はてなキーワード: 識字率とは
そこで0歳から育つと「正義属性」で「平等大好き」な「全体主義者」で30歳くらいまでいってしまい
「他人を出し抜いてでも金を稼ぐ」「個人主義」「個性を生かして自分だけの楽しみを見出す」「自由恋愛」という人間がなかなか育たない(実際はそれらも悪属性ではないのに悪属性とみなされる)。
ある程度まではそれも必要であって、犯罪率低下、識字率向上、健康で文化的な生活ができるなどの美点がある。
高校で十分全体主義をまなんだあと個人主義のほうがいいときづいて学歴社会から飛び出せるやつはいい。そのままほっとけ。
だが大学は未熟な人間にとっての「他人を出し抜いてでも金を稼ぐ(アルバイトしてみる)」「個人主義(他人と違う講義をとる)」「個性を生かして自分だけの楽しみを見出す(サークル活動)」「自由恋愛」を大したペナルティなく試行できる最後のチャンス。
特に日本人は体が未成熟なまま成人を迎える人もおおい(ネオテニー傾向)。
そういった人は大学でしっかり大人になるのをまってから社会にでないといけない。
同じ制服を着て機械的に物事を教えて、その内容はその後の人生で全く役に立つことは無い。
金太郎あめを増産して、単純労働者を量産する政府のシステムなので義務教育の意味が無いっていう奴がいたんだけど、どうしたもんかな。
「小数点の勉強」とか「因数分解」とかその後の人生で全く必要ない事を勉強して無駄だっていう奴は、大概勉強できずに成績が悪い奴なんだよなぁ。経験上。
それで自分の子供をあえてフリースクールに通わせているのは、そちらの家庭の事情で教育方針だろうからとやかく言うつもりはないけれど。
分数の四則演算なんて役に立たないとか言う考えをもったなら、それは答えを導き出すためにどのようなプロセスを辿っていくかを身につけるための訓練なんだよと諭してはいる。
勉強することだけではなく、どのように課題や問題を解決できるか思考することが出来るかの土台部分が義務教育で基礎教育なんだし、藪から棒に義務教育の無駄を声高に主張しなくてもと思う。
サ道を見て愕然とした。
そして私はサウナが好きになった。
何故だか痩せると盲信しているババアが多くて時間無視で入り続ける。
もちろんおしゃべり付きだ。
大声で喋り倒し、徐に立ち上がりドスンドスンを出ていき、
汗を流してから、という丁寧な案内は識字率ゼロのババアには無用の長物なのだ。
そしてスルメからブヨブヨの大王イカに戻ったババアはビチャビチャのままサウナ室へご帰還する。
ダメージ75
肢体が水で濡れているほうがより長くサウナ室に滞在できるババアの知恵だ。
ここでうっかりババアの席に座ろうとする新参者は他のババアに激怒される。
ダメージ220
他にも広いサウナ室によく生息してるヨガをやらずにはいられない独身ババアもいる。
うっかり隣に座るとご開帳という秘奥義で攻撃してくるのだ。
ダメージ300
どげんかせんといかんと痛感する。
ただババアどもはサウナと水風呂を休憩なく往復するだけなので休憩でかち合う事は無い。
そのぶん休憩の充実度は限りなくゼロに近いが。
https://anond.hatelabo.jp/20210212190921
https://anond.hatelabo.jp/20210212214154
これらの問いに対して、人類が歩んできた歴史の視点からの回答が無いので、記しておきます。
お前らって本という物体に対してだけ異常に過保護じゃない?それにしてもお前らの「本を大事にしろ!本を傷つけるな!」的な反応は過敏で異常だよ。宗教なの?
