はてなキーワード: 自己完結とは
なんだかんだでコネで就職して、ネットで知り合った男と付き合って2年続いている。
最近になってなんだか付き合いがだるくなってきた。
突然のくだらん電話や特に用事のない訪問で自分の時間(アニメやゲームなど)を邪魔されるのが鬱陶しくてならない。
まあ彼氏のことは好きは好きなんだけどなんか最近気持ち悪いと感じることが増えてきたなーと気づいた。
二人っきりのときの猫なで声とか、変な言い回しの下ネタとか。前は大好きだったんだけど。
気持ち悪さMAXになったらどうしよう?って考えたけどおそらく別れないと思うんだよな。
だって別れたら家族以外の人間関係ゼロだもん。代わりがいるとかなら別だけどそんなことはまずないでしょうし。
恋人はいるが友達ゼロ(=かれぼ、かのぼ)の人たちはこういうふうに惰性でつきあっているのでしょうか。
それとも人間関係の狭さゆえに盲目的に相手にはまっているんでしょうか。
形容と結果に持論が挟まっているもしくは形容から連続して持論しかない文体に、一体なにの本を読み重ねたら至るのでしょうか。
本を読んだら他人の語彙が増えて自分の口から出せるタイミングが増えるということになにか意味があるのでしょうか。
本を読まない人
持論
ツマラナイ
判断
多いです
形容 持論 判断 持論
本を読まない人って、ツマラナイ人間が多いです。正直見下しています。
持論を展開するために情報を収集するのに本に限定する意味がわかりません。ニュース記事だけヘッドラインだけみても「有名ブロガーに意見する人はおおいけど」という概算的な形容はできると思います。
本を読んでいるといいたげに表現するのであれば、形容に例から結果をつなぎ結果から別の結果への接続を持論として文章にするほうが「読んでいない」との表現と差別化が図れるのではないでしょうか。
例
イケダハヤト氏の記事「○○の××における△△」の一節にある
ちきりん氏の著書「●は◇」に見る
形容(他者視点)
「□は▽」という見解
という表現
まさに
この場面が一致するのではないだろうか
形容 例 形容 形容 持論
イケダハヤト氏の記事「○○の××における△△」の一節にある「□は▽」という見解についてちきりん氏の著書「●は◇」に見る「▼からみた■」という表現に、まさにこの場面が一致するのではないだろうか。
だれでも知ってるフレーズをマネするだけが本を読んで記憶するメリットであるまたは、自己視点を持論で判断した結果を伝播することを主眼とするならば的を得た文章かもしれないと、増田さんの主張について思います。
私の個人的な感想ですが、本を読めといわれる人の表現したい必要性という欲求の具体的な形としては「どうしたらそんな発想、表現、思考ができるの?」と興味をもたれる頭脳の構造になるには本を読むことが有効といった内容かと想像していますので、読者という視点で複数の筆者の断片的な要素を複合的に当てはめ、判断について持論を展開する折に「以前に使用された観点」を踏襲して理解を連想から興し理解に関して情報伝達のほか感情移入を誘発できる可能性から理解から行動するという結果にまで誘導する効率を高めるというのが、読書した人間の「本を読んだメリット」になるのではと考えます。
簡単に喩えると、
おまえにだって子供のときから教わってきた常識があるだろそれしていいことかわかってんの?
と
他者視点形容 例 持論
初めて幼稚園で泣かされたときのこと覚えてる?小学校のときプール嫌いだったよね、今、その気持ちをお友達に味合わせていいのかな?
では発言者の希望する結果は同じかもしれないけれど伝達される側には行動喚起に関して感情の有無から判断方向がかわる、それをコントロールできるのが本読みではないかというのは、あるとおもいます。
で、本を読めと。何の本を読んだら自己完結で読本の大切さを伝えようって行動喚起に至ったんですか。
私おもうんですけど、さよなら絶望先生とか涼宮ハルヒとかみたいな、自己視点の紹介と自己感想を常に独り言している系の作品とか、お好きでないですか?
