はてなキーワード: 強い力とは
演技には人を感動させ力などないと主張してくれてありがとう
おれは演技には人を感動させるボクシングよりも強い力があると思ってるよ
きっと誰かが見せてくれる
そう信じてる
私も満員電車内の会社員と同じく、女子高生の小さなぷっくりとした手や足に、ほとんど無意識に手が伸びてしまうからです。かわいいお手々に触れると強い力で握り返してくれ、時には天使のほほえみまで返してくれます。私は思わず「ありがとうね」と言い、隣の男子高生にも「お気をつけて」とお礼を言います。
女子高生から生命力や癒やしをもらって、これからも頑張って生きていこうと力をもらえるように感じます。これからは「触ってもいいでしょうか」と聞くよう心がけたいと思います。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14309382.html
でも、女子高生を無菌室で育てることはできません。バイ菌と共存して生き抜かなければならないのです。清潔さに固執しすぎると、体を守ってくれる紳士まで排除してしまいかねません。免疫力獲得のため、守りすぎないよう、潔癖になりすぎないようにと願っています。
平易な文だが、わけがわからない。「バスの揺れ方で」「人生の意味がわかった」「日曜日」。それぞれの繋がりに全く論理性がない。
「運命の人」の冒頭部がわけがわからない?とは僕にとって驚愕である。各々解釈の揺れ(それが良い詩の証明だろう)こそあれど全くそのドラマを想定できないなんてことが日本語話者にあって良いものなのだろうか。こうやって個人の妄想でしかないものをもっともらしく解説者ぶって書き連ねるのは、作詞者である草野さんに対する不遜なのは重々承知している。僕自身あまり好きでない類だ。しかし全くわからないという人間を目にしてこの3日心のもやもやは晴れないままだった。心待ちにしたスターウォーズ鑑賞中も頭の中はスピッツだ。夜眠ろうにもはーしーるーはーるかーと頭の中でループする。
もういてもたってもいられない。ここに駄文を書き連ねる。
「バスの揺れ方」というのは不規則でとても強力なものだ。電車のような規則性はなく、タクシーのような微々たるものではない。乗客は常に見当もつかない方向から強い力で揺さぶられときにはその力でよろめく。
続く「人生の意味がわかった日曜日」は、逆説的に言って、日曜日でなければ気がつかなかったということを表している。多くの人にとって日曜日は休日である。つまり平日では行われないことがその日起こり、平日では気にとめなかっただろう些細なことがこの気づきをもたらしたのだ。
そして日曜日は週末である。日々の営みが7日で循環するよう設計された人間社会において、日曜日は一つの区切りになっている。労働や勉学に励む小市民ならば、7日間のうちに起こった悲喜交々はこの日を最後に一旦清算され、人々は次の1週間もまたひたむきに日々を過ごしていく。日曜日を意識するこの歌詞の主人公もまたそんな人間の一人だと言うことが読み取れる。
改めて一文を読むと「バスの揺れ方」が連用修飾語として「解った」に係り、「解った」は続く「日曜日」の連体修飾語になっているため、主人公がバスに揺られていたのは「人生の意味がわかった」のと同じ日であるといえる。それぞれが別の日であるなら、バスに揺られた日を示すためにさらに「バスの揺れ方」を修飾する必要がある。なお、バスの揺れかたはバス内部でなければ感じ取れないので、主人公が日曜日にバスに乗車しその日のうちに「人生の意味」に気がついたと断定できる。
ここで一旦まとめると「バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日」というのは、
「毎日つつがなく規則正しい生活を過ごしている主人公が、休日が故に起きた特別な出来事をきっかけに思慮にふける。彼はこの日乗車したバスの不規則な振動と、不意な出来事に翻弄されることもある社会の悲哀を重ね合わせた。そして『人生の意味』を悟る。」という内容であると推定される。
不可解な点がまだ残るが歌詞の次行に進みたい。
歌詞を読むに彼は「君」の手を握れるほどそばにいることがわかる。注目するのは「でもさ」という否定形の接続詞で、これにより主人公が「君」の手を強く握るという方法で「人生の意味」に抗う姿勢が示された。
