はてなキーワード: 小中学生とは
正直、もっと政権や内閣しっかりしろやと思うけど、その上で。また、煽りとか擁護の意図は一切なく、単純な疑問。
大阪で、お前らの今までの府政で散々公務員削減してたからやろがい/お前が言うなとか、ポビドンヨードの会見やらで辛辣なコメントを言ってたじゃん。
でも東京になると、一応は対策をしてるはいるけど、(ポビドン会見に比べれば無害だけれど)責任の押し付け合いやらカルタやらあいうえお作文やら小中学生のお手紙とかで、それ必要か? ってのも沢山やってるじゃん。
それで、実測値としてどんどん新型コロナの感染者数が過去最高を続けているのに、なんで都政になると批判の声が(少なくともはてなブックマークで)かなり少ないの?
いじめの話題を見聞きする度に、小学生、中学生の頃に加担していたいじめを思い出す。
そして取り返しのつかないことへの申し訳なさと、どうすればよかったのだろうか、という思いで苦しくなる。
多分、この思いは一生抱えていくんだろう。
さっきTogetterでこんなまとめを見て、またそのことを思い出した。
https://togetter.com/li/1640001 : 帰りの会で『臭い』と言われて先生が取った行動が信じられないと話題に「大人でも死にたくなる」「集団のいじめじゃないの?」
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風呂に入っていないだとか着ているものが匂うとか、そういうものではなく、酸っぱい、鼻に刺激の強いものだったと記憶している。
また、太っていて、肌も像の肌のような荒れたものだった。今にして思えば、健康な体とは考えにくく、何かの病気を抱えていたんじゃないだろうか。
そして、これは長年いじめを受けていたためだと思うが、性格もとっつきにくい、ひねたものだった。
その子と私が出会ったのは、私が小学校3年生で転校してきたときだった。
クラスに入り、席の並びで作られる同じ班にいた子だった。
私はそれまで同級生も多くない少し田舎で育ち、それまでいじめを受けたことも、加担したことはなかった。周りでもいじめを見たこともなかった。
いじめというものを知らなかったと言ってもいい。私の視野が狭かっただけかもしれないが。
そんな私がその子に最初に抱いたのは思いは、「なんか臭い」、「あまり近寄りたくない」というようなものだったと記憶している。
それでも、いじめというものを理解していなかった私は、その子が班の中で無視されていることもあまり理解せず、声をかけていた。
その子はすでに学校に嫌気を指していたのだろうと思う。掃除にも参加していないので、箒をわたし、あそこ掃いてきて、などとお願いした。無視された。
「いやな奴だな」という印象を抱いた。
そうしてしばらくやっているうちに、周りが直接臭いだのデブだのと、言葉で攻撃していることに気づいた。
班の活動などで積極的に動かず、注意しても変わらないその子へのイライラが募り、私も注意ではなく、皆と同じように臭い、デブ、近寄るなといじめを行う側になってしまった。
真面目にやらないうえに、確かに臭く近くにいるとそれなりに辛い、そういう思いから、周囲からいなくなってほしい、義理で班活動の掃除などの場にいるのではなく、やらないなら別のところに行ってほしい。そういう考えもあったように思う。
その子とは結局、中学校までの間に同じクラスになることが何度かあったが、直接罵るようなことをしていたのは最初の1年目の間くらいで、あとは極力無視、関わらないようにする形だった。
席替えでその子の隣の席になった。そして、やはり臭かった。隣の席で授業を受けていると、臭いが気になってイライラしてしまっていた。
なので、席を離した。一番後ろの席だったこともあり、通路側に半分乗り出すところまで席を移動させた。
そのことを、先生に指摘をされたが、背が低いので前の席の人で見辛いことなどを主張したら、認められた。
中学時代の僕は「真面目ないい子」で通っていた。なので、先生は僕の言うことはあまり疑わなかった。もしかしたら気づいて私の意思をくんだのかもしれないが。
いじめられていた子本人は気付いていただろうと思う。
こうした僕や先生のやり取りを見て、何を思っただろうか。どれだけ傷ついただろうか。悔しい思いをしただろうか。当時の私はそんなことを考えることもしなかった。
このやり取りの後、席替えで別れていこう、その子とかかわることはなくなった。
その後その子がクラスの中でどう過ごしていたかも覚えていない。
不登校になったりはしていなかったので、私は本当にその子と関わらないようにしていたのだな、とこの文章を打ちながらあらためて気づかされた。
