はてなキーワード: 自己完結とは
昨今はAVのレベルが上がった、二次元がすごい、オナホールがすごい、風俗もレベル上がった。
と騒がれて、それに伴って女性を男が求めなくなった→草食系男子。っていう話がよくでるけど。
これ本当なんか???
なんか、世間的な話では確かに未婚率がヤバイだの、彼氏ができないだのというのは聞くんだけど。
ネットでは、相変わらず「女は股を開けば簡単にやれる」「女は選ばなきゃ男のほうからやってくる」っていうのを聞く。
喪女というのも、どうやら『えり好みが激しい』というタイプらしい。年収1000万だの、向井なんとかだの、黒子のバスケ(これは男と同じかw)っていう感じらしい。
恋愛指南系の奴を見ても、「若い女が彼氏を見つける」っていう指南書はあまり見ない。行き送れ女子?みたいなのを対象に婚活はあるみたいだけど。
逆に、男の指南書系では、「女からよってくるわけはない、積極的に池、女は8割受身だよ」ということらしい。「女は一目ぼれしない、好きになっていく過程を踏まないと男を好きになれない」というのが鉄板で語られている。
つまり、女は積極的に行かなくてもとりあえず男が来てくれるシステムができあがってるわけで。
正直自分としてはなぜそんなシステムになってるのか分からない。どういう理屈なんだろうって根本が分からない。
で、最初の話なんだけど。リアル女性を相手にしなくても自分で自己完結できるシステムが完璧とはいえないまでも、普通にやりくりすれば普通に完結できるシステムができている。
むかしなら、性欲がたまって女性の体なりのムラムラでモーレツに女を追いかけるってのがあったらしい。ってか俺が子供のころの恋愛の1つの種類としてそんなのは確実にあったと思う。
でも、今は性欲なら超絶美少女が現実では絶対不可能なほどエロエロで迫ってくる(画面の中のAVなりエロゲーねw)
風俗行けば、リアルの素人では絶対勝てないレベルの奉仕が出てくる。
オナホールは膣を越えるし、種類も豊富。最近ではケツの切り身みたいなのでリアルセックスみたいなのができるタイプすらある、ローション、服、等々種類超絶豊富
恋愛よりもはるかに楽しい恋愛をさせてくれるエロゲーなり、エロ漫画も10年前とは比較にならない量とバラエティー、質。
これだけ考えると、女性の価値が落ちそうなもので、そうしたら俺にもおこぼれきそうな気もするんだが、いまだにぜんぜん変わらないらしい??多少なりとも下がってる??
でも、彼女がいる、付き合ったことがある、セックスしたことがある男の数はどんどん増しているらしい。
女に突っ込む男の数が減れば、女性も多少ブサイクを受け入れるのかな?って思ったが、そんなこともないらしいね。
これってアレなんだろうか?最低限のラインっつーか。女としても了承できないラインの男ってのはどんな時代でも変わらないし。そういうラインの男を選ぶくらいなら、ラインギリギリ上の男を狙い続けるみたいな???
フト思ったんだけど、最近「○○男子」ってのはやってるけど、あれって、今までぜんぜん戦線に乗って来なかった妥協できるラインギリギリの男達なんだろうか?
