はてなキーワード: 成果物とは
第一印象で言えば、増田で見かけがちな『挫折したエリート』『やたらと小難しい言い回しを好む人』と言った所か。
Eは「自分は以前いた会社でイジメられた経験がある」と言っていた。
何でも新卒で入社した会社はイジメで退職、次に入った会社もその事を弄られた事がきっかけで
おかしな人達に目をつけられイジメにあい、一時期は精神を病んでしまったという。
そんなパーソナル且つコメントし辛い事を入社そうそう言うのもどうかと思いつつ
イジメられた事自体は可哀想だと思うし、周囲も最初は同情していた。
今まで辛い経験をしてきたであろうEには配慮してあげよう、という事になった。
ところがEは、とんだ人間だった。
まず、相当に口が悪い。
正確に言えば口調「だけ」は丁寧だけど物言いが酷い。
例えば仕事でミスをしてしまった新人や若手に対し、ミスを注意するだけに留まらず
「こんな事(ミス)をする為の教育を◯◯大学(その人の出身大学)はしてるんですかね?」
「◯◯大学は幼稚園なのかな?あっ失礼、◯◯さんの頭の出来が悪いだけでしたね」(実際は大したミスでは無い)
「不出来な人間を育てたあなた(新人)の親御さんも可哀想ですね」
などという、社会人としてはあまりにもあまりにもな物言いを平気でしていた。まさに慇懃無礼。
勿論周囲や上司から注意されるけど、「私は先輩として注意・指導しただけです」と平然とするだけ。
当初のイジメの件もあり、周囲や上司はEにはあまり強く出れなかった事も災いした。
Eからの口撃に疲弊したのか、Eと同じグループの新人や若手はEが退職する頃には何人か退職してしまっていた。
目下(Eによる主観からしたら)の人間だけでなく、年長者にも同様の態度だった。
ある社員(N)は事情があって大学中退だったのだが、これもどこから知ったのか本人から無理やり聞き出したのか知らないけど
EがNの中退の事実を把握した途端、露骨に馬鹿にしたり挨拶を無理したりする様になった。
NはEとは別部署の管理職に当たるのだが、部署からの依頼でもN経由だと露骨にスルー。
Nさんが怒ってEに直接問いただした所
「あなたみたいな所詮大学中退の欠陥品、いえ欠陥人間の仕事を優先する理由があるとでも?」
といった事を言った。本当に言った。
Nさん当然激怒してEに「何故そんな事を言われなければいけないのか?」と怒鳴った。怒って当然だと思う。
しかしそれが不服だったのか、EはNに「周囲の面前で一方的に糾弾されパワハラされた。精神的苦痛を受けた」
として、人事を巻き込みN所属の部署の上の方にまで被害を受けたとある事無い事騒ぎ立て、結局NさんがEに謝罪する事で決着。
しかしNさんはその事を不服に思ったのか、程なくして退職・転職してしまった。
一方で、「その事が一方的に嫉妬されて前にいた会社では迫害され、イジメられた」と言っていた。
Eは自身を優秀であるかの様に自負していたが、残念ながら自己認識ほどに優秀では無かった。(寧ろ無能寄りだった)
業務知識「だけ」はあるが、それを実務に活かせない場面が多く、典型的な頭でっかちタイプだった。
また手抜きする上に確認を怠る悪癖があり、既存のコピペを多用するが変更すべき所も変更しないでそのまま出す為
結局は誰かが確認・修正の時間を取られ、修正もEには出来ないしやらないので、尻拭いをする羽目になった。
Eにその事を指摘しても
「上司の指導が悪い」「自分がミスをしたのは不可抗力であって私の責任では無い」
などと騒いで回り、決して自分の非を認めなかった。
尻拭いさせられた方が、Eから「勝手にEの仕事を盗む、ケチをつける」「(Eの成果物のケチをつけるのは)私に嫉妬しているんですか?」
また、先の通り普通に無礼千万で、取引先相手にも失礼なメール(ダラダラと持論を書き連ねた無駄な長文メールや、相手の会社の偉い人を呼び捨てにするなど)
を平気で送り付けたり、対面でも失礼な言動を重ねていた。
例えば、相手の会社でもMT途中で退席し、そのまま戻って来ず、勝手に帰社しており
理由を問いただすと「あいつ(取引先の担当者)の説明が退屈だったのでお付き合いする価値は無いと思ったので」と平然と言い放った。
その取引先は割と大きな所だったので、後日上司と自分が平謝りに行ったが、Eは同行をするとすら言わなかった。
一事が万事そんな調子だったので、Eが入社して数ヶ月経つ頃にはすっかりEは腫れ物扱いになった。
挨拶ぐらいはするし業務上のやり取りはするけど、それ以外は一切ノータッチ。
会社や課としての飲み会には一応誘う程度。(Eは酒なんて飲めないので行きません!って感じだったけど)
するとEは「周囲の連中にイジメられている!」と騒ぎ始めた。
「飲み会に一人だけ参加出来なかった!」(あなたが断っただけ)
「自分を飲み会などの集まりから省いて孤立させようとしている」(勝手に孤立しているのはお前)
「ランチは複数人の飲み会に自分だけ誘われなかった」(当たり前)
「そういった場で自分の根も葉も無い悪評を捏造している!」(そんな事実は無い)
「周囲に無視されている。雑談をしようとしても避けられている!」(当たり前では…)
本人が騒いでるだけならスルーするだけだったが、Eは本社の人事に事実無根のイジメ被害を通報するだけでなく
