はてなキーワード: 日章旗とは
「なーに、円谷にだってできたんだ。俺にできないはずはない」
猪熊がそう言ったのは、自殺する2週間ほど前だ。円谷とは、64年東京オリンピックのマラソン銅メダリストの円谷幸吉のこと。68年1月にカミソリで首の頚動脈を切って自殺していた。
その後の猪熊は、東京・世田谷の自宅に会社の側近を泊まらせ、連夜「自殺合宿」をした。あるときは脇差しの代わりに靴ベラを手に、鏡を前に首を突いて頚動脈を切る練習を繰り返す。顧問弁護士に遺書を書き、宅配便で送る用意をした。
当初は自宅で命を絶つはずだったが、結局は会社の社長室を死に場所として選んだ。それというのも自殺すれば近所迷惑になるし、土地の価格も下落すると考えたからだ。
www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/276222/2
私を見て少し微笑んだように見えた次の瞬間、猪熊は「今ならできる!」という低い叫び声とともに机上の脇差を取り上げ一気に首に突き込んだ。
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1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にて、両刃のカミソリで頚動脈を切って死亡しているところを発見された[94]。死亡推定時間は前日の午後11時だった[94]。27歳没。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89
明治天皇の崩御に伴い、殉死した乃木希典大将の切腹は、相当に凄いものでした。以下、乃木大将の検死記録から推定される切腹の状況です。
「日本軍刀によって、まず十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命」
つまり、介錯人がいないので軍刀を膝に立ててあごの下に切っ先を持ってきて、そのまま首の部分を突き刺した訳です。それも「まず腹を十文字に切ってから」です。へたな江戸時代の武士よりも遥かに壮絶な切腹ですが、腹を十文字に切った時点で「相当な重症状態」ですので、さらにそこから首を刺したというのは、物凄い気力であると言えます。
太平洋戦争で「特攻の父」と言われた大西瀧治郎中将はポツダム宣言受諾のご聖断が下り、8月15日の玉音放送を聞いた翌8月16日に切腹をしました。
大西瀧治郎中将は青年達を特攻攻撃に送り出す際に「最後は必ず、俺も行くからな」と常々言っていたのですが、その最後の機会は訪れることなく終戦となってしまったのです。大西中将の切腹は予想されたことでしたが、その切腹は大変なことになったようです。
まず軍刀で腹を十文字に切り裂き、頸と胸を刺したのですが、まだ死ねず、遂に官舎の使用人に発見され、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫、熱海にいた矢次一夫まで駆けつけてきてしまったのです。
彼は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、さらに児玉誉士夫がいることに気づくと、「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ」と言いました。
児玉が "自分も自決する" と言うと、「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」と言って延命処置を拒み、夕刻になって死亡しました。
sengoku-his.com/1959
腹を十文字に切り裂きましたが、まだ死ねません。次に首筋の頸動脈に短刀をあて、ぐっと切り裂きました。すると、血しぶきが溢れるように出てきて、辺り一帯は血の海になりました。阿南大将の意識はそこで途絶えます。義弟の竹下中佐が顔に耳を近づけると、まだ僅かに息があり、介錯として短刀を反対側の頸部にあて深く刺し、絶命させました。
sengoku-his.com/1959
万場世志冶
割腹の上頚動脈を左右から切り、失血死していたという。学生服姿であった。享年22。
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%A0%B4%E4%B8%96%E5%BF%97%E5%86%B6
2012年2月6日午前1時25分頃、齊藤の妻が「夫が暴れている」と119番通報。齊藤は自宅で暴れるなどしたのちに、カッターナイフを持って自宅東側を流れる栗山川に身投げし、父親からの制止を振り切り、カッターナイフで自らの首を何度も切り付けた。病院に搬送されたが、午前4時5分、死亡が確認された。死因は失血か低体温症と見られる[6][7][8]。
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8A%E8%97%A4%E9%9A%86_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)#cite_note-%E5%8D%83%E8%91%89%E6%97%A5%E5%A0%B1-6
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E7%9F%A5%E8%A1%8C
1975年に武蔵野市の自宅で日本刀により頸動脈を切り自殺を遂げた。
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E4%B8%80%E9%83%8E
学習院を中心とする赤化事件に連座し検挙された公爵・岩倉具榮氏令妹、靖子さん(22)は、その後転向を誓って保釈となり出所。渋谷区鉢山町10の公爵邸にあってひたすら裁きの日を待っていた。ところが、22日の予審終結前日の21日午前6時10分ごろ、突然階下8畳の靖子さんの室から異様なうめき声が漏れるので、次室で食事中の母堂櫻子さんが入ってみると、靖子さんは寝床の中で鋭利な西洋剃刀を左手に持ち、右頸部の動脈を掻き切り、鮮血に染まって苦悶しているので、驚いた母堂は家令を呼ぶとともに直ちに渋谷区猿楽町43、主治医岡田仁吉氏を招き、さらに知己の赤十字病院の吉本清太郎博士に急報。応急手当を施したが、そのかいなく、母堂の手に抱かれながら、間もなく絶命した。