卒業した後もその子の話を誰かから聞くこともなく、成人式でもその子の姿は見なかったと思う。
こうして文を打ちながらも、私はその当時のことを申し訳なく思って入るものの、反省しているかというと、そうでもなさそうだ。
ここまでの文章を読み返してみると「私は悪くない」という思いがにじみ出ているな、と自分ながら思う。
実際のところ、直接傷つける言葉をぶつけたことは申し訳ないと思っているし、反省している。
それでも、その子と当時どう付き合えばよかったのか、今でもわからない。
これは余談だが、私自身も中学時代にはいくらかの(かわいいものだが)いじめを受けた経験がある。
前述したように、私は先生に気に入られるような、真面目でいい生徒だった。
また、先のいじめの対象の子以外については、クラスではみ出し者のような子ともつるむようなタイプだった。
そうした態度が、学校内の不良気取りの人や、はみ出し者をいじめてた人から嫌われる原因となっていたのだと思う。
廊下ですれ違いざまに殴られたり、机や体育館シューズの中に生き物の死骸を入れられたりなどした。
当時その場でできる形でやり返す、やられて泣き寝入りにすることはしなかった、などもあったのだろうが、それはすぐに収まった。
それでも、今でもやられたことは覚えている。つらい思い出というよりかは、イラっとする思い出として。
いじめられた子はどう思っていたのだろうか。今どうしているだろうか。
私のようにイラっとする思い出でとどめていればいいが、おそらくそういうことはないだろう。
他人事のように、元気にしていればいいな、と思っている。
申し訳ないとは思うが、いじめられていた子への現在の思いをいろいろ考えたが、それくらいしか出てこなかった。
ただ、申し訳なさだけが胸に残り、どうすればよかったのだろうという問いだけが頭の中をループする。
いじめの思い出について、自分の気持ちの整理のように書いてみた。
結局私は、申し訳ないな、と思いつつも反省していないし、この文章も自分の罪を吐き出して少し楽になりたい、というものでしかない。
あるいは、この記事を読んで、罵ってくれる人がいれば、それで反省できるだろうか、という卑しい思いもある。
この程度の文章に対して「小学生はこんなの書けない」と言ってる奴ら、小中学生の頃マジで馬鹿だったんだろうなと思うよ。
そういう連中と関わりたくないから、小4ぐらいでまともな知性を身に着けた子供(or周りとその差を察した親)はお受験の道を選ぶ。
中学受験する子だったらこれぐらい小5の頃には当たり前のように全員がかける。
でも地元中学に行く未来のマイルドヤンキーは中3になってもこの程度すら書けない奴が3割ぐらいまだ残ってたりする。
そういう3割の軽度知能障害はその辺りから周りと会話が合わなくなって荒れ始めるから中学校は動物園と化す。
まともな人間とそれ以外の成長速度は倍違うから、まともな人間が10歳の時に出来ることがマイルドヤンキーは20歳になってやっと出来るかどうか。
「全校生徒の皆さん、今日は大事な話があります。残念ながら、君達は負け組です。君達の問題というよりは君達の親の問題です。正確に言えば君達の親は負け組ですよ、と言った方がいいかもしれません。しかしそんな家庭で質の低い暮らしをして育った事実は消えません。負け組の子は負け組です。あなたがどんなに努力しようと田舎者は田舎者なのです。一生田舎出身というハンデを背負って生きていくことになります。都会の人間は質の高い教育を受けていますから、あなたと同じ努力をする時間で何倍も成長しています。数多くの情報に触れたり経験したりできるのでら多様な人間が育ちます。自分の趣味趣向、レベルにあった暮らしを選択できるので、こんな閉鎖的な空間とは大違いです。ここが閉鎖的だということに気づくまでまだ何年もかかるかもしれないですが、それもまた不幸ですね。君達は遊んでいて楽しいでしょうか?しかし残念ながらそれは遊びとは言えないですよ。家に帰ってアニメを見たり、買い物をしたり、土日に出かけたり、その一つ一つの選択肢が限定されていることを知っていますか?都会では息抜きも有意義なんですよ。何の競争もない地方で生きているこの時間が無駄です。自分は頭が良いと思っているそこの君、井の中の蛙ですよ。あなた程度の人間は都会にはゴロゴロひしめいています。彼らは競争原理のもとで成長し、質の高い教育を受けているので、そのうちあなたの手の届かないステージに行ってしまうでしょう。負け組の家庭に生まれたハンデを克服するべく、頑張ってください。」
マイナカードに学校の「成績」 対象小中学生 2023年度にも
https://www.fnn.jp/articles/-/120549
この記事のブックマークで怒ってる人は何に対して怒っているんだろうか?