更にその上の上層部にまで「イジメ被害」の直訴のメールや書類を送り付けたり
周囲は疲弊したし、問題が大きくなったのもあって、最終的にはEの所属部署の上司が責任を取って退職。
同様にイジメ加害者だの騒ぎ立てられた何人かの社員も退職した。
Eも最後には「こんな幼稚なイジメをしてくる会社なんて居られない。地獄に堕ちろカス共」
というメールを本当に送って辞めていった。
多かれ少なかれEみたいな被害者様的なタイプはいると思うんだけど(増田でもちょこちょこ見かける)
後にも先にもEみたいな人間には出会った事が無いし出会いたくもない。
Eの自称を信じるのであれば、Eは優秀な学歴で、両親や親族も優秀な経歴の持ち主でそこそこのお金持ち家庭のご出身。
E自身も自慢しつつ何故か親を下げていたが、Eの年齢・ポジションの給料では明らかに不釣り合いな
高級腕時計を何個も所有し、高価な電化製品も事ある度に買い替え
便利な立地の高級マンションに一人暮らしで(親が家賃出しているらしい、と聞いた事はある)
にも関わらず、あそこまで攻撃的且つ他責性が強い割に被害者意識は異常に強烈な人間になってしまうのは
まさしく『育ちが悪い』としか言えなかった。
さすがにもう関わる事は無いだろうけど、Eが辞めてから結構経ってるのに未だに覚えてるし
たまに夢に出てきてうんざりさせられるぐらいに強烈な人間はEで最初で最後にしたいなって思う。
本当に、二度と会いたくないし関わり合いになりたくない。
私はオートクチュールの制作現場に対する知識がほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分の名前で成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールのコレクション…!?その後のルックがメディアなどで写真動画そしてモデルや取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社の名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分の名前で作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。
試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。
松嶋氏はアフリカのゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供や女性の映像、洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。
全体を通して、感想を視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集や話題のほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画『燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカにゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。
この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活や仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分と地球の関係性をよく考えながら生活したいと思った。
この作品はパリオートクチュールコレクションに2023年の時点で唯一参加する日本人ファッションデザイナー中里唯馬氏に密着したドキュメンタリー映画だ。これはファッション業界が地球に対してネガティブな影響が多すぎること、GHG排出量や環境汚染の大きな原因になっていることに対してファッションデザイナー自身が向き合い、コレクション制作に取り組んだ記録である。
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ここ以降、ネタバレ的な話、映画制作に関わったステークホルダーたちの発言の抜粋などにも一部言及する。そのためこれから視聴を控えていらっしゃり、なんの前評判も誰の感想も読まずにまず自分の主観で作品を視聴したい方は、ここ以降は念のため読まないでください。
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>Fashion production makes up 10% of humanity’s carbon emissions, dries up water sources, and pollutes rivers and streams. What’s more, 85% of all textiles go to the dump each year (UNECE, 2018), and washing some types of clothes sends significant amount of microplastics into the ocean.