本を読まないよりは読んだ方がいいけど。
本をどれだけ読んだかどうかが問題じゃない気がする。
人と会って話をし、自分の意見を言い、相手の意見も受け止める。
対話するように本を読めってやつかもしれないけど、
リアルな人との対話がなければ、自己完結だけじゃ結局多様なモノの考え方は出来なくなるんじゃなかろうか。
まあ総論賛成なんですが。
人と話していて、どうしてもテンポが合わない時がある。
大抵、自己完結してこちらの話を聞いてくれない人。
内省するのはいいけど、もう少しこっちの意思をリサーチしてよね、って思う。
きっかけは些細なことで、最初は不満を飲み込もうとしたけど、やっぱり無理!ってことで。
「あなたの言葉に傷ついた」って本音に、「今いろいろ忙しくてしんどい」という気遣いの嘘を混ぜて伝えた。
返ってきた言葉は、こちらが思ってもいない方向の反省と、仕事に対する理解の言葉だった。
確かに、「他のこともしんどい」という嘘を交えて、言葉が強く伝わりすぎないようにしたのはこっちなんだけど
こちらが本当に何をつらいと思っているのかを、あらぬ方向で勝手に理解したように振舞われると、あからさまに拒絶されるよりも辛い。
「あなたの言いたいことはわかってるよ」って顔されながら勝手に話を収束されるのは、途方もなく突き放されて掴むものすらなくて
ゆっくりと殺されてく感じがするんだよ。
傍から見る人には飽く迄、
マズローが言う。
人が求める欲求には5つの段階がある。
安全の欲求とはそれを安定させたいという欲求を言う。
その上位にある親和の欲求は集団的帰属を表し、
自己実現の欲求とはすなわち、
創造的活動にある自らの追求にあるという事だと思う。
もっとも顕著なのは、その対象がクライアントであるか自分であるかという所。
デザインには対象が求める位置・目的・成果を満たすという前提を達成する為に作り上げるというある種の制約がある。
本来の芸術にはそれがない。
満たすべきは自らの満足であり、創造の追求、引いては、自らの追求心である。
対象のある欲求・満たすために他人を介する必要がある欲求。
これを満たした時に手にする事が出来る快楽を【相対的快楽】と称し、
自らで完結可能な欲求を満たした時に手にする事が出来る快楽を【絶対的快楽】と、
僕は、そうして位置付けている。
相対的快楽は認知にしろ非認知にしろ、出発点に必ず対象がある。
異なるプロセスを踏み、全く異なる着地点を導くが、
それは限りなく絶対的快楽へと近づき、自己完結(セルフフィニッシュ)への道へとなる。
悲しいかな、他人の認知がなければ芸術家は芸術家と呼ばれない。
本来あるべき創造主は自己完結により快楽を覚え、他人との比較を必要としない。
http://anond.hatelabo.jp/20130419005617
一生懸命調査して、「これはきっと誰かの役に立つ」と思って1時間以上かけて書いたブログ記事が、ほとんど内容が無い釣り記事より全然アクセスが少ない(はてブとか、どうすれば増えるのかよくわからない。ちなみに、Web版のWordpressなのではてブボタンはおけない)と、お金のためにやってるわけではないとはいえ、ちょっと虚しくなるな…。
この「つぶやき」、書いて放置していたら、いつの間にか、59もはてブがついていました。本当に、なんでこれが…?謎は深まるばかりです。
みんな、気になってるんですよ!