もしかしてマイナンバーカードに成績が記録されるから紛失した時に漏洩するって思ってるのかな?
このニュースの書き方も悪いけど実際はマイナカードと紐付けられるんじゃなくて、マイナンバーと成績をひもづけるんだよね
マイナンバーの仕組みは調べて貰えばすぐわかるけど中央管理じゃないからデータ自体は各学校もしくは教育委員会に置かれる事になるとおもいます
この紐付けで解決しようとしているのは転校や進学する時に内申書や成績を紙で郵送したり手渡ししていたのをデータでやりとりできるようにしましょうという事でしょう
また卒業証明書等が必要になった場合、卒業した学校まで取りにいく必要があったのが不要になるかもしれないですね
みんな大好きな無駄な紙での仕事を電子化しましょうという事だとおもうのですが違うのでしょうか?
ちなみにマイナンバーに紐付けられたデータというのは誰でも見れるのではなくて、見れる権限というのがあって誰が何を見たかはすべて記録されマイナポータルで確認できるようになっています
元増田の言うことが嘘だと断言するわけではないが、あまりピンとこない。
高校生にもなれば自らバイトして金を稼いだりバイクの免許を取ったりと自立するので、義務教育中の小中学生のように人生相談などを教師に頼るというのはあまりないと思う。元増田は高校生を子供扱いしすぎだ。
高校三年生が「受験期の不安定なメンタルのケアをしてくれた」云々も意味が分からない。高校の一年生・二年生なら文系理系の選択だったり就職・進学だったりと進路で悩むのはわかるが、三年生にもなれば悩むことは無くなるからだ。進学校なら生徒に模試を受けさせるから、模試の結果に合わせて受験校を決めて勉強するだけだからだ。
仮に元増田の言う通り「生徒に手を出す教師の数は多い」というのが真だとしても、その逆に「教師に手を出されてしまう生徒は多い」は必ずしも成り立つとは言えない。なぜなら人数が大幅に異なるからだ。生徒は一学年に数十人から数百人といるが、それに対する各教科の担当教師はせいぜい十人程度だからだ。教師が一度に複数人の生徒と同時並行的に交際をするというわけでなければ、教師と交際する生徒は圧倒的少数派となるのは必然だ。だから、最後の段落で高校生の子供を持つ親に提言するのは的外れと言わざるを得ない。
鉄腕アトム「透明巨人の巻」という話がある。若き天才である花房博士が物質伝送機のせいで、ウサギ、魚、ロボットの融合した怪物になってしまうエピソードで、「ハエ男の恐怖」が元になっている。その最終部で、博士が悪党を罰するために物質伝送機であちこちに飛ばしてヒーヒー言わせるドタバタがあるが、その中でラインダンスの真っただ中に飛ばす。悪党どもが冷や汗をかきながら一緒に踊ってごまかす横で、レオタード姿の女性が並んでいる。
また、これはどこで読んだのか忘れたのだが、手塚治虫が宝塚劇場を訪れ、レオタードというか舞台衣装の女性に囲まれて興奮のあまり卒倒しているコマのある漫画があったと記憶している。
つまるところ、こういうスカートやレオタードのラインダンスは宝塚が起源なのだろうか?
