はてなキーワード: 大義名分とは
さすがにTERFを痴漢と同列に置くのはどうかと思う。TERFは安全安心の為という大義名分があるから厄介なわけで。様々なマイノリティへの苛烈な差別も安全安心の為に行われてきたわけだが。
あとTERFは、様々な差別者同様、自分達の方が相手よりも弱者だって思ってる。
いろんな社会的な尺度を無視して腕力だけで自分達の方が弱者だと言い張る、ならまだマシで、いろんな社会的な尺度においても自分達の方が弱者だと思い込んでる者もいる。トランス女性は「男」だから差別を逃れて育ち仕事で優遇され差別する者がいてもちゃんと社会が咎め味方してくれるみたいな。
実際にはトランス女性は(もちろん個人差はあるが)子どもの頃からミソジニーの餌食になったりシス女性よりも就労が難しかったりするし、差別はいくらか咎められるようになったがしかし簡単に無くならないということはシス女性も体験してるはずなのだが。
コロナが蔓延する前、インフルではないただの流行り風邪にかかるのは嫌いではなかった。
38度以上も熱が出れば、普段無意識に頭の中にあるネガティブなことを考えてる余裕もなく、それらは全部抜け、ぽやっとした感じになれるのが気持ちよかった。
寝てればいい、寝てさえいればいい。そういう大義名分を得て堂々と一日中寝ていられるのが実に心和らいだ。
そんなところにワクチン接種。
自分は打つと12時間後には39度以上熱が出るタチなので、風邪の時特有の”許された休息”をガッツリ味わっている。
熱が出たところで、病気で出てるわけではなく、翌日、遅くても翌々日には治ることが約束されている。だから安心して寝込める。
3度目の時もやはり39度以上出た。
気持ちよかった。
さあ、4度目はまだか。
絵が叩かれてるから反論してるだけの「絵が好きな人」が園子温を叩く必要はそりゃないだろう
https://odaibako.net/gacha/5976
※CLとは※
Coは共同・対等
もとは英語でco-educationで男女共同教育を表していたが、現在は略したco-edのみで「男女混合」や「男女いっしょに」という意味で使われるようになっている。
そのため混同しないよう男女共学と表す際にCoed schoolと表記することもある。(韓流アイドルでもCoed schoolという男女混合グループが存在した)海外アパレルブランドのマ/ル/ジ/ェ|ラにもco-edという男女共用ラインがある。(男女混合として表す語はミックスが多いですが、メンズラブのMLがあるためこちらにしました)
ヘテロ(異性愛)は対義語がホモ(同性愛)として使われているため「ヘテロラブ表記をすることによりBLGLも同性愛者と決めつけてしまい創作にバイのキャラクターが暗に含まれない意味」となりますが、
「co‐edは対義語で同性愛と決めつけることなく単純に男同士の愛、女同士の愛、男女の愛という意味を差す」ことになり「より表現したい原義に近い」言葉だと言えます。
また男女いっしょだけでなく男女共用の意味もあるため、男か女かどちらか一方の性を断言できない方も含めて使えると言えます。
CoLはHLタグは語源がへテロセクシャルとして使われてそのへテロが悪口のニュアンスで使われている以上、HLの中に入ってくるバイやトランスジェンダーにも悪口を浴びせていること、異性愛者全体へのヘイト用語として使われることもあること、へテロは性的少数者を差してないなど、
そもそものへテロラブ表記の抱える直球の差別につながる要素を解消するための表記です
それを容認するのはよくないし悪いよな~の考えです。
なによりHLを広めてる方でへテロを悪口や罵倒語のニュアンスとして使ってらっしゃる方が、少なくない数見受けられます…
罵倒として使っていらっしゃる方本人のセクシャリティをスルーしているのではなく、単純にオタクという対等な属性として考えたらマナー的に考えてよろしくないんじゃないかと・・・。
(特定の性への罵倒を堂々と行うのはどんな立場やセクシャリティであっても人として根本的にマナー違反ですし…)
ノーマルがアブノーマルの反対の論が通るのなら、そのまま異性愛者の意味で伝えられてる以上それはNLより直球で排除する人が多くなってて結果的に差別なくせてない…のでは…
個人的には悪口と分かって広めるのもNLより直球に差別的な思考に感じてしまってます
へテロはホモと対称なのがなんか嫌…て意見もよく見るんですが、差別用語のホモセクシャルと対称であることを使用して「差別主義者」という意味合いの悪口として使われてるので、その嫌だなって意見は気に入らないし通らないって意見もその悪口として使われてる事実を封じ込めてしまっているんですよね…だからそういう理由でHL表記に差別性があるのは通らない…という論は無理があるというのが私の意見です。
感覚として実際悪用されてるんだから間違ってないんじゃないかな…
きっと私の主張を見て「世間の扱いとして差別されておらず釣り合いが取れてないから悪口として使われていてもスルーしていいし差別じゃない」と思った方もいるでしょうが、それは正直危険な考えではないかな・・・と自分は思います。
