はてなキーワード: 味噌とは
そうなると男の存在価値なんて全くなくなるわけ。
普通ミサンドリーの女って言ったって性の対象は男なんだから、ある意味では憎悪と愛情の相互する感情が「自己矛盾」っていう安全装置的な働きしてると思うんだ。
性対象が同姓である「女」だから男への攻撃に自己矛盾が発生しない。
好きなだけ「男」に対してヘイトをぶつけられるってわけだ。
この間の記事以外も読んでみなよ。
金稼ぎのためにブログを書いてるって公言してるんだから、あれは炎上を狙いすまして書いてるんだろね。
だけど金稼ぎだけが目的じゃなくて、憎くてたまらない「男」を糞味噌に叩いてなおかつ金儲けができるやり方に味をしめちゃったんだね。
なんとなく、好評だったので
調味料も書いてみるよ。
●塩
塩は本当に色々あって楽しいのだけど、
使い分けとか考え始めると難しすぎる。
多いときは30種類以上そろえてみたけど、
最終的に2つで俺はOKになりました。
・精製塩
意外かもしれないけど、精製塩は超便利。
美味しさが全然変わる。旨みのある天然塩を使っても良いのだけど
毎回コンスタントに決まった味を出すには精製塩が一番。
フランスのカマルグ産の塩。
粒の大きい海塩がこれ。まあ、日本の海塩(海の精とか)も旨いですが
肉焼いたりするのにはこれが一番。
こっちじゃないとちょっと辛い。
●醤油
これも色々浮気したけど最終3種類を常備。
醤油も本当に色々あるんで好きな物買い集めるとそれは本当に楽しい。
ただ、冷蔵庫の肥やし率も高いので注意。
・チョーコー 超特選むらさき
旨すぎないのが良い。普段使いとしても1リットル500円ちょっと
とすこしお高いけども、まあ他の高級な醤油と比べたら
十分リーズナブル。
真空容器になっているいつでも新鮮シリーズは非常に素晴らしい。
あと、塩分濃度がほかの薄口と違って少し低いらしく
・土佐醤油
これは自分で作ってる。酒1:みりん2:醤油10に鰹節どばっと。
鍋に鰹節以外を全部入れて煮立たせたら出汁とる要領で鰹節入れて
火を止め濾したら完成。刺身醤油として使ったり、やっこにかけたり便利。
●酢
酢は数種類あるけど銘柄にこだわってるのは1個だけ。
超ヘビーローテーションしてます。酢の物や酢飯なんかはもちろん、
すごくおススメ。酸が強すぎず、香りも良い。一度使うと
他のお酢が使いにくくなる欠点も。
●砂糖
2つ使い分けています。
上白糖でも良いですが、キャラメリゼしたりするのに
色がつかず綺麗に仕上げるのに向いている。
俺は100円ショップで買ったのを使用。
・きび糖
少し味が強すぎるのでモノによっては使いにくい。
●味噌
・赤だし
知ってるのかもしれないが、正直いろいろ使ってみたけど
差が解らない。よって適当に使っている。
炒め物なんかにも活躍する。
結局これだよな感が半端ない。わざわざ送ってもらうのだけど
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。
兄さん、僕はヨコハマに行きたいんだ。
と、僕が言うと、彼は言った。
けれどお前には左手がないじゃないか。
そんなんではヨコハマに行っても一人じゃ飯も食えまい。
確かにそうだった。
その時僕には左腕がなかった。
どうしてその時、僕はそんなことをしてしまったのだろうか。
僕は完全に忘れてしまっていた。
でも僕は行きたいんだ。
と言うと、
これを使え
と言いながら兄さんは
太った小男を僕にさしだした。
こんなものをどうしたらよいのだい
付ければよいじゃないか。
君が生まれてくる前、死んだおじいちゃんも良くやっていたよ。
コツはキュウリを食べさせてやることだ。