ラインギリギリだから今まで何の注目も浴びてこなかったけど、ラインギリギリまで女の妥協が下がって、皆がそのラインギリギリのコストパフォーマンスがいい男に注目しまくって。
それで注目された男達の分類とか研究が始まった感じなんだろうか。
いずれにせよ、どんだけ女の価値がアウトソーシングできるようになっても、一定のラインを割った男達に未来は無いのだろうかな。
切実に、切実に、人口知能学会によるセクサロイド&家事やってくれる人工知能求める。
ってか、遠隔操作でロボットを操縦するみたいな感じで、ロボットをインド人あたりが操作して、日本の家庭でそのロボットとセックスしたりロボットに掃除してもらったりってのは可能だと思うんだよねえ。
ロボットの外面自体はラブドールの発達で著しいし、遠隔で操るシステムなら最近の3Dゲームの技術でいけそうだし。
ちゅーかね、そういうのができたら、風俗で働く女性の代打ができると思うんだけどどうだろう?そしたら本格的に女性が性を売り物にして男から稼ぐことがキツクなるから、そのくらいになったら、俺とかでも相手してくれる感じになるんかなあ。
やっぱ、風俗があるから女が男を利用する流れは続く感じかなあ。
AVとかオナホールで風俗に行く回数は全体的には落ちたとは思うんだけど、やっぱクリティカルに風俗を直撃するような技術革新がないと厳しいね。
ネットにはほぼ全ての情報がのっているように見えるがそれは完全に誤解だ
人の記憶、海馬から前頭葉に記憶が飛び脳に知識として定着させるようになるには物語が必要だ
例えば飲みやでも探している時にスマホで検索して一発でダイレクトに店まで行くのとコンビニの店員やキャッチの兄ちゃんに聞いて道に迷いながら行くのとでは全く違う
あの道をこういってコンビニがあって、あの時兄ちゃんに言われたことと複合して記憶されるのとネットでスマホの画面を見つめながら景色もそこそこに最短距離で行くのとでははるかに前者のほうが記憶、知識としての定着度は上回る
なんでもそうだが物事は枝葉末節があるから記憶が知識になり理解してはじめて知恵になる
ウェブページでの単発的な記事を追いブクマをつけてもそこに物語もなく単なる知識欲を瞬間的に満たすだけで永遠に知恵になどならない
たまに無駄に投資、投機関係の記事をブクマしてる人やプログラミングの始め方みたいなものがやたらブクマを集めるだあれだ。知恵にならない知識などむしろ知らないほうがましだ
Love Piece Club - どぶろっくと痴漢の関係
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html
話題になっていたので読んだ。
タイトルにタレントの名前が入っているので、人は集めやすいだろう。
下ネタ系芸人の“どぶろっく”と性犯罪の代表格“痴漢”という組み合わせもいい。
前半は自身の痴漢体験談と「なぜ痴漢は痴漢をするのか」という話。
興味深い話ではあるが、下世話な話を期待している人間にははっきり言って退屈だ。
その結果、適当に流し読みされて、間違った解釈をされるハメになる。
的を外した反論などを受けることも少なくないらしい。
話題になったテキストには、よくあることだが……。
特に“膜”についての話が話題となっている。
田房氏曰く、
「彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、 自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ」
という。
引用している書籍で取材されている強姦加害者は1人だけで、ケースとしては不十分だ。
それ以外では筆者の経験と取材を論拠としているが、自己完結の域を出ていない。
「感じ」「感じた」という仮説的表現を多用していることが、その印象をより強調する。
それでも妙に説得力が感じられるのは、筆者の秀でた表現力が故だろう。
連続して「あの感じ」を使用するくだりは、映画を思わせる迫力すら感じさせられた。
続けて“どぶろっく”について。
ここで筆者は『もしかしてだけど』の例として、次の二つを挙げている。
「電車で前に座ってる女が白目をむいて寝ているが、もしかして、俺の股間を見て失神したのではないか」 「夜道で前を歩いてた女が、こちらを振り返って急に歩くペースを速めた。もしかして、俺を招くために部屋を片付けたいんじゃないのか?」
『もしかしてだけど』を観たことがある人なら分かると思うが、
ここで用いられているネタは『もしかしてだけど』の中でもかなりエグい。
これらのネタは、全体の後半で用いられることが多い。
ソフトな『もしかしてだけど』に飽きてきた観客に向けられたカンフル剤的な役割を果たすためだ。
それがメロディも歌声もない言葉だけの状態で表記されているのだから、
どぶろっくを知らない人には印象が良くないだろう。
