はてなキーワード: 婿養子とは
一般的なサラリーマン家庭育ち、姉と妹に挟まれた長男。職場は名古屋の中小企業。一人暮らし。
過去に大学を中退し祖母の家に世話になった期間あり。今の企業にコロナ禍直前に拾ってもらい5年目。
父が勤務医で母は薬剤師、独身の姉(32)がいる。職場は関西。実家の相続税対策で父名義と祖母名義の小規模マンションが計6-7軒。
SNSを通じて知り合い、付き合ってからは月に1-2回のペースで会って現在3年目。
そろそろ結婚と言わずともはやく同棲をしたいと彼女が言っており、私も同意見ですが遠距離なので拠点をどちらに置くかが問題に。
大学中退からやっと経済基盤が落ち着いたところであり、学歴も高卒で資格もないため転職もスムーズに行くとは考えにくい。名古屋に来てほしいと言うのが当初の私の意見。
若いうちは名古屋拠点でも良いが祖母や父が死ねばマンションを継ぐことになる。その管理を考えると結局関西に戻ることになり、それならば今から関西に住んだ方が良いのではないかというのが彼女の意見。
であるならば10-20年後に転職するよりも、30歳手前の今の方が転職しやすいのではないか?と考え、話し合いの結果私が関西に行った方が合理的だという結論に。
しかしこれをまず母に伝えたところ、以下の懸念事項を挙げて「反対ではないがかなり心配」と難色を示された。
・彼女と上手くいけば良いが、病気や事故、破局など上手くいかなかった時に失うものがあまりにも大きい選択ではないか?
・その条件では私の立場は婿養子に等しくとても弱い、彼女や義実家に対しモノが言えなくならないか?
・結婚するにあたり私ばかりが譲歩しているように見えるが関係は対等か?大丈夫か?
・大学を中退したときに祖母に助けてもらって持ち直した人生の重みをわかっているか?
・親の老後の面倒を見ろとかは言わないし継ぐものもあまりないが、とにかく上記のことが心配
親の言うこともわかるし、今まで心配をかけてきた自覚もあるが私ももう28。心は関西に行くと既に決めている。気持ちよく送り出してもらうにはどうすれば良いのか……。
早速コメントがついていて少し驚いている。
マンションは数棟あるものの、修繕や建て替え費用を考えると大家業だけで暮らしていける収入には意外と(?)ならないようだ。
同棲のタイミングについては私の転職のタイミングにもなるが来年4月がキリが良いのでは?という話で、結婚すること自体はお互い決めている。同棲後にいい日付で籍を入れようかと話している。
相手の親は姉も独身のまま放任しているし、彼女に関しても基本的に放任主義のようだ。
ちなみに私の父はリスクの提示はするがそれでもいいなら好きにしろという方針。まあ今どき許可を得なきゃいけないものでもないと思うが実家との円滑な関係は維持しておきたい……。
女が下方婚しないって言ってる奴ってどういう思考回路なの?自分と下方婚してほしい!ってこと?それとも、日本国家のために婚姻率あげてくれ!ってこと?素朴な疑問。
前者ならまだわかる。そしてそれなら収入で相手を判断する女のように、見た目やら家事力やら磨いて、高収入男にライフスタイルを合わせるアピールとかするの?出産やってくれたら自分は代わりに育休とります!くらいやれば多分需要あるよ。いまどきのアラサーアラフォーのバリキャリw女さんにアピールしたらワンチャンある。
日本国家のためにというなら制度変えないと無理でしょ。若くて婿養子ならたぶん上に書いたような努力しなくてもそこそこ需要あるよ。
お前は9年前の俺か?と聞きたくなるぐらい状況が似てるな。。。
お前なにか世間的に婚活に不利な条件一つ抱えていたりしないか?勤務先に起因するやや辺鄙な居住地とかそういうの。
ちょっと心配になったので解説をしてみようと思う。9年前の事情だから今は変わっている部分もあるかもしれないけど。
結婚相談所にいる女性はザックリ「①私に釣り合う男性が居たら結婚相手として真剣に検討してやってもいい派」と「②私なんかをワイフとして養ってくれる男性がいてくれるならぜひ付き合いたい、でももう騙されるのだけは嫌派」と
「③恋愛にまったく自信が持てないので年齢がスペックになる今のうちに婚活はじめることにしました派」の3種類に分かれてて、共通するのは全員恋愛市場でのヤバいぐらいの弱者だと言うこと。
もちろん男性も恋愛市場での弱者ばかりが集まっているが、男性にありがちな「俺はまだパートナー探しに本気を出していないだけ」的なのは女性では①だけで、残りは過去に叩きのめされた経験がある辺りが違う。全員勝ち点ゼロの集まりかも知れないが、不戦敗を積み重ねてのゼロ点と叩きのめされてのゼロ点は違うし、敗戦ではあっても得点はしたことがある率が男女で全然ちがう。
そうすると何が起きるかというと、全然相手の懐に入っていけないんだよな。
①は容姿もキャリアまたは家柄(このタイプは婿養子募集していることも多い)も②や③より遥かに上位だが、結婚相談所なんかに来ているような男性では基本的にお眼鏡にかなわない。たまたま条件がハマってアリだと思われた場合だけ進展があると思われる。