話が戻るが日曜日という日は週末であり曜日の中でも特異な地点である。あくまで僕の考えであるが、歌詞の主人公からすれば日曜に思い巡らせたことは月曜にはリサイクルされてしまうので、「日曜日」に発見した「人生の意味」がこの主人公の行動に影響を与えるのはその「日曜日」に限定されるはずなのだ。そういう意味でもなければわざわざ日曜を指定する必然がない。月曜でも水曜でも歌詞は成立する。よって「強く手を握る」ことで「人生の意味」に抗うことが可能なのは「人生の意味がわかった」日と同日であると考えるのが自然ではないだろうか。
とすると彼はバスに揺られた日曜日に「君」と会って過ごしたということになる。おそらく彼と「君」は同じバスで揺られている。
そして「君」がバスの中でよろめいてその手を彼が支えるという場面があったのだろう。彼は「君」が人生に翻弄されてもずっと支え続けていこうと心に決めるのだ。
つまり「バスの揺れ方で〜」のまとめで述べた"特別な出来事"は、「君」と休日の行動を共にしていることなのではないだろうか。普段ならバスの揺れに不快な思いをしているはずなのに、君がいるときはなんだかそれを感じない、そのことが彼の日曜日を特別にしたんじゃなかろうか。
出だしの2行を僕なりにまとめると
「週末に『君』とのデートをとりつけ心が弾む主人公。普段なら不快なバスの揺れも『君』が側にいれば全然苦でない。そのことに気がついた彼は、小市民として淡々と日々を過ごしているはずの自分にも時々ハプニングが降りかかるその人生の理不尽さと不規則で激しいバスの振動を重ね合わせた。『生きていて辛いことがあっても傍らのこの人がいればそんなことは全然気にならない。』彼はそれを確信する。その時またバスは揺れて『君』が大きくよろめいた。すかさず『君』の手をキャッチした彼。彼自身はその揺さぶりに動じないとしても、この相手は『運命の人だから』挫けることがないように支えていかなければならないと決心する彼であった…」
なお直後3行目の「優しいだけじゃなく偉大な獣」は、この優しく相手を守り支える姿と、揺さぶりに翻弄されず過酷な環境であっても生きていける野獣のようなタフネスという二面性を集約した言葉だと考えて僕は納得した。
確かにこれらには何の確証も論理性もない。しかし聞き手の中にファンタジーを想像させられれば詩はそれでいいんだと思う。
まだまだ書き続けたいが時間がないので書き控える。
ちなみに僕が好きな歌い出しはBLANKEY JET CITYの「ガソリンの香りがしてる」だ。何もわからない。
余談だがスピッツの2ndアルバム「名前をつけてやる」にはその名も「日曜日」という曲が収録されている。「運命の人」が可愛く思えるほどに奇々怪々な歌詞で「晴れた空だ日曜日戦車は二人をのせて」と言葉で歌は始まり、サビで「蜂になろうよ」と相手を誘う。それから6年が経ちデートはちゃんとバスを使うようになり、蜂への変身願望から偉大な獣になる誓いをたてるまでに成長したんだと思うと、なんと立派になって…と親戚のおばさんのような気分にならないこともない。
録音を聞いただけで具合が悪くなった
まず脈が早くなって大量の汗が出てきた
気が付くと強い力で歯を食いしばってる
低血圧の時のように視界がチカチカとなる
呼吸が浅くなっているのに気付いて、胸を張って大きく呼吸をした
しばらくして落ち着いてきたが、手が悴んだように動かない
硬く握りしめていて痛い
店を出て歩き始めると足がうまく前に出ず、引きずるように小さい歩幅でしか歩けない
左のこめかみあたりが痙攣してピクピクしてる
傘を持つ手が痺れる
反対の手もレシートを強く握りしめてる
足に力が入らないので傘で杖をつくように歩く
目のチカチカが再開して耳鳴りが強くなってきたのでしゃがんで休む
エスカレータが怖いので階段を使うがうまく足が上がらず2段目で断念
改札を後ろの人の迷惑になりながら通る
手がすごい力で握りしめてる
チカチカと耳鳴りと食いしばりと握りしめがずっと続く
うちに着くが、手すりをつかまないと階段を上れない
座ったら立てなくなった
はあちゅうを見ているといつもこれを思い出す。