だってその異性愛表現そのものを悪口で呼んでいいって考え方は、その中に含まれるバイセクシャルが異性と恋した瞬間に悪口で呼ばれることになるってことですよ
そういうの考えもせず異性愛描写だからって悪口であるのを無視して使わせようとするのは差別が発生せず配慮されていると言えるのかな…って
「構造上ヘテロとホモは対称であるには事実」でも「立場が違うため同一に扱えるものでない」ということは、「だから差別を作り出さない言葉になるということとイコールにならない」です。
異性愛の中にも少数者がいてその人たちを無視しているのは事実ではないでしょうか。
推奨している方々でもそのことを頭の片隅で一度は意識したことがある人はいるのでは・・・
マイノリティを日頃から意識されている中でそれらに言及した方もいたのではいでしょうか
対照だからというのは差別にならない、というのは、実際に悪口として使われていない状況で初めて作用するもので、差別を無くすためと言いながら異性愛の中の少数派が見えてないのは、そうしてもいいって思い至らない、これにはそういう扱いしていいって優しさの欠如ではないかな…
ヘテロはホモの対象な言葉で、悪口として使う際は「同性愛と違って差別用語とされない差別や孤独と無縁な無自覚な人たち」という意味合いなんですよね
それって異性愛の中でセクシャリティで孤独を感じてる人に対して「結局はあなたの悩みはお遊びでしかない」とバイやパンセクに言ってるのと同じじゃないでしょうか。
あなたの苦しみなんて気遣う価値がないものだと言ってるのと同じじゃないでしょうか。
実際実在の該当者に対してそのような(結局はヘテロかよというような)悪態を吐く場面を見たことがあります。
それは差別でないと言えるんでしょうか。
そのことに気づかず善意で使っている方が、NL使用についてよく言われる「人を踏みつけているのに気付かない」を一番守りたいと考えている性的少数者に結果的に行ってしまっているのは悲しいことではないでしょうか・・・
平等のためと言っている方が多い中、意識して他人を踏みつけることが目的なわけではないでしょうし…
そのような考えの方がいらしても、それは性的少数者が悲しむのを自分のことのように受け止め悲しんでるからであって、個人の感情のみで発散の大義名分にされている方は少数だと思うので…(それがおもな理由でもそれはそれで何か理由があると思いますから適切な発散ができるとよいなと思います)
全体の大きな目的のためにふるい落とされる存在を瑣末なこととしてないもの扱いで無視されるのなら、それが差別意識っていうものなのではないかな…と
多分そう遠くない未来にバイやトランスやアセクシャル、パンセクシャル、その他さまざまな少数派のセクシャリティやジェンダーの方からHL表記から暗に排除されていることや悪口としての使用について意見が出る可能性は高いのでは・・・・
実際数年前からぽつぽつそういった当事者からの意見もお見かけしました。本当に少しですが・・・
逆に出ないほうが問題かなーと思います・・それは当事者が痛みに声を上げにくい社会になってしまっているということなので・・
そもそも悪口として自分が認知しているにも関わらず人に勧めるのはそれが少数者であっても良識的にアウトではないでしょうか。
もちろん声を上げて自分は普通だ、と主張することは自分は対等な人間であると表明するのに必要なことですが、悪口として自分が率先して使うこともある用語を事情について詳しく伝えず「正しい言い回しである」として勧めるというのはそれこそ「普通から外れ良識が欠如した異常な行動」に該当するのでは…
「自分達はアブノーマルでも良識から外れているわけでもなく、たただ当たり前に人を愛しているだけだ」と主張する行動を損なってしまうのではないでしょうか
ヘテロを悪口や罵倒のニュアンスで使いながらHLを勧めている方は、自分達は異常者でないと証明したい意図から外れ、過去に抱かれていた「良識がない異常者」というイメージを覆すどころか、差別を抱かれていたイメージに根拠を与える行動になりかねない、一部では既にそのようなイメージが強化されている人もすでに出ている印象です・・・・
分断を生む要素が多く悪口としての用法のイメージを抱いている人が少なくない以上、平等のために掲げる表記としては不適切な部分の方が多くなってしまっていると思います
また悪口として避けられている側面があるのでは、区分けして平和を保つのための表記という本来の意味をなしていないので…
メジャーですが問題提起されるのが多い表記ですし…平和的でないという理由で…色々論争の的となっていて判定が難しいところがある…浸透していて変に変えるのは混乱が起こるし…と思います
直球で悪口として使われてるわけではないですが、人より異常でマイノリティなオタク趣味だからこそと楽しむ時代ではもうなくなっており、それぞれ平等な人間として扱いたい流れがあるので…
なのでそれらの問題を解決するため、新しく表記についての記事をもとにまだ提唱されていないco-edloveを提案します…!