事実、Twitterでは、どぶろっくを知らない数人の方々が不快感を示していた。
YouTubeで公式動画が公開されているから、URLで紹介しても良かったのではないだろうか。
https://www.youtube.com/watch?v=qj3bCb4a_9w
「そんなどぶろっくがこんなに老若男女に大人気なのは、 痴漢などの性犯罪に関する知識が日本の世の中に浸透していないことの表れである。」
“膜”の論理を用いて、筆者はどぶろっく人気をこのように評している。更に、
「「どぶろっくを笑う世界」には、痴漢などの性暴力は存在しないことが前提になっている。 同じ世の中にそういった被害は実際にあるのに、その被害とどぶろっくは別々のものと認識されていて、 観ている人たちの中で、まったくつながっていない。」
今年の4月になって“膜”と『もしかしてだけど』を結び付けた人とは思えない。
自らのことを棚に上げて、よく言えたものだ。
そして筆者は、
「性犯罪者のことを「異常者」「一生治らない病気」「性欲によるもの」と片付け、 社会全体で無視し、代わりに間違った認識だけを広めているためにその実態を知る機会がない。 つまりは性犯罪というものと性犯罪被害者に対してもマトモに向き合ってないということである。 そして社会全体が「女性に対しての侮辱」に対して徹底的に鈍感なことが、どぶろっく流行を力強く支えている。」
と結論付ける。
「社会全体が「女性に対しての侮辱」に対して徹底的に鈍感」であることは否定しない。
が、その理由として、『もしかしてだけど』の流行だけを用いるのは、些か無理がある。
そもそも、
「例えば、お笑い芸人がギターを持って 「老人の家に孫のフリして電話して助けを求めてみたんだ もしかしてだけど 間違えて俺の口座に振り込んでくれるんじゃないの」 と歌っても、面白くないし不謹慎だしお笑いとして成立しない。 それは、「オレオレ詐欺」という犯罪が実際にあることをみんなが十分に知っていて、 その犯人はこういう発想で犯罪をしているということがパッとつながるからだ。 そして同時に「老人に対する侮辱」も感じ、不快な気持ちになる。」
「女子中学生が痴漢に遭って「マジ痴漢ってなんなの?! ムカつく!」と言いながら、 どぶろっくを見て笑っている、という状況は異常だと思う。」
などの記述から察するに、筆者は演芸に関してまったくの素人だ。
古典落語の分野を見ても、『穴泥』『置泥』『締め込み』『出来心』など、
現代の若手芸人たちも、犯罪を取り扱ったネタを幾つも発表している。
例えばおぎやはぎは、「俺さぁ、結婚詐欺師になりたいんだよねェ」とのたまい、
結婚詐欺師になるための方法を二人で思案する漫才を作っている。
筆者は立川談志は「落語は人の業の肯定である」と言ったことはご存じだろうか。
女子中学生のくだりも同様だ。
痴漢を経験したことによる恐怖と怒りを、笑いが超越する可能性を完全に無視している。
それが果たして異常だろうか。
我々は、我々が経験した哀しい経験を、世の中の全ての作品に反映しなくてはならないのか。
不幸にもそうなってしまった人もいるだろう。が、そうじゃない人もいるだろう。
そういう人たちは異常というのだろうか。
だが、その感情を正当化させるために、“演芸”という他ジャンルを荒らすようなことをしてはいけない。
最後に、重箱の隅だが、
私も2008年にどぶろっくの「男の妄想」芸を観たときから、面白いと思って笑っていた。どぶろっくが好きだった。 だけど、2011年から痴漢に関し調べるようになり、今年の4月に「刑事司法とジェンダー」を読んで、 やっとどぶろっくと自分が遭っていた痴漢被害がつながった。 10代の頃からあんなに痴漢に遭っていたのに、どぶろっくを観ただけでは分からなかった。
「どぶろっくが好きだった」という人が、
「やっと」「どぶろっくと自分が遭っていた痴漢被害がつながった」という表現を使うだろうか。
別にいいんだけど。
作ってる人のやってみたい事がとても直線的な気がする
「こっちにいってみたい」「ここを調べてみたい」っと感じるような部分を持ってない
昔のは見た夢を再現ようなそんな想像力
例えば、穴が開いていたら、どこに通じるのか自分ではいって確かめてみる
テーブルの上に電話が置かれていると、今のゲームではただの装飾品だなとしか感じない
昔のゲームで電話がテーブルの上に置かれていたら、まずは調べてみるよね?
今のフリーゲームではこういう部分は強いよね
試してみたい、覗いてみたい、やってみたいでしょ?って部分が殆ど皆無
フィールドを隅々まで歩いてみたいよね?何か変った施設が見つかるかもしれない
今のオープンなフリーローミングなゲームではそういう感じがしないよね
何でだろう
何かないか?探しもらしは無いか?と探してる感じじゃない
フィールドを進んでいると知らない建物が見えて来るのは2Dも3Dも昔のゲームでは同じように楽しいよね?