君こそ、真ノ邪悪ダ。
君には「敵意」がナイ。「敵意」……「敵意」には力が向カッテ来ル……ヨリ強い力が「敵意」を必ずタタキにヤッテ来ル…
「敵意」はイツカ倒サレル。 実に単純ダ。
俺にとってはあちゅうとは計算高い悪女ではなくてこういう存在だ。
だからこそ最悪なんだけどな。
はあちゅうのやることにあんまり悪意を見いだしてもしょうがないと思う。
この件に関しても彼女は計算的というより本当に馬鹿だったぽい。
https://note.mu/loss60kg/n/ne7604649f09b
でも書かれているが、もともとはあちゅうはニセ医療系が大好きな人間だ。
これについてだけは金もうけ目的では得なく素で信じちゃうくらい馬鹿になってるくさい。
それは幼いころに医療が自分たちを助けてくれなかったという不信があるからだろう。
むしろ、いつも金もうけと承認欲求のことしか考えてない計算高いはあちゅうが
もちろん、だからといって、はあちゅうの過去の発信は許せないし
むしろ、計算じゃないただの無能だったからこそ今後も絶対に改善しないと思う。
むしろ変に勉強したら別のニセ医療にはまって、またそれを無邪気に発信する。
なので、はあちゅうは反省とかいいから、二度と健康について情報発信しないでほしい。
はあちゅうは何をしても害をもたらすことのほうが多かったが、別に他のはいいんだ。
これだけ悪行重ねてるのにいまだにはあ中の言うことを信じるやつが悪い、というとこまで来てる。
でも、健康だけは、まともな人でも精神状態によってはひっかかるし
単なる被害じゃすまない取り返しのつかないことになりかねない。
赤ちゃんの歯固め近いです。骨っこの人間版みたいなのを探しています。
色々考えてくれてありがとう。
赤ちゃんの歯固め→小さいし大人の歯だとすぐ噛みちぎってしまいそうな気がする。だけど試してみる価値はあるかな。子供が使っていたものを洗って再利用してみます。
骨っ子→犬用のものを人間が使っていいのかという気持ちがあったけどそもそも生き物に与えるものだから安全なはずですよね。犬飼っていないのですが買って試してみます。
タオル、ハンカチ、手芸紐→口の中に繊維が入るのが気になるけどよさそうですね。
酢昆布、スルメ、グミ、ガム→もっと強い力でガブガブ噛みたいので物足りないかな?と思ったのですが強い力を歯にかけるのがそもそも良くないですね。
マウスピース→だいぶ昔に歯ぎしり対策で作ったことあるのだけど歯ざわりが嫌いであまりつけられずいつのまにかどこかにいってしまった。作るのにお金かかるし歯医者に行く時間がそんなにとれないんだけど歯の健康にはこれが一番いいのかな。
そもそもストレスがかかったときに自分の腕とかを思い切り齧るとそれが和らぐのでそういう齧るのに適したものが無いかなと探していました。腕は痛いので勧められたもの色々試してみます!
数年前に某店長さんがネットから消えたときにぼくが書いた文章をここに流しておきます。(※一部、当時の文章から細かいところを修正しております)
某さんが消えたのは当然知っていて、某さんが書いたであろう増田の存在もとりあえずは知っていたのだけれど見ないようにしていた。ぼくはそんな風にして理性の口では結構強気なことを言ってはいるものの、感情の口では正直なところあのひとがネット上に文章を残さないと決めたことを認めたくなかったのだと思う。
ふと、今朝がた見た夢で某さんがmixiアカウントを復活させて、新着日記のところにその名前があるの見かけた瞬間、ほっとしたのとうれしさで胸のなかの重い空気が抜けていくように思えたことをなんとなく覚えている。
その間、自分のTwitterのタイムラインはずっと流速が遅くなっていたし、おかげ様で頻繁にタイムラインを見るなんてこともしなくなっていた。
たぶんそんな夢を見たきっかけは前日の深夜、skypeでオンラインになってた某さんの名前を見たからだ。声をかけようか迷った、というほどぼくは人間関係に積極性のある人間じゃない。正直なところSNS上でかなり付き合いのある相手でも一度でも顔を突き合わせて話をした誰かであっても去るひとのことをそうそう気にはかけないし、逆に自分がそういうコミュニティから去ることもあまり厭わない。
