すごい疲れてて、胃に優しい小鉢とかみそ汁とか食べたかったから。
その店はメイン1つと小鉢3つ選んでそれに白米とみそ汁がつくスタイル。
メインには、豚の生姜焼きを選んだ。
席についてふと、胃にやさしいものが食べたかったのに何でこんながっつりした主菜を選んだのか考えた。
今日のメインのラインアップは秋刀魚の塩焼き、さばの味噌煮、肉じゃが、豚の生姜焼き。
この店にはよく来るけど魚が好きなこともあって、肉を選んだのは今日でまだ2回目だ。
普段だったら絶対に丸々1尾がカリッと焼かれたコスパ最強で脂がウマい秋刀魚か味噌が染みたさばを選んでる。
そこで思い至ったのが、「今日自分は身体じゃなくて精神的に疲れてるんだな」ということ。
煮たり焼かれたりしてはいるけど、生物を感じさせる生命力にあふれてた。
今の疲れた自分が、それらに箸を入れて割って、骨をとって、内臓をよけて食べるという
命のやりとりをするのを何となく避けたんだなという気がした。
味は魚のほうが好きだ。ほぐし身で皿にいれてあったらそちらを選んだかもしれない。
(それでは魚を食べる醍醐味もへったくれもあったもんじゃないけど)
生姜焼きを「やっぱり脂っこいな」と想像通りに少しだけがっかりしながら、
命を崩す直接的なやりとりをしないでご飯が食べられることをほっとする自分がいたんだろうと思う。
普段は魚の滋味のある味わいや、骨を抜きながら命を頂く工程が好きだ。
「面倒くさいとか言うんだろ現代っ子が」「子ども舌の人が増えてるのかな」と思っていた。
けど今日の体験を経て、必ずしもそういうわけでは無いのかもしれないと思った。
精神が疲れて、あの魚との命のやりとりをする気力が減ってるっていう側面もあるんじゃないかな、と。
肉にだって生命力はあるけど、やっぱり丸ごとの姿に近ければ近い分だけ、
料理の手間も食べる手間も増えるし、その食べものとの「距離」が近くなる。
肉系は選んで選ばない限りその動物の顔や内臓を自分で処理したり皿に上ったりすること無いもんな。
生のさんまのお腹に包丁を入れて内臓を出す、イカの足を持って頭から内臓を引っこ抜く、
自分の母親がそうやって料理をするとき、台所は生命の雰囲気に満ちていた。
日常的に全体的に疲れて、ダウナーになっている若者の精神と気力の磨耗が
回りまわって魚離れに表れてるんじゃないかなと、そんな気がした。