それは「図書館」っていうシステムが原因だと思う。なんで本だけ特別視されて、自治体が無料で貸出しなくてはいけないのか本当に謎。
これは人類が、本そして情報を手に入れる為に、血みどろの歴史を歩んできたから。
その歴史の教訓によって培われた共通認識を ”宗教” と呼ぶならば、そうかもしれないが。とりあえずは、なぜこうなったのかを紐解いてみましょう。
古来、文字や書物(パピルスや木簡など)は特権階級の軍人や貴族や宗教家のものでした。なぜ特権階級が独占していたかというと、文字を記す為のパピルスや木簡の製造コストが高かった事や、地図や軍事情報など機密に関する内容が記されていたなどが理由です。庶民の識字率も低く、市民が文字を使うとしても帳簿や資産管理としての利用が長年続きます。
しかし15世紀にグーテンベルクの活版印刷機の発明により状況が激変します。書物が大量複製できるようになり、庶民に知識が行き渡るのです。
これまでの世界において、知識や文化とは、口伝や継承によって高いコストをかけて伝承されていく特権階級のものだったのが、複製された本を手に入れることでも誰でも知にアクセスできる時代が到来しました。
当時の特権階級の宗教家達の心情を記した言葉が残されています。
教皇は知識と印刷術を廃止しなければならない。さもなくば、印刷術が最終的には教皇を廃位に追い込むことになろう。
From the Days of Great Dedications - John Fox's Book of Martyrs
印刷術による本の普及により、知が民衆化した。それにより特権階級だったカトリック教会の力が弱まる。
そしてゆくゆくは18世紀にヨーロッパ市民革命に繋がり、ついに貴族の統治する時代が終焉し、民主主義が産声を上がった。
それまで特権階級が保存していた、価値ある美術品や博物品は、市民の手により Museum として共有される事になりました。(英語の Museum が博物館と美術館の両方の意味を備えるのは、貴族から奪った貴重品をいっしょくたに展示した為、美術品や史物の区別をつけなかった事が定着したからとも言われている) 一方、図書館は革命時代より一足はやくに制度化が進んでいたため、 Library という名前で普及していく事になります。
概ね図書館および本という存在が、市民の地道な活動により普及し、普及した成果がさらなる民衆の活動を促した。という見方ができるといえます。
日本図書館協会の「図書館について - 図書館を支える理念」を引用します。これこそが、図書と書籍の歴史を端的にあらわしています。
図書館は、それを生み出す社会の特徴や条件を色濃く反映してきました。戦時下では国家の思想を広める役割を果たすこともありましたし、一方では社会的マイノリティーの権利を守るために働くこともありました。社会の変化の中で、図書館はさまざまな状況におかれてきましたが、いくつもの波にもまれながら、いかなる状況の下でも、すべての人たちに情報を提供するのが「図書館の自由」(Intellectual freedom of libraries)なのだという理念を獲得するに至ります。アメリカでは「図書館の権利宣言」(Library bill of rights、1948年採択)、日本では「図書館の自由に関する宣言」(1954年採択)です。これはあらゆる種類の図書館が守るべき自律的規範として、広く支持を得てきました。また、この原則を守るための専門職の行動規範として、「図書館員の倫理綱領」(Code of ethics for librarians)があります。
私のシンプルな記述だと物足りず不満に思う人もいると思います。興味がある人の為に、図書館の歴史と近代ヨーロッパの歩みについての書籍を紹介するので、それで理解を深めてください(と逃げさせて頂く)
書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで
まあ総括して言える事は、本が重要だと長い歴史の中で認められてきた為、今の扱いの重さに至ってるって事ですね。
同じ理屈で、他の疑問にも答えられる。
米とかもそういう節がある気がする(平均的な食品の大事にされ方を遥かに超越して大事にされてる)けど、どういう心情からそれが発生するわけ?
お米は長らく税として徴収されてきた歴史がある。つまりお金と同じ価値でした。
宗教なの?
同じ理屈で返すなら、あなたの財布に入っている一万円札。これはただの紙切れなはずですが、破いて捨てないのはどうしてですか。社会的・歴史的に一万円札の価値と通念が形成されてるから、大切に扱うわけでしょう。ただの紙切れなのに。
本も、米も、お金も、同じことです。
図書館基準で考えるなら、体育館の施設利用自体も無料にしてほしい。図書館は法律がそうだからというのは理解している。それなら体育館もそうすればいいのにってこと。オリンピック的な勢いでそうならないかなぁ。運動する人のことも考えてほしい。
図書館にも有料のものも多くありますが、まあ置いておくとして。この理屈は分からなくはありません。
しかし図書館と同じように、社会に必要とされる意味合いが重くなるなら、きっと体育館も無料になるでしょう。
実は歴史の上でも先例が多数あります。オリンピック繋がりでスパルタの例を紹介しましょう。
古代オリンピック発祥の地にも近い、ギリシアのスパルタ。7歳になった子供はスパルタ国家の寮で生活し、毎日運動がさせられます。費用はもちろんスパルタ国家が全部負担してくれます。無料です。立派な運動教育のすえ、子供は屈強な戦士としてスパルタ国を守る存在となりました。めでたしめでたし。
これはスパルタ教育という言葉で現代にも伝わっていますね。大げさな例を出しましたが、このように社会に必要とされ価値が認められれば、無料になる例には事欠かないと言えます。
日本も高齢化社会が進んでいますし、健康寿命を気にした予算投入も珍しくありません。スパルタ国ほどオーバーな例はないにしても、無料になるところは今後増えると思いますよ。社会に必要とされていますから。
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教の需要がなくなっているのは仕方がない。
もともとの仏教は、個人が出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代や中世の時代にはそうとも言えない。
古代や中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教の教義を知ること自体が困難。
そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間だけが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識から生まれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代や中世において庶民を救うには必要なことだった。
だから、現代の視点から大乗仏教を宗教の堕落みたいに言うのは間違ってる。
ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教の聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。
以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。
→浄土宗
ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。
でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。
はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう
法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ
おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人的暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!