声をかけることはできなかったけど、某さんがオンライン状態であると確認できたことで安心した。ああ、まだ向こう側にあのひとはいるのか、そういった気持ちなんだろうなと思う。
休日、ぼくは友人の到着を待つまでの暇な時間を使って、某さんの増田を読むことにした。なんというか、本人としては別れの言葉のつもりなんだろうなって思っていたのだけれど、でもこのくらいの熱量で文章を書くことなら某さんにとって余裕であるから、これがネット自殺であるにせよ、もっと強い衝動が訪れたならどういう形でもこのひとはどこかに文章を残すだろうなって思った。
作家や創作者もネットライターも、もっというならブロガーも、個人的には某さんを評する言葉としてしっくりこないけれど、文章書きという表現は心にすっと入ってくる。
「文章を書く」っていうのがなんだと言えば文章を書くことである。
これだけをいうとただのトートロジーなのだけれど、ぼくが出会った時点での某さんは、自分の目と手で書かなければ文章は書けないというただそれだけのことを、すごくストレートに、それでいて簡単にやっているように見えた。
理知的というか、ひとつの話題に対して自分の頭で並べ立てるよう物事を考えて、それを伝わりやすい言葉で表現したかと思えば、突然の楽屋オチもエロゲオチも余裕で辞さないし、100人のうちひとりでも笑ければ充分とでも言いたげなニッチなネタをどんどん放り込んでくる。特殊な部類のエンターテイナーであったのかもしれないし、そうでなければ多分、本人が時折語るようにあのブログがコンテンツとして強い力を持つものにはならなかったであると思う。
ほぼ文章のみでコンテンツ化されるということは「今、そのあなたが書けるもの」を求められているということだ。こと某さんの「そういうもの」とは自身を切り開く性質にある、とぼくは思っている。話すネタがそもそも自分の生きているポジションから来るものであるとか、視座から来るものであるとか、とかく、これは創作なんですネタなんです本気にしないでくださいというようなエクスキューズが利きづらい方に向いている。
比較してもどうしようもない話だけど、ぼくがもしそういう風にコンテンツとして自身を切り開くことを求められたのなら、そんなことをされた瞬間に焼けただれて死ぬ。持っていないものを求められてもしかたがない、というところがあるというのもあるかも知れないし、そもそもとして防衛本能のようなものが働いてしまうようにできている。要は、自分の書いたものが何であっても、自分と深くつながっているわけではないから否認されようと恐ろしくない、先述したような「これは創作みたいなもんですから、ネタなんですから」そういう感覚で文章を書こうとしてしまうものである。
某さんは違う。
あれに特別な視座で世界を見る目や時折出てくるしっかりした知識があっても、エンターテイメント的要素に芸人根性はあっても、誰にでも読みやすいようなバカみたいな親切さがあっても、そしてついでにぼくの大好きなエロゲネタがあっても、根本の部分で「自分」を消費しているように見えてしかたない。
「自分」をほんとうに愛せるうちは良いと思うし、愛せなくても愛してくれるひとが多少は自己嫌悪を上回る自己承認を渡せていたのならそれで良いのかもしれない。けれども、誰にも認められなかったらどうだろう、クソを尻から吐き出してワゴンの大安売りで叩きつけるように店に並べて、ただかわいそうな目で見られてやがて近くを通るひとびとはその場所に誰も居ないことにするだけだ。
恐ろしいことだ、とぼくは思う。
たとえば身寄りもお金もない少女にとって資本が身体しかないからと身体を売ろうとして、それを拒否されてしまったらどうだろう。きっと死ぬと思う。
ネットで自分を切り開きながら文章として晒していくことには、それだけのリスクがあると思う。毀誉褒貶はそのまま自分に刺さる。創作ならばまだ客観的な反省という形をとれても、「自分」で真っ向勝負して否定をされることは、自分を否定されることと同義だ。
某さんが今回ネット自殺をすると決めた理由は、細かい部分を置いておいて「自己嫌悪」に由来しているという。(※この部分は過去にこの文章を書いた当時のお話です)