bunshun.jp/articles/-/42366?page=4
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E9%9D%96%E5%AD%90
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%9F%8E%E5%9C%AD%E6%AC%A1
9月30日、岩淵は先祖代々の墓所に逃げ込み、恨みはすべて晴らしたとして、取材に来ていた新聞記者や知人の前で村人の用意した毒入りの最中を食べ、剃刀で喉を切って自殺した[3]。なお、岩淵は死亡の2日前である1926年9月28日の時点ですでに自殺を決意していたらしいが、28日は酒を飲んでいるうちに眠ってしまい、翌29日に首吊りや頚動脈を切るなどしたが、元々体を鍛えていたことから死に切れなかったと言う[4]。
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6#cite_note-4
そして午前9時20分ごろ、自宅の応接間(十二畳の部屋)で所持していた刃渡り八寸(約24cm)の短刀で善次郎を刺殺した。しかし、家政婦が警察に通報している間に朝日はその場で所持していた剃刀で咽喉部を切り自殺を遂げた。享年31。朝日は生涯独身だった。
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%90%BE
。1908年(明治41年)6月15日未明、文学的行きづまりにより剃刀で喉を切って自殺した。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E7%9C%89%E5%B1%B1
1908年(明治41年)7月17日早朝、自宅の寝室で血まみれになって死亡しているのを発見される。検視の結果、短刀で喉を掻き切ったあと、刃に付いた血を指で拭い、鞘に納めてから絶命したと判明した。遺書はなかったが、この年の3月頃から卒中を患っていたため、病気を苦にしての自殺と推定された。享年67。墓所は青山霊園2-イ11-36。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%97%E8%83%BD%E9%96%A2%E5%9B%9B%E9%83%8E
畠山勇子
勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、5月20日の午後7時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を図った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ出血多量で絶命した
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E5%8B%87%E5%AD%90
1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発した[3]。来島はその場で短刀で喉を突き自害した
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E6%81%92%E5%96%9C
蛮社の獄のあと薬品で顔を変え長く追手を逃れていたが捕縛される。その際に応戦、喉を突いて自害したとされるが、踏み込んだ幾人もの役人に殴打されたことで死亡したとする説がある。
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1
延宝8年(1680年)5月、第4代将軍・徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島にて鋏で喉を突き自殺した。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BF%A1
昨年12月8日朝、石川県金沢市の石川護国神社で、22歳の金沢大生が切腹自決した。彼は北海道出身で金沢市に住む大学4年生、Sさんであった。警察が調べたところ、腹部と首に深い刺し傷があり、近くにはナイフと透明のビニールシートにくるまれた日章旗があった。
ritouki-aichi.com/vot/%E3%80%90%E7%94%A3%E7%B5%8C%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%80%91%E5%88%87%E8%85%B9%E3%81%97%E3%81%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%94%9F/20121230
埼玉県川口市でクルド人の犯罪が激増して問題になり、その対策が川口市政の中心的課題になっている!というエントリが度々ホッテントリ入りしている。またyoutubeのゆっくり動画等でも「クルド人」「川口」のテロップが入ったサムネの動画が投稿されている。
川口市は『広報かわぐち』という広報誌を配布しているが、この10月号で犯罪認知件数が過去最低を記録しているとの広報を打っている。
https://www.city.kawaguchi.lg.jp/material/files/group/3/202310-04.pdf
この一年で白昼の強盗事件、沿道商店に突っ込む大事故や死亡ひき逃げ、クルド人による病院での喧嘩騒乱などの事件が報道されて体感治安が低下している故だ。でも実際には治安は過去最高となっている。
この問題を喧伝しているのはagora出身の石井孝明というライターで、産経新聞と夕刊フジがそれを元に記事を書くという構造になっている。
石井のやり方は、川口、蕨を中心として、肌の浅黒い中央アジア、東南アジア系の人間が事故や事件、不法な業務、反マナー行動をしたものにクルド人を匂わす文言を付けて宣伝するという方法だ。それ故クルド人が毎日事件や不法行為をしているように見える。そんなにクルド人は増えているのか?日本にクルド人は何万人いるのだろうか?