それにしても、なんで母さんはこんな冷蔵庫を買ってしまったのだろうか。
そうなってしまえば、僕は人より高い税金を払わなければならないじゃない。
まったくどうしようと言うんだ。
ただでさえ生活は苦しいというのに。
どうかそのわけを、ヨコハマに行ったら聞いて来ておくれ。
と兄さんは言って息を引き取った。
もちろん右手で食べた。
ばれたらまずかった。
どうしよう、僕はこれから一人で生きていかなければならないじゃないか。
僕の目から涙があふれ出した。
そうだ、この涙を水筒にためて、
水分補給のためにとっておこう。
僕はコツを探した。
キュウリがミソ、なんてね。
というと、左手の肩に接着した小男がけらけらと笑いだした。
やめてくれ。 と僕は言った。
本当にやめてくれ。僕は君みたいな見てくれの悪い奴に笑われるのが大嫌いなんだ。
僕は小男の頭をつかんで、強く引っ張った。
肩から抜けた小男は部屋の隅に転げて行くと、すぐに立ち上がって玄関から走り去って行った。
これではヨコハマに行けない。
行けないじゃないか。
自動車や冷蔵庫が普及したのって、三丁目の夕日の時代からでしょ?
それ以前は流通もないし冷蔵もないし、店に行っても生鮮食料品とかほとんど置いてないような気がする。
都会ならともかく田舎は壊滅的じゃないか。
自動車がなかったら10Kmや20Kmくらい離れたところに行くにも一日がかりだよね。
買い物も遊びに行くのもほんとうに近場だけ。
気が狂いそう。
すごい疲れてて、胃に優しい小鉢とかみそ汁とか食べたかったから。
その店はメイン1つと小鉢3つ選んでそれに白米とみそ汁がつくスタイル。
メインには、豚の生姜焼きを選んだ。
席についてふと、胃にやさしいものが食べたかったのに何でこんながっつりした主菜を選んだのか考えた。
今日のメインのラインアップは秋刀魚の塩焼き、さばの味噌煮、肉じゃが、豚の生姜焼き。
この店にはよく来るけど魚が好きなこともあって、肉を選んだのは今日でまだ2回目だ。
普段だったら絶対に丸々1尾がカリッと焼かれたコスパ最強で脂がウマい秋刀魚か味噌が染みたさばを選んでる。
そこで思い至ったのが、「今日自分は身体じゃなくて精神的に疲れてるんだな」ということ。
煮たり焼かれたりしてはいるけど、生物を感じさせる生命力にあふれてた。
今の疲れた自分が、それらに箸を入れて割って、骨をとって、内臓をよけて食べるという
命のやりとりをするのを何となく避けたんだなという気がした。
味は魚のほうが好きだ。ほぐし身で皿にいれてあったらそちらを選んだかもしれない。
(それでは魚を食べる醍醐味もへったくれもあったもんじゃないけど)
生姜焼きを「やっぱり脂っこいな」と想像通りに少しだけがっかりしながら、
命を崩す直接的なやりとりをしないでご飯が食べられることをほっとする自分がいたんだろうと思う。
普段は魚の滋味のある味わいや、骨を抜きながら命を頂く工程が好きだ。
「面倒くさいとか言うんだろ現代っ子が」「子ども舌の人が増えてるのかな」と思っていた。
けど今日の体験を経て、必ずしもそういうわけでは無いのかもしれないと思った。
精神が疲れて、あの魚との命のやりとりをする気力が減ってるっていう側面もあるんじゃないかな、と。
肉にだって生命力はあるけど、やっぱり丸ごとの姿に近ければ近い分だけ、
料理の手間も食べる手間も増えるし、その食べものとの「距離」が近くなる。
肉系は選んで選ばない限りその動物の顔や内臓を自分で処理したり皿に上ったりすること無いもんな。
生のさんまのお腹に包丁を入れて内臓を出す、イカの足を持って頭から内臓を引っこ抜く、
自分の母親がそうやって料理をするとき、台所は生命の雰囲気に満ちていた。