>ファッションの生産は人類の二酸化炭素排出量の 10% を占め、水源を枯渇させ、川や小川を汚染しています。さらに、毎年全繊維製品の 85% がゴミ捨て場に送られており ( UNECE、2018 年)、一部の種類の衣類を洗濯すると、大量のマイクロプラスチックが海に流されます。
(引用:The Geneva Environment Network, https://www.genevaenvironmentnetwork.org/resources/updates/sustainable-fashion/ )
しかしファッション業界も、企業やブランド毎に速度も歩みの幅も大きく異なるが、ネットゼロへ進みはじめている。2023年後半の時点で、NIKEとadidasの靴やアパレルを購入した際には、この2ブランドについては、製品タグを付ける紐は紙製、靴の梱包材も全て紙製など生分解性素材への移行が見られた。近年adidasがコラボレーションを発表し続けている英国のデザイナーであるステラマッカートニーは、ステラ氏自身のアパレルや化粧品において早くから持続可能性を追求している点でも名高い。
それでも私たち人間が消費するファッションアパレルとしての服や靴それ自体が、最終的にゴミとして扱われ、それがアフリカへ、良い言い方をすれば「皺寄せ」、正確に言うと「ゴミ処理先」として送られる。
映画『燃えるドレスを紡いで』では、中里唯馬氏と監督の関根光才氏がアフリカを訪れた。中里氏は自身が身を置く業界がうみだしたものたちが消費された結果どこにいくのかという点で、行き着く先のひとつとしてアフリカを選んだのだ。映画本編では、彼らがアフリカで過ごす様子を視聴したのち、中里氏の仕事風景を見ることができた。そしてそのまま、彼のオートクチュールコレクションの映像と、それらへの評価、メディアの反応などを見ることができ、映画は終わった。
ファッション業界とそこに携わる人間としての中里氏の考えなどについては、ここでは言及しない。それぞれが視聴した上で、それぞれの考えを抱いて欲しい。
私自身は、人間の存在とその経済活動ほとんど全てが地球への負荷であると考えている。ファッション業界の影響が大きいにしても、私そしてあなたの存在も地球環境に負荷をかけているのだから、それをわきまえれば「特定の業界が悪だ、最悪だ」なんて意見は軽薄ではないかと思う。気分によっては、2024年に子供を産もうとしている人は、2044年や2064年の地球環境は確実に悪化するだろうことがわかっている中で、なんて酷なことをするのだろうと考えることもあるくらいだし、しかし、そう考えるが子供を産み育てる人を軽蔑や見下げたりすることは決してない。ファッション業界だけが地球環境を悪化させているわけではないと言いたい。
しかし、人間たちの研究開発と技術革新は進み、各業界で既存業界の課題と技術のブリッジが続く中、ファッション業界においては、消費者の意識とともにいろいろなことが遅れているのかもしれない。
映画『燃えるドレスを紡いで』で中里氏がアフリカで過ごしている時の映像で、中里氏がたびたび自分の見たものや景色に対して「美しい」と口にしていたのが印象的だった。その形容詞が、多勢に同じ感想を与えるものかはわからない。実際、監督も「どのあたりが美しいですか」というように問うていた(言葉が少し違ったかもしれない。違いましたら後日修正します)。
アフリカの映像は、日本などの先進国とは全く違う環境で、雑多としたものたちに溢れ私たちがゴミとして扱うものが最終的に行き着いたアフリカのゴミ山や、雨が降らず乾燥し切った土地、そこを移動しながら暮らす遊牧民たちの生活などだ。
中里氏はここから美しさを見出したし、私はそれに感動した。キュレーションされていない場所に行って何を見て何を感じ、どう言語化するか?、これは人による。単純すぎる感想だが、美しさを見出せる人は美しいものを作る側にもなれるのかもしれない、と思った。
中里氏がアフリカから戻り、チームに制作のコンセプトなどを発表したときの様子が好きだった。
制作のコンセプトをチームに発表する、チームはそれに従う、でいい。それでいいのだが、そのときにチームメンバーがそれぞれ発言をして、その様子は「中里氏に完全に従う」といった様子ではなかった。語弊があるかもしれない、もちろん彼の名前で発表するコレクションであり、彼のチームメンバーは彼のコレクションのために働くことになるのだから結果的には従うことになる部分が大きいだろう。しかし、中里氏の決意や発表に対して、取り掛かる前に、チームメンバーが各自発言ができること自体が、これができるチームは日本にある数多の組織の中でも意外と少ないのではないかと思えたのだ。とても良いチームに見えた。
私はオートクチュールの制作現場に対する知識がほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分の名前で成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールのコレクション…!?その後のルックがメディアなどで写真動画そしてモデルや取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社の名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分の名前で作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。
試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。