だが実際のクルド人の数は2000人程度である。人口60万人の川口市人口の0.3%だ。「あれもこれもクルド人」の安物ネガティブキャンペーンが成功しているのである。
それで今回はちょっとこの問題の背景を説明するよ。「クルド人とは何か、どういう民族か」などは産経以外の大マスコミや大学人が記事を書いてるからそういうのを参考してくれ。
「埼玉県川口市」でgooglemaps検索すると川口市の県境が表示される。
https://www.google.com/maps/place/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E5%B8%82
まず、駅の東側にやたら細かい碁盤目で緑の線が入った地域があるのが判るだろうか?ここは芝2丁目と芝4丁目という地域になる。
ここは一見整備された住宅地に見えるが、実は都市計画に乗っ取ったインフラ整備が間に合わなかったスプロール地域なのである。
この碁盤目は元々は大正時代に田んぼを整地したものだった。緑の線は用水路跡で、今でも暗渠化された水路敷きになっている。この付近は江戸時代に作られた見沼代用水が通り、その分水も充実していた。そこで碁盤目に畔と用水路を整備して土地の権利も整理したものだ。
ちょっと脱線するが、こういう整備された元田んぼ住宅地の近くにはL字の道と変形交差点を組み合わせたような地区がある事が多い。またそこには寺や神社がある事が多い。その場合、そこら辺は嘗ての村の集落があった場所である。行ってみるとせせこましい建売の中に突然田舎の農家のような大きな庭付きの家、時に藁ぶきだったりゴルビジェのサボア邸のようなやたらハイセンスの家が建っていて驚かされる事があるのでおススメだ。そこは付近の建売の元地主やマンションの大家である。
この田んぼが戦後の高度経済成長期に売りに出され宅地化されたのがこの芝2、4丁目地区なのだ。
元あぜ道は公道化されているのが多いが、そこから奥に入る道は幅が狭い砂利道のままだ。これは私道だからであり「その道路の権利は細切れになって付近の家の持ち主が持っている。故に権利関係がごちゃごちゃなので
更にこの路地は通り抜けが出来ない。真ん中に水路敷がある為だ。水路は元々の地主が権利を持っている筈だ。通り抜けにはそこに橋を掛けなきゃならないが、誰もその費用を負担したくないので碁盤目に見えて行き止まりの路地ばかりという事になっている。
1990年代初頭に建築基準法が改正されるとセットバックの義務と接道義務が定められた。接道義務とは、幅4m以上の道に2m以上接していない土地には建物建築不可という事である。
これでこの路地の奥にある家というのは建替えが不可能になった。
また、水路敷は舗装されていて道路に見えても道路じゃないのでセットバックの義務が無い。だからいつまで経っても道は広がらないから接道要件を満たす道にならない。散歩する時はこのせいで魅力的なのだが不動産的には不良である。
この路地をストビューで見れば判るが、公道に面した家は新しい低層アパートで路地は4m拡幅、その奥の一軒は新しい戸建て(公道側隣家のセットバックで接道要件クリア)、その奥は築30年以上の古い戸建てや古アパート、となっている。奥の方の家は建替え出来ないので古いままなのだ。
奥の方の家やアパートを借している場合、家が古くて車も入れない砂利道なので客付けが困難である。蕨駅から徒歩5~10分という好条件なのだがこういう状態なのだ。
高度成長期中期の昭和30年代後半からこういうスプロール現象が問題になって規制が強化されたのだが、その前に家が建てこんだ地域なのだ。私有地である用水路の暗渠化は市が行ったが、これは下水道整備が間に合わず、水路に垂れ流しとなった為の代替政策だ。