なんにせよ自分はあのひとの文章を読みすぎた(ひとと比較してという意味ではない)し、それほどこのネット自殺をした理由自体についての自己判断に興味が無いというのもある。
ぼくははっきり言って某さんの文章の書きかたに憧れ強く影響を受けた人間のひとりですし、とはいえそれをあまり押し出す気もなかった。なんでかって言ったら、自分にとってインターネットでも数少ない、同じような話題で笑い合える遊び相手でもあったし、そんな目に見える場所にいる人間が憧れの目を爛々にさせて近づいてくるとかいうと、自分がそういう立場になったらすげー怖い気がするからです。
ただ、某さんの文章の書きかたがぼくに色んなきっかけを与えたのは間違いないし、せっかくだからこれからの自分は少なからずでも自分を切ってでも文章を書いて生きていけたらな思った。(※この部分は過去にこの文章を書いた当時のお話ですが、未だにぼくはこれをできてございません)
そもそもぼくは別れの言葉をいう気もありませんし、ふらりとネット上に戻ってきたって「ふんっ、べ、別にあなたの居場所なんてないんだから! 土下座して謝ったら顔騎して許してあげるわ!(CV:釘宮)」っていう態度で生きているので、この文章は別れを惜しむ言葉というよりは本人の見てないとこできゃっきゃとラブレターを書いているようなものと思ってください。
ただ、ひとの文章がひとを変える力を信じていられるのは、ひとつ、ぼくにとってはあなたがいたからでもあるのです。
追伸 某えろげともだち(『ろりともだち』みたいにいうな)さんが『ココロネ=ペンデュラム』開始してましたよ。お仕事のストレスと疲労から良い感じにほどかれる日が来てくれたなら、おしっこの色で討論するとかは一旦置いといて、またエロゲの趣味がなんとなくずれたりど真ん中に合ったりしながら、そういう話をしたいっすね。またいつかのどこかで。
プリキュアのコンセプトは「暴力の男女平等論」だったはずでしょ。
それがいつの間にかプリティでキュアキュアな愛の戦士になっている。
軟弱化してお菓子だの恋だのにうつつを抜かすようになってきたプリキュアは見ていられない。
暴力による問題解決の精神も失われて、スキあらば敵と和睦を図り、言葉巧みに籠絡し、心理戦を仕掛けていく。
これはプリキュアではない。
暴力に立ち向かうための暴力、正義を勝利によって勝ち取るための武力、それらの所有権が女子にもあることを主張するのがコンセプトだったはずだ。
目先の売上に気を取られて上っ面の精神論を振りかざすようなプリキュアがあってたまるか。
正しいものが強い力を持つことだけがこの世界に平和を実現する唯一の手段であるという現実、それを知らしめる役目を見失わないでくれ。
口先や同調圧力などによって実現される正義など、圧倒的な腕力の前では消し飛んでいく事実から目を逸らして育てられた権力者にとって都合がいいだけの子供を増やさないで欲しい。
どういたしまして。
鋼の錬金術師は参考になるかもね。主人公兄弟はカップルみたいなもので、二人とも登場時から最強キャラに近いので。
・強い力を手にする過程で代償を支払っているので、強い力を初めから持っていることに違和感がない。強い力を得た出来事は彼らが冒険をする理由にもなっていて上手い。
・錬成陣なしに自在に錬成を行うという強い力を持っていてもなお、その強い力の行使に代償や制約がある。弟のほうは鎧のまま居続けると死ぬ可能性がある。食事が要らない、眠れない、鎧の中に人がいないことが一般人にバレると面倒など、人間らしい生き方に支障がある。兄のほうは無くなった体を補うオートメイルが便利な反面、オートメイルはときどき壊れる。極寒の地では換装が要る。扉の先にいる弟の本体に栄養分が渡っているらしく、年の割に小柄でそれをコンプレックスにしている。
皆さんは『コブクロ』というデュオをご存知だろうか?「ゆず」と区別のつかない人、身長差がある方です。
今やその名をインターネットで検索すれば焼肉の部位よりも上位にヒットするようになった彼らは、2001年に『YELL〜エール〜』でメジャーデビュー。2007年に日本レコード大賞を受賞した『蕾(つぼみ)』や、卒業ソングとして知られるようになった『桜』も耳に馴染みがあるのではなかろうか。
「卒業式で歌った!」という方、羨ましい。