まずは基礎的な情報を手に入れるために、ウィキペディアで「ラインダンス」を検索した。すると、意外な事実に行きあたった。
ラインダンス(Line Dance)とは、ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。主にカントリー・ミュージックやポップスなどの曲で踊られることが多いが、音楽ジャンルに特に限定は無い。
また日本ではポンキッキーズという番組で知名度を上げている。本番組の場合では、主に小中学生の女子は椅子を一列に並べた状態で、ポンキッキーズれていた[ママ]曲や洋楽を流しながら座ったり立ったりしてラインダンスを行う形だった。それに加えて普通のダンスを混ぜて行う為に非常に難易度が高かったが、成功すると非常に見た目がよく、放送当時はこのダンスを学芸会や体育祭で取りあげる学校も多かった。
ひらけ! ポンキッキ!から視聴していた自分のような人間からすると非常に懐かしい。しかし、あの女子たちの踊りは確かに脚を上げるものではなかった。
それならば、あの踊りの名前は何か? 散々探し回った結果、次のことが分かった。横に並んで脚を上げる踊りはロケットダンスと呼ぶそうだ。なるほど、このキーワードで探すとたくさん見つかる。リンクが多いと投稿できないので、冒頭のhを抜く。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4i7y6XE7sz8
ttps://www.nicovideo.jp/watch/sm31659056
ttps://www.youtube.com/watch?v=fVewBno93RA&list=RDfVewBno93RA&start_radio=1&t=137
名称は、米国のダンスカンパニーロケッツからだろうか?(後ろの男性諸君の笑顔がいい)
ロケッツは、1925年にセントルイスで、「ミズーリ・ロケッツ (Missouri Rockets)」として結成された。創設者のラッセル・マーカートは、1922年にブロードウェイの「ジーグフェルド・フォリーズ」で見た「the John Tiller Girls」(英国のダンス・グループ)にヒントを得て、「もし、もっと背が高くてもっと脚が長いアメリカ人の女の子たちに、複雑なタップダンスと目の高さのハイキックをさせることができたら...イチコロだ!」と確信した。
だが、ここから名前が来ているとすれば、ラインダンスはフレンチ・カンカンではなくアメリカ起源ということになる。
第二次世界大戦終結後の1946年に、宝塚音楽舞踊学校を宝塚音楽学校と改称し、4月22日から宝塚大劇場で公演を再開した。再開第1作は『カルメン』『春のおどり』の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。
とある。ここまでは想像がついた。宝塚ではなく松竹のであるが、おおよそ同時代の写真がある。
1927年、岸田辰彌が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記をテーマにして制作する。同年9月1日から上演され、画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒット、当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。
つまり、ラインダンスは1927年にまでさかのぼるのだ! 実際問題、当時としては露出の高いと書かれているが、それがどの程度かはよくわからない。ウィキペディアに写真はあるが不鮮明だからだ。歯がゆい!
しかし、1930年の「パリゼット」の写真はあった。確実なことは言えないが、ほぼレオタードだ。日本国内で初めてバレエが演じられたのは1911年の帝国劇場であり、レオタード的なものに対する抵抗は、わずかながらも減っていた可能性がある。
今まで、同じ少女歌劇団としてこの二者を併記したが、それぞれカラーは大きく異なる。長くなるが、「松竹歌劇団」の項から引用する。
宝塚歌劇との比較では、松竹歌劇の方がよりスピード感と大人の男性の嗜好(色香)を優先した演出を行っていた。これは片や下町の浅草、片や山の手の日比谷(東京宝塚劇場)という、両者が拠点とした土地柄の違いによるものともされるが、前述のように、東京松竹が発足する以前から、松竹レビューの基本要素には「エロティシズム」が含まれていた。青地晨は次のように述べている。「昔はズカファンにとっては松竹は下品でみられなかったし、SKDファンには宝塚は気取って鼻もちならなかった。だが、二派に分れてシノギを削るほど、本質的な違いはなかったにせよ、宝塚と松竹と、それぞれのカラアと伝統があったことはいうまでもない」。戦後の占領期には松竹・宝塚両方を取り上げる雑誌が複数刊行されており、ある程度観客層の重複もあったとみられるが、戦前からのファンには、両方を愛好するファンを「節操がない」と批判する向きもあったという。
こうした説を補強する、次のような画像がある。
1932年、松竹の「らぶ・ぱれいど」公演の様子。 明確にレオタードを確認できる。
スポーツ新聞ではラインダンスを撮影するとき、たいてい脚を上げているところを映しており、これってどうなのか、と思わなくもない。最近、女子スポーツの写真をことさら性的に撮影することを阻むため、JOCが対策に乗り出すことにしたそうだ。いいことだと思う。女性がスポーツを思い切り楽しむとともに、写真を撮る楽しみも守られるよう明確なガイドラインを望む。それと同時に、スポーツ新聞のこういうチアのアンスコばっかり撮っちゃう傾向にも一定の歯止めがあってしかるべきだろう。ついでにノーバン始球式という表現もギャグが滑っている気がする。
しかし、自分も同罪かもしれない。ある程度読んでもらうためにはタイトルを工夫せねばならず、レオタードで読者を釣ってしまっている。
上記の松竹歌劇団の動画が含まれているリストをたどっていると、驚くべきものを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=BVKkNAf1ruI&list=RDfVewBno93RA/
なんと、1940年代にはすでにチアの見せパンのようなものが存在していた! こうなると、見せパンの歴史はサーカスの衣装などにまでその調査を広げないといけない。もっとも、これは見せパンなのかスカート付きレオタードなのか判然としない。一瞬お腹は見えてるけど……。
英語版ウィキペディアのshortの項には、bun huggers(ショーツみたいなブルマー)について次の記載があった。
In 2008 it was noted that the International Volleyball Federation used to require that female volleyball players wear such garments while playing.