さて、外国人というのは部屋が借り難い。これは差別の問題もあるが、家主としては万が一の時の連絡の問題、家賃不払いや退出後の内装補償、突如国に帰ってしまうリスク、それと土足の問題などがある。室内に靴を脱いで入るのは日本だけなのだ。最近じゃ米国都市部も日本式になって来てるが。だから土足で生活されて畳床等がダメになるリスクがある。
故に外国人が部屋を借りるのはとても大変だ。一方、建替不可で古くて前が砂利道で引っ越しのトラックも入れない、なんていう借家やアパートの大家は客付けが全然できない。この両者の利害が一致して賃貸借契約、とあいなる。お互い「こんなボロ屋なのに高いが…」「外国人でリスクが高いが…」という妥協の産物だ。
このやたら細かい碁盤目地区はもう一か所ある。駅の反対側に線路で分断された川口市の飛び地みたいな三角の土地があるだろう。
ここは芝園町と芝富士という地区なのだが、そのうち芝園町は元鉄道車両工場のUR団地(電車から見える屏風みたいな建物)、芝富士は元田んぼの細かい碁盤目地区だ。この芝富士地区は先の芝2・4丁目地区と全く同様の特徴と来歴を持っている。
路地のセットバックが進んで4m以上が確保されて建替え可能になっている所が多いなど、スプロール化の程度は2.4丁目よりも改善されているのだが、それでも水路敷による路地分断などはあり、また建替不可家屋が密集する地帯もある。更にここは飛び地状態なので見捨てられた感もあり市政が行き届きにくいという特徴もある。中学校や幼稚園が線路の反対側で遠いのだ。
「蕨」なのに「川口市」であるのはこういう事で、駅の左右に川口市の不良宅地地区がありそこのアジア系の住民が住む事が増えたというのが原初としてあったのだ。
「川口市は小規模の鋳鉄工場があり外国人工員を必要とした」という説明をしている記事もあるが間違いだ。鋳鉄工場地域は西川口から南側であって、蕨周辺は田んぼから住宅地に転換している。その転換が早すぎてスプロール化してしまったのだ。
クルド人問題がおかしな奴らの飯のタネになっている問題の根幹は在特会のヘイトデモに遡る。
2009年に在特会はオーバステイフィリピン人の子息が通う中学校付近で「叩き出せ」といシュプレヒコールを上げるデモを行うようになった。この中学校や居宅は蕨駅の南側、西川口駅寄りだ。
このデモに左翼運動からの転向者が合流すると一気に過激化し、「殺せ」「殺しに来た」というコールになり、警察に掴まらないような巧い仕方の暴力や、近所のヤジに対して「○○人の家だ」「お前日本から出ていけ」「殺せ」と連呼したり、お散歩と称してデモの後に落書きをしたり通行人に因縁を付けたりという行動をするようになった(後に警察官が解散地から駅まで随行するようになった)。転びアカが合流すると大抵こういう事になる。
これに呼応して掲げられる旗も日章旗から旭日旗やハーケンクロイツとなっていった。
そんな中で在特会は芝園団地付近でクルド人に住民が迷惑しているという情報を掴む。
そこでヘイトデモの開催地は蕨駅~西川口駅から蕨駅北方になる。そこで鍵十字の旗が沢山はためき、「悔しかったらクルド野郎出てこい殺してやる」などのデモがされるようになった。
但し、彼らは居住地区を知っていたから疑問なので警察がそこから外れるルートを許可していても判らなかったかもしれない。
こういう経緯で中東系や中央アジア系の人間の犯罪、不始末を「クルド」と称する動機が生まれてきた。事件が有る度に「これは在日朝鮮人」という差別デマがずっと流れていたが、それの中央アジア版だ。
もう一つの理由がトルコの少数民族問題で、トルコは親日国で、そこで問題化している少数民族のクルドは敵だ、という単純な世界観によるもの。元々国際問題を親日反日でしか捉えれない人間の頭の中なのでこれ以上はバッファオーバーフローである。そもそも少数民族問題は国家の宿痾であって国際政治学では必ず履修する項目であるのにそれを焚きつけて利益にせんとするあたり、ガソリンスタンドでタバコを吸うバカの如しである。
