はてなキーワード: アメリカンスクールとは
海外のオンライン大学、とてもいいと思う。そこの卒業を取れたら-30点が消える。
相手が、ネット上だけで友達関係を維持できる(リアル顔合わせが必要ない)人じゃないと厳しいし、子育て環境も安定しないじゃん。
アメリカンスクールが行った先には確実にあるなら、英語で子育て・英語圏で育っていく前提でなんとかなるかもしれないけど。
もしくは、もう完全に増田と一緒に海外エンジョイできる人を引き当てるか。これは結構レアだよなあ。
高めの年収も、その海外勤務形態なら納得だわ。ノンキャリアの外務省職員か何かかな。
頑張ってくれ。
・男の年収⇔女の年齢
このあたりの価値はなんだかんだ釣り合っていく要素なんで、若い娘を求めるなら年収が、美人を求めるなら学歴が求められるのはやむなし。
今はアメリカンスクール行くのが主流じゃないの
昨日か一昨日のニュースで「池袋が人気の街に急上昇」というニュースがあったが、
案の定それに対して「池袋は中国人ガー」なコメントが多数だった。
ましてや「あんな町で子育ては不能」とまで書かれている。
縁あって池袋にファミリーで住んでるが、世間が池袋に過度に「誤解」している気がする。
確かに中国人が多いのは事実(特に池袋北口)だが、そんなに治安上のトラブルが多発している感じもしない。
「池袋=治安が悪い」というのは、マスコミが過度にステレオタイプに描いた結果であり、
それ以上に目立つのは「アジア系エリートの子弟が、池袋に居住して、池袋エリアの公立小学校に子供を通わせている」点。
多分欧米系の子供は、港区や渋谷区の小学校に通う、いやアメリカンスクールに通うのだろうが、
中国、台湾、東南アジアのエリート層(金融系エリートというより、大学教授系エリート)は、同胞が多いこのエリアに居住している。
(アメリカンスクールのような母国語学校が都内にない、という事情もある)
元々が大学教授の父母だったりするので、その子供は頭がムチャいい。
実際、台湾系の東大教授の子供なんか、幼稚園で割り算をマスターしたりして、「自分の子はとても追いつけない」と感じる。
要は、アジア系教授系エリートの子弟が公立小学校に通っている、それが池袋エリアの小学校の実態で、
クラスに「日本人30人、アジア系エリートの子供5人」的なクラス構成になっている。
なので、国際感覚が無意識のうちにマスターできるし、刺激になる。
下手に港区・渋谷区・世田谷区の「中学受験エリア」の小学校に通わせるより、有益かもしれない。
港区渋谷区世田谷区の小学校には、「日本人の、そこそこ出来る子」はいても、「アジアのとんでもない天才の子」は同級生に少ないからだ。
のが約三年前。
年末年始および家族親族が集まるような場所に僕が一切出席しなくなった為。
理由は姪の名前を呼びたくないし、呼ばれているのも聞きたくないし、どちらをするにしても非常にいたたまれない気持ちになるから。
子供の責任じゃないという意見はまったくもって正しいのだが、正直名前を聞くたびに我が家の特徴である相手の事を考えない自己完結した独善性の象徴をみせられるようでとても気が重くなる。
なにより自分の体験から考えても子供というのは大人が自分に対して抱いている感情に非常に敏感なので、「叔父は自分に関してプラスな気持ちを持っていない」などと思われるよりは、「叔父は変わり者なので家族と会うことがない」くらいに思われていた方がよほどいい。
DQNネームというものの害悪の本質は本人や親よりもこの周囲をいたたまれない気持ちにすることにあるんじゃないかと思う。
正直兄がDQNネームをつけるまで、就職の採用なんかでDQNネームを理由にはじかれるというのをくだらない差別のように感じていたし、それは今でも変わらないのだろうけど、もし自分が仕事を一緒にする時には優秀でも一緒にいていたたまれない気持ちになる人間よりは特に優秀じゃなくてもDQNネームじゃない人間をくだらない差別であることを承知で選ぶだろう。
兄夫婦は「これからは海外に日本人がでていかなければならないのだから日本の伝統なんて無意味」との事で悪意はない。
「アメリカンスクールに通わせて国際人にしたい」「子供のころから英語を習わせたり最高の教育を受けさせたい」等とも言っている。
こういう善意に基づく神経症的な完璧主義とコントロールフリークが合体した結果、DQNネームになったのかと思うと姪の今後を考えて暗澹とした気持ちになる。
人間は良くも悪くも自分の所属する共同体から簡単に抜け出すことはできないんだし(特に子供は)その中で周囲にいたたまれなさを積み上げるような名前を与えることは親のエゴであるように感じられるし、周りのいたたまれない気持ちの積み重ねが本人にいい影響を与えるとも思えない。
そしてなによりもいたたまれなさを感じながらその人間と付き合うのは非常に感情的な労力を必要とする。
かの池波正太郎は頼まれて名付け親になることが多かったようだが、「名前は当人が意味を付与していくものだからあまり奇をてらったものは望ましくない」としてほとんどの場合~太郎といった感じのひねりのない名前をつけていたそうだ。
とりあえず僕にできることは姪には一切会わないことと、もし何年か後に姪が改名したくなった時に相談に乗り、可能な限り力になってやることぐらいしか思い浮かばない。
生まれたときは本当にうれしくて「この子をとてもかわいがろう、いい叔父になろう」と思っていたんだけどなあ・・・
名前一つで自分と家族との関係まで変わるなんてまったく想像していなかった。
こらえ性のない叔父さんでごめんよ。
追記
元増田自身の対応も「相手の事を考えない自己完結した独善性」というリアクションをいくつかいただいたので、自分では書いてたつもりなんですがそれでも独善的な対応をしていた事を本文中で明示できなかったことをお詫びします。
まあ独善的な家庭で育った独善的な人間である自分には「家族と疎遠になる」とか「子供も家族もつくらない」という選択肢があるのですが、まだ子供の姪にはそういう選択肢すらないんですよ・・・