松嶋氏はアフリカのゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供や女性の映像、洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。
全体を通して、感想を視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集や話題のほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画『燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカにゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。
この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活や仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分と地球の関係性をよく考えながら生活したいと思った。
あと、WIRED JAPANが大好きなので、これからも愛読し続けたい。
追記。
映画に登場する人々に、登場シーンでクレジット(登場人物の名前や所属)を表示させた上で、もちろんエンドロールにも名前を掲載する、という画面の作り方は、ドキュメンタリーの手法としてめずらしくはないのでしょうか。この辺りの知識がないため滅多なことは言えないのだが、登場人物の名前や所属をその画面で明示する編集が好きだった。やはり、協力者の一人として自分が登場するシーンには、期待や嬉しさなどをもっているはずだ。私はこのような、協力者たちへ感謝を伝えるようなあたたかな編集や画面作りに強く好感を持つ。1人ではできなかったことへ協力したくれたステークホルダーにできる限りの感謝を述べる姿勢を、私も忘れないようにしたい。
こういう人がいます
例「モップで野菜切っておいてもらえる?」「なんでモップなの?」「モップって野菜切れますよね? 知らないんですか?」「野菜を切るのに使うのは包丁では。モップってお掃除に使うものじゃない?」「あ、すみません包丁だ」みたいな(実際もっと要領を得ないことを言うのでこれより時間かかる)(あと上から目線が途中よく入るので結構頭にくる)
今度打ち上げやるんだけど、この人も出ようとしてくる(しょうがないけどさ)
もうすでに場の雰囲気も悪いし、なんとかしてこの人が参加しないようにするいい方法はないかな ないよね
長文ごめんね 読んでくれてありがとう
===
お昼食べてたらコメントいっぱいきてた。ありがとね
そうだよね それはわかるなあって思った
不具合と聞かれると問いとはズレるかもだけど、他人の成果や頑張りを軽々しくウエメセで批判するようなことを飲み会のノリで言うのかな〜という不安な気持ちがあるってだけで(まあ気苦労でしかないんだけど)それでもみんないい大人なんだから楽しく飲みたいのにねえって感じ。
>OSS
エンジニアの人かな? 自分も某ライブラリに参加したことがあるよ、お疲れ様です OSS活動楽しいよね
確かにおっしゃる通りで、能力も協調性もない人はさようならってやれたらよかったなあって思いました
(全員出身が一緒なので、そういった同郷ゆえというか、身内の情があったとは思う。甘かったね)
TBでもコメントしておいたけど、最初から喧嘩腰で他の人にも口汚く書くのはやめてほしい
>出禁
そうなんだよねえ もうこれきりのモノづくりだろうし、他の人とも話してて「もう気の合うメンバーだけで仕切り直しでもいいかも」といったことも言われてて悩んでる
声優のビジュアルが求められるようになり、SNSで私生活を小出しにするまでが商材になり市場は拡大した。
そんなものは機械で打ち出せば何百メートルでも何キロでも飛ばせる
人々は競技者に付随するロマンと文脈とストーリーに価値を見出す
適応できた奴が生き残る
絵師は成果物の技工で、その中ですべてを表現し、そこに価値がある
うまい飯が食いたけりゃ知恵を絞れ
少なくとも上手に絵が描けるだけではもはや無価値だ、諦めろ
絵師の相当数が不要になる、さっさと転職するか、知恵を絞った生き残り策に掛けるか
でもこれお前らにだけ降りかかった不幸じゃねぇよ
港には大量の港湾労働者が働いていたが、コンテナとICTの発明で駆逐された
業界の変化と斜陽を指くわえて眺めるだけでは愚痴愚痴駆逐される
無駄w
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20240220/k10014365041000.html
はてブ民まじかよ。
生産性上げるって
「人を減らすか」
「値上げ」
だろ。
需要が増えてないのに効率アップして成果物増やしてどうすんだよ。
つまりこれ「人を切れ」または「どこかで勝手に需要がたくさん増えろ」っていってるわけだ。
それができねえから価格転嫁しなきゃいけねえってのが日本企業の悩みだろうが
財務省がステルス増税しまくって景気の足をひっぱってる。岸田を批判しても彼は財務省の操り人形なので、やめても岸田2号がでてくるだけ。権限を持ちすぎて肥大化した財務省を解体しないと意味がない
アホ「リーマンショック後でも景気悪かったのは民主党のせい!現在日本だけ景気悪いのは世の中のせいで自民党は悪くない!」 / なお国際比較をするとリーマン後の民主党が優秀だったのが現実
あっはっはっはwww
やべーなまじでwww
SESがクソと思う理由をかくから、今からSESに行こうとしているなら、ちゃんと考えてね!