故にそれよりこの方ずっと「クルド」はやべぇ奴らの間の符丁となり、民族問題を理解するという動機にはならずに、彫りが濃い人間の不祥事は「クルド」とする文脈が生まれたのである。
あらすじ
韓鶴子(ハン・ハクチャ)は、ちょっとドジで泣き虫だけど、元気いっぱいの善正(ソンジョン)女子中学2年生の女の子。ある日、額が日章旗の言葉をしゃべる黒猫エバと出会う。ちょうどその頃、親友槿恵(クネ)ちゃんのママが経営する壺売店が何者かに襲われる。槿恵ちゃんのピンチを知って駆けつけた鶴子。エバに言われるがままに「ムーンパトリアーキズム・パワー! メイクアップ!!」と叫ぶと、マザームーンに変身! なんと敵を倒してしまう。鶴子は選ばれた「真のお母様」で、仲間の戦士と幻の天運石を探し出し、「天のお母様」を守るという使命があるらしい。幻の天運石を狙う謎のタ岸ード仮面も現れて......。
@R88088595
今日、日比谷で行われたLGBTヘイトデモのシュプレヒコールに「この法案の行く先は男子皇統の伝統を破壊し国体を揺るがしかねないぞ」とあったのを見て、改めて天皇制要らないという気持ちが強くなった。
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@R88088595
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「これ以上日本の良き伝統を破壊するな(磯壊するな)」とのシュプレヒコールもあったとのことだが、「日本は伝統的にLGBTに寛容な国だった」という設定は何処へ……?
@R88088595
21時間
日比谷〜銀座で行われたヘイトデモ、「伝統文化を破壊するな」という横長横断幕と、日章旗が掲げられていた。
拉致問題 憎しみを超えて
@Serenitypraye12
出発するデモ隊
このスレッドを表示
@R88088595
21時間
ちなみに、今日ヘイトデモが行われたコースでは、明日は入管法改悪反対デモがあります。社会的に周縁化されている属性の人たちへの憎悪や恐怖を煽動するものではなく、人権を尊重するためのデモです。
私は参加できるかどうか明日の体調次第ですが、行けそうな方は是非✊
@nanmin_bond
詳細:http://kanto-ba.org/news/2023/06/618.html
改めて入管法改定案の可決・成立に強く抗議し声をあげましょう📢
https://twitter.com/NishiyamaAtsuko/status/1669812098040475648
@MitoAmeyuri
2時間
https://twitter.com/R88088595/status/1670005231369986049?s=20
鈴木は陣営外の人にも話が通じる右翼として有名だったが、実は朝まで生テレビの成立に大きな関りがある。鈴木が居なければあの番組は無かったんである。
また風桶式に鈴木が居ねばネットの団塊叩きも無かったんである。ちょっと説明しようと思う。
鈴木の親は民族主義新興宗教の「生長の家」の熱心な信者だった。その為大学時代は六本木にあった生長の家道場の寮に住み込みんで大学に通うと共に国粋宗教活動と学生運動に身を投じ、全共闘の左翼学生と殴りあいをしていた。最近話題の宗教二世だったのだな。
この道場は乃木坂の緑の中にあった。https://goo.gl/maps/tv9eakNek34ZLQXU6
今では生長の家の3代目がエコロジー志向になったので建物も塀も取り払われて開放的な森として一般にも開放されているが、一昔前は周囲の階段が「おばけ階段」と呼ばれるほど鬱蒼とした場所だった。
日本会議の中核メンバーも多くここに入寮しており実はこの寮は戦後の右翼運動の胎盤みたいな場所なんである。安倍政権で日本会議が急接近した事で政治にも影響を与えた。米議会は安倍政権と日本会議の関係を問題視していたのでこの寮の輩出者も分析把握されているかも知れない。