3Dでは例えば、結構広めのマップを探索してると思いがけない場所に洞窟を発見したとか、その中には巨大なたこがいてとか
今って敢えてつまらないように作ってるのかね?
今のゲームでは同じように3Dで進んでいると遺跡みたいなのは出て来るんだけど
淡々とそこにそびえてるだけでだから何だって事は無いし、何か特別な発見をする訳でも無いし、何かいる訳でも起こる訳でもない
ここでこんな事をしたら遺跡が起動したりとかそういう事は無い
それとする事が全部テンプレどおりで
宝箱を取る、敵を倒す、って行動を取れるとしたら
ミッションを受けて、洞窟か何かに行ったら、どこに行っても後はそのテンプレどおり敵を倒すなり宝箱をとるなり
して帰って来るだけ
昔のゲームだと、怪しいスイッチを見つけて押してみるとトラップだったり
何かが起動したり
それか、レバーを上げると特定の扉だけが開いて、そうでない扉は閉じて
じゃどうやったら奥まで進めるか
ここをいじるとどうなるのか?ここを調べたら何が分かるのか?どうなるのか?
プレイヤーが何かする事でどういう変化が起きるのか?
で、ゴールとどう関係するのか?
そういう意味白さ
今のは何も無い
見たいなパターンと
ミッションが数珠繋ぎになっていて、何をとれ何をやっつけろと注文を聞いてるだけで
見たいなパターンか
とっちにしろ、プレイヤーが自らの興味でやってみたい事をやってみて
それで、何か発見するって訳じゃない
何か発見すれば、じゃここは何だろう?ここは?と発展するんだろうけど
今の人の作るゲームってこんな物理現象を再現してる「すごい」とかそこで生活してる人が現実の人間と同じように思考する「すごい」とか
そういう部分に目をつけている
でも、探究心をそそるような作り方は一切出来ない
この人は何が好きで、この人は何時にいつもジョギングしてて、とかそういう部分を細部まで作り出すのは上手
マップ的な意味合いで、こっちには城が、こっちには遺跡が、でもだからと言って特にそこにいっても調べても何も無いけど、細かな部分まで再現はしてる
でも、このまま、西に行ったら岬の先には洞窟の入り口、東に行ったら塔、南には砂漠地帯が広がっている、気になるでしょ?自由に探索してみて?洞窟はここに繋がっていて、塔は何の宝が眠っていて、砂漠地帯はどうで、さらには洞窟に入るには塔で見つけた物が必要だとか
とか、テーブルの上には電話が、これは何だろう?調べてみると何か発見する、では冷蔵庫は何?洗面器は何?シャンプーは何?気になるでしょ?触って調べてみる?
とか、知らない遺跡のようなものを見つけた、何か自分の興味から探索していじっていたら、起動して何か起こった、何が変ったの?他にいじるところは?どういじればいいの?何なの?
とか、そういうのはまるで無い
のが約三年前。
年末年始および家族親族が集まるような場所に僕が一切出席しなくなった為。
理由は姪の名前を呼びたくないし、呼ばれているのも聞きたくないし、どちらをするにしても非常にいたたまれない気持ちになるから。
子供の責任じゃないという意見はまったくもって正しいのだが、正直名前を聞くたびに我が家の特徴である相手の事を考えない自己完結した独善性の象徴をみせられるようでとても気が重くなる。
なにより自分の体験から考えても子供というのは大人が自分に対して抱いている感情に非常に敏感なので、「叔父は自分に関してプラスな気持ちを持っていない」などと思われるよりは、「叔父は変わり者なので家族と会うことがない」くらいに思われていた方がよほどいい。
DQNネームというものの害悪の本質は本人や親よりもこの周囲をいたたまれない気持ちにすることにあるんじゃないかと思う。