日常的に全体的に疲れて、ダウナーになっている若者の精神と気力の磨耗が
回りまわって魚離れに表れてるんじゃないかなと、そんな気がした。
結婚1年目、とはいえ中学生の頃から付き合いのある友人宅でもあり、自分の実家とも車で10分ほどの距離。
友人の妹である妻と付き合っていることをオープンにした後は、年越しを妻の実家で迎えてから初詣に車で出掛けたり、
義父や友人を交えて麻雀だったりで年末年始にもよく遊びに行っていたので、
おっちゃんおばちゃんが義父と義母になっても特に何かが変わることもなく、
元日、おせちを囲む食卓に着いたところで、急に吐き気と頭痛に襲われた。
口の中に乗り物酔いの時と同じような嫌な味のツバが広がって、顔をしかめる。
世話焼きの義母が何を飲むか友人たちに聞きながら歩き回っていて、
円卓には義兄、義弟、妻、義父が座り、卓上には立派なおせち料理。煮物が美味しそう。でも吐きそう。
電気が眩しい。なんかクラクラする。吐きそう。頭が痛い。うるさい、というか人の気配が煩わしい。呼吸が乱れる。
「お餅1つの人ー?」手を挙げて「あれ?1つでいいの?」と言われながら1つだけ餅の入ったお雑煮を受け取る。
口の中の嫌な味を流したくて少しすすった。出汁と味噌の味が美味しい、優しい甘さ。
食欲がないわけじゃないのに吐き気で箸が進まない、胃は空腹を訴えているのに、どこか別のところが拒否しているような。
せりあがってくる胃液と口の中の嫌なツバを無理やり口に運んだお雑煮で押し込む。
何度か深めに呼吸してみるけど呼吸が落ち着かない。
電灯が眩しくて目を開けているのがツラい、ほぼ目を閉じたままお雑煮をちまちまと食べる。
目を閉じていても、みんなの食事している気配がまとわりついてきてまた胃液が上がってくる。
気を抜くとマーライオンになりそうだ。
このあたりでようやく、人ごみで人酔いした時や、
会社の食堂で人の気配に酔って気分が悪くなって以来、食堂で食事が出来なくなったのと同じパターンの不調だと気付く。
昔から人ごみは苦手だったし、年々苦手になっている傾向は感じていたけれど、
こんな少人数で、しかも気心の知れた相手でここまでの不調が起こったのは初めてだった。
その場を離れる以外の対処法を知らないので、正直に
「すみません、どうにも調子が悪いので別室で食べてきていいですか」と言って一人離れた別室に移動した。
電気を付けないままの部屋に入り、人の気配が感じられなくなると、一気に気分が良くなった。
吐き気も嘘のように消えて、もってきたお雑煮をあっという間に食べてしまった。
あの美味しそうな煮物ももらってくればよかったと思ったけれど、分けてもらいに居間へ戻る気にはどうしてもなれなかったので、
目が覚めると復調していたので詫びに行ったところ、みんな笑って許してくれた。
28歳女。飲食店勤務。年の瀬だけど乳首が取れかかっている。佐村河内風に言えば、3年前から少しずつ取れかかっていた。28年間、舐められもせず、吸われもせず、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べてきた私がなぜこんなことになったのだろうか。今流行の妖怪のせいだろうか。一大事~なのは確かである。そんな思いを抱えながら、これまで保湿クリームを塗ってニプレスを貼り、どうにかこうにか凌いできた。ニプレスを剥がすとき、私はいつも『三つ目がとおる』の写楽保介を思い出す。これは私の第三の目なのだ。そう思うことで少しだけ強くなれた。しかしニプレスを剥がして出てくるのは痛々しい乳首。『三つ目がとおる』というより『乳首が取れる』である。そんな私の乳首も今年に入りとうとう限界に近づいてきた。干しぶどうを通り越して今や落ちかけの線香花火、最後の一葉、あるいはクリフハンガーである。薄皮一枚でどうにかぶら下がる様は、このままリポビタンDのCMに使えそうな画である。ファイト一発!私はそうやっていつも乳首を励ましていた。