「ゆったりした応援ソングばかりのイメージ」という方、間違ってはいない。ロックな曲も多いがヒットするのはバラードばかりなのが歯痒い。
「ゆずと区別がつかない」という方、わかる。私も区別がつかない歌手は山ほどいる。
「自分は歌が上手いと思っているおっさんが部下を連れたカラオケで得意げに歌う歌手」という方も、まあそういう人が周りにいるのだろうから間違ってはいない。
「正直一時期流行りすぎて聞き飽きた、歌詞がサムくて胸焼けがした」と感じている人もいるかもしれない。コブクロの歌詞は綺麗事が多いから、そういうのがアレルギーな人もいるだろう。ただこれに関しては、小渕さん(小さい方。詞曲とギターを担当する)が「自分が落ち込んでる時に言われたい言葉を書いている」と言っていたので、そういう側面が大きい。ちなみに私は綺麗事や理想論を貫くタイプの創作物が大好きな人間だ。
「スキマスイッチ?」、豆知識だがコブクロとスキマスイッチはかなり仲良しだ。
「ゆず?」、違う。大先輩。
はてな語で書いているので前置きが長くなったが、本題は「コブクロの人生がほぼ漫画」という話だ。
ことわっておくと私はヤバいレベルのアニメオタクだ。ツイッター廃人で、ソシャゲに課金しまくり、dアニで毎日ホビアニを観て泣いている。同人誌も出している。家にはたくさんの漫画や小説がある。舞台も観に行く。映画もドラマも好きだ。
つまるところ「人の作った物語」が好きなのだ。人の作った物語には「テーマ」や「意図」があり、それを直接台詞で、あるいは暗喩で伝えてくれる。「これはこういう意味で描かれたんだなぁ……」と思うのが好きだし、作品を観ていて「なるほどこれがこの話のテーマだったのか、これを伝えるためにここまでの本編の全てがあったのか」と分かったときの感動は凄まじい。そういう意味でホビアニはテーマが明確なので最高だ。子供でもわかるように作ってある。
と、話がまた脱線したが、『コブクロ』という物語の持つ「テーマ」を私は「パートナーシップ」だと思っている。「パートナーシップ」というものを念頭に2人を見ているとエモくてエモくて仕方がないのだ。
小渕さん(小さい方)は宮崎県の生まれで現在42歳。18歳の時に亡くなったお母さま(有名な『蕾』の母だ)と、4年前に亡くなったお父さま(この時のことを歌った『星が綺麗な夜でした』という楽曲がある)は民謡を教えており、音楽に触れて育った。BOØWYに憧れるギター少年だった。
黒田さん(大きい方)は大阪府の生まれで同じく42歳。オトンとオカンの話はライブでも頻出するのだが、所謂ベタな"大阪人"家族だ。子供の頃から背が高く、ランドセルを背負っているとおかしいからと小学校は途中からトートバッグで登校させられていたらしい。めっちゃかわいそう。
2人が出会ったのは1998年、小渕さん(小さい方)は音楽で食べていきたいという夢をとうの昔に諦め、故郷を離れ大阪堺市でサラリーマンの仕事に精を出していた。シロアリ駆除会社の営業で主任をしていたそうだ。当時21歳で……すごいな……。そして仕事の憂さ晴らしに毎週末ストリートライブをしていた。いや元気すぎるだろ。ちなみにこのサラリーマン時代の経験から「会社はクソ!!!!」みたいな曲も幾つか作っている。強すぎる。
黒田さん(大きい方)はニートの傍ら(?)堺市の銀座通り商店街でストリートライブをしていた。「大きい方ってギターとか弾けるの?」と思った方、実はあまり弾けない。ノリで弾いていた。冬は軍手をして弾いていたらしいがそれって音とか出るのだろうか。にわかには信じ難いが歌がうますぎるので許されていたのだろう。
2人は偶然にも同じ時期に同じ商店街でストリートライブをしており、双方声がデカすぎるので徐々に周りから他のストリートミュージシャンがいなくなっていった。そして交流し、互いの歌を認め合い、「オリジナル曲を作ってくれないか」と頼んだのは黒田さん(大きい方)だった。カバーしか歌っていないのは小渕さん(小さい方)も同じだったがせっかくだからと了承し、仕事の合間を縫って少しずつ歌を考えた。そうして手探りで出来た歌が『桜』だ。テーマはうっすらわかるが、歌詞のまとまりがあまりなく、フレーズごとの繋がりがフワフワと宙に浮いているような感じがするのもそういう経緯が理由だ。