正直兄がDQNネームをつけるまで、就職の採用なんかでDQNネームを理由にはじかれるというのをくだらない差別のように感じていたし、それは今でも変わらないのだろうけど、もし自分が仕事を一緒にする時には優秀でも一緒にいていたたまれない気持ちになる人間よりは特に優秀じゃなくてもDQNネームじゃない人間をくだらない差別であることを承知で選ぶだろう。
兄夫婦は「これからは海外に日本人がでていかなければならないのだから日本の伝統なんて無意味」との事で悪意はない。
「アメリカンスクールに通わせて国際人にしたい」「子供のころから英語を習わせたり最高の教育を受けさせたい」等とも言っている。
こういう善意に基づく神経症的な完璧主義とコントロールフリークが合体した結果、DQNネームになったのかと思うと姪の今後を考えて暗澹とした気持ちになる。
人間は良くも悪くも自分の所属する共同体から簡単に抜け出すことはできないんだし(特に子供は)その中で周囲にいたたまれなさを積み上げるような名前を与えることは親のエゴであるように感じられるし、周りのいたたまれない気持ちの積み重ねが本人にいい影響を与えるとも思えない。
そしてなによりもいたたまれなさを感じながらその人間と付き合うのは非常に感情的な労力を必要とする。
かの池波正太郎は頼まれて名付け親になることが多かったようだが、「名前は当人が意味を付与していくものだからあまり奇をてらったものは望ましくない」としてほとんどの場合~太郎といった感じのひねりのない名前をつけていたそうだ。
とりあえず僕にできることは姪には一切会わないことと、もし何年か後に姪が改名したくなった時に相談に乗り、可能な限り力になってやることぐらいしか思い浮かばない。
生まれたときは本当にうれしくて「この子をとてもかわいがろう、いい叔父になろう」と思っていたんだけどなあ・・・
名前一つで自分と家族との関係まで変わるなんてまったく想像していなかった。
こらえ性のない叔父さんでごめんよ。
追記
元増田自身の対応も「相手の事を考えない自己完結した独善性」というリアクションをいくつかいただいたので、自分では書いてたつもりなんですがそれでも独善的な対応をしていた事を本文中で明示できなかったことをお詫びします。
まあ独善的な家庭で育った独善的な人間である自分には「家族と疎遠になる」とか「子供も家族もつくらない」という選択肢があるのですが、まだ子供の姪にはそういう選択肢すらないんですよ・・・
▼やる気
やる気がないと、どんな作業をしても効果はあがらない。
ちょっとしたイベントでもへこむと、すぐに最悪のやる気の状態になってしまう。
まずはやる気を最大の状態に持っていく事が大事。パワプロでいうピンクの超笑顔のやつ。
▼体力
1日に、1週間に、出来る事は限られている。
どんな行動をしても体力は減っていくので貴重な体力を何に当てるかは考えるべし。
▼走り込み
体力の最大ゲージがあがっていくイメージ。
ジョギングなどの運動していくことで、体力があがり、1日で行動できる事も増えていく。
▼各能力値
オールAを目指したくなるけど、オールB、オールCくらいだと何の役にも立たない。
全体的に高めつつ、何かしたらでAを作らなければ。
(コミュ力、企画力、英語力、プログラミングスキル、簿記、、、)
▼初期能力値
持って生まれた能力値ってあるよなあ。
いくら高い初期値から始まっても、失敗してしまう人生もあるけども。
「チャンス○」「お祭り男○」など特殊イベント発生時に身につけていきたいね。
第三者視点で、今何をすべきか、どの能力をあげるべきかが見えてくるかも。
自分の人生をパワプロ風に管理するアプリとかあったら面白そうだけどな。
能力値を他人と比較する難しいとは思うけども、客観的な指標をつくって?