世間では女性の乳首はさくらんぼに例えられることもあるが、私のそれは実ではなくヘタ(茎・軸)のほう、より専門的に言えば果柄である。口の中で結べるとキスが上手いと言われるアレである。仮に私が大塚愛ばりに「私さくらんぼ!」と乳首を出そうものなら、男性にぎゃあと叫ばれた挙句、大塚愛と法廷で戦うことになるだろう。もし徳永英明が私の乳首を見たら『取れかけのChikubi』というバラードを歌い上げるだろう。スピッツなら『乳首がポロリ』、コブクロなら『取れそうで落ちそうな乳首が今年も春を待っている』、一青窈なら『薄紅色の可愛い君のね、乳首がちゃんと終わりますように』、いくつもの乳首J-POPが頭をかけ巡る。もういっそのことすべてを諦めて、ありのままに任せたらいいのではないかと思うこともある。しかしありのままやっていたら私の乳首は十中八九レリゴーしてしまうだろう。もちろんこれはMay J.の責任問題であり、法廷で戦うことになるのは必至だ。もちろん黒幕は松たか子である。
とにかく私の乳首は無事に年を越せるか分からない。仮に年を越せても再来年は分からない。遠からず乳首が離れるときがくる。子が親から巣立っていくように、いずれ別離のときがくる。だけどそのときは涙は見せず、笑って見送りたいと思う。ぽとりと落ちた乳首はきっと大地で芽吹き、いつか綺麗な花を咲かせるだろう。木になる果実はさくらんぼ。そのとき大塚愛とのさくらんぼ裁判が幕を開ける……。
○昼食:なし
○夕食:ご飯(鮭、牛味噌炒め、たらこ、野沢菜、などがのった豪華な奴)
○調子
なんか躁鬱の躁の方のノリで就職活動をした。
結果は明日(早い!)聞けるらしい、就職したら、当たり前だが脱ニートである。
(別にゲームしてない日も普通に更新してるから、続けられるか)
(まあでも何時まで休めば大丈夫になるかなんてさっぱりわからんしなあ)
第一、一度辞めた会社でもう一度働かせてもらえるものなのか!?
(でも、辞める時に「元気になったら戻っておいで」って言われたしなあ)
(いやでも、普通に一度辞めた人が休日に電話してきて「おkおk」なんて軽いノリで言わないだろ)
とかなんとか、色々考えているが、まあなるようになるし、ならないようにはならないだろうと、
ある種楽観的。
これに落ちたら、他の職を探して色々活動しようと思う。
四日市+プログラマで検索したらあれこれ出てきたので、出来る限り近所で働けるようにするのもありかな、
え? プログラマ続けるのかって?
いやこれがね、悩んだんですよ、かなり。
でも、結局自分に出来る事がそれ以外思いつかないし、それ以外はちょっと怖い。
だから、とりあえず、とりあえずね、プログラマで就職を探すつもりです。
あーもしかして、ただ単にオーバードーズの反動で、元気になってるだけなのかなあ。
そうだとしたらよくないよなあ、
いやでも、これがある意味チャンスだよね、チャンス。
これをキッカケにちゃんと就職して、家族を安心させてあげないと、というか
まず自分自身がちゃんとしないといけないと思う。
頑張れ私、頑張れ僕、頑張れ自分、ですよ、頑張れ。
え? 鬱病の人に頑張れって言う野禁止って?
それもそうか、じゃあ、うーん。
負けるな私、負けるな僕、負けるな自分、ですよ、負けるな。
いやもう、本当、なるようになれ、ならないようにはならないの精神で
春までには就職決めたいところだね、春までには。
(遠すぎるかなあ?)