自分はブログを持っていないので寄稿していますが、炎上は怖いけど、やっぱり炎上の力はすごいです。
で、いろいろやってみて伝播性が高かった方法を書くね。
…などなど
男女や日本人など、誰にでも当てはまるタイトルはとりあえずクリックされる。タイトルが断定的で偏っているので「なんだと?」と煽られた人がクリックしやすいです。
そしてさらに内容が偏っていれば、一言物申してくれます。(イケダハヤトさんが特徴的ですね)
「●●ができる人の10のポイント」等のライフハック系のタイトルの付け方はご存知だと思いますので、タイトルはこのくらいで。
ノマドと社畜のように、片方を陥れるやり方は読者を不快にさせ反発を招きます。書き手が無意識or意識的、どちらにしても読者は反応します。このやり方は敵も作ります。
ですが「ノマドと社畜についての僕の考察」だったらOKです。どちらのメリットもデメリットもきちんとフォローを入れて偏りなく。
ただし、正論で自己完結すると伝搬はしないので、あえて「で、何?」と一言物申したくなる程度に宙ぶらりんに書く。
するとコメントがつき始めます。「結局は◯◯ってことじゃね?」など。
もっと内容が偏っていれば「いやいや違うだろ」や「こういうのもアリかもしれんな」などのつぶやきと共に広がっていきます。
なかには「もっと調べてから書けボケ」と書く人もいますが、閲覧の可能性が高い層(潜在読者層)を貶めたり悪態をついていなければ攻撃的なコメントはそれほどつかないです。
タイトルで伝えた内容と被りますが、多くの人に読まれるには、読者対象の広いテーマを選ぶのも大事だな…と。
今日は「ヤバい求人の見分け方」で、はてブTOPに載りましたが、WORK系は国民の三大義務「教育、勤労、納税」のひとつだし、誰もが読者対象になる。
改めてニーズの高さを感じました。また、この手のネタは特定の個人や特定の企業名を出していないので傷つく人がいないのでコメントしやすい。
ブログのテーマや方向性によっては役立たない駄文ですが、ソーシャルについては他の方が書かれているので、コンテンツで工夫できそうな点を書きました。
すでに施策済みだったら、エラソーにすまぬ。
http://anond.hatelabo.jp/20130417192857
完全に負け惜しみw
>「女としても人間としても尊重してくれる」人は、「女としての価値」がなくなっても大事にしてくれるし。
上の誰も「女を若さだけ」で判断してないでしょ
「若さも重要なファクターだ」という当たり前すぎることを言ってるだけなのに
どれだけ発狂してるんだか
って感じの意味不明な文章書いて自己完結するのが好きなんだろ。
脳に生まれつきの欠陥があるのかな
こういう女が多すぎて、それが女の価値をさらに下げてるんだよね
元増田?が書いてる
>そんなに触れちゃいけないタブーだったのか。
これだねw
マスゴミが長い間 金儲けのためにオバサンをヨイショしすぎて
「あなたの周りの紳士な男たち」も、「同じことを思っていて」も
「口には出せないだけ」ですよw
そんなことしたら根回しされて社会的に抹殺されてしまうからねw
ここに書き込んでる男たちも
「現実ではこんなことは言わない」
ってわからないのがすごいw
愛し愛された経験があれば
こんなおかしなことは書かないでしょ
ほとんどの自分語りは自己承認を求めていたり武勇伝を語りたいだけで、それらが透けて見えとても気持ち悪く感じる。おおっぴらにしているのにも関わらず自分しか見ていないのだ、ネットによる他者の疎外といえるのではないか。
例外は面白い場合だけで、それは少しくらいは読む側のことを考えていたり、自己完結することなく普遍性なり一般性を持っているためだろう。面白いという言葉でごまかしているのだが自分の語彙には他に適する言葉は無い為しょうがない。面白いものが面白い理由はもっと色々あるのだろうが。
パソコンやスマホの前では誰もが最も主観的となり、読む者がいてこそのブログ、ツイッターであるのに読者を無視する。
あと2ちゃんでは2009、10を区切りにして、それまでは「お前ら」と言っていたのを「俺ら」と言うようになってると思う。すごい大まかであるが時期はともかく、主語を使わずに話せる日本語において主語が変化するという事は結構大きいのてはないだろうか。自分はこの事を言っている人を見たことがないけど、もっと指摘されていいんじゃないだろうか。
追記
間違って解釈されているところがあるので訂正とその反応を受けて書いてく
1 まず自分が気持ち悪いとか不快に感じるのは全ての自分語りではなくてつまらない自分語りだという事、タイトルの先頭に「面白くない」をにつけたら分かりやすかったか。広い意味での面白味が全く無くて自己承認だけしか求めていないものがよくわからない、本当に理解できずに化け物と遭遇したような気持ちになる。
2 1に続いて、だからこそ読者に何の面白味を与えるつもりもないのにネットに現すことが出来るのはとても疑問だ。タイトルの「よくわからない」もそういう意味。何故そういう事が出来るのか、恥ずかしくないのか、他者が見えていないのか、無視しているか、そもそもいないのか、自分に酔っているのか、とにかく教えて欲しい。何故自分の日記に止めて置かないのかその理由を教えて欲しい。