イケメンがいたとして、そいつがイケメンゆえに何らかの利益を得ているとする。
高学歴が金持の子弟で、どー考えても頭悪いだろってやつだったとして。
人格批判をしたくなる。
「ブサメンだから子供に整形させよう」っていう親がいたら異常に感じるだろうけど。
「頭悪いから塾に行かせよう」ってのはセーフなんだろうか。
女からしたらたぶん叩きたくなるし、汚いとか人格批判だってするんだろうなと感じる。
男のイケメンがいて、そいつが『清潔感』とかの名のもとにオシャレやユニクロを着なかったりといったことで差別化した場合、
男からすると嫌な気分になるし、非モテからすれば人格批判もしたくなるだろう。
特に、キョロ充や、雰囲気イケメンみたいなのは、あおりたいってなるだろう。
馬鹿にしたいって思うだろう。
高学歴で一番ムカつくっつーか、鼻もちならないのは、「私常識人ですから」ってやつ。
いかにも意識高そうだったり、仕事できないやつを人格批判するんだけど、「常識的」とか「社会性がない」とか「社会人としてありえない」とかいうやつな。
こういうやつらって、おしゃれして『俺モテっからさー』みたいなのをキョロ充なり雰囲気イケメンがやってるようなウザさを感じる。
嘘つけよと。
「モテのためだったんだけどーおしゃれ好きになってー、やっぱ生活感とか身だしなみとか当たり前だしー」
みたいなのはくっそムカつく。本人は自分の利益になるから信奉してるだけで別になんも理屈なんてないだろうし。
だけど、それで損している人がいるの薄々わかっているけど、やるわけだ。
ホントクソだな。
謎の経営者目線なり、社畜アピール(社会常識どうこうみたいなw)
これホント、アホみたいな雰囲気イケメンの髪型アピールと同じくらいばかばかしいくらい本質無い。
本質が無いものを信仰して酔っているっていう、その低能さが奇妙。
奇妙というか、「少し考えれば何もないものを自分の利益というなんの根拠にもならないもので非論理的に信仰できる」という気持ち悪さがヤバイ。
中世なら、「神を信仰するのが当然だろ」と、常識の名のもとに脅せたかもしれないが、今無理やり目の前でやられたら迷惑だろ。
それと同じく、「雰囲気イケメン万世しなさい」「意識高い系を認めなさい」的な?そりゃ社会背景が拝金やイケメン重視やから強制力あるかもしれないけどさ、信じてない人から見ればひたすら迷惑なんだわ。本当に信じているのなら、自己完結して見せてくれ、本当にだれもいないところでもそういうことを言えるか考えてみてくれ。できないだろ。
なんというか、今なんとか機密法にネット上で口角泡飛ばしてる連中って、正直放射脳だの日本ユニセフ叩きしてる奴らだの所謂ネトウヨ・ネトサヨだのと似てる気がする。
彼らの中ではとにかく危険が危なくてこのままだと全てが破壊されて台無しになる危機的状況だと認識している。
それが悪いとは言わないけど、それを理性的に伝えることを放棄しているようにしか見えない。
とにかく危険が危ないのだ、なんでお前らそんな悠長なんですか、なんで賛成/反対なんてできるんですか、ははあ工作員ですね、と自己完結してしまっている。
どういうわけか、そこに「人によって考え方が違うのだ」という当たり前の意識が存在しない。
まして日和見している奴らから自分らがどう見られているかなんて考えてもいない。
彼らはよく出来レースだという意味でプロレスだと揶揄するけど、プロレスは相手を叩き伏せてフォールすれば終わりじゃない。
レスラー達は観客からどう見られるかまで計算した上で技選択してるんですよ。格好良く、勢い良く、より破壊的に、パワフルに見えるように。観客の闘争本能を刺激して場が盛り上がるように。
15歳で私立の女子校に入学して、18歳で上京して大学に入学、22歳で都内の企業に就職した。
環境が変わるのとほぼ同じ頻度で彼氏が変わって、社会人になってからは3人と付き合った。
今の旦那は6人目の彼氏だけど、その6人を時系列に並べると、ステータスも外見も人間性も確実にステップアップしていて、自分でも感心する。
華やかに見られがちな今の職場は、スキルのある女性が活躍できる環境。美人で社交的な同僚が多い。
1年付き合った彼氏と26歳で結婚したときは、独身の先輩女性から「早いね」と驚かれた。
その度に、結婚願望はなかったふりをして「私も早まったと思います」と笑いながら、「結婚しなければならない状況に至った」経緯と結婚生活の不満を適当に言うことにしている。
結婚なんて本望じゃなかった、今の生活には不満ばかりと知って相手は我が意を得たりと納得する。