これが至極面倒なので、早く直して欲しいのだが、サポートセンター様も原因がよくわからないらしい。
なんじゃそらー! って感じでかなりイライラしている。
早く直してくれないと、就職活動もできないし、はてな活動もできない。
なにより、XboxOneができない!
自炊している男です。
「男性が喜びそうな料理」、「なぜ男性は○○な味を好むのか」、「○○な味を好む家族と暮らす話」を書いてみました。
ご参考になれば。
男の人の体は、女性よりも大きく筋肉も多いので、どうしても体を動かすための栄養素を多く必要とするものではないでしょうか。
(詳しくは後の体験談を参照)
男性が不足しがちな栄養素を補給できる、受けのいい料理を並べてみました。
体も喜ぶ、味も良い。翌日は息が……。
私は土曜に作って日曜昼までに食べきるようにしています。シャキシャキのニンニクの芽は美味しいですよ。
・豚汁
男性で嫌いな人はあまり聞きませんね。寒い日には特に美味しい。
・豚のみそ漬け
・鶏レバーの甘辛煮
昔、私の母が父のために、よく作っていました。
父専用の一品で子供たちは箸をつけてはならない決まりでしたが、私たち兄妹は父にせがんで、コリコリした部位をもらっていました。
(父はその部位について、しようもない下ネタを言うところまでがお約束でした)
ちなみに、逆に疲れ気味なときに、体が喜ばない料理はと言えば、麺類を挙げておきます。
ですが、
1.自炊でそうした味付けの料理が続くと、風邪をひきやすくなったり、出社中に倒れたりと、目に見えて体の調子が落ちた。
2.そこで、普段食べないガテン系の定食屋で高カロリーな料理を頼んだら、不思議と美味しく感じ、体の調子も良くなった。
3.意識的にガテン系ハイカロリー料理を食べる生活をして、病気にかかりにくくなった。
味の好みとは別に、体が求める味・食材というものがあることをご理解いただければ(男性の一人として)幸いです。
もし可能ならば、疲れの度合いに応じて、不足した栄養を調整できれば理想的かなという気がします。
つまり、
「疲れがたまっているときには、体が元気になるような食材、不足する栄養を意識的に増やす」
といったことです。
(私の場合のように、疲れる人=料理を作る人だと簡単ですが、なかなか難しいかもしれませんね)
■○○な味を好む家族と暮らす話
ある家族の話です。
長くなってきたので簡単に。
・経理の責任者をしていた母親は、仕事が忙しかった日には、自宅で練乳をチューブから直飲みしていました(家族から笑われながら)。
・脳を長時間フル回転させることで糖分が極端に欠乏していたのが原因(低血糖の状態になっていた)と思われます。
・練乳のチューブを好きなだけ飲んだ後には、体が正常な状態に戻っていたようです。
欠けている栄養素を美味しく感じるというのは体に備わった機能なので、個人的には、それ自体は避けようがないかと思います。(もし仕事で塩分が不足しているのであれば)
ですが、
「料理の前に、疲れた体に欠乏した栄養(塩?カロリー?)を与える一杯をその人に出してみる」
ということで、
その家族は、同じ料理を同じように楽しむことができたという話です。
以上、ご参考まで。
○昼食:なし
○夕食:納豆卵掛けご飯
○調子
非常によろしくない。
何をしていても自分の中の
「今まで言われて来たツラいことリスト凝縮版」から、何かをピックアップして問うてくる感じ。
何も集中できないし、何もしていない。
ただただ、時間がすぎるのをぼーっとしている。
ところが、それをしていると、「今まで言われて来たツラいことリスト凝縮版」が、何かをピックアップして問うてくる。
薬を飲んで少し落ち着いたので、日記を書いている。
お風呂に入りたい。