この敷地内には日本教文社という出版社もあってこれは生長の家の教祖谷口雅春の著書を出版して思想と教義を広める為に設立された出版社だ。しかしフロイトの『精神分析入門』や『夢判断』、ユングの選集などをいち早く出版するなど、実は学術分野でも存在感を示してきた社でもあった。
余談だが防衛庁(当時)の庁舎は2000年まで六本木にあり(現ミッドタウン)、更に60年代まで門が開いていたので近所の人は庁舎内の売店で買い物をしていたそうである。六本木、赤坂の物価より安い上に生長の家道場と防衛庁庁舎は目と鼻の先だったので鈴木も利用して安いパンツ等の購入に重宝していた。
ところがある日、左翼学生による防衛庁突入事件があり、それ以来門は閉められ部外者が売店を使用することは出来なくなった。
六本木交差点の先や青山まで行ってハイソ価格のパンツを買うしかなくなってしまった為に怒り沸騰、全共闘と衝突した際には「お前らのせいでパンツが安く買えなくなっただろ!」と叫んで相手を殴っていたとの事である。相手も何を言われているのか不明だったろう、と鈴木は述懐していた。まー、面白おかしく話を盛ったんだろうけど。
1970年に三島由紀夫の市谷駐屯地東部方面総監部占拠と割腹自殺事件が起きて世間を揺るがしたが、三島の介錯、つまり斬首をしたのが森田必勝。森田もまた割腹し介錯された。この森田必勝は鈴木の後輩で、思想的に鈴木の影響を強く受けていたという。
この為に鈴木は強く動揺、やがて右翼として生きる事を決意する事になる。やがて勤めていたサンケイ新聞も退職してしまう。(デモでの狼藉で解雇されたとの話)
鈴木はこの事をずっと気にしていて十字架を背負っているかの如くだったが、2000年頃になると「森田氏」と敬称を付けて呼ぶようになった。十字架を下したのかもしれない。
余談だが、小泉政権時代に男性か女性か判らんと評判になった井脇ノブ子という政治家が居たが、彼女は学生時代、右翼学生運動のマドンナで、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の様に数万の男塾みたいな学生の先頭に立ち、当時新右翼学生運動のプリンス的立場だった森田との交際の噂もあったとの事である。
1977年google:image:『おまえらがかわいいけんなぐるんや!』は井脇31歳の時の刊行だが表紙写真の井脇は暴力教師だかダチョウ倶楽部上島だか素人には見分けがつかない。
鈴木らは「新右翼」であり、これは全共闘などが含まれる新左翼に対抗する為に生まれ、政治権力に癒着した旧右翼らと違う軸を志向した。そもそも対抗する相手の新左翼自体が、日本共産党が暴力路線を放棄する事に反発して生まれたもので、要するに暴力vs.暴力。
最初から硬派なバンカラと軍国路線で、彼らが卒業して政治結社を結成するようになると国防色(カーキ)の街宣車を使うようになった。これが80年頃になると威圧感を与える黒塗り街宣車と旭日旗、日章旗、軍歌を流すというスタイルが定着した。
鈴木が代表を務める一水会も黒塗り街宣車で軍歌を流して通行人を威圧して居たが、やがて鈴木はこのスタイルは良くないと考え出す。こんなスタイルでは話を聞いてくれる人が居ない。
という事で今の機動隊バスのような爽やかなブルーに塗り直して大音量の軍歌も怒鳴り声も止めた。これは今で言うとテニスサークルヤクザとか好青年暴走族みたいな強烈なミスマッチである。(考えれば機動隊バスが国防色止めたのも同じ動機だ)
すると傍目には社会党などの街宣車に見えるから、すれ違う右翼街宣車に怒鳴られる事もあったそうである。「あー、てめえらふざけんじゃねえぞおいゴラ!」「あ、一水会さんでしたかどうもすいませんでした」って事が度々あったそうだ。