なのに、酔うと「彼氏に結婚する気がない」とか「いい人がいない」とか、同じような話ばっかりする。
30代で未婚の同僚女性は、仕事に夢中でキャリアを積んでいるうちに、または「私にはもっといい人がいる」と余裕こいているうちに婚期を逃した人ばかり。
私はそんな独身女性たちに比べて、仕事のスキルも容姿も正直劣っていると思う。
その分自分を過信せずに、冷静に状況と時期を判断して、今の結婚生活を手に入れた。
女性としてのステータスになる肩書きのせいで少しはちやほやされたけど、それに惑わされて結婚を先延ばしにしなくてよかった。
30代で結婚できていない先輩たちを見ていてそう思う。
女性が輝きながら働けて仕事で自己実現できるって恵まれてるように見えるけど、
スキルもあって美人で、かつ女性として普通に結婚・出産したいという願望もある人には逆に不幸な環境なのかもね。
キャリアを追求するならすればいいし、結婚したくないならそれで自己完結してればいい。
自分と違う道を手に入れた私を失敗例にすることでしか、自分の選んだ道が正しいことを確認できないのはなんかみっともない。
「結婚なんてするもんじゃないよね」という話を聞きたい人向けの苦労話のストックはたくさんある。
このエントリについて。
彼の頭が良すぎて萎えて別れた
わかるような、わからないような。読んですっきりしない部分があったので少し考えてみた。
このエントリの続編で触れられているように、この話の出発点には「高学歴と低学歴の世界の溝」の問題がある。
そもそもの問題として、「低学歴」対「高学歴」の世界の話というのはなぜ「低学歴」ポジションからの発言が多いのだろうか。それも「高学歴の世界」をポジティブなものとみなして、自分の所属する「低学歴の世界」をネガティブなものとして演出するという態度で書かれてるものが多い。
こういうタイプの文章がはてブを集めて多く読まれているのは、それを読むと読んだ人が心地良く感じるからではないかと思う。「高学歴の世界」の人はこういうのを読んで単純に優越感を感じる。一方こういう文章を読む「低学歴の世界」の人は、「低学歴の世界」にいながらにして自分は「低学歴の連中とは違うんだ」という意識を持っているような人なのではないだろうか。だから「低学歴の世界」が「高学歴の世界」に対して否定的に書かれていることに溜飲を下げる。「低学歴の世界」を批判することで、自分がそこから離れて「高学歴の世界」に近づけるような気がするんじゃないか。「低学歴の世界」に満足している人は、おそらくこの手の文章を読んでもピンとこないだろう。
では、自分自身は、こういう文章と向き合う時なにを感じているのだろう、と思った。こういう文章を読んだ時、私の胸には優越感などの心地よく単純な感情ではなく、言うも言われぬ複雑な感情がこみ上げてくる。
私自身はおそらく「高学歴の世界」に属する人間だろうと思う。曽祖父の代から大学教授の家系で、女性も祖母の代から高等教育を受けている。私は大学付属の小中高に通ったが、クラスメートの父親はおおむね医者か弁護士、研究者、大企業勤務のどれかだった。大学に入るときは、東大、京大、早慶上智、国立医学部までしか選択肢になかった。実際にクラスメートの大部分はこれらの大学に進学した。残りのMARCHレベルに進学した人たちが、私にとってとんでもなく「低学歴」の人たちだった。親類のなかでは東大京大以外は大学ではない、というくらいの認識であったし、私自身、ちょっと勉強すればだれでもMARCHくらい入れるものだと思っていた。この認識が変わったのは、大学に入って予備校でバイトを始めた時だった。どんなに必死で努力してもMARCHはまだ夢の夢という生徒が大勢いるのに衝撃をうけた。
こうして書くと自分は嫌な人間だなと思う。けれどこういった「高学歴の世界」が居心地のいいものだったかというと、そんなことはない。「高学歴の世界」は息苦しいものだ。「高学歴の世界」を定義づけるのは「今日よりも明日」だ。今日よりも明日、より良くなっていなければならない。より良く、より賢く、より豊かになっていること、それが「高学歴の世界」が求めるものである。失敗は許されない。一度失敗したものは、この日々の前進のルートから脱落し、また追いつくためには絶望的な努力を強いられる。「高学歴の世界」は失敗に敏感だ。私の両親はよく「一事が万事」と言っていた。たった一度失敗すれば、それは全て失敗したのと同じ。このスローガンに、子供の私は恐怖しか覚えなかった。遊びも教育の一環だった。教育的でない遊びは排除された。常に成長することが求められた。それは大人になっても続く。昨日よりも今日、今日よりも明日、より成長して改善していること。「高学歴の世界」を統治するのはこの原理である。