他の方も使って頂けますと嬉しいです…!
もとは共学の意味でしたが、現在はそのまま男女混合としてそのまま使われてて、共学の際はcoed schoolとするそうです。
海外ブランドのマ◯ジェラにも男女共用ラインでco-edがあります。
これならバイセクシャルや性自認で悩む方も使えるんじゃないかと思いました。
現在NL表記で、HLが悪口として使われているのを見かけ変えにくく困っているという方も、考えに同意していただけたらCo-ed Love(男女CP) 、字数がきついならCo-ed Love(NL)などでもいいので分かるように表記してもらえたり、表記を変えなくても「こういうのがあるよ」とツイートしてくださると助かります。
※ただし使う際はハイフンを入れてco-edにしてください。coedloveだとTwitterでは男女混合のスポーツのタグとして使われてます…
HLを広めてくださってる方にも
「世間に広まりにくいというのはNLを使い続ける理由にならない」という考えの方が多く見受けられるので、クラスタ内でも提起して浸透するのにご協力いただければと思います…!
・昨今の情勢を問題視し日常でも争いを巻き起こすことをよしとしない方
・「マイノリティマジョリティ関係なく性を揶揄したり否定することを容認する、差別の根本的な価値観」を問題とされる方
(※マジョリティ関係なくというのが重要で、多数派のBLジャンルの方が揶揄されがちなのもこれらの価値観が欠如してるため起きているのではと思います。)
何よりも
・異性を愛することもある性的少数者で、世間のマジョリティに不満を抱えている者同士で関わってみたものの異性の恋愛になるといくら叩いてもよい、悪口であることを
スルーしてもよいという風潮に苦しんでどこにも行き場がないと感じてしまっている。でも痛みを主張しづらいと感じている当事者の方
・または上記のマイノリティの中のさらにマイノリティの方の痛みをどうでもいいことだと決して考えていない方
はぜひ広めてほしいです。
社会的弱者であれば排他してよいという考えはいつか全ての人間を追い詰めるだろう、という論で配慮を促す意見をよく見ます。
それと同じく、世間的には被差別でなく差別する側であれば配慮がいらないという考えもまた、いずれ自分に降りかり追い詰めていくものではないでしょうか。
なによりお互い踏みつけることになるのを「配慮」と称して推奨するのは配慮の定義とは外れると思います。
そういった状態をナチュラルに肯定し、HL表記を勧めている方も見られる以上、争いの火種になってしまいます…できれば共有いただけると幸いです。
追記:ぽつぽつツイートしてくださる方お見かけしまして大変嬉しいです・・・!
でも表記や使っている方そのものに批判的な発言しながらの引用はしないでいてくれるとハッピーに変われていいと思います
HLが広まらないのは強く薦めてる方がNL使ってる人を侮辱的ともいえる悪口で批判したりNL表記は完全に悪で白い目で見られるものだ!って極端な考えて不快にさせるような物言いをする方が目立ってしまうことがあるのもかなり大きいと思うので・・・
HL使ってる人にこそ問題提起をしてほしくて記事を書いたので批判する内容にはなってるのですが、HL表記を広めたいって方の考え方は優しいし大事にすべきだと思うからあんまきつい言い方しないで広めてやってください〜
自分の言い方でHL使いたい人の気持ちそのものを悪いものだって言われたみたいに感じさせてたら自分が文章力なくてまことに申し訳ない気持ちです・・・
あくまで悪口や罵倒語として使われてるのをスルーして広めることをに私は問題提起したいのですが、うまく伝えれれてなくてすみません
ただやはり現状が問題提起される空気がないのは危ないと思うので、できればまだ浸透率が低い今のうちに軌道修正をはかったほうがいいのではと思います。
異性愛のみをノーマルとする考えが差別の温床であり撤廃すべきだと言うのなら、
異性愛の中に入ったのならマイノリティであっても罵倒してもいいという考えを補強するような用語を、
人権について語る人がいたずらに広めるような動きも撤廃しなければならないと考えます。
優しさや賢さがあって、他人に改められるよう声かけする勇気もあるのに、
王道的異性愛の創作を嗜好する人への、無思慮な面について認めて改める勇気がないのは何故でしょうか?