②は基本的に防衛マインドでやってるので、相手にヒントを出さない。ノーヒントで相手の警戒しているポイントを見抜いて「自分はあなたを傷つけない男性だ」ということをアピールできた場合だけ一気に進展する。
③はオールウェルカムの姿勢でやってきてくれているのだが……これやってる女性は何というか腹を括るだけのことはあるので「自分はそんな点は気にならない」と素面で言える適性問題のクリアが必要条件である。
なのでまぁ、対談に持ち込んでも盛り上がらないのは普通の事だといえる。
根本問題として「相手を惹きつける引力」が弱い者同士が集まっているのだから、くっつく率が低いのは当たり前なのだが、その問題を飛び越えてカップル成立するのは
・②で比較的軽症の(相手を惹きつける力がある程度はある)女性に対して、男性側がそれなりに洗練された態度で接する(テクニックをみがいて臨む)ようにつとめた場合
・②でエスパー推理に成功し、相手の警戒をかいくぐることができた場合
1番目は完全に運なので、まぁ宝くじ感覚でアプローチするしかなさそう。ただ確率はゼロでないのでハマればラッキーぐらいのかんじで。
2番目が相談所が一番プッシュしてくる(トレーニングを薦めてくることが多い)パターンで、正攻法と言える。
3番目はエスパー素養があると自負している人間には割とおススメ。外れても失うものはないのだから根拠レスで推理を積み重ねることをためらう必要は皆無、婚活はクイズであり引っ掛け問題の先を読むべきである。ニューヨークに行きたいかー!?
オレ自身の話をするなら、上記の3番目の戦術が当たって成婚退会した。
ただ、どうも上記のどれかしか成婚のパターンはなさそうだと悟って行動に移すまでに1年半を要した。なお、その試行第一号に(たまたま)選ばれたのが今のワイフである(こちらは入会後大分経っての成婚だが、ワイフは入会後2週間でエスパーの存在を確信する対談を経験したので相談所と言うところは凄い場所だと今でも思っている模様)。
ガンガレ。
私は婿養子に入る際に相続関係や家系などの制度を調べたうえで、養子縁組をすることを実家、養子先家、妻で決めましたので間違いないです。
(家系図について、普通は自分の上に1本の線が出て、父母の枝分かれしますが、養子縁組した場合は上に線が2本出て、それぞれ枝分かれして
4本となる(片側の親と縁組する場合は3本。)
そのうえで、婚姻していない場合でも養子縁組はできます。この場合においても嫡出子と同じ扱いとなります。同性婚するので、権利上両者の子としたい場合は
二人とも養子縁組すればいい。
したがって、子供という観点だけで見れば、現行制度上において、婚姻が子供を持つという絶対条件ではないわけです。
嫡出子と同じ権利だけを考えた場合、同性婚を現行の婚姻制度に結び付ける意味はないということですね。
ですから、私の主張は婚姻における税制優遇などの格差を解消するための戸籍と切り離した同性婚制度を作ればいいのではないかとなるわけです。
俺はかつて弱者男性だった
30過ぎたおっさんの俺でも惚れてくれるJKとかいてなんのかんのあってエッチできたり、家が上流で婿養子で引き上げてくんねぇかな〜と
しかし俺はある日、書類やメールの字面一字でも間違えたら憤死するんじゃないかという勢いで発狂するキチガイ上司や、さらに昔派遣時代にいった初日にガールズバーの女に色目使った使ってないで殴り合いの喧嘩が発生したキチガイブラックIT企業のおっさんたちを見て気がついた
「底辺業界で頭おかしいオッサンがいっぱいいるのは当然として、一般的に勝ち組強者男性に入る性能を持つのになんでこんな頭おかしいおっさんそこその数いるんだ?こんな奴の金玉の精子から配合された子供に、俺の大好きなトウカイテイオーちゃんやダイワスカーレットちゃんや、秦良玉ちゃんやブラダマンテちゃんみたいな、スレてなくて性格良くて人懐っこくて体つきがエチエチな美少女なんて生まれ得るんだろうか?」
「いや、そもそもこんな時代が時代なら、ナチスドイツの時代に生まれてたなら、命令だからでガス室のボタン16連打してもむしろ誇ってそうなほど腐れ官僚的な奴に股開いて子供を産みたいと思うような美少女がいるのだろうか?」と
休みの日に都内の仙台坂上(セーラームーンとかリリカルなのはとかプリズマイリヤとかの住んでるところのモデルらしい)周りを歩きながら見て周り、単純な確率論で計算した結果を見た時、俺の身体は氷川神社の向かいのアルゼンチン大使館あたりの前の道路で宇宙と一体となって大悟した
「勝ち組だって生まれでいい教育や地位を受け継いだキチガイみたいなのが一定数生息してる生態系が構築されてる以上、その輪の中で生まれいづるそんな美少女いねぇんだな」と
それから俺は悟りを開いてチー牛弱者男性から「大人の男」になった
弱者男性たちも思考を突きつけて悟りをひらけばきっとその生きづらい悩みも解決できるだろう
俺は弱者男性たちが目覚めるのを信じている
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。