象を持ってしまうのは物事の解像度が低い人間がやりがちなことだ
いずれにせよ個人の趣味、好みの話なのでそれでとやかく言うべきではない
ともかくそのような偏見をSNSで撒き散らす癖のある人は、有名人なのか何なのかしらないが、ろくな人物ではないはずなので追わない方がいいだろう
インプレゾンビじゃないが、同類の過激なことを言うことでPVをあつめようとする界隈の人間は、インターネットリテラシーのある人なら近寄らないはずだ
偏見と断っているのも狡猾なところで、ネットの不特定多数から同意を集める手法に関して精通してしまっている厄介な人物だと思われる
そもそも、ホッテントリの話題がものすごーく偏っている。広い世の中のほんの重箱の隅
(インターネット黎明期はそれがロングテールで「いい話」が多かった」けど、いまのはてブは「女は虐げられている」、みたいな話とか、
ポスターの乳や太ももケシカランとか、SNSでくだらない喧嘩して炎上した、みたいな話が3割位、
増田でたとえば「暇空が云々」とか大量に繰り返し書かれる量を入れると4割を超える。
またその内容がつまらない。言いがかりとか内輪もめみたいなのを延々とやっている。
技術ネタでも、なんかすごい初歩の初歩以前のエントリに無言ブクマが沢山ついたりして、
ブコメもそもそも間違っているようなのが多い。たとえば「太陽光発電は詐欺!絶対つけるな!」みたいなコメント。
あともう一つの流れはTogetterの、やっぱり根本的に間違っているトピックのまとめとか、10年位前に話題になった件の焼き直しとか
そんなエントリ。
その昔、パソコンが壊れると治し方を調べたくてもパソコンが壊れているからインターネットに繋がらないという地獄があった。
(「スペアPCを押し入れから引っ張り出して一時的にそれで調べればいい」とか「ノーパソがあるやろ」とかはてなーは言うんだろうけど、普通は一家にパソコンは一台やったぞ)
今はもうパソコンが壊れたらスマホで検索し、スマホが壊れたらパソコンで検索できる。
その影響でスマホの修理方法について書かれた書籍は、あの時代のパソコン修理の本と比べて数が減った。
でもそうじゃない人は?
スマホが壊れて電話も使えない状態で友人宅にいきなり行ってネットを見せてもらうわけにもいかないだろう。
日頃は情弱向けと馬鹿にしていたAUショップに行って故障状況を伝えて復旧を懇願するんだろうか?
それとも、いきなり買い替えるのか?
①生成AIの影響で真偽が判断つかない情報や、無意味・無内容な情報が、加速度的にSNSなどに溢れかえる
➁もはや、オープンなSNSやインターネットはスカム情報で溢れかえりナンセンスで役に立たないものになる
➂オンライン/オフライン問わずニッチでフェイス2フェイスなコミュニケーションが流行
④ニッチなコミュニティを横断するミニコミ的媒体の需要が復活する
「意味のある情報」が人の手に戻ってくる時代と考えると、インターネットがより身近になる、人間中心的テクノロジーになる契機なのかもしれないよね。もはや、「ただの情報」がスカム化して意味をなさなくなり、「人とのつながり」みたいなコンテクストが重要になる。
この話はなにも生成AIを話題に出すまでもなく、そもそもインターネット広告モデルの持つ情報流通の脆弱性の話なんだけどね。
つまり、インターネットはすべてをフリーにした。そういったアナーキーな価値観で草の根的に生まれた世界だった(cf.自由ソフトウェア運動)。だけど、それじゃビジネスは成り立たない。
そこで、インターネットがたどってきた道はこうだ。
アナーキストたちは採算度外視で(そもそもそういう商業主義を否定するんだからそりゃそうだ)市場を壊していく。「無料でアクセスできる」情報には誰も金を払いながらない。だって、値段をつけて売られてるものが、ネットならタダではいるから。