ただ、話を聞いて貰えないスタイルが流行したのは大人の事情もある。威圧感があって相手が震えあがるというのは、例えば企業相手の抗議に行くときは相手が折れてやり易い訳だ。
更に活動費というのは支持者の寄付と機関紙の購買費で稼ぐのだが、相手が折れた先に機関紙の購買も持ち掛ければ受諾されやすい。そこで心付けを渡してくる相手もいる。
するとシノギの手段としてヤクザが参入してくるようになる。民事介入暴力だ。ヤクザは元々旧右翼と不可分だったが、それが新右翼のスタイルを模倣して参入するわけ。威圧感を高める為に街宣車もカーキや灰色じゃなくて黒塗りの方がいいし、車格も小さいライトバン等より大型のワゴンやバスの方がいい。こういうのを警察用語で右翼標榜暴力団という。当時沢山いたヤクザが参入する事で「業界」のパイも大きくなった。
鈴木はこういう威圧じゃなくて議論や対話を好むスタイルだったので、敵のはずの新左翼側とも交流があり、新左翼出版社から自書を出版して居たりもした。それで「一般人の方も向いている面白右翼」という評判が高くなっていた。
そこで1985か86年に全共闘上がりの活動家と鈴木含む新右翼の大討論会というのを開催する事になった。司会はあの田原総一朗である。
この当時は全共闘とか学生運動というのは完全に過去のものになっていて嫌悪さえされていた。流行っていた思想はポストモダンで、モダンの内容も踏まえずに言葉の戯れを繰り出すのが流行していた。これは凄惨な内ゲバを繰り返して自滅したのに青臭い異議申し立てさえすればよいという立場で「議論」の場に居座っていた学生運動的なものに参加したくない、そうではないものが新しい価値ある態度なんだという、以前の政治的なものへの強い忌避、反感がベースにあった。あの田中康夫も事あるごとに全共闘残滓の異議申し立て的態度や代ゼミ講師的ノリをコキ下していた(湾岸戦争で日本が参戦を求められた事に衝撃を受け転向)。
そんな時代背景では政治議論なんてものはカビが生えた扱いで部外者には面白い訳がない。
そう思われていたのに、いざ討論会をやってみたら部外者にもかなりウケがいい。やってる方も面白い。
それでこれはいけるぞと踏んだ田原総一朗がテレ朝に持ち込んだ企画が朝生だったんである。
当時、エロ一本鎗だった深夜放送枠でフジTVが色々実験的な番組を放送し始め、その深夜枠のいい加減さも相俟って好事家的視聴者層にウケていた。そこにCNNの放送権をゲットして社会路線で行きたかったテレ朝が乗ったのだろう。
こういう経緯だから最初の頃の朝生は体制派vs.反体制派orリベラルという構図が鮮明だ。田原は最近「朝生は最早保守だ左翼だという時代ではないというのが朝生を始めた動機だ」みたいな事あちこちで言ってるんだが、この経緯を見ればこれが嘘って事は判るだろう。ボケちゃってるんじゃないの?討論なんてウケない時代に「激突全共闘と新右翼」討論会の成功で行けると踏んだのが朝生なのだから。
そしてこの討論会は鈴木の左右を超えた交流と議論好きの人格が無ければあり得ず、田原も来なかった筈なのだから、鈴木の存在が朝生を産んだと言って差し支えないんである。
こういう風に鈴木の活動と波及した社会現象は停滞して煙たがられていた政治議論を活性化した。すると全共闘上がりの人士らは元気になって「異議申し立てが必要だ」「もう一度騒いでもいいだろ」と言うようになった。これらを受けて刊行されたのが1994年の『全共闘白書』である。
この動きに対し、同世代の松原隆一郎が文藝春秋社の雑誌『諸君!』で批判を加える。更にこれを受けて諸君!誌では「うるさいばかりで無責任 上と下からぶっ叩け全共闘世代」という特集を組んで、その名の通りに上の世代と若手の執筆者が全共闘叩きをする記事を寄せた。