黒田さんは曲を貰うと早速ストリートで歌った。小渕さんが気になって聴きに行くと、歌はめちゃくちゃ上手いが相変わらずのめッッッッちゃくちゃなギターで珠玉の名曲『桜』は歌われていた。見かねた小渕さんが「イヤイヤイヤなんじゃその演奏は!!!!!貸せやい〜!!!!」(※イメージです)とギターを奪い取り、ノリでハモって一緒に歌い上げた。すると商店街の道を塞ぐほどの観客が集まり、その後二人はコンビを結成する。『桜』の歌詞カードに「こぶちとくろだだから、『こぶくろ』」と書いて配ったのが、コブクロ誕生の由来だ。
ここから先も時間があればあるだけ語れてしまうような長い道のりがあるのだが、あまり長すぎても読んでもらえないと思うので泣く泣くカットして「パートナーシップ」の話をしよう。
オタク的なデフォルメ説明をするなら、コブクロの二人は「夢を諦めた天才と、夢を直向きに追い続けてきた天才」のユニットだ。
夢を諦めてサラリーマンをしていた作詞曲の天才が、ガツンと頭を打たれたような衝撃と共に歌の天才に出会い、「この声を世界に届けたい、この声を一番生かせる歌を書けるのは俺しかいない」と創作意欲を刺激されて再びギターを握った(一人でストリートをしていたのでギターはずっと握っていたが、これは比喩です)物語だ。
いやもうキンプリのコウジとヒロじゃん?(オタクすぐそういうこと言う) オタクこういうの好きでしょ?うたプリ1期でもハルちゃんが言ってたじゃん、「皆さんの歌を作れるのは私しかいません!」って。まさにそれ。
1998年の夏、人生を変える出会いをしたんですよ二人は。ジョジョ4部か?
今でも小渕さんは黒田さんの歌が大好きで、ライブで黒田さんの『流星』聴いて泣くんですよ。好きすぎか?普通相方の歌聴いてステージ上で泣くか?
すごいのが、小渕さんわりと「小渕さんから見た黒田さんのことだろうな……」って歌詞を書いて黒田さんに歌わせるんですよ。黒田さんどういう気持ちで歌ってんだろうな、これ……てなる。
「夢を拾った桜の下で君に出会わなければ今ここにいない」(『STAGE』より)
「子犬のようにびしょ濡れでうずくまった rainy day 心にさす傘を探し彷徨った lonely days 君の声だけがどんな雨も避けてくれたんだ
(中略)いつでも 僕らここで一つになれる 夢だけ忘れないでいたなら」(『One Song From Two Hearts』より)
「短い針が止まれば長い針も止まる 同じ痛みを分け合えることいつしか喜びに変わるから (中略)出会えてよかった」(『時の足音』より)
イメソンだ〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!(ニコイチに弱いオタクの叫び)
これらの曲以外にもコブクロはめちゃくちゃ自分たちのことを歌ってくれてるので、私オタクはコブクロのことを「二人のパートナーシップを題材にした少年漫画」と勘違いしてしまうんですよね。音楽系コンテンツみたいな。
前述したように私はテーマや作り手の伝えたいことが見えるものが好きなので、こうもはっきりそれを伝えられてしまうと大歓喜をしてしまう。先程歌詞を挙げた『時の足音』なんかは特に顕著。
「誰もが一人 一つ 一瞬 一秒 一度きり 巻き戻せない時を躊躇わず生きていける そんな出会いを探してる」
という歌詞、まじで、コブクロのことじゃん……自分がそういう出会いをできたから、こんな歌が書けるんだ……てなって泣くんですよ。
私は常々「誰か一人に向けたたった一つの強い感情が一番多くの人の心に届く」と思っていて、まあこれも実は小渕さんに気付かされたことなんですけど。
小渕さんが以前インタビューで「千人に向けて歌っても誰も振り向いてくれない。だけどたった一人に向けて歌えば、千人が千通りの受け取り方をしてくれる」と仰っていたことがあって。全然違う場所だけど、映画『ボヘミアンラプソディ』でもQueenが『Bohemian Rhapsody』をレコード会社に「意味わからん」と言われた時に「意味は聴く人自身が受け取ってくれる。聴き手はみんな自分のことだと思ってこの歌を聴くんだ」みたいなことを言ってて、マジでそれ〜!!!!と思った。