3 これを書いている事自体が自分語りだという批判について。まずこれを書いてネットに上げるだけでは自分語りだろう。しかしそれに対して反応があった。これは読者が良いか悪いかは問わず何かしらの面白味を感じたという事だ。そうすると自分がここで言っている、つまらない自分語りの定義からは外れるだろう。
4 不快なものは見なければいいと言う批判について。確かに見なければいいというのは正論ではある。しかしそれが不快だという事を示して、何故そう言う事をするのか尋ねたい。嫌なら見るな、はそもそも面白味がない。疑問が生まれていてそれに対する反応が欲しいのに、思考停止しろと強制されても何の発展性もない。
5 4に続いて、自分がこれを書いていた時自分語りをされる立場で不快感を感じつつ、自分語りをする立場に立とうとしても不可能だった。これは1や2で述べたことだ。つまり自分語りをする側が何故それをするのかが知りたく、自分語り側の立場に立とうとしているのだ。その為に、嫌なら見るなという言葉には面白みがない。
最後に
自分で書いていて何だがここまで述べたことが幼稚だという事は分かっている。だからこそさっさと完全に論破されたい。少なくともここまでの反応の中にはそういうものはなかった。
恐らく自己承認では不快で、相互承認ならいいんだろうと、自分では思っている。自己承認は相互承認よりも劣っている、何故なら相互承認はその内に自己承認を含んで成り立っているから。つまらない自分語りをする人は自己承認の立場で未熟なのだろう、というのがとりあえずの結論。
未熟な人がこうも多いとは思わせない為にも、ここまで書いた疑問に答えて欲しい。
増田には2人好きな歌手が居て、二人のジャンルが似ていることもあって増田以外にもその2人の歌手が両方好きという人たちは結構いるんだが
片方の歌手のスレッドには、他のファン叩きや歌手けなしが常駐していた
増田は偶然その荒らしさんが誰なのか、二人の歌手の名前でリアルタイム検索したら分かっちゃった スレッドへの書き込みとつぶやきの文体と内容一致しすぎ
一時間に一回以上のペースで寝ている時間帯以外は誰かかれもを(好きな歌手でさえも)お構い無しにずっとdisっていた
スレッドで両方の歌手が好きなことが気に入らない派の声が大きくみえるのでちょっと気にしてたんだけど、スレッドにはこの人が頻繁に書き込みしていたのか
つぶやき見てしまってSAN値が少々減ったものの、「元々そんな人」なら別に気にかけて「両方の歌手が好き」とつぶやくの遠慮する必要無いな 良し問題解決っと。
追記:音楽ファンに限らずたまにいるよね頻繁につぶやくから声が大きく見えてそんな人チラチラっと見かけるけど、一時間に一回以上もそんなことしてると
「暇そうな人デスネー」と思って何言っていようが取り合いたくなくなる 絡み出したら相手に構われなくなるまで延々とdisりつづけ、構ってくれる相手がいなくなると
勝利宣言して自己完結するようなタイプが。disを「議論」「批評」と勘違いしている人々にねちねち絡まれると手に負えないので事前に避けてる
なんか毎日楽しくねーなー面白いことねーかなーとか思ってたんだけども、
ある店長のブログを見ててその理由に気が付いた。
人とのコミュニケーションをほとんど放棄しているからなんだ、と。
いやあの修羅場真っ只中の状況を見て面白そうとか楽しそうとか思っちゃうあたり
どこの自宅警備員か事務系公務員か(事務系とジム系って似てるよね量産汎用機的な意味合いで
ってなもんだけど、そして本当にあのブログ通りの会話がなされたのかはともかくとして、
だからみんなキャッチボールを続けるためにテレビ見たり流行に乗ったりするのか。
最低でも試合に備えてバッティングセンターに通うのはありでも、
試合どころか野球する気もないのにバット振っててもそりゃ面白くないし飽きるわなー。
といって話したい内容も主張したい思想もないけど、
そこで自己完結せずにもう少し誰かに届くように外向きの思考してみようと思いました、まる。
それは100%ないです。私は性犯罪の被害者ですし、既婚者に口説かれてもおかしくって内心鼻で笑ってたので。
ただ、意に反して被害者となった私が「もうこんなに汚れては死ぬしか無い」みたいに自分を追いつめて苦しんでいたのに、
自分の意志でやりたい放題やっているくせに何にも「申し訳なさ」みたいなものを感じていないように見える彼女たちが羨ましいっていうのは正直ある気がしました。
その「申し訳なさ」にしたって「何/誰に対して感じるべきものなの?」と言われたら私もよく分からなくて結局、言いがかりみたいなものなんですけど。
過去について過失以外の部分はもういい加減開き直ってしまいたいが、開き直ったら彼女たちのように「顔の見えない誰かに見下されている存在」になりそうで怖いのかもしれないなって気付きました。
答えはこのあたりにもありそうです。どんどん自己完結していってますが、ありがとうございます。
何がしたいんだろう?