まず、SESや受託開発は、ただ時間を埋めるだけの、何の変哲もないルーチンワークだということに気付いてる?
プロジェクトに配属され、ソフトウェアを構築するものの、最終的に製品を市場に送り出すのはクライアント。
自分たちの手がけた成果物が直接的な収益に結びつくわけではない、この一連の流れに魅力を感じるのなら、生粋のSES従事者だよ。
業界内でしばしば耳にする「IT土方」という表現も的を射てて、大手建設会社が高層マンションを建てる際に、実際に建設作業を行う多くの小規模な工務店の存在と全く変わらないよ。
自分は違うと騙して入っても、結局土方なので、それは認めような!
さらに、受託開発には、工場の運営や商品企画のような後続の収益源がなく、ローリスクである一方で、納品後に追加の収益を期待することはできません。
製品を直接市場に提供すれば、開発終了後も収益が発生する可能性があるけど、受託開発やSESではそのような恩恵は全くない!
そして、結局のところ、契約内容にもよるけど、収益は単純に「単価×人数」でしかなく、どれだけ努力しても企業の収益に大きな変化はもたらされません。むしろ、頑張った分だけ損をするというという図だよ!
私は基本的に仕事中毒の人間であり、仕事を抜いたら何も残らない。
もし仕事を辞めたら孤独で無趣味で何の面白みもない引きこもりになるだけだ。
私の仕事は独りよがりであり、作っては捨てての無駄な労力ばかりかけている。
仕事においては報連相が大事なんていうのは、うんざりするほど聞き飽きたフレーズではあるが、私はそれが嫌いだ。
まずは相手が何を求めているかをきちんと確認して仕事の方向性を決めて、
作成している途中の段階で何度も都度確認をしながらコンセンサスを得て、
最終的にゴールにたどり着くという段取りが重要なのは分かっている。分かっているがそれが嫌いなのだ。
仕事の相手は顧客であったり上司であったりするが、その相手が何を求めているかなんて大体ソイツ自身にも分かっていない。
言語化することをサボっていたり能力がなかったり、理由は様々だが、とにかく相手にヒアリングすることなんて時間と労力の無駄だと私は思ってしまう。
だから私は最初から全部作り上げる。作成途中で7割程度の完成度のものなんて見せても、不出来な部分を指摘されて不愉快になることが分かり切っている。
そうして完成させた成果物を出しても、いやそういうのじゃないんだよね、というお気持ち一つでバッサリと捨てられる。
こんなの作るのに時間かける前に、ちゃんとコミュニケーション取ろうよと言われる。
私は雑談が非常に苦手であり、休日をどう過ごしているのか、どんな趣味があるのか、といった話ができない。
飯食って昼寝してネットサーフィンしてで終わりだよとしか思えないのだが、普通の人がそうではないことは知っている。
雑談ができないから、何を考えているのか分からない不気味な人間としてカテゴライズされ、異物として扱われる。
仕事は仕事として、割り切って扱ってもらうことはこの人間社会では難しい。
まあそんな仕事の中身についての話はどうでもいい。結局は給料をもらって生活が出来ている、それだけだ。
人生は、予期せぬ出来事で満ちていると言われるが、私の人生は単調で予測可能だ。
朝起きて、仕事をして、夜になったら寝る。毎日同じようなことの繰り返しで、時が過ぎていく。
過去の私が、もっと相手の心に寄り添うような行動を取っていれば、という場面も思い浮かぶが今更だ。
まあみんな大体そういう後悔のいくつかはあるだろう。そういうものだ。そしてその8割は勘違いだとも分かっている。
過去の行動を誤ったと解釈することもできるが、こういう行動をとった結果が私なのだから、無理しても仕方ない。
仕事中毒の人間が家庭を犠牲にして働いて、職を失ってから後悔するという話もよくあるが、私にとっては贅沢な話だと思う。
その家庭をそもそも築けなかったのが私だから、完全に下位互換でしかない。
もう若くはない。この先、同じような毎日を繰り返して老いていくのかと思う。