コブクロNo. 1ヒット曲の『蕾』もそう。ただ一人、世界でたった一人しかいない自分の母親に向けて作った曲だからこそたくさんの人の心に届いた。うたプリの初期曲だって春歌のためだけに作ったラブソングがめちゃくちゃ私たちの胸に響くし、伏見弓弦の『ずっとそばで…』とかたった一人の愛しい人に向けてるからこそ強い力を持った曲になってる。大衆向けにぼんやり作られた歌は、やっぱりぼんやりとしたメッセージしか持てない。
そういうわけで、コブクロの曲っていうのはメッセージを伝えたい相手がたった一人であることが多い。小渕さんが自分自身に向けてのメッセージを書いてることも多い。ファンに向けて書いてる曲も。他人の歌じゃなく、自分たちの中にある物語を歌ってる。
だから私はコブクロが大好きだし、コブクロの歌を「胡散臭」と思っている人たちにこの『コブクロ』という物語のイメージソングとして聴いてみてほしいと思っている。
コブクロファンが 『桜』のことをやたら大切にするのは、この曲がヒロとコウジで例えた時の『pride』だからだ。あんスタで例えた時の『ONLY YOUR STARS』だからだ。うたプリで例えた時のオーディションソングだからだ。
二十代の女が40過ぎのおっさん達に2次元アイドルさながらのコンビ萌えをしているのもどうかと思うが、ここで語ったことはコブクロに強く心惹かれる要因うちの一つであって、黒田さんの歌の強さ、声のすごさ、トークの面白さなどなど複合的な理由で私は一生コブクロのオタクをやめられないと思うし爆音でコブクロを聴いては「歌がうめえ……歌詞がエモい……イメソンじゃん……歌うま……ここのしゃくりが最高……」と一生泣いてると思うし、これからもライブに行きまくると思うし、とりあえず大阪に移住したい。
何言っとんのか分からなくなってきたけど、とりあえず終わり。今年のツアーのオープニング映像を見て生きてる人間同士の映画のような奇跡の出会い、共に20年歩んできたパートナーシップへの尊さが爆発して書きなぐったオタクの長話でした。
http://www.satou-lawoffice.com/blog/717/
満員電車などの痴漢事件では、犯人が被害者の衣服等を触っておれば、その衣服の繊維編が犯人の手に付着しているという理屈をもとに、微物鑑定が実施されています。
もともと、この微物鑑定は、殺人事件や強姦事件など犯人と被害者と1対1で対峙する事件において、実施されてきたものです。前提として、被害者が殺されそうになるとき、強い力で相手方の衣服等を掴むことや、被害現場ば密室であったり第三者が出入りしない、という事情があります。
しかし、満員電車の痴漢事件では、犯人が被害者の衣服を掴む力は弱いものですし、被害現場は常に多数の者が出入りできるような場所です。実際、満員電車において行われた実験では、実際に被害者に触れていなくても微物が手に付着していたという結果が出たこともあるそうです。
したがって、痴漢事件等における微物鑑定は、かなり慎重に見ていく必要があります。
もしあなたが痴漢事件の犯人に間違われ当日は帰されたものの、、後日警察から呼ばれて、鑑定結果からお前が犯人だと言われたとしても、ただちにそのことによって犯人となるわけではありまん。
弁護士 三 好 登 志 行
友達の家で「巨乳に興味ないとかお前ホモだろ~~」とからかいまくってたら最終的に出てきたのがJS低学年のジュニアアイドルのビデオでさ。
見てて今までにない気分の悪さを味わったね。
ブラクロ双子編のロックが何を感じたかの片鱗を垣間見たとでも言えばいいのかな。
金になるならこんなものまで売るのかってね。
この世界で最も強い力を持つのは正義感でも怒りでも本能でもなく金、金銭欲なんだろうなとつくづく思い知ったさ。
そのインパクトが強すぎてこれでオナニーしてる友人(※性癖に罪はないからロリコンでも友人は友人 )やその同類に対しては「キンモー♪」程度の感情しか沸かなかったよ。
それすらもはや微々たるもの。
何処かの家の子供をロリコンのおかずにして1枚数千円のDVDを売るためにスケスケネグリジェきせてバランスボールの上で跳ねさせてマンスジを強調した映像を撮れる人間がいるという現実、人間にそんなことをさせるにいたる金というものの魔力への恐怖、そっちが強すぎたよ。