何か満足するんだろうか。
ただふと思ったことを書いただけ。
自己完結してるじゃん。
説得できるか否かは関係ない。
ただふと思ったことを書いて満足。それが増田。
人の話は聞かない。というか、聞けない。
確かに1人でいるほうが、楽だ。
ただやっぱり、人は孤独では生きていけない。
だから、文章を書いたり、ネットをしたり、繋がりを求めようとする。
それは自閉症の人でも一緒。
そして、自閉症の人はそれを自己完結、自分の世界で答えを導きださざる負えない。
まあだからといって、不幸かというとそうではないが。
やはり人付き合いは出来るだけ、避けるべし。
それが、アスペルガー症候群に対する最善の策だと思う。
人とほとんど関わらなくても生きていけるような、職業につかねばならない。
ていうか、さっきの日記には友達を求めてる的なこと書いたけど、
やっぱり今いる友人関係がずっと続けば言いわけで、
3人ぐらいいれば、いいやって思う。
というか、もう新しく誰とも会いたくないのが、正直なところ。
いちいちアスペルガーって説明するのはやだし。
障害者って見られたくないし。
合わない人と、一緒にいるのは苦痛だし。
そうやってどんどん人を切り離していって最後は孤独ってなるんだけど。
アスペルガー症候群、高機能自閉症に生まれた宿命だから、仕方ないね。
できればこのまま引きこもって、いたい。
ただ腰が痛くなるんで、ときどきふらっと旅をしたい。
そういう生活をしたい。
だってひとに会ったら、ねえ。
言わないけどさ。
何が適切な表現か、判断つかないのだよ。
もうね、こうなると人と関わるのなんて怖すぎるから。
あれって、自閉症の子どもがそうやって、親に殺されるようにしむけてる気がする。
もう、親でさえそうなんだからね。
そういう人が社会にいては、周りの人のためにならないだろ?
どこにいってもだめな奴は、どこにいってもだめなんだよ。
でも、どこかに自分にあう安住の地があるかもしれない。
それが見つけられない人の方が、圧倒的に多い。
だからアスペルガー症候群のレッテルを貼られ、引きこもりニートになっちゃう。
僕はまだ一応大学生だし、20歳なんでなんやかんやするしかない。
それで見つけられなきゃ、もうどうしようもないから。
積極的に諦めて、見つけた解決策が、アスペルガーを個性だと思う、ということ。
まあ、ほんと人が嫌いなわけじゃないんだけど。
いや、むしろ俺は人が好きなんだけど。
それでも、だからこそ、俺は人と関わるべきではないのだ。
なぜなら、人の心が全く理解できないから。
そして、自閉症の人の心も誰も理解できない。
それがうまくできないのが自閉症であり、アスペルガー症候群であるのだから、
もう解決策なんてない。
こうやって、自分の世界で、勝手に自分のことばかりしゃべり、自己中でわがままな言動をし、
思いやりのこころなんてありゃしない。
まさにこのように、自己完結しているこの文章を書いている。