つまりはこれがネットで長年繰り返された団塊批判の始まりなのだ。この全共闘的振舞いへの批判から団塊Jr.世代(増田もそう)の日本を支配するオヤジ世代へのルサンチマンと甘えが被さり、「団塊世代」全体を叩くという風にスライドしてきたのである。そこでは例えばいい年になっても漫画を読んでるというスタイルを確立したのが団塊だ(劇画市場の成立)とか子供部屋が個室とか結婚は好きな相手とすれば良いしなくても良いという常識とか若者向け流行歌の市場とか個人のプライバシーとか時給制アルバイトとかが団塊世代がわがままをしたせいで出来たって事にも向き合わないで済んだ。
些か「風が吹けば桶屋が儲かる」的だが、鈴木の活動が無かったら全共闘上がりが活性化して『全共闘白書』が刊行されることも、それに対して下の世代が反発する事も無かったのである。そしてそれがネット民の甘えを吸収して団塊叩きに変化する事になったのだ。
最後に現在も統一教会との関係で取り沙汰される朝日新聞襲撃殺人事件の赤報隊に関して。
1990年代に新右翼を名乗る男の脅迫で柳美里のサイン会が中止されるという事件が起きた。鈴木はSPA!誌に連載を持っていてそれを批判したところその男が抗議してきた。その中で男が赤報隊の名を語った為、鈴木は「赤報隊とは面識がある、名前を騙ったお前を赤報隊は必ず殺すだろう」と伝え、懺悔の言葉を引き出す事に成功し、それを連載記事に書いた。
すると、直ぐに警察が何らかの容疑で令状を取り事務所を捜索して書類の類を皆押収してしまったのである。赤報隊の情報を得る為の別件事件だ。これに鈴木は怒って赤報隊の情報は二度と官憲に提供しないと書いてそれきりになってしまった。
結局赤報隊と鈴木の面識が脅迫犯へのブラフだったのか真実だったのかは不明なんである。
ヤクザの根絶やしを目的とする暴対法が施行される事になった時、任侠右翼とも付き合いがある野村秋介に鈴木はヤクザの人権を守れデモに参加しようと強く誘われたが、鈴木は「イヤですよヤクザなんて」と気乗りがしなかったが、野村は親分肌なので断れない。仕方なしに参加したら呉智英らに「アウトローの人権とは笑止」などと言われてしまった。
その場面の映像を見ればわかること考えればわかることを、
主人公の男の子の心の声でベラベラとひたすら説明してるのなんなの??
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647
この記事にも「息が苦しい」の場面のこと書かれてるけど…
息が苦しい、肺が痛い。前に進め、もっと足を動かせ。→見て想像したらわかる
雪で助かった。→見たらわかる
禰豆子、穴を掘ったのか。妹がネズミみたいになってしまった。→見たらわかる
そしてすごく顔をしかめている!→見たらわかる
首がもげてるのに動いた。→見たらわかる
なるほど仕掛けがあるのか→見たらわかる
俺はダメなのか、くじそけそうだ。→見たらわかる
手を切っても少ししたらまた生える→見たらわかる
外した!逃げるのが速い!→見たらわかる
苦しい、早く上がらないと→見たらわかる
寝てる、血も止まってる→見たらわかる
これが都会か、夜なのに明るい→見たらわかる
このマンガが少年少女向けだとしても、説明しすぎじゃないかなああ。
むしろ少年少女向けだからこそ、行間のある作品を見て想像力を育てるべきなんじゃないの。
戦後おじさん、遅れて来た青年おじさんだからそう思うだけなのかなああ。
話によると作者さんのつくったネームが主人公が寡黙でストーリーがわかりにくいっていう理由で
そのときに主人公は寡黙なまま、心の声がやたら饒舌になったのかもしれない。
「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」って言ってるけど、
みんながこういう説明過多の演出を許容してるってことだものな。
1話見ただけで不要な説明多すぎて脳がオーバーフロー起こした。
すぐ見るのを止めたしまったくストーリー知らないからこれはネタバレじゃないけど、
ラスボスってひょっとしてお父さん?