そのため、商業主義者たちは考えた。「つまり、エンドユーザーには無料で届けなければ太刀打ちできない。なら、エンドユーザーを商品にして、toBにエンドユーザーを売ればいいんだ」。これが今日まで続く、インターネットで主流の「広告モデル」によるコンテンツ生産だ。
しかし、インターネットの「広告モデル」は、これまでのメディアのそれと大きく異なる。なぜならば、トラフィックのすべてが事細かに分析の対象となり、しかもそれがリアルタイムで見えてしまうから。つまり、ウェブコンテンツは「この特定ページのこの部分にこのくらいの時間滞留する。だから、ここに広告を置けば見えやすい」ということが分かってしまう。
これは大問題だ。クリエイティブっていうのは、コミュニケーションっていうのはそういうもんじゃない。数字や言葉に現れない絶妙な采配。そこにしかクリエイティブは宿らない。なのに、それが許されなくなってしまった。
そうなるともう、アテンション・エコノミーの問題につながる。さらに注目を、さらに注目を、そんなことをしているうちに「何に注目したらいいか」をゆっくりと捉える時間がなくなり、「安易な刺激」に逃げるようになる。
「タイパ」という言葉が最近は話題らしいが、あんなものは嘘っぱちだ。「安易な刺激」のイテレーション周期をいくら速めたところで、そこに「意味」はない。TikTokを2時間見る時間があれば、映画館に行ったり、コンサートに行ったりして、「意味のある体験」をしたほうがよっぽどパフォーマンスはいいはずだ。
そして、「タイパ」という言葉の流行、さらに「生成AIによる情報のスカム化」は、いわばこの「無意味な加速」の極限であり、ピーク状態である。つまり、このバブルはあっという間に弾ける。徐々にその加速が無意味であることに気が付き始める。(cf.寝そべり族、Doomer、だめライフ)
だからこれからは、「ミニコミの時代」だ。自分たちの時間を大切に、自分たちの価値を大切に、自分たちのいのちの使い方を大切に決められるオルタナティブなライフが求められる。そうした血の通ったネットワークが求められる。そこに必要なのは、内部の結束と、外部への発信としての「ミニコミ」なんだとおもう。
AIが規制されないまま、このまま進むと社会はどうなっていくのか予想してみた
1.暗号技術の意味が無くなり、ネット経由でやり取りが出来なくなる
2.SNSはなりすましで溢れ、人類はオフラインのコミュニティ移行する
今でも、インプレゾンビが湧いているが、あれが人間かどうか見分けが付かなくなる
優しい人や知人を装って、詐欺に誘導するアカウントが増えると思う
3.デジタルな娯楽を作る人が居なくなる
ボタン一個押すだけで、ハリウッド映画を無限に作れるようになるのに、わざわざ金使って映画撮る人おる?
他の分野もそうなるし、既に音楽やイラストは手を引いてる人が出てそう
4.貧富の差が激しくなる
AIを作っている会社がボロ儲け、AIを使う人が適度に儲け、使えない人は貧乏生活
これは今の株価を見てもそうなると思う
ゲームのオンライン対戦なんかも機能しなくなるし、インターネット普及前の生活まで戻ると思う
そういう未来にならないといいなと思い、筆を取ってみた
好きなブクマカなどいない。
ブクマカはひとしく虫けらだ。
長い間はてなブックマークをやってるやつらはみんな頭がおかしくなる。
ブクマカはゲロ同然だ。地球で最下層の存在だ。ブクマカは人間ではない。両生類のクソのかけらくらいの価値しかない!
俺は厳しい。ブクマカは俺を嫌う。だが俺を嫌えば、それだけ学んだということだ。
俺はブクマカに厳しいが公平だ。
はてな左翼も、暇アノンも、冷笑家も、パン屋工場勤務も、フェミも、ミソジニーも発達障害者も、独身こじらせ弱者男性も、ブクマカはみんな等しく価値がない。