このような世界が自分にとって当たり前だったのだが、それはまたひどく息苦しくもあった。そこには「明日」と「未来」はあっても、「今日」と「いま」はない。なにもかもが「明日のため」であるとき、いまここに生きているという感覚はどんどん摩耗していく。今、この瞬間どんなに成功していても、それを100%として認めてもらえることはない。明日さらに良くなること、明日さらに成功することが求められる。それは絶え間ない自己否定でもある。この自己否定がなければ、改善も成長も望めないから。
やがて神経衰弱のような状態になって、ふとある趣味をはじめた。そこには私と同じような育ち方をした人もいれば、そうではない人たちもいた。このとき私ははじめて「低学歴の世界」に触れたのだと思う。その「低学歴の世界」のひとたちは、多くが高卒で、男も髪を染め、女性はミニスカートや露出の多い格好をしていた。タトゥーを入れている人もいれば、道端でケンカをする人もいた。この仲間のなかに入って、私ははじめて「今を楽しむ」ということを知った。お酒を浴びるように飲んで、馬鹿な話をして、大笑いして、そういうことをしても、明日のためにはならない。明日に残るのは、二日酔いだけだ。けれどその瞬間は、ものすごく楽しい。彼らは遊ぶことがものすごく上手だった。季節ごとにいつも楽しい遊びを考えていた。バーベキュー、花見、キャンプ、スノーボード。「今、この瞬間を楽しんで生きてもいい」ということを知ったのは、自分の人生が大きく変わるほどの体験だった。
こういう経験を通して考えてみれば、「うちらの世界」の価値観も理解できる。「高学歴の世界」は未来の為にという価値観がとても強い上に、一度失敗するとその損失を取り戻すのが非常に困難であるという認識を共有している。彼らにとって「バイト先での醜態を公衆に晒すこと」は大変な過ちでありなんとしても回避されるべきものである。一方「低学歴の世界」にとって大事なのは今この瞬間である。今この瞬間を楽しむことが何より大切でなので、その行為が未来にもたらす影響は考慮しない。今、バイト先の飲食店で食材をおもちゃにすることが楽しくて、目の前にいる友人を楽しませることができるのであれば、そのことがなにより重要なのだ。
「明日のために生きること」と「今を思う存分生きること」は、本来両立しうるものであるけれど、どちらかにかたよるとそれぞれ問題をひきおこすのだなと思う。自分の生きてきた世界のことは、みなよく知っている。だからこそあらも見えるし、別の世界に憧れもする。それはもちろん幻想なのだ。どの世界にも光と影がある。ユートピアはいつだって「どこにもない場所」なのだ。
さて冒頭の「彼の頭が良すぎて萎えて別れた」というエントリーであるが、これを読んで再びなんとも言えない気持ちになった。この人はなぜこんなに彼との間に線を引きたがるのか、そこに溝を認めたがるのか。なぜそこに溝を認めた上でそれでも相手を受け入れることができないのか。この場合、二人の間にあるのは「学歴の溝」ではなくて彼女の方のコンプレックスなのだと思う。自分が手に入れたくて仕方がないものを、もう自然にもっているように見える相手への嫉妬なのだろう。けれどそれは「毎日より良く」という価値観のなかで研鑽されてきた結果なのであって、同時にそのなかで切り捨てられてきたものも存在するのだと思う。そういう自分が切り捨ててきたものを恋人に求める気持ちが、私にはよく分かる。私が強く惹かれるのは同じ世界の人ではなくて、別の世界の、ある種の「生きる智恵」を持っている人だ。多く笑い、気楽で、今を楽しむ人だ。この話で、彼は彼女にたとえばそういう魅力を求めていたのかもしれないのに、紋切り型の階級差を持ちだして自己完結する姿になにか割り切れないものを感じる。
一方で、このエントリーで語られている話自体がすでに紋切り型のものであるとも言える。語り口が現代風であるというだけで、話の中身は明治時代からでもありそうな話だ。とりわけ語り手を男にしてみると、既視感が強くなる。身分差のある恋をした男が、バックグラウンドの違いを感じて、女を捨てる。「彼女の頭が悪すぎて萎えて別れた」と男が語る。あるいは女が男を思って身を引く。でも私達が生きているのは現代日本だ。好きなように生きればいい。相性が悪ければ別れればいいし、よければ付き合えばいい。けれど「高学歴」「低学歴」という単純な構図に当てはめて自分の生き方を縛るのは、愚かなことだと思う。自戒を込めて。