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はてなキーワード: ファリサイ派とは

2024-02-26

anond:20240225145537

どう考えても些細なことで難癖付けて、謝罪に追い込んだ挙句擁護している人や、それのどこが問題なんだって言ってる人と、まともに議論もせずに悪い友達レッテル張りまでするのヤベーな。

こいつらにとって、イエスの敵は、十字架に張り付けしたファリサイ派ではなく、その信者たちなんだろう。

まあ、もう冗談の通じない表現規制したいだけのXで、エロ漫画家が絵描いてることが問題だっていうなら、確かに、そんなことさせてる奴らは悪い友達かもしれない。

Twitterなんて使うな。

こいつらに言わせると、これがポルノらしい

https://togetter.com/li/2316781

もう美少女の顔書いただけで、ポルノだとレッテル貼りして排除したいって本音言えば?

こんな奴らが、「私たちゾーニングさせたいだけで、表現禁止したいわけではないんだ!」とか言って他のヤバい

くそんなデタラメ言えたな。

2024-01-01

新約聖書福音書ってなろう小説みたいだよな

マタイマルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書を読み終えたところだけど、どれもなろう小説じゃん。

福音書は細かく章や節で分かれていて、一つ一つが読みやすい分量に収まっているところなんて、まるで毎日更新のなろう小説じゃん。

内容だって、神からチート能力を授かったり、チート能力怪我病気を治したり、チート能力で羨望の的になって仲間を集めたり、悪役を論破したり、なろう小説のものじゃん。

チート能力で人の病気を治して「このことは、だれにも知らせてはいけない」と言っておきながら、話が広がってしまうけど満更でもなさそうなところなんて、やれやれ主人公じゃん。

自分がいずれ死ぬことを予言したり「あなたは三度私のことを知らないと言う」と予言したりと、運命予言するところは軍師主人公じゃん。

処刑される段になっても抵抗せずに不暴力に徹するところなんて、達観した不殺主人公じゃん。

そんなこんなでマタイ福音書を読み終えて次はマルコ福音書を読んだけど、内容はほとんど同じじゃん。

かいところが違うだけで話の大筋がほとんど同じなんて、なろう小説作品群そのものじゃん。

そして、ルカ・ヨハネと続けて読んだけど、同じような話を四つ連続で読むのはしんどかった。

まあ、同じ話を八連続で見させられるエンドレスエイトよりはましかな。

エンドレスエイトたことないけど。

連続で同じような話を読むと、それぞれの話の違いだったり優劣だったりが気になってくる。

つの福音書の中で一番好きなのはヨハネ福音書かな。

描写の細かさやストーリー展開のスムーズさなど、小説としての完成度が最も高いと感じたからだ。

イエスの口調がやたらと尊大で、父が神であることを殊更に主張する権威主義者になっていて、「えっ、イエスってこんなキャラだっけ? 他三つの福音書とずいぶんと性格が違うけど」と読み始めたころは困惑した。

しかしながら、イエスいけ好かない人物として描かれているからこそ、処刑されることの納得感が強かった。

他三つの福音書ではイエス奇跡を起こしては「やっぱりイエスさんはすごいや」を繰り返すばかりでワンパターンだけど、ヨハネ福音書では奇跡を起こす回数はそこそこにして、ファリサイ派との論争を中心に描かれているのも良かった。

小説として面白いだけでなく、キリスト教教義伝道するという目的においてもヨハネ福音書が最も優れていると感じた。

2021-01-30

救済宗教としての大乗仏教

鈴木大拙大乗を情の仏教上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。

でも上座部立場から言わせれば、情でどうするんだと。

なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。

ちゃん仏法を説いて、理屈説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。

時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教需要がなくなっているのは仕方がない。

もともとの仏教は、個人出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代中世時代にはそうとも言えない。

古代中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教教義を知ること自体が困難。

そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間けが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識からまれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代中世において庶民を救うには必要なことだった。

から現代視点から大乗仏教宗教堕落みたいに言うのは間違ってる。

ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。

以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。

比叡山修行した法然

浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ

一遍時宗

おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!

https://anond.hatelabo.jp/20210130183106

2020-12-02

anond:20201202150606

そもそもイエスが当時のユダヤ教の主流の解釈(いわば大手ファリサイ派律法学者)に「神の御言葉はそんなんじゃないよ~😭解釈違いです!😭」ってケチつけたのが始まりからキリスト教。そして弟子たちが「主×イエスよくね…?」と福音書という名の主×イエス同人を作製。

随分後に主×イエスを認めつつも主×俺の夢同人でバズったのがマホメッド。今の同人界で「王道カプのAB前提A夢です!」なんて言ったらガチガチのAB固定から反発食らうのと同じでキリスト教イスラムは仲が悪い。

2018-07-28

難行から易行への分派活動

ほとんどの宗教で、難行から易行への分派活動は見られるよ。

出家して俗世を捨てて厳しい修行をしたり、たくさんある戒律律法を守ったりすれば天国に行ける」という思想には納得感があるけど、古代中世の日々の生活で精一杯の厳しい世界でそうした生き方ができるのは、お金持ちや高位聖職者だけというのが現実だった。

まり難行系の教義だと、お金持ちと高位聖職者しか天国に行けないということになりがち。ということで、「○○するだけで天国に行ける」という教義分派活動生まれる。

キリスト教が「○○しろ、○○してはいけない」という定めがほとんどなくて、神を信じさえすれば救われるという教義なのは、当時のユダヤ教律法重視のファリサイ派が主流派で、それへの改革運動イエス・キリスト活動だったから。

もっとも、カトリックがあれこれ定めを勝手に付け加えたので、ルターがまた軌道修正せざるを得なかったけど。

以下の浄土真宗コピペも似たような感じ。

比叡山修行した法然。→浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人謙遜

働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたら

おまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう」

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。

念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)

心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。

から俺なんか結婚だってちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ」

おまけ 一遍時宗

「おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。

まり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人暴走

から感謝の踊りを踊ろうぜ、let's dance!」

https://anond.hatelabo.jp/20180728124959

2018-07-10

anond:20180709134500

ラピュタの石のおじいさんになりたい。

 

おじさんは、暗い洞窟の中で、それぞれの小石の中に潜む夢や希望理想などの小さなキラキラを集めて過ごしている。

小石はどこにでもあるが、暗い洞窟の中でないとキラキラが見えにくいし、声も聴きとりづらい。

キラキラを見つけるたびに、「素敵だね」「かっこいいね」「きれいだね」と返事をし、

自分の中にキラキラを取り込んできた。

洞窟の中は、誰にも気兼ねせずに自分キラキラさらけ出せる居場所だった。

 

あるとき、おじさんは強烈な「ギラギラ」を放つ石を持つ若者出会う。

他のどんな石よりも美しい輝き。

私が探していたものはこれだったのだ。

そう確信したおじさんは、こんなところで腐ってられないと思い立ち、

洞窟を出てその美しさを喧伝した。

 

洞窟の中で小さな声に耳を傾けていたおじさんは、

外に出ると一番声の大きい人になっていた。

つの間にか若者は去っていて、周りの人は怯えた目をしていた。

ヨハネでもパウロでもなく、ファリサイ派になっていた。

石はとても美しいけど、世界のすべてではなかった。

 

おじさんは後悔している。

未熟さから周りを傷つけてしまった。

場所を失ってしまった。

あのときシータパズー出会ったポムじいさんのように、

ギラギラした石を「しまっておくれ」と言えればよかった。

2007-08-08

善い自分と悪い自分の戦った結果だよ(善悪二元論)

http://anond.hatelabo.jp/20070808133311

「心の中の“善い自分”と“悪い自分”が戦っている」というのも、ここでいう「動機」のうちに入るかな? 一元論じゃなくて二元論だけど。

・善い自分が勝てば、勤勉とか誠実とか謙遜とか慈愛とか自制といった結果につながる。

・悪い自分が勝てば、怠惰とか不誠実とか傲慢とか憎しみとか貪欲といった結果につながる。

人間行動は、この“善い自分”と“悪い自分”が戦った結果として表れるもの。

といった感じのもの。

この説の信奉者は、哲学者心理学者よりも宗教家に多いかも。特にキリスト教。元ユダヤ教ファリサイ派だったパウロ言葉とか。

人間が善悪二面を持つのは、「人間は神の像に造られたので本質的に善だが、後にアダムとイヴが禁断の木の実を食べた時に悪の心が入った」とか、そんな感じだったっけ。

#これもやや単純化しているきらいはあるけど……

あと、「性欲だよ」と「死への恐怖だよ」はコインの裏表、という説もあるかも。生への欲求と、死の嫌悪。

2007-02-02

嬲り型コミュニケーション

2chコミュニケーションの一特徴だ。(あくまでも一特徴。そうではない板もある。これはもはや了解事項と考える)

「痛い攻撃対象」を、匿名の集団が嘲笑したり揶揄したり罵倒したりする形式だ。

集団はあらかじめそこにいるのではなく、一人また一人と石を投げる人間が通りすがることで、生まれる。

便所の落書きではなく、公開処刑ブログ炎上もこれに似ている。

「お題(スレトピック)を出してそれにレスをつける」という掲示板の書式が、嬲り型コミュニケーションをやりやすくしているのかもしれない。

嬲り型コミュニケーションへのアンチテーゼとして、以下を引用しておく。

イエスオリーブ山へ行かれた。

朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。

先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

ヨハネ伝第8章より:http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/new_t/joh.html#joh08

 
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