バカや老害はみんな「オレを優遇しろ、金が欲しい、努力はしたくない」しか言わないわけで
ましてや世論調査やアンケート取ったらみんなそう言うにきまってんだろと
で、そのアンケート通りにやってバカを図に乗らせて政権取ってやってきたら、日本はアッパークラスのエリートが、働かないでぶら下がって金もらいたい無能のために特攻死して使い潰される地獄のブラック社会になりましたよって事
選挙で勝つには教育の問題なんて取り上げる必要がないからどんどん予算が削られる
「バカでも優遇される政策、ただ黙って無能の代弁者に票入れればスーパーマンが死ぬまで俺らの食い扶持稼いでくたばってくれて、ぶら下がって楽できる社会の構築」な訳で、それでどんどんダメになっていく
戦前の日本は民度が低く、米英との戦争を国民自らが望んで騒いでて、真珠湾攻撃を大喜びしていた
増田のオタクジャンルは男性向けでも女性向けでもないようなジャンルで、故に男女共に幅広い人脈がある。
既に別のジャンルに移動したがそのままつながっているような人もいる。
男オタク、女オタク、LGBTのオタク。作るオタク、作らないオタク。プロの人、アマチュアの人。
腐向けの人、百合の人、男女カップリングの人、男性向けエロの人、夢女子思考の人、オールキャラギャグなどを作る人。
絵師、字書き、コスプレイヤー、MMDer、3Dモデラ―、DTMer、人力師、ドールオーナー、イベント主催、紹介や感想側専門の人……。
色々見てきたが、やっぱり最も卑屈属性なのが「字書き」だった。
さらに細かく言えば、
・字で仕事を食っているプロ字書き → もうビジネス的な領域なので趣味の話をしている我々とは視点が違う。
・男の字書き → 二次創作では人口が少なく、やっても日常系アニメを突然SFにするなど突拍子もない世界観の改造を行いがち。最終的に「なろう」とかライトノベル一次創作方面に走りがちな為、二次創作のオタクという土俵で必要以上に戦おうとしない傾向にある。
・絵師兼字書き → 絵が描けるので、必然的に字を書くときに「わざわざ小説にしなければならなかったもの」しか書かない。
あたりを除外した、「字書きの女オタク」だ。
そして特にその中でも「卑屈になる字書きの女オタク」にはある特徴がある。
……それは「小説が下手」だということだ。
そもそも、絵師に対してコンプレックスのある字書きが何故発生するのか。それは絵が描きたいのに描けないからである。
本当は絵が描きたいが、絵の才能がないので絵を描けない。なので彼女たちは仕方なく小説を書いているのだ。
日本人の日本語識字率は殆ど100%に近い。その為、小説というのは書こうと思えば形は書けてしまう。
1つ目は、絵師の殆どは才能ではなく努力で絵を描いていること。
2つ目は、絵師の絵の上手さを仮に「才能」と形容するのなら、小説にも「才能」は必要であること。
「卑屈ではない字書きの女オタク」、それはみな好きで小説を書いている人間だった。
もともと本を読むのが大好き。小説という表現媒体が肌に合っている。小説でしか書けないものが書きたい。という人たちだった。
「小説なのに」「字書きは不遇」のように、小説を下に見る発言をすることを嫌う。
そしてそういう人たちの小説は大抵、他の媒体にはとても真似できない小説ならではの良さを生かした素晴らしい作品ばかりだ。
絵。絵というやつは0.1秒もあれば「上手い・下手という技量」「かわいい・かっこいいなどの快楽情報」がスッと入ってくる。
勿論頭を使って絵を見ようとすれば「光の表現に白じゃなくて水色を使うのかセンスあるな」「三角構図を上手く活用している」「パースが正確だ」などと見ることが出来ると思うが、
漫画。漫画というやつは絵の要素にプラスして、「面白いなどの快楽情報」がスッと入ってくる。
勿論頭を使って漫画を読もうとすれば、「コマ割りの構成が単調じゃなくて読みやすい」「このセリフと構図がマッチしている」「タチキリの使い方が上手い」などと見ることが出来ると思うが、
ほかに、同人の世界では最近よく音楽や動画という技法も用いられるようになった。
音楽。ボカロをはじめとした自作楽曲、BGMなど関連曲のアレンジ、最近はよく「人力」と呼ばれる技術が同人表現として用いられるようになった。
動画。これは音MADや手書き動画という古典から、MMDなど綺麗な3Dモデルが踊るようなものまでいろいろとある。
著作権的なことはここでは触れないが、このようなオーディオビジュアルな同人表現も昨今珍しくはない。
でも、ここでもやはり大抵の情報の受け手は難しい事を考えていない。
「変わったコード進行を活用できてるな」とか「このモデリングのポリゴン数凄い!」とかじゃなくて、大抵は「エモい」とか「うまい」とか「ここすき」ぐらいしか言えない。
このように数ある同人表現の中でも、最高峰に知能を活用した表現。それが小説である。
まず書き手受け手の両方にある程度の語彙力・読解力・想像力が最低限必要とされる時点で、小説は難しい。
静止画やオーディオビジュアルな表現の場合は、ただ出てきたものを食べれば良いだけなので、それほど咀嚼する必要はない。
知識はあったらあっただけ深く理解できるようになるが、ないからと言って拒絶されるようなことはない。
漫画こそ多少文法は理解できるべきだが、「読解したものを頭で想像する」というスキルは要求されない。
にも拘わらず、同人文字書きの大半は下記のような要求を読者に対して行いがちだ。
・気軽に読んでもらうこと
・早く読んでもらうこと
・大勢に読んでもらうこと
・誤読せずに読んでもらうこと
・読んでもらったうえで、正当に評価してもらうこと
こんなんムリに決まっとるやろ。小説ってそういうものじゃない。実は高い教養と知能のある人間の、高い教養と知能のある人間による、高貴な遊びなのだ。
それを理解せず、小説の特性にそぐわないものを要求するのはちゃんちゃらおかしいのだ。
絵師に対するコンプレックスを抱える者も多いが、絵と同じ性質の評価が得られるわけがない。ほしいのなら、絵を描くべきだ。
というと大体口を揃えてこう言うのだ。
「絵の才能がない」
アホか。絵の練習してないだろ。神絵師と言われている人だって幼稚園の頃はオレンジのクレヨンで描いたグチャグチャをママだって言い張ってたんだぞ。
そもそも経験上、”絵の才能がないから字を書いてる人”の小説が上手かった試しなどない。
「この人すっげえ同人小説書くな……感動した……」という人はみな相応に、”小説を書くのが上手い人”とか”小説が好きな人”なのだ。日々表現を磨き、文学に精通している。
日本語で文章を書くだけなら、識字率ほぼ100%のこの国では容易である。
だから「絵やオーディオビジュアルの才能がなかった人間」が「文字書き」という肩書きでそこに所属しようとしている。そんな奴が多すぎる。
だが、そういう人間は文字書きの冷遇を嘆く前に絵の練習をするべきではないだろうか。
転生です。
主人公は「元のマインは熱に食べられてしまった」と考えています。
実際には熱をきっかけに元のマインと前世の記憶が融合しています。
前世の記憶のほうが膨大な状態で融合したため「自分は本須麗乃だ」という意識になっていますが、本当はマインとも本須麗乃とも少し違う人格になっています。
言動を不思議に思ってはいますが、マインは元から「夢の世界の不思議なできごと」を母親に語ることがありました。
近所の人たちは「ギュンターに似ている」と思っています。
父親のギュンターは、思い込んだら一直線の暴走しがちなところがあり、近所では暴走エピソードをいくつか残している人です。
オットーやベンノはマインが普通でないことに気づいていますが、自分の仕事や商売に利用することを優先しています。
平民の間に流通していないだけで、貴族の社会では存在しています。
平民にとっての文字の読み書きは自分の仕事に必要な分だけ身につける技能です。
例えば父親のギュンターは、兵士として扱う書類を読むことはできますが、書くのはやや苦手です。
子どもの頃から家の手伝いをして、7歳から見習い仕事、15歳で成人する世界なので、現代よりも早く大人になることを求められています。