もし、男女の創作なら悪口スラングで元々使っていたものを使わせるのはむしろいい気味という考えなら、何をそんな小さいことを言ってるんでしょうか。
そんな平和や平等、悲しみをなくす為の活動らしくないことを言わないでください。
全てのLOVEを平等に扱いたいからNL表記に疑問を感じていたのではないですか。
それを広めることでどうなるか、広めようとしている方や
ノーマルという呼称で傷ついて来た方々ほどその痛みをよくご自覚なさっているはずだと思います・・
悲しいことの繰り返しはもうやめませんか・・・?
マジョリティの世界ではホモは差別用語でヘテロはそういうカテゴリに未だ認定されていないです。
でも、マイノリティはマイノリティのコミュニティを主に生きているのではないですか。
その中で排除されている方はどこに行ったらいいんでしょうか。
凡人はみんな内心トロッコ問題のどちらかが悪いかを感じてるんだ,5人を犠牲にする方だと
ロシア兵は一般人も殺していると言われているが兵士でもないウクライナ人もロシア人を殺している.
ロシア兵は残虐だなんだと言われているが,もし命に重さも軽さもないのだとしたら1つの命を落としたことに変わりはない.
幼い子供を持つウクライナ兵やウクライナの子供が亡くなったという御涙頂戴な話もあるが,ロシア兵にも当然のように家族がいる.
ロシアは情報規制されているというが,私たちが今入ってくる情報もロシアに敵意が向くようになっている.
そもそも戦下において残虐になるのは当たり前のことで,理性なんて猿にとってつけたブリキのようものはすぐに剥がれ落ちるのである.
徴兵をしていない日本人はそういったことの想像もできず,世界平和という最もらしい大義名分を背負って近現代史や背景も知らずに口を揃えて軽々しくセンソウハンタイと叫ぶ.
ネットでは両国の関係を下品に例えたものがわかりやすい・腑に落ちたと持て囃される.
キエフをキーウ,チェルノブイリをチョルノービリと言い換えることに何の意味があるのか誰も理解していない.
なぜロシアが世界を敵に回しているか,それは相対的に多くの命を落としたからで,そこで天秤をかけた時に5人のいる方へレバーを倒したロシアが悪いということになっているだけなのだ.そう報道した方が大衆を扇動しやすく金にもなる.
ただ問題はそこではなく,本質は別のところにある.短絡的な内容で煽られ感情的になるより先に,我々が目を逸らしてきたことに向き合わなければならないことは多いだろう.
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
政府は電力会社憎しの世論を煽り、海外で失敗だらけの電力自由化を無理やり押し進めた。
自由化の大義名分は「購入先の多様化」「競争による低廉化」、そして「再生可能エネルギー」だった。
結果は以下
①卸市場活発化のために、大手電力会社は利益ゼロで電力を供出させられ
②発電所等を持たず、安定供給への使命感などゼロの新電力がそこから利益を抜き
③孫正義と菅直人によりFIT制度が作られ、国民の血税を吸い上げながら役に立たない再生可能エネルギーが次々と導入された。
電力の供給安定性は大きく毀損、無秩序な再エネが景観を壊し、挙句の果てに国民負担は2.5兆円以上増えてしまった。
これを世紀の愚策と呼ばずして何と呼ぼうか。
たとえば1,2,3,4の4つのステップで進める業務があるとする。
合理的に考えるなら、1,2は担当者Aが、3,4は担当者Bが受け持つこととし、両者の受け持ち範囲はかぶらないようにする。
そうすることで、ここからここまではAの責任、ここからここまではBの責任、両者がすべて過不足なくやりきってはじめて完遂できる、どちらが欠けても成り立たない…と責任の所在を明確に切り分けることができるし、各々が緊張感や責任感をもって事にあたることを促進できる。
しかし現実にはこの「明確な責任の所在」を嫌うのか、「ダブルチェック」の大義名分のもと、両者でカバーし合うフローを意図的に構築したがるケースが少なくない。
その結果、お互いに「Aがやってくれるだろう」「Bがやってくれるだろう」と他力本願な考えになり、結局「誰もやっていない」状態を見過ごし、あとで尻拭いに追われることになる。
曖昧なほうがいいこともあるが、この場合は曖昧なままはよくないだろう。
こういう「みんなで~」っていうの、いつになったらやめられるんだろ。