なんと、ブルマータイプの衣装の強制が21世紀になっても行われていたのである。にわかには信じがたい。以前にはビーチバレーの衣装の強制について調べたが、問題はここにもあったのである。
さいわい、こうしたことは昨今になって改善され、好きなものを着ていいことになった。動きやすいようにショートパンツが多いが、ブルマーが強制されなくて本当に良かった。
僕はブルマーが好きだ。だが、強制は大嫌いだ。ブルマーが好きなら嫌がる女性にはかせて喜ぶなどもってのほかだ。
それとは別に「Short shorts」と呼ばれる短パンがあることも知った。自分が以前の記事で1930年の The Women’s League of Health And Beauty=The Woman’s League of Health and Beautyのブルマー風のものやナチス時代にブルマーにカウントしていたのはこれだったかもしれない。やはり写真だけではわからないことが多いが、念のため訂正しておく。ブルマーの世界的な分布についても、再考を要する。
今回は、フレンチ・カンカンへの興味から派生して、ラインダンスについて調べた。1930年代にまでさかのぼることが分かったが、それがフレンチ・カンカンからの影響を受けているとはっきり示すには至っていない。彼がパリにいたのは名高いMistinguettが活躍した時期のことで年代に矛盾はないが、証拠は不十分である。
また、追加調査により、ブルマーや見せパンの広がりの年代がかなりずれる可能性が見つかった。今後も調査に役立ちそうなキーワードが見つかり次第、記録していきたい。
毎月決まった日に決まった額のお金がもらえるし、体調悪かったり天気が悪かったり災害の警報が出てたら簡単に休める。何なら上司が先に当日欠勤の申請してる。信じられないことにお金もらいながら休むこともできる。
9時間拘束は面倒だったが、実働はその半分にも満たなかったし、どちらかというと残りの時間つぶしに苦慮してた。それは俺だけではないらしくて、たまに中庭を意味もなくうろついてる同僚を見かけていた。今は半分テレワークでそこらへんもあいまいになったので解決。定例で行われる飲み会はあんまり好きじゃないけど、状況により業務時間にあてられるし、会社から補助が出るので大きな不満はない。ただ自分から振れる話題はほとんどないのでつまらない人間だなと思う。他人の意外な趣味や家庭の話が飛び込んできたりして、聞かせてもらう分には面白い。
忙しい時は残業や宿題もあるけど、その分お金はもらえるし、もともとプライベートが充実してるわけじゃないので、あんまり困らない。大体の休日はちゃんと休めるし。
そんな態度でやってる仕事だから、年収は平均に結構劣るけど、物価も安いところに住んでいるので暮らしていく分に不便は少ない。自分としては平穏そのものの人生で、不安は親の老後と自分の孤独死ぐらいしかない。
それに比べると、学校に通っていた頃は本当につらかった。学年が違うというだけで廊下すら聖域扱いされる上級生とは、距離感を見誤ってよく怒られていた。名指しで呼び出されたこともあった。たかだか数年早く生まれただけでなぜあんなに偉そうなのか、進級して同じ立場になってもわからなかった。俺は人間関係が下手だった。
学校が終わったあと、やりたくもない部活動に強制で放り込まれ、全く興味がないことに心身を疲弊させられるのは死ぬほど嫌だった。実家はお金がなかったので、課外授業とか教材費とか合宿とか部費とか、出費がある度にお願いするのも心苦しかった。
バイトをすればよかったのかもしれないが、学業のために休日や放課後に何かできるほど人生に真剣ではなかった。そういう意味では、親に甘えていた。そのうち幽霊部員になった。部活に行かなくなった最初はほかの部員にドヤされたが、そもそもまじめにやっていなかった人間なのですぐに無視されるようになった。後ろめたさはすぐになくなり、心も軽くなった。修学旅行も、旅費を出してほしくなかったので行かなかった。多くの人間と寝食をともにすることに強いストレスを感じる性分だったので、もともと行きたくなかったのもあった。部活も修学旅行も、強制されるものだと思っていたので、拒否することが可能なのに驚いた。やらない/行かないという選択肢はそもそも目の前に存在していなかったが、選ぶことができるのを知った。
学校では出席日数がすべてであり、どんな体調、どんな天気だろうが通い続けることが美徳なのは悪夢ですらあった。高熱だろうが出校をうながされ、大雨だろうが台風だろうが大雪だろうが、まずは連絡網を待ち続けるのは不快でしかなかった。休みにはならないと言うので学校に向かったら、朝のホームルームで帰宅指示が出された豪雨の日のことは、今でも呪っている。
教師ともソリが合わずいつもにらまれていたが、それは俺の思い過ごしかもしれない。ただ、こんな態度なのだから、好かれてはいなかっただろうと思う。授業はまじめに受けているつもりだったけど、勉強にはついていくことができていなかった。遅れた部分を取り戻すこともできないまま、内容はどんどん先に進んでいき、完全に一周遅れとなった俺はいつしか学校に行っても何も学べなくなっていたので、授業中は椅子に座ってぼーっとしているだけだった。苦痛だった。問題を当てられて黒板の前に立たされても、どうせわからないのだから棒立ちしていることを繰り返していたら、指されなくなった。
それでも勝手に単位が出てきて進級したし、進級したら高認をとれたので、そのまま学校をやめ、就職活動をしてみた。それしか道がなかった。奇跡的に就職できた後は一人暮らしも始めた。それまでの世界に比べると、そのあとはまるで天国だった。俺に対して決して捨て鉢にならなかった親にはとても感謝している。昨今は社会情勢的に実家に帰ることがなかなか出来ないので残念だ。連絡はときどきしているし、できる限り孝行をしたいと思っているが、敬愛の示し方がわからないため、なかなかままならない。
さておき、学校で本来学ぶはずだったことが、仕事において必要なことはたくさんあった。日本語がうまくなくて困ったことがあった。確率や割合の計算ができなかったり、放物線がグラフで描けなくて困ったことがあった。世界の略歴を知らなくて困ったことがあった。グローバルな会社ではないが最低限の英語が必要になることはあり、当然そこでも困った。野球やサッカーやゴルフ、将棋や麻雀のルールを全然知らなくて困ることすらあった。義務教育の内容や、集団生活での経験が社会で必要ないなんて思ったことはなかったけど、俺が社会で必要なことを学校で学ぶのに失敗していたのは事実だった。学校に通い、必要なことを必要な時にちゃんと学べている人は本当に立派な人間だと思う。
だがそれらが俺の責任である以上、学生のころは全くわからなかった学問を、小中学生のレベルからやり直した。社会人になってからは勉強することでお金がもらえるし、もらえるお金も増えるようになるので嬉しい。スポーツや遊びは俺を幼稚園児だと思って教えてほしいと伝えて学ばせてもらっている。強制されない、ノルマも存在しない運動が楽しいということは社会人になってから知った。さかあがりはいまだにできないけどね。
今でも学生のころは夢に見る。そのほとんどは良くない思い出のごった煮で、目が覚めた時の気分はいつも最悪なのだが、それと同時に、現実ではもう社会人であれてよかったと安堵する。社会人になってから人生が